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違う世界の人たち
どうやら自分は本格的にやらかしてしまったらしい。
エマがちょっと懲らしめてやろうと思った者たちは、少しでは済まずに精神を侵され、未だ床に伏せ、永遠と悪夢の中を彷徨っている。
エマの正体に勘付いたであろう二人は、酷く難しい顔をしながら「ここを離れよう」と、願ってもない申し出をくれた。
てっきり殺されるものだと思っていたエマは呆気にとられた。
本来であれば上に報告の義務があるだろう二人が、それもせずに、自分を見逃そうというのだから驚きもする。
しかも、三日という猶予までもらえたのだ。
研究があと少しのところまで来ているのだと伝えれば、同じ研究者だからだろう「それは仕方ない」と口をそろえて待ってくれた。
こんなに良くしてくれた二人に、返せるものといえば成果くらいで、完成したものはすべて譲渡するつもりで、エマは作業に没頭した。
──そして今、出来上がった小瓶を持って、廊下を走っているところだった。
自分の大切な人たちだけでいい。
彼らにだけ、見てもらいたい。
別れだってちゃんと伝えたい。
皆忙しい時間だろうかと迷い、彼なら呼べばどこからともなく現れて、いつものように背後から声でも掛けてくれるんじゃないかと思った。
試しに呼んでみようかな、そんなことを思っていれば、目当ての赤髪が廊下の先に見えた。
「リュ──」
名前を呼ぼうとして、制止する。
いつも一人でいるか、忠犬よろしく主人の隣に仕えているか、どちらかの彼が、今日はどちらでもなかったからだ。
足の裏が地面に接着されたように動かなくなった。
喉が絞られるように苦しくて、声が出ない。
(やっぱり、誰と並んだってお似合いだ)
リュカとアリスが親しそうに言葉を交わしている光景が、自分の立つ場所とは違う、どこか遠くの世界のように見えた。
純粋に、羨ましいと感じてしまった。
羨ましくて──妬ましかった。
こんなはずじゃない。
こんな感情を抱くはずがないと思っていた。
自分は物語のエマ・ルソーネとは違うのだと思っていた。思いたかった。
しかしそんなのはただの都合のいい夢で、どうしたって自分は自分なのだ。
悪役、なんてものじゃない、自分は根っからの『悪』なのだと、体の中で渦巻く汚らしい感情に思い知らされた。
酷い気分に思わず胸を押さえる。
もう何が正解なのかわからないが、自分がここにはいられないということだけは、はっきりとわかった。
ふらりと後退った時、違う世界にいるはずのリュカと目が合った。
こちらへ駆け出してきて、多分、自分の名前を呼んでいる。
エマがぼんやりと霞みがかる思考の中で彼の声を聞いた時、同時に背後に妙な違和感を感じて、振り返った。
──パキン
薄いガラスの割れる音を、直ぐ近くで聞いた。
思考力がじわりじわりと帰って来て、何かを投げつけられたのだと理解する。
随分昔も、似たようなことがあった。
結局自分は変われなかったのだろうか。
視線を向ければ、顔も見たことのない男が立っていた。
「やっぱり、こいつが魔女だ!!」
男は叫んだ。
エマは衝撃を受けた額の側面を押さえるが、なんの感触もなく、触れた手のひらには僅かに黒い粒子が残っただけだった。
それは溶けるように消えていき、足元には破れた薄いガラスの破片が飛び散っている。
何がぶつけられたのか、ゆっくりとだが理解できた。
「姉さんが言ってるんだ──紺碧の魔女って、ずっとずっとうわ言を言うんだ。冷たい、寒いって──お前のことだろ!!」
騒ぎ立てる男は数人を引き連れており、騒動を聞きつけて次第に人も集まってきた。
「その証拠に、瘴気を浴びても顔色一つ変えない!!」
ガラス玉に入っていたのは濃縮された瘴気だった。
人間には害でしかないそれは、魔女にとっては空気も同じ。
特にどうということはない、それが、問題だった。
魔女、化け物、魔女、魔女魔女魔女魔女魔女魔女──
非難の声が反響してガンガンと叩きつけるように脳髄にまで届く。
耳を塞いでも、止まない。
また一つ、暴言と共にガラス玉が投げ付けられる。
それがスローモーションで目に映るが、生憎避ける余裕などはない。
エマは虚ろな瞳で立ち尽くすことしかできなかった。
バキンと、音が鳴る。
しかし痛みはなく、目の前でパラパラとガラスの破片が散るだけだった。
瘴気が肉を焦がすにおいが、鼻についた。
「殺す」
低く唸るような呟きに、引いていた波が押し寄せるように頭が冴えてくる。
「リュ、カ」
彼の手のひらから血が滴り、瘴気が黒い煙のように纏わりついている。
というのに、気にした様子もなく言葉通りに目の前の人間を全員殺すつもりなのだろう眼差しのリュカは一歩踏み出した。
止めようと、手を伸ばしたつもりだった。
「リュカさん!」
エマが引き止めるより先に、アリスが彼の手を引いた。
「落ち着いて」「怪我を治さないと」そう言いながら、彼の手を握り、癒していく。
誰もが息を飲むような、美しい輝きが広がる。
彼女だけが使える特別な力。
エマには眩しすぎるほどの光だった。
「エマさんも、怪我はありませんか?」
迷うことなく自分の手を握る彼女は、流石は主人公といった真っ直ぐさ──だが、時にそれは酷なのだ。
痛くて痛くて、堪らない。
エマは咄嗟に身を引いて、彼女の手を振り払ってしまった。
その拍子に、脱げた手袋の下から、黒く燻んだ肌があらわになる。
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もう、全てが終わりだ。
ただ生きていたいと願っただけなのに。
最後に、リュカに向かって「ごめんね」とだけ呟いて、エマは自分の影に溶けるように姿を眩ませた。
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