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後日談・一年ぶりのOBOG会
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彬との交際は順調だった。
そうこうしているうちに夏が終わる。秋が深まり出した頃、OBOG会を開くという連絡が回ってきた。
私は早速参加すると返事をした。彬も辻と一緒に参加する予定だと言っていた。プライベートな場で一緒になると思うと少し緊張する。しかしOBOG会への参加はおよそ一年ぶりとなるため、友人や先輩後輩たちとの久しぶりの再会は、とても楽しみだった。
当日は、藍子と待ち合わせて店に向かう。開始時間よりやや遅れて着いてしまった。畳敷きの広間に入って行くと、すでに飲み会は始まっており、いくつかグループができていた。私と藍子は市川がいる輪の中に入った。場の盛り上がりと共に席の移動が始まり、今私は藍子と市川と一緒にいる。
そこに彬と辻が現れた。私に気づいた辻が笑顔を見せて、いそいそと私の方へとやって来る。彬も周りに笑顔で挨拶しながら辻の後ろを着いてきた。
「こんばんは」
「やぁ、こんばんは」
私たちの挨拶に二人はそれぞれに言葉を返し、そのまま私を挟むように両隣に座った。
「ずいぶん盛り上がってるなぁ」
メニューを手にした辻に市川が尋ねた。
「先輩たちの学年のみんな、向こうにいますけど、行かなくていいんですか?」
辻がにっと笑う。
「いいのいいの。そう言えば、市川君と藍子ちゃんに会うのは久しぶりだよね。夏貴ちゃんとは一昨日ぶり?」
辻の言葉に藍子が反応した。
「一昨日ぶりって、どういう意味ですか?」
「夏貴ちゃんから聞いてない?今、うちの仕事を手伝ってもらってるんだよ。ね?」
辻に頷いてから、私は藍子に言った。
「実はそうなの」
藍子の目が丸くなった。
「夏貴、MMテレビで働いてるの?」
「派遣だけどね」
「ちょっとぉ。どうして今まで言ってくれなかったのよ」
「だって派遣社員としてだし、わざわざ言うのもどうかと思ったから……」
「何言ってるのよ。派遣とか関係なく、すごいよ。でも良かったねぇ。しかも、先輩たちと一緒なら心強いんじゃない?」
「それはあるかな」
「よし、乾杯しよ!だいぶ遅くなったけど、就職祝いよ」
満面の笑みを浮かべて、藍子はビールの瓶を片手に持った。そこにいる私たち全員のグラスをちょうどいい具合に満たして、彼女は明るい声で言った。
「夏貴、おめでとう!」
「ありがとう」
私は照れながら顔の前にグラスを掲げた。
しばらくその顔触れで近況などを話していたが、市川と藍子の後ろに後輩たちがやってきた。そのタイミングで辻がトイレへと席を立つ。
辻を見送り、市川と藍子が後輩たちと語り合っている様子を眺めながら、私はグラスの中身を飲み干した。次は何を飲もうかと考えて、メニューに手を伸ばしたところで、彬が苦笑を浮かべながら言った。
「あんまり飲みすぎるなよ」
「分かってるよ」
「ホントかなぁ。また去年のあの時みたいに潰れるのは勘弁してくれよ」
「でもそうなったら、彬が介抱してくれるんでしょ?」
辻は今トイレに行っている。市川と藍子は向こうを向いて、後輩たちと話し込んでいる。私はこの状況に安心しきっていた。だから、二人きりでいる時の口調で話し、彼のことを下の名前で呼んだ。ところが。
「なんだなんだ、今のは」
頭の後ろの方で突然声が聞こえ、私は飛び上がらんばかりに驚いた。
「つ、辻さん……」
まだ戻って来ないと思っていたのに――。
慌てている私の隣で、彬は落ち着いている。
「二人とも、いつの間にそんなに仲良くなったんだ?しかも夏貴ちゃん、矢嶋のこと、名前で呼んでなかった?」
「いえいえまさか。辻さんの聞き間違いですよ。ね、矢嶋さん?」
うまく話を合わせてくれるだろうと思いながら、私は彬に相槌を求めた。ところが彼はにっと笑い、こう言ったのだ。
「辻さんさえ黙っていてくれれば、大丈夫だろ。それ以前に、そろそろ隠さなくてもいいんじゃない?俺たち、婚約したんだから」
辻の目が大きく見開かれた。
「へっ?」
周りは賑やかに盛り上がっている。そんな中だから話が聞こえてしまう心配はなさそうだが、彬は若干声を潜めた。
「このことを話すのは、会社関係者では辻さんが初めてなんです。実は俺と夏貴、来年には籍を入れるんです。な?」
話を振られて、私は頷くのを一瞬ためらった。しかし彬が、大丈夫だというように微笑んだのを見て、私は首を縦に振った。
「えっ、本当なの?」
辻の大きな声に、テーブル向こうにいた市川と藍子が何事かと振り向いた。
二人に向かって、何でもないと私は笑いかけてから、自分の唇に人差し指を立てる。
「辻さん、静かにお願いします。私はまだ公にはしたくないので」
「あ、悪い。あんまりびっくりしすぎて思わず……。でも残念だなぁ。夏貴ちゃんが人妻になるわけか。寂しすぎる」
「またそんなこと言って」
私は苦笑した。
「辻さんって、みんなにそういうこと言ってるんですか?いつだったかな。梨乃ちゃんが言ってましたよ。辻さんってフランクだけど、本心が見えない人だって」
「誰にでも言うわけじゃないよ。こんなこと、夏貴ちゃんにしか言わないって」
そう言って私の背に手を回そうとした辻の手を、彬がぱしっと払いのけた。
「どうしてそうやって、人の彼女に触ろうとするかなぁ。そういう距離感、早くなんとかしないと、本命に愛想をつかされますよ」
「え?辻さん、好きな人がいるんですか?」
「いないよ、そんな」
辻は目を泳がせながら、中身が空っぽのグラスに手を伸ばした。明らかに動揺している。
「俺、知ってますよ」
「誰?私も知ってる人?」
身を乗り出した私に彬は耳打ちした。
「梨乃ちゃん」
「ええっ!」
驚きのあまり、今度は私が大声を上げてしまい、慌てて口を手で覆う。
「夏貴ちゃん、本気にしないでくれよ。矢嶋が適当に言ってるだけだから」
彬が誰の名前を言ったのかすぐに分かったらしい。辻が明らかに慌てている。
その様子に、それが冗談ではないことを私は悟った。
「うん、いいと思います。彼女、性格いいし、可愛いし」
「だから、そういうのじゃないって」
「辻さん、ぐずぐずしていないで、早く素直になって気持ちを伝えた方がいいですよ。これ、俺からのアドバイスです」
「なんだよ、アドバイスって」
「俺の実体験ですよ。もっと早く気持ちを伝えていれば、夏貴が俺の彼女になってくれるのも、もっとずっと早かったはずなのにって。ずいぶんと時間を無駄にしてしまいましたからね。まぁその時間分、これからたっぷりと埋め合わせしますけどね」
彬は私を見て優しく笑う。
「なんだよ、結局惚気かよ」
辻は苦笑して、自分でビールをグラスに注ぎながらぽつんと言う。
「でも俺、彼女より十歳も年上だからさ」
「年なんて関係ないですよ」
彬の言葉に続いて、私も力を込めて言った。
「そうですよ。素直になった方が絶対にいいです」
「でも、彼女の気持ちが……」
「その前に、まずは何とかして意識させた方がいいんじゃないですかね」
「この前ちらっと言ってましたよ。恋したいなぁって」
「これは辻さん、頑張らないと」
辻は私と彬を交互に見て、ふうっとため息を吐き出した。
「そこまで煽って、もしも玉砕した時は慰めてくれるんだろうな」
「もちろんですよ。ね?」
「やけ酒、つき合いますよ。あぁ、でも適度にね」
辻は苦笑して、私たちの顔をしげしげと眺めた。
「しかし、二人がねぇ……。夏貴ちゃんの方は全然そんな感じに見えなかったから、てっきり矢嶋の一方通行で終わると思ってたんだよな」
「一方通行?」
私の問いに、辻はちらっと彬を見た。
「こいつは隠してたつもりだったのかもしれないけどね。夏貴ちゃんが番組の手伝いに来てくれるようになって、二人の様子を間近で見ていた俺には分かった。だから、どうなるんだろうと思って見守ってたんだけどね。……そうか」
辻は感慨深そうに彬と、それから私を見て笑った。
「幸せにな」
飲み会が終わって他のメンバーたちと別れた私と彬は、一緒のタクシーに乗り込んだ。皆いい感じに酔っぱらっていたようで、私たちが二人で帰ることなど、辻以外は誰も気にしていない。
彬のマンションに向かう車の中、揺られながら思い出すのは、およそ一年前のこと。あの日の夜、初めて彼に「夏貴」と名前を呼ばれてどきどきした。けれどその時は、彼と婚約することになろうとは夢にも思っていなかった。
「着いたぞ」
彬の声に、私は我に返る。
タクシーは彼のマンションのエントランス前に停車していた。
車を降りた私たちは建物の中に入り、エレベーターに乗り込んだ。
二人きりの箱の中、私は彬の手を握った。
「どうかした?」
私の手を握り返しながら彬が訊ねた。
「ふっとね、幸せだなって思ったら、彬に触れたくなったの」
彼はくすっと笑う。
「これからもっともっと幸せになろうな。いや、なるよ」
「うん」
「来月になったら、夏貴の実家にまた顔を出そう。年内にはここが夏貴の家になるってことも、お許し頂かないとね」
私の家、か――。
もう少ししたら、彼の部屋が私の帰る家になる。そう思ったら、胸の奥からじんとした何かがこみ上げてきそうになった。私はぽつんとつぶやいた。
「私、彬に出会えて良かった」
彬の腕が私を抱き寄せた。
「俺もだよ。お互いに素直になるのが遅かったけどね」
互いに顔を近づけ合った途端にエレベーターが到着した。
「残念。この続きは部屋でだな」
笑う彬に、私も笑顔を向けた。
これからもずっと、あなたからの愛しているという言葉がほしい。あなたの傍で、私もあなたに愛していると言い続けたい――。
心の中で願うように思いながら、私は温かい彼の手に指を絡めた。歩き慣れた廊下の先にある彼の部屋に向かって。
(了)
そうこうしているうちに夏が終わる。秋が深まり出した頃、OBOG会を開くという連絡が回ってきた。
私は早速参加すると返事をした。彬も辻と一緒に参加する予定だと言っていた。プライベートな場で一緒になると思うと少し緊張する。しかしOBOG会への参加はおよそ一年ぶりとなるため、友人や先輩後輩たちとの久しぶりの再会は、とても楽しみだった。
当日は、藍子と待ち合わせて店に向かう。開始時間よりやや遅れて着いてしまった。畳敷きの広間に入って行くと、すでに飲み会は始まっており、いくつかグループができていた。私と藍子は市川がいる輪の中に入った。場の盛り上がりと共に席の移動が始まり、今私は藍子と市川と一緒にいる。
そこに彬と辻が現れた。私に気づいた辻が笑顔を見せて、いそいそと私の方へとやって来る。彬も周りに笑顔で挨拶しながら辻の後ろを着いてきた。
「こんばんは」
「やぁ、こんばんは」
私たちの挨拶に二人はそれぞれに言葉を返し、そのまま私を挟むように両隣に座った。
「ずいぶん盛り上がってるなぁ」
メニューを手にした辻に市川が尋ねた。
「先輩たちの学年のみんな、向こうにいますけど、行かなくていいんですか?」
辻がにっと笑う。
「いいのいいの。そう言えば、市川君と藍子ちゃんに会うのは久しぶりだよね。夏貴ちゃんとは一昨日ぶり?」
辻の言葉に藍子が反応した。
「一昨日ぶりって、どういう意味ですか?」
「夏貴ちゃんから聞いてない?今、うちの仕事を手伝ってもらってるんだよ。ね?」
辻に頷いてから、私は藍子に言った。
「実はそうなの」
藍子の目が丸くなった。
「夏貴、MMテレビで働いてるの?」
「派遣だけどね」
「ちょっとぉ。どうして今まで言ってくれなかったのよ」
「だって派遣社員としてだし、わざわざ言うのもどうかと思ったから……」
「何言ってるのよ。派遣とか関係なく、すごいよ。でも良かったねぇ。しかも、先輩たちと一緒なら心強いんじゃない?」
「それはあるかな」
「よし、乾杯しよ!だいぶ遅くなったけど、就職祝いよ」
満面の笑みを浮かべて、藍子はビールの瓶を片手に持った。そこにいる私たち全員のグラスをちょうどいい具合に満たして、彼女は明るい声で言った。
「夏貴、おめでとう!」
「ありがとう」
私は照れながら顔の前にグラスを掲げた。
しばらくその顔触れで近況などを話していたが、市川と藍子の後ろに後輩たちがやってきた。そのタイミングで辻がトイレへと席を立つ。
辻を見送り、市川と藍子が後輩たちと語り合っている様子を眺めながら、私はグラスの中身を飲み干した。次は何を飲もうかと考えて、メニューに手を伸ばしたところで、彬が苦笑を浮かべながら言った。
「あんまり飲みすぎるなよ」
「分かってるよ」
「ホントかなぁ。また去年のあの時みたいに潰れるのは勘弁してくれよ」
「でもそうなったら、彬が介抱してくれるんでしょ?」
辻は今トイレに行っている。市川と藍子は向こうを向いて、後輩たちと話し込んでいる。私はこの状況に安心しきっていた。だから、二人きりでいる時の口調で話し、彼のことを下の名前で呼んだ。ところが。
「なんだなんだ、今のは」
頭の後ろの方で突然声が聞こえ、私は飛び上がらんばかりに驚いた。
「つ、辻さん……」
まだ戻って来ないと思っていたのに――。
慌てている私の隣で、彬は落ち着いている。
「二人とも、いつの間にそんなに仲良くなったんだ?しかも夏貴ちゃん、矢嶋のこと、名前で呼んでなかった?」
「いえいえまさか。辻さんの聞き間違いですよ。ね、矢嶋さん?」
うまく話を合わせてくれるだろうと思いながら、私は彬に相槌を求めた。ところが彼はにっと笑い、こう言ったのだ。
「辻さんさえ黙っていてくれれば、大丈夫だろ。それ以前に、そろそろ隠さなくてもいいんじゃない?俺たち、婚約したんだから」
辻の目が大きく見開かれた。
「へっ?」
周りは賑やかに盛り上がっている。そんな中だから話が聞こえてしまう心配はなさそうだが、彬は若干声を潜めた。
「このことを話すのは、会社関係者では辻さんが初めてなんです。実は俺と夏貴、来年には籍を入れるんです。な?」
話を振られて、私は頷くのを一瞬ためらった。しかし彬が、大丈夫だというように微笑んだのを見て、私は首を縦に振った。
「えっ、本当なの?」
辻の大きな声に、テーブル向こうにいた市川と藍子が何事かと振り向いた。
二人に向かって、何でもないと私は笑いかけてから、自分の唇に人差し指を立てる。
「辻さん、静かにお願いします。私はまだ公にはしたくないので」
「あ、悪い。あんまりびっくりしすぎて思わず……。でも残念だなぁ。夏貴ちゃんが人妻になるわけか。寂しすぎる」
「またそんなこと言って」
私は苦笑した。
「辻さんって、みんなにそういうこと言ってるんですか?いつだったかな。梨乃ちゃんが言ってましたよ。辻さんってフランクだけど、本心が見えない人だって」
「誰にでも言うわけじゃないよ。こんなこと、夏貴ちゃんにしか言わないって」
そう言って私の背に手を回そうとした辻の手を、彬がぱしっと払いのけた。
「どうしてそうやって、人の彼女に触ろうとするかなぁ。そういう距離感、早くなんとかしないと、本命に愛想をつかされますよ」
「え?辻さん、好きな人がいるんですか?」
「いないよ、そんな」
辻は目を泳がせながら、中身が空っぽのグラスに手を伸ばした。明らかに動揺している。
「俺、知ってますよ」
「誰?私も知ってる人?」
身を乗り出した私に彬は耳打ちした。
「梨乃ちゃん」
「ええっ!」
驚きのあまり、今度は私が大声を上げてしまい、慌てて口を手で覆う。
「夏貴ちゃん、本気にしないでくれよ。矢嶋が適当に言ってるだけだから」
彬が誰の名前を言ったのかすぐに分かったらしい。辻が明らかに慌てている。
その様子に、それが冗談ではないことを私は悟った。
「うん、いいと思います。彼女、性格いいし、可愛いし」
「だから、そういうのじゃないって」
「辻さん、ぐずぐずしていないで、早く素直になって気持ちを伝えた方がいいですよ。これ、俺からのアドバイスです」
「なんだよ、アドバイスって」
「俺の実体験ですよ。もっと早く気持ちを伝えていれば、夏貴が俺の彼女になってくれるのも、もっとずっと早かったはずなのにって。ずいぶんと時間を無駄にしてしまいましたからね。まぁその時間分、これからたっぷりと埋め合わせしますけどね」
彬は私を見て優しく笑う。
「なんだよ、結局惚気かよ」
辻は苦笑して、自分でビールをグラスに注ぎながらぽつんと言う。
「でも俺、彼女より十歳も年上だからさ」
「年なんて関係ないですよ」
彬の言葉に続いて、私も力を込めて言った。
「そうですよ。素直になった方が絶対にいいです」
「でも、彼女の気持ちが……」
「その前に、まずは何とかして意識させた方がいいんじゃないですかね」
「この前ちらっと言ってましたよ。恋したいなぁって」
「これは辻さん、頑張らないと」
辻は私と彬を交互に見て、ふうっとため息を吐き出した。
「そこまで煽って、もしも玉砕した時は慰めてくれるんだろうな」
「もちろんですよ。ね?」
「やけ酒、つき合いますよ。あぁ、でも適度にね」
辻は苦笑して、私たちの顔をしげしげと眺めた。
「しかし、二人がねぇ……。夏貴ちゃんの方は全然そんな感じに見えなかったから、てっきり矢嶋の一方通行で終わると思ってたんだよな」
「一方通行?」
私の問いに、辻はちらっと彬を見た。
「こいつは隠してたつもりだったのかもしれないけどね。夏貴ちゃんが番組の手伝いに来てくれるようになって、二人の様子を間近で見ていた俺には分かった。だから、どうなるんだろうと思って見守ってたんだけどね。……そうか」
辻は感慨深そうに彬と、それから私を見て笑った。
「幸せにな」
飲み会が終わって他のメンバーたちと別れた私と彬は、一緒のタクシーに乗り込んだ。皆いい感じに酔っぱらっていたようで、私たちが二人で帰ることなど、辻以外は誰も気にしていない。
彬のマンションに向かう車の中、揺られながら思い出すのは、およそ一年前のこと。あの日の夜、初めて彼に「夏貴」と名前を呼ばれてどきどきした。けれどその時は、彼と婚約することになろうとは夢にも思っていなかった。
「着いたぞ」
彬の声に、私は我に返る。
タクシーは彼のマンションのエントランス前に停車していた。
車を降りた私たちは建物の中に入り、エレベーターに乗り込んだ。
二人きりの箱の中、私は彬の手を握った。
「どうかした?」
私の手を握り返しながら彬が訊ねた。
「ふっとね、幸せだなって思ったら、彬に触れたくなったの」
彼はくすっと笑う。
「これからもっともっと幸せになろうな。いや、なるよ」
「うん」
「来月になったら、夏貴の実家にまた顔を出そう。年内にはここが夏貴の家になるってことも、お許し頂かないとね」
私の家、か――。
もう少ししたら、彼の部屋が私の帰る家になる。そう思ったら、胸の奥からじんとした何かがこみ上げてきそうになった。私はぽつんとつぶやいた。
「私、彬に出会えて良かった」
彬の腕が私を抱き寄せた。
「俺もだよ。お互いに素直になるのが遅かったけどね」
互いに顔を近づけ合った途端にエレベーターが到着した。
「残念。この続きは部屋でだな」
笑う彬に、私も笑顔を向けた。
これからもずっと、あなたからの愛しているという言葉がほしい。あなたの傍で、私もあなたに愛していると言い続けたい――。
心の中で願うように思いながら、私は温かい彼の手に指を絡めた。歩き慣れた廊下の先にある彼の部屋に向かって。
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