意地悪な美声は愛を囁く~簡単には堕ちたくありません~

芙月みひろ

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3・受けるべきか否か

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 仲間たちとの秋の飲み会で醜態を晒してから、ひと月ほどが過ぎていた。そしてそれは、派遣契約終了まで残りあとひと月というタイミングでもあった。
 その日の夕方、仕事を終えて帰宅した直後、派遣会社の担当者である泉川から、次の勤務先について打診の電話が入った。
 その話に飛びつきかけて、ふと迷った。相手先が私でいいと言ってくれるかどうかはまだ分からない話だが、万が一来てほしいと言われたらどうしようかと二の足を踏んでしまった。
 紹介された派遣先は、この辺りでもっとも大きいテレビ局だった。配属先は編成広報局という部署。仕事内容は社員の補助的なものがメインで、事務的な作業が大半のようだ。将来的には契約社員として雇用される可能性もありそうだと、泉川は言う。

 ―― いかがですか?時給も今までと比べてかなりいい方ですし、川口さんだったら問題なくお仕事できると思うのですが。

 泉川はほぼ決定事項のような口ぶりで言う。

「そうですねぇ……」

 本当はすぐにでも頷きたい。けれど、そこには私が苦手とする人物がいる。矢嶋だ。アナウンサーの彼はそのテレビ局に勤務していた。

「少し考えてもいいですか?」

 ―― 条件のいい仕事だと思うんですよね。一時間もあればいいですか?もしも川口さんがだめだったら、次の人に声をかけないといけないんで。ちなみに、年明けすぐから来てほしいっていうのが先方の要望なんです。だから川口さん的にもいいタイミングなんじゃないかと思いますよ。

「分かりました。では、後程また電話します」

 電話を切って、ため息をついた。その時、つけっぱなしだったテレビのニュース番組の内容が切り替わった。昨夜映画を見た後、チャンネルをそのままにしてテレビを消してしまったらしい。画面には、私に決断を躊躇させる「彼」が爽やかな顔で映っていた。最近できた施設の紹介をしている。

 実物とは全くの別人に見えるわね――。

 矢嶋はにこやかな、けれどどこか澄ました顔をしていた。仕事用の顔なのだろうが、こうしてテレビというフィルターを通して見ると、腹が立つほどかっこいい。ふと思い出したのは、いつかの飲み会の席。時にはファンレターをもらったりすることもあるのだと、困った顔で話していた。
 彼の声を聞き流しながら、私は口をへの字にして考えた。

 どうしようか――。

 大事なものをまとめて保管している小箱から通帳を取り出し、中を開いた。すぐにどうこうとなる経済状況ではないが、仕事のない状態が長く続くことになるのは困る。
 実家に戻り、地元で就職先を探すという手もなくはない。しかし、父が再婚相手と暮らすあの家には戻りたくないと思う。
 新しい母と暮らしたのは、私が大学進学で地元を離れるまでの三年に満たない間。特に関係が悪かったわけではないが、互いに気を遣いすぎるような生活に疲れていた。距離を取った方が義母とはいい関係性を保てそうだし、父だって夫婦水入らずの方が気楽だろうと思えた。私たちの間で、父も気を遣っていたように見えたからだ。

『いつでも帰ってきていいから』

 大学に進学した時も、派遣ではあるがこちらで働くことを決めた時も、父も義母もそう言ってくれた。しかし、帰る時期は今ではないと思っている。いつかは身の立つような仕事について、実家に戻る必要なく自活していきたいと考えている。
 もちろん正社員の道を目指した活動もしているが、ご時世なのか、それとも私の能力不足なのか、なかなか結果が出ない。派遣での仕事をいったん離れて、就職活動に専念するという方法もあるが、収入が途切れるのは不安だ。私は通帳を元に戻して、泉川の説明をメモした紙をじっと眺めた。
 時給が今までよりもいい。単に「いい」のではなく、「格段に」いい。それにこの機会を逃したら、次に条件のいい仕事に巡り合えるのがいつになるか分からない。正社員の仕事だってすぐに見つかるかというと、その保証はない。
 考えているうちに、矢嶋がいるからという理由でこの話を受けようか受けまいか悩むのは、ばかばかしいと思い始めた。そもそも、仕事の場は編成広報局とかいう所だ。話を聞いた限りではその部署内だけでの仕事らしいし、大きな局だから、表舞台に立つアナウンサーの人たちとの接点など、まずないだろう。つまり余程のことでもない限り、矢嶋と顔を合わせることはないはずだ。
 長々と自問自答をしたような気がしたが、実際は一時間もかかることなく、私の心は決まる。

 面談に行くと返事をしよう――。

 私は携帯電話を手に取って、派遣会社の番号をタップした。
 その結果、泉川から面談日が決まったとの連絡が入ったのは、週が明けてすぐのことだった。電話がかかってきた時はちょうど業務中だったから、昼休みの時間に折り返しの電話を入れた。日時の確認をし、今の上司に休みを取る許可を得て、翌週早々に先方の関連部署の長たちに会うことになった。

「川口さんにお願いしたいということになりましたよ」

 面談したその夕方には、泉川からそんな電話が入った。
 こうしてとんとん拍子に話が進み、年明けから私は、新しい派遣先であるMMテレビで働くことが決まったのだった。
 現在の勤務先での契約が終了した後も、期間を置かずに働けるということになって、私は心から安心した。矢嶋を理由にして断るようなことをしなくてよかったと、しみじみ思う。
 最後の日まで頑張ろうと日々業務に取り組んでいたが、気づけば大晦日まで残すところあと二週間。その夜、久しぶりに藍子から電話があった。年明けに開かれるOBOG会に参加するかどうかの確認だった。
 私は迷わず欠席すると返事をした。
 飲み会が予定されている日の二日後から、私は新しい職場で働くことになっている。心の準備をしておきたいと思ったのは確かなのだが、もう一つ理由があった。
 矢嶋が飲み会に参加するとは限らない。しかし、もしも彼と顔を会わせることになったら非常に気まずいと思った。
 迷惑をかけたことだけではない。あの夜のあの出来事が、記憶の中にまだ鮮明に残っていて、ふとした拍子に矢嶋の甘い声が耳の奥によみがえり、私の心をかき乱すのだ。あれは私をからかっただけのことだと腹立たしく思うのに、言い表しようのない疼きを伴った感情が、胸の真ん中にぽんと浮かんでくる。悶々とした状態のままでは矢嶋に会えない。会いたくない。彼の前で今までと同じ顔を作れる自信がなかった。
 それに、彼がいる会社で働くことになったと、うっかり口を滑らせてしまいかねない。そんなことになったら、いい口実とばかりにますます絡んで来るに違いない。だから、飲み会には参加しない方が絶対にいい。

 ―― 残念ねぇ。じゃあまた、今度ね。

 藍子が私の不参加の理由を詳しく追及しなかったことにほっとする。

「みんなにもよろしく言っておいてね」

 私は詫びるように言い、電話を切った。
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