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第三十九話 違う
しおりを挟む皇帝の言葉を聞いた後は、集まった貴族達の前で、イルデュークス帝国の祖先神の像に皇太子妃となる娘を紹介し、婚約の許しを得る儀式を執り行う。
それが終わって、いよいよ誓いの言葉を交わし、婚約宣誓書に名前を記名すれば正式に婚約が成立する。
喜ばしい瞬間が目前に迫っているというのに、ジェラルドは何故か違和感を覚えていた。
「殿下? どうなさいました?」
隣に寄り添う少女が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ああ、なんでもないよ。リート」
ジェラルドは愛しい少女の名を呼んだ。それなのに、胸に言いようのない違和感が沸き上がる。
(何だ……?)
隣に立つ少女は、ジェラルドが贈った薄いオレンジ色のドレスを着て微笑んでいる。
よく似合う。ジェラルドが周りを巻き込んで散々悩んで選んだドレスなのだ。着てもらって嬉しい、はずなのに、何故かジェラルドは彼女のドレス姿を直視できなかった。
何故だろう。違和感を覚えてしまうのだ。
「リート……」
「はい。殿下」
名を呼ぶ度に募る「違う」という感覚。どうしてだろう。あんなにも幸せだったのに、伯爵家に招かれたあの日からジェラルドの心は何かを失ってしまったような寂寥を感じていた。
まるで、リートを失ってしまったような。
(馬鹿な。リートは隣にいるじゃないか)
自分にそう言い聞かせる。
「皇太子ジェラルド。イルデュークス帝国を継ぐ者よ」
誓いの儀式が始まる。
「汝の愛する伴侶となる者の名を呼べ」
皇帝の重々しい声が響く。
「リート・クーヴィット」
ジェラルドは答えた。
続けて、皇帝が言う。
「その者はこの場にいるか」
「こ……」
此処に。
そう答えて、リートの手を取り、二人で皇帝が差し出す婚約宣誓書に記名すれば儀式は終わりだ。
それだけのことなのに、何故がジェラルドは言葉に詰まった。
「……」
声が、出てこない。
「ジェラルド様?」
隣に立つ少女が、そっと手を伸ばしてジェラルドの腕に触れた。
瞬間、ジェラルドの背筋に言いようのない悪寒が走った。
(違う)
唐突に、そう確信した。
違う。これは、リートじゃない。
腕に触れる指先に、僅かに躊躇いが、拒絶が、嫌悪が宿っている。
リートに触れられた時の、あの優しく温かい感触とはまったく違う。
「……違う」
ジェラルドは振り絞るように言った。
「違う。お前はっ……リートじゃない」
「え?」
隣の少女が、目を丸くした。
ジェラルドは、彼女をきっと睨みつけた。
「お前は、リートじゃない」
愛しい少女を突然拒絶した皇太子の乱心に、立ち並ぶ貴族達がざわめいた。
ジェラルドは目の前の少女を睨みつけた。美しい容、大輪の花が咲き誇るような、見る者を魅了する姿態。
違う。リートじゃない。リートはもっと小柄で、子供みたいな容姿で、普段は硬い表情の方が多くて、でも、笑うとふにゃっとやわらく崩れて。
「殿下? いかがなさったのです?」
媚びるように「殿下」だなんて呼ばない。嬉しそうに「ジェラルド様」って呼ぶのだ。
「俺のリートをっ、返せっ……!」
ジェラルドが叫ぶのと同時だった。
儀式の行われる広間の扉が、独りでに開いた。——ように、見えた。ジェラルド以外の者の目には。
ジェラルドの目には、息を切らせてそこに立つ、小柄な少女の姿が見えた。
「……ジェラルドっ」
愛しい少女が、そこにいた。
***
ガタコトと馬車を走らせて伯爵家へ戻ると、家の前に仲間達がずらっと並んでいた。
「何故、アモルテス様に逆らった?」
馬車を停めると、ポドロに向かってそんな質問が飛んでくる。
ポドロは肩をすくめて小さく息を吐いた。
「さあ? 下界の空気に毒されたようです」
そう答えて、ポドロは少し後ろを振り返った。
今頃、王宮では婚約式が終わる頃だろうか。間に合っただろうか。
「人形に、見えなくて」
ポドロはふっと笑った。
「ただの、恋する女の子にしか見えませんでしたよ」
視界の端で、アリーテが二度ほど頷くのが見えた。
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