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第一話「白い手」
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何か、何か不快な夢を見たような気がして、文司は目を覚ました。
枕元に置いた時計を見ると、三時少し前だった。文司はふうと息を吐いて寝返りを打った。なんだか体がだるい。特に右腕が。
自分がやけに汗をかいていることに気づき、文司は額に手を当てた。じっとりと汗が滲んでいるが、熱があるわけではない。パジャマの背中が湿っているが、まだそれほど汗を掻くような季節ではないはずだ。喉も渇いている。まるで熱帯夜に目が覚めた時のような不快感に、文司は眉をひそめた。まだ四月の半ばだというのに。
不思議に思いながらも重い体を起こすと、手探りで壁のスイッチを探す。ぱっと室内が明るくなると、暗闇に慣れた目が痛んだ。
目を擦りながらベッドから降りると、床に置いた通学用鞄に足が当たった。ぱさっと何かが倒れる音がした。
視線を床に落とした文司は、そこに一冊の本が落ちているのに目を留めて、屈み込んでそれを拾い上げた。
大判の赤い表紙。まだ寝ぼけている頭でこんな本を持っていただろうかと首を捻る。タイトルは英語だ。
(マザーグース……?)
その瞬間、文司ははっきり目を覚ました。同時に、持っていた本を取り落とす。
ばさっと音を立てて床に広がった本から二、三歩後ずさって離れる。
何故、この本がここにあるのだ。
持ってきていたとしたら、もっと早くに気づくはずだ。こんな大きな本、鞄に入れていたとしたら教科書を入れ換える時に嫌でも気づく。ならば、何故。
「痛っ!」
突然、右腕に鋭い痛みが走って、文司は顔を歪めた。まるで誰かにぎゅっと握り潰されたような痛みだった。そう、誰かに。手の感触まではっきりわかるような。
額から汗が噴き出した。心臓が耳の奥で早打つ。床に落ちた本から視線を逸らせない。目覚まし時計のカッチカッチという秒針の音が静寂に響く。
右腕の痛みが徐々に収まってくると、文司は意を決して床に落ちた本を拾い上げた。そして、扉に駆け寄って本を廊下に放り出した。すぐに扉を閉めて体でバリケードを作るようにもたれ掛かる。朝までとはいえ自分の部屋にあの本を置いておくのは嫌だった。
(明日、図書室に戻せばいいんだ。石森に付き合ってもらおう。大丈夫。ちゃんと戻せば大丈夫さ)
自分に言い聞かせて、文司はのろのろとベッドに戻った。横になっても体は緊張したままで、ようやく浅い眠りにつけたのは空が白み始めた頃だった。
いくらも眠らないうちに目覚まし時計に叩き起こされて、文司はくぐもった呻き声をあげて体を起こした。変に緊張して眠ったせいか、節々が鈍く痛む。
ベッドから抜け出してすぐに、文司は部屋の扉を細く開けてそっと廊下の様子を窺った。朝日の差し込む廊下には、何も落ちていない。
廊下に出て辺りを見回してみるが、数時間前に放り出したはずの本の姿がどこにも見えなかった。
(夢……だったのか……?)
信じ難い思いで部屋に戻った文司は、あれは夢だったのかもしれないという考えを強くしていった。冷静に考えれば、図書室の本が自分の部屋にあるわけがない。
(そうだ。きっと夢だったんだ……)
ほっと息を吐いて、文司は思わず頰を緩めた。馬鹿馬鹿しい。妙にリアルな夢を見てしまっただけだ。
気を取り直して、着替えようとパジャマを脱ぎ捨てた文司は、シャツを取ろうと手を伸ばしてギクリと身を硬めた。
右腕の肘の辺りに、青黒い痣が出来ている。不規則に点々と、五つの丸い痣が。
急激に背筋が冷えた。眠る前はこんな痣はなかった。こんな、ちょうど人に強く握られたかのような痣は。
夢の中で、右腕が痛んだことを思い出した。
(夢じゃなかったのか……?)
だとしたら、何故本は無くなっているのだ。夢だったのか、夢じゃなかったのか。
(一体、何が起こっているんだ……?)
混乱する文司をあざ笑うかのように、窓の外でカラスがけたたましい鳴き声をあげた。
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