山手マングース

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ああ迷い子よどこへ行く

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山手線はスリ師の梁山泊にして登竜門として知られている。
即ち108星のツワモノどもが集いて鎬を削る武門であり、昇りきれば鯉が龍へと成りあがると噂される修羅場の修練場。
ただし山手線を縄張りにしてせっせとシノギに精を出す連中が持て余してるのは108の煩悩であって、108星なんてカッコイイものじゃない。ほかならぬ現役スリ師の俺様が断言するんだから間違いねえ。

俺は山の手のハブ。
この二つ名をだしゃ大抵の奴はびびる……
ってのは誇大妄想の大言壮語、生業を同じくする一部の連中には少しばかりコケオドシがきくがただそれだけ。
二つ名が売れたところでいい事はねえ、俺達の業界で与えられる二つ名は猛犬注意の鑑札と同じだからだ。しかもその殆どがネーミングセンスのかけらもねえ最低にださい代物ときた。
苗字の羽生にひっかけて山の手のハブ、そのまんまじゃねえか。
安直にして短絡の極み、もっと他になかったのかよスタイリッシュに英語にするとか。マウンテンハンドハブとか、ひっくり返してブーハーとか……だせーなこれ。だささに磨きがかかったな。訂正。撤回。今の方がなんぼかマシ。
まあハブのように目にもとまらない手さばきであっというまに財布を抜き取る犯行に由来してると考えりゃ悪くはねえが、俺自身がこの二つ名を気に入ってるとか鼻にかけてるとか思われたかねえんでそこんとこヨロシク。

山手線は俺の縄張りにして釣り堀、獲物の物色を兼ねてぐるぐる周回して流すのが日課。
暇で楽な商売?
車窓観光もできて一石二鳥の山手線めぐり?
冗談、この業界も不景気が続いてなかなかシビアだ。腱鞘炎になるまで財布をスッてスッてスリまくっても稼ぎはしょぼい、というのもこのご時世電子マネーカードが隆盛して大金を持ち歩く奴がぐっと減ったからだ。分厚い万札入りの財布になんてここ暫くお目にかかってねえ。
外目で財布の中身を見分けるのは至難の業、眼球に赤外線レーザーでも埋蔵してなきゃ無理無理絶対無理。
生憎と財布の透視能力まで持ち合わせちゃねえ俺は、札束の厚みとカードの厚みとを間違えてハズレを掴まされる。
想像してみろ、苦労の末にスッた財布を検分したらTカードやポンタやナナコでパンパンに膨らんで現金はちびっと、未練たらしく逆さにふったら百円玉がコロコロ、ガムの包み紙とバナナの香り付コンドームが一個。
そんな収穫のない日々が続けば自然とやる気も失せるしポンタをへし折ってナナコを叩き付けコンドームを噛み切りたくもなる。ていうか香り付コンドームってなんだよ、そこ香り付ける必要あんのかよ?開発者はナニ考えてやがる。ナニがフルーティーなバナナ味(イチゴ味もあります)だ。
いざ広げてみるまでカードが入ってるか万札が入ってるかわからねえ紛らわしいことこの上ねえシュレディンガーの財布。
いくら指先の芸当と神経を磨いた所で、カードと万札を外側から判別するのは難しい。
大物狙いに走るほどハズレる確率は高くなる。

「さすがの俺も命運尽きたか……はあ」
ったく嫌な時代になったもんだ。世の中便利になったが電子マネーカードが流行りゃスリ師は廃れるしかねえ。
せっかく財布をスるのに成功してもカードの暗証番号がわからなきゃどうしようもねえ。
いや、わかったところでどうもしねえが。
皺の酔ったスラックスの尻ポケットを探って舌打ち、煙草が切れてやがる。
気分転換もできやしねえ。
「とことんツイてねえ」
まあ残ってたところでホームは禁煙な訳だが。ノースモーキング。喫煙者はとことん肩身の狭い世の中だ。
ため息まじりにぼやきつつ、ホームを忙しく行きかう老若男女に視線を投じる。
東京有数のダンジョンと名高い新宿駅のホームには、日本人アジア人白人黒人に至るまで、一般人観光客とりまぜて種々雑多な人々があふれている。
矢印が右に左に交錯する案内板と何本にも枝分かれした複雑多岐な乗降口、駅弁や土産物の売店。
猥雑な雑踏に埋もれ、等間隔に並んだ太い柱のひとつに凭れ、アンニュイに物思いに耽る。
……何してんだろうな、俺。
日本語に英語に韓国語に中国語が甲高く飛び交うごった煮の喧騒の中、足早に通り過ぎてく営業らしいリーマンを目で追う。携帯と睨めっこしつつ取引先に急ぐ横顔は時間に追われながらも充実して見え、俺には眩しすぎる。

同級生は定職につき一人前に社畜をやってる。
せっせせっせとパソコンを打ちこんであるいは工場で惣菜を作りながら定時にはタイムカードを切る規則正しい生活、スリルはないが安定は保証されている。俺のトシなら嫁を貰ってガキをこさえて家族を養ってていい頃だ。
子供を真ん中にして仲良く手を繋ぎ歩いてく家族連れを見送りかぶりを振る。
対して俺は……比べるのも情けなくて泣けてくる。勘違いしないでくれ、俺はスリの商売に誇りを持ってる。だが履歴書には書けない。書いたらたちの悪い冗談と誤解されるか無難に警察送りかSNSに晒されて炎上かだ。そんな面接官がいるたぁ思いたくねえが。
馬車馬の如くこき使われるのも働き蟻のようにあくせくするのもまっぴらごめんで、右手頼みで世を渡るアウトローな自由業を謳歌してたが、最近悩む事が増えている。
確定申告だの原泉徴収だのの細かい数字の些事に煩わされるのがいやで選んだ仕事だが、俗にいうスランプってヤツだ。俺も人間、山あり谷あり好不調の波はある。
俺らしくもねえ、がらじゃねえ。おかげで右手のキレもねえ。商売道具が錆びたらスリ師はご愁傷さま店じまいだ。
新宿駅は社会の縮図だ。段ボールにくるまって丸まるホームレスの傍らを小綺麗なOLや楽器を担いでヘッドフォンを掛けた学生が無関心に横切っていく。
柱を背にした虚無僧が無言で突っ立ち、かと思えば何かのオフ会かライブ帰りか、髪をカラフルに染めたギャルたちが蓮っぱな矯声をあげ姦しくはしゃいでる。
孤立感、倦怠感、疎外感、徒労感。
いろんな感情が混じりあってため息を量産する。
好きでこの道を選んだ。勝ちも負けもあるもんか。そう粋がって見せたところで現状は好転しねえ、実入りは横這いで先行きは真っ暗とはいかないまでも薄暗く不安しかねえ。
これからディズニーランドにでも行くのだろうか、ミッキーとミニーのリュックを背負った小さい女の子が、母親と父親の手にぶらさがってブランコする。

「ガキはいいな気楽で」
思わず羨望の呟きを零す。俺も「将来の夢」って表題の作文に「石油王」って書いて説教くらったガキの時分に戻りてえ。
物欲しさ八割、微笑ましさ二割のジト目で家族連れを眺めてたら、だしぬけにシャツの裾を引っ張られる。
「ん?」
つられて視線をおとす。
ガキがいた。
「………ん?」
どっから沸いた。
外見から判断するに推定年齢3・4歳、背中に戦隊ヒーローがプリントされた子供用のスカジャンを羽織った女の子。眉が太い。なかなかにふてぶてしくきかん気の強そうな面構えだ。まるまると赤いりんごほっぺが田舎臭い。背中にはタオルケットでできたうさぎのリュックを背負っている。
「えーと」
目を合わせ言葉に迷う。女の子はジッと俺を見上げている。見上げ続けている。やめろそんな目で俺を見るな。子供の純粋な眼差しは俺には眩しすぎて塩をかけられたナメクジのように溶けて消えちまいそうだ。スリなんて後ろ暗い商売を長年やってるせいか、こちとらガキにはてんで免疫がねえ。
「……お嬢ちゃん迷子?おかーさんとおとーさんは?」
とりあえず目線を合わせてしゃがみ、この状況に直面した常識人なら一番に訊くだろう無難な質問を投げかけてみる。
「……」
「……」
「……」
「……」
沈黙が痛い。女の子は黙ってる。黒く潤んだつぶらな目で、面白おかしくもねえ俺のつらをまじまじ見つめている。
柱の影でいたいけな幼子と見つめ合うこと数秒、先にいたたまれなくなって白旗を上げたのは俺だ。
「わかった迷子だな、迷子だろ、そうに決まってる。ていうかこの状況それしか考えらんねえ。ったく親はなにしてんだ、こんな小さい子ほっぽってよ……」
まあこの人ごみじゃはぐれても無理はねえ、一方的に親だけ責めるのも気の毒だ。どんなに目を光らせても券売機に並んでる最中や案内板を見てる最中に小さい子はよちよち歩きでどっか行っちまうもんだ。
駅員はどこだ。
ムッツリ幼女との会話を諦めた俺は、あたりを見回し駅員をさがす。
落とし物は遺失物係へ、荷物は網棚へ、迷子は駅員へ託してさよならバイバイ後腐れなくすっきりさっぱりだ。

責任なんて知るか。
俺は早く身軽になりたい。
身軽でいたいからスリになった。
生きてく上で足枷になる余計なモノは背負いこみたくねえ。
手前勝手だろうが無責任だろうがこれが俺だ、生憎とこういう風にしか生きられねえ、厄介ごとからはケツまくって逃げるのが事なかれ処世術だ。

「あ、いた。おーい、ここに迷子が」
たまたまそこに居合わせた駅員に手を挙げてしらせようとして……
ぎゅっ。
振り向く。
女の子が俺のシャツの裾を握り締めている。
「みーちゃんまいごじゃない」
「は?」
「みーちゃんまいごちがう」
「はあ。じゃあおかーさんが迷子か」
「おかーさんもまいごちがう」
なるほどわからねえ。
自称みーちゃんは俺のシャツの裾を両手で握り締め、キッとおっかない顔で睨んでくる。目ヂカラのある子だ。
「えーと……わかった。わからねーけどわかった。おかーさんもみーちゃんも迷子じゃない、と」
「そ」
「迷子じゃないけど突然いなくなっちゃったと」
「そ」
「だったらあそこの駅員さんにおかーさんさがしてもらおうぜ。すぐ見つかるからさ、な?」
たどたどしく舌足らずに喋るみーちゃんに、駅員を指さし辛抱強く教え諭す。だがみーちゃんは頑として首を縦に振らない。唇を一文字に引き結び、さも理不尽なことを言われたというふうに批判がましく俺を見てくる。
「……やだ」
「なんでやだよ?」
「やだったらやだ」
「……かんべんしてくれ」
さあ困ったぞ、自慢じゃないが俺はガキの扱いが下手だ。というか、今まで身の周りにこの年頃のガキがいたことなかった。勿論隠し子だっていない。
俺のシャツをひしと掴んだまま、ぶーたれて黙りこむみーちゃんと向かい合い、やんわりと、それでいて断固として拳を振りほどこうとする。
「とりあえずはなしてくれ、服が伸びちまう」
「いや」
「おじさんを困らせんな」
「いや」
「俺がなにしたってんだ、ったく」
「いや」
「いやいや言ってるといやいやえんに送り返すぞ?クーリングオフきかねーかんな?」
大人げなく脅す。みーちゃんの目に大粒の涙が盛り上がる。
「……いやいやえんいや」
「あーそうかいそうかい俺が悪者かいチクショウ!」
ガキの手前くそったれは慎んだ。それくらいの理性は残ってる。
これは罰か。天罰か。幸せそうな親子連れに一瞬目を奪われたから、ケチなスリ師の分際で人様の幸せを妬んだりしたからバチがあたったのか。ごめんなさいもうしません。見知らぬガキにしつこく付き纏われて辟易する。元々ガキは嫌いなのだ。泣くし喚くし駄々こねるし小便もらすし洟たらすし。
顔を険しくして声を荒げたせいかみーちゃんが身を竦める。罪悪感がちくりと胸を刺す。咄嗟に作り笑いを顔面に貼り付けて、おもねるような猫なで声をだす。
「おじさんこー見えて忙しいんだ、いまから仕事にいかなきゃいけなくてさ。わがまま言って困らせんな。おかーさんもきっとみーちゃんさがしてるぜ、早く行ってやんねえと」
「みーちゃんおじさんといく」
「なんでそうなんの……」
柱の陰で押し問答を繰り広げる俺とガキを通行人が好奇心と不信感が綯い交ぜとなった眼差しでチラ見していく。不審者扱いは勘弁願いたい。スリでしょっぴかれた前科はあっても小便くさいガキに手を出したことは断じてねえ。
「あんまり聞き分けねーとおまわりさんに……」
そうだ。ひらめいた。おまわりさんだ。

「で、私を呼んだと」
目の前にいるのはエリート面したイヤミ眼鏡。
知的な切れ長の双眸をいやらしく眇めて、値踏みするように俺と足元の幼女とを見比べる。
「迷子といやおまわりさん。生活安全課の管轄だろ」
目の前にいるのは俺の天敵にして宿敵にして大敵、生活安全課の刑事・玉城(沖縄出身)。頭がキレて度胸もある、若くしてエリート街道まっしぐらの有望株だが難を挙げるなら痴漢プレイに興奮する特殊性癖の変態だ。難がでかすぎて美点が全消しされる。
「やれやれ、私はあなたのパシリではないのですがね」
眼鏡のブリッジを中指で押し上げてあてこする玉城。糊の利いたスーツを折り目正しく着こなし、革靴の爪先まで顔が映るほど磨き抜いて、勝ち組の後光さす涼しい面で見下してきやがる。
コイツの面を見てるだけでムカムカしてなんか一言言ってやりたくなる。
「俺もお前のセイドレイじゃねーから」
「セイ……?」
聞きなれねー単語にみーちゃんが目をぱちくり、慌ててその耳を塞ぐ。
ガキの前で口を滑らすんじゃなかった、反省。
「おいこだろおあいこ。困った時はお互い様。お前が俺にした仕打ちを考えりゃ釣りがくる」
「しかし羽生さんに隠し子がいたとは」
「もしもーし俺の話聞いてたか?わざと無視した上にわかっててやってるな?」
「今まで黙ってて水くさいですよ。お父さん似じゃないのは不幸中の幸いですが……反面教師にして立派に育ってほしいところですね。飴ちゃん食べますか?」
「たべる!」
「やけに素直じゃねーか。甘い飴玉でガキを手懐けるのはお手の物か」
到着早々生来の人たらしの才能を発揮してみーちゃんと親睦を深める玉城を忌々しく睨む。
平日の真っ昼間に携帯地一本で呼びだしたのは俺なんだからもうちょっと感謝すべきと頭じゃわかっている、だがコイツにされたあんなことこんなことが脳裏に悶々と渦巻いて素直に礼を言えない。
玉城がポケットから出した飴玉の包み紙を解き、大人しく口に含む。飴玉を口の中で転がしてご機嫌なみーちゃん。一方俺の機嫌は下り坂。いや、うるさく泣き喚かれるよりマシだが……
「大丈夫ですよ羽生さん。わかってますから」
「何が」
「貴方がツンデレだって事をです」
「きしょ。野郎にツンデレとかゆーな」
ぽんと肩におかれた手をそっけなく振り払おうとし……手首を裏返され、あっさりと関節を極められる。
「いだだだだだ!?ちょ、てめ、ふざけ」
がなりとばそうと大口開けて……
「ふぐっ?」
口の中に飴玉が放りこまれる。
「貴方も飴ちゃんをしゃぶりたかったんでしょう。物欲しそうな顔をしてたじゃないですか」
抗議を申し立てようとかっぴろげた口ン中へ飴玉を弾き入れた玉城が、してやったりと意地悪くほくそえむ。食べ物を粗末にするなと叩き込まれて育った俺は吐き出す事もできず、憮然として頬に含んだ飴玉を転がす。
「……グレープ味」
「正解」
そんな俺と天敵のやりとりをみーちゃんが不思議そうに見上げて質問。
「だれ?」
「私は玉城。この無職のおじさんのお友達ですよ。この無職のおじさんに急遽応援を頼まれて、多忙な業務の合間を縫って駆け付けた善意の徒です」
「おまわりさん」
「ですよ」
「わんわんじゃない」
等身大の犬のきぐるみでも想像してたのか、みーちゃんが不満そうに呟く。思わず吹きだす。
「残念ながらみーちゃんさん、おまわりさんの全てがわんわんという訳ではないのです」
みーちゃんの目線に屈んで世の理を解く玉城。にこやかな玉城と仏頂面の俺とを見比べ、みーちゃんが小首を傾げる。
「ともらち?」
「誰が」
「ええそうですとも。何を隠そうこの無職のおじさんと私はマブダチ、尻と尻を合わせて知り合いの仲です」
「突っ込まれた覚えはあっても合わせた覚えはねーし大体その無職の無職のって枕詞はなんだ!?」
「ご存知ですか?人に誇れる立派な仕事の反対は人に謗られる胡散くさい副業です」
「無職じゃねーよ!そりゃ税金はおさめてねーけど!俺は立派なスリ、」
「すり?」
みーちゃんの純粋な目とかち合いうっと言葉に詰まる。
「……スリッパ職人だ!!」
「無職改めスリッパ職人ですか。見直しました」
「うるせえ口からでまかせだ。子供の純粋な目を濁せるか」
小声で口喧嘩する。我ながら器用な真似だ。気のせいかみーちゃんがきらきら輝く尊敬のまなざしでこっちを見上げている……本当に気のせいだろうきっと。
「職業に貴賤なしが信条では?スリ師に誇りを持ってるとさんざん聞かされましたがあれは嘘ですか?転職がご希望ならそこのハローワークへどうぞ、なんなら私がよい仕事を斡旋しますよ」
「ゲイビデオ男優はお断りだっての」
「素人を起用して痴漢ものを撮りたいと意気込んでいる監督がいましてね。その条件にちょうどあなたがあてはまるんですよ」
「勧誘か?勧誘なのか?自信たっぷりに豪語されてもちっとも食指動かねーんですけどマジで」
「更生の良い機会では?」
「ゲイビデオ男優への転身が更生?身を持ち崩した挙句の転落じゃねーか?」
「ははまさか、底の底が抜けた今を生きるあなたにこれ以上のどん底なんてないでしょうに」
……悔しいが言い返せねえ。現状を鑑みると、俺はその日の煙草代にも事欠く有り様だ。この野郎全部お見通しかチクショウ死ね。
シャツを引っ張られ下を向く。みーちゃんがお腹をさすりながらしょんぼりと訴える。
「みーちゃんおなかへった。ごはん」
「あーはいはい。じゃあ後は頼んだぜ」
みーちゃんを玉城に押し付け、後はシラネとすたこらさっさ退散しようとし……
「ぐふっ!?」
襟首を後ろから引っ張られる。突如首が締まって喘ぐ。
細腕のどこにこんな力があるのか、片腕一本で俺の後ろ襟を引っ掴んだ玉城がにこにこ笑ってる。
「おやおやそれはあんまり無責任じゃありませんか。折角です、ご一緒にランチなどいかがでしょう」
「はあ?生憎俺は忙し」
「この子もあなたに懐いているようですし」
「懐かれてる気がしねーんだけどこれっぽっちも」
玉城が悪戯っぽく笑いながら指さす方に向き直れば、みーちゃんが俺のシャツの裾にしがみつき、上目遣いに見つめてくる。玉城を警戒してる……のか?コイツは変態だ。その判断は正しい。
「幼女に懐かれてもロリコンじゃなし嬉しかねーよ。俺は早く自由の身になりたいんだ。だから嫌々呼んだのに」
ふてくされてそっぽを向く。押し問答してる時間が無駄だ。さっさと迷子を預けてラクになりたい。
口では軽薄に嘯きながら、俺の足にまとわりついて股から顔を出すガキを突き放せない。
「わかりました。それなら」
「え?」
玉城が一つ首肯し俺の後ろに回る。かと思いきやみーちゃんの脇の下に手を潜らせて、軽々と空中にぶらさげる。
「今です羽生さん、さあお行きなさい!」
「あ、ああ、かたじけねえ」
豹変ぶりに戸惑いながらもみーちゃんを引き離してくれたのは有難く、ここは素直に感謝しておく。
鋭い叱責に鞭打たれ全速力で走りだす。人でごった返すホームを突っ切って、視界の範囲から消えようと……
号泣。
ヒステリックな子供の泣き声が背中におっかぶさる。咄嗟に振り返る。玉城に宙吊りにされたみーちゃんが手足をばたつかせ泣き喚いている。顔を赤くして、涙と鼻水を盛大に垂れ流して、全身でイヤイヤしている。
玉城の腕の中で泣きじゃくる子供に通行人が怪訝そうな一瞥を払い、雑踏のど真ん中で立ち尽くす俺をさっさと追い越していく。
「~~~っ!!」
そういう魂胆かよ。まんまと策にハマった。一瞬でもいい奴かもなんて勘違いした俺が馬鹿だった。
憤然たる大股で元来た道を引き返す。玉城が優しくみーちゃんを下ろせば、靴裏が床に着地した途端、ボールが弾むように俺のもとへ駆け寄ってくる。膝に体当たりをくらい、みーちゃんの小さな体を反射的に抱きとめる。
「あなたはいい人ですねえ羽生さん。そういうところは好ましいですよ」
泣きじゃくるガキを見捨てて立ち去れるほど、俺の心臓は強くねえ。付け加えるなら周囲の視線に耐えられるほど心臓に増毛してねえ。
「……計画通りかよ。あ~わかったわかった、一緒にランチすりゃ満足なんだろ」
「よくできました」
舌打ちひとつ、ふてくされた態度で了承すりゃ玉城がさも嬉しそうに微笑む。俺はコイツの犬か?
「ではいきましょうかみーちゃんさん」
玉城がさしだした手と俺の顔とを見比べ、おそるおそるその手をとる。一見微笑ましいといえなくもない図。こうしてると親子に見えないこともない。仲良く手を繋いで歩きだそうとした玉城とみーちゃんがふと停止、何故か物言いたげに俺の方を凝視する。
「……何?」
片方所在なげに空いたみーちゃんの手。無言で微笑み圧を加えてくる玉城。いくら鈍感な俺でも意図が呑み込めた。
「仲良くおてて繋いでおさんぽ?んな恥ずかしいことできっか、こちとら何歳だと思ってやがる。しかも男同士で」
「往生際が悪いですよ羽生さん」
レンズの向こうで玉城の目が鋭く光り、みーちゃんが哀しそうに顔を曇らせる。ええいままよ。
目線で促され、否正しくは無言の圧で脅され、スラックスの横で軽くてのひらを拭ってからみーちゃんと手を繋ぐ。
子供特有の体温の高いふっくらした手が、安心したようにきゅっと俺の手を握り締めてくる。
「………」
なんだこれ。くすぐってえ?こそばゆい?尻から背中にかけてがむずむずする。
なまぬるーい空気が漂う中、いたたまれない面持ちで居心地の悪さを持て余す俺を見上げ、みーちゃんはかすかに笑った。出会ってから初めて見せる笑顔だ。

構内のコーヒーショップに移動して腹ごしらえをする。
ランチには少し早めの時間帯ということもあって店内の客は疎ら、ちょこんとスツールに掛けた幼女を挟んで並んでカウンターに座る。みーちゃんには甘ったるいカフェオレとサンドイッチ、俺はホットドッグとアメリカン、玉城はブルーマウンテンを一杯注文する。
マグカップを両手で包みごくごくとカフェオレを呑むみーちゃん。よっぽど喉が渇いてたのだろう。
俺はアメリカンに口をつけつつ他人の金でホットドッグを頬張る。玉城はブルーマウンテンを小指を立て優雅に啜りつつ、サンドイッチをぱくつくみーちゃんを微笑ましげに見守っている。
どう考えても異彩を放つ組み合わせだ。
「どうしたんですかそわそわと」
「……お前は気になんねーの?視線」
「はて」
「真昼間っからよちよち歩きのガキを挟んでいいトシした男ふたりがお茶してるんだぜ。しかも一人はぱりっとスーツを着こなしたエリートリーマン、もう一人は私服をカジュアルに着崩したイロモノトリオときた」
「一週間は洗濯してないだろう小汚い服をだらしなく着崩したうだつのあがらない三十路男性が正解では」
「うるせーなせいぜい2・3日だよ!」
「つまり私達が他のお客にどう見えているか気になると」
挙動不審な醜態を呈す俺とは対照的に玉城は堂々落ち着き払って思考を巡らせる。
「幼い娘を連れたエリートサラリーマンの実兄に性懲りなく借金を申し込みにきた無職の三十路男性でしょうか」
「しょっぱい現実をぶちこんでくれるなよ」
「なら訂正します。甲斐性のなさが原因で妻と離婚したものの仕事が決まらず可愛い一人娘を泣く泣くエリートサラリーマンの兄に預けにきたバツイチ無職の三十路男性はいかがでしょうか」
「あのさあ……」
「お気に召さないと」
「お気に召す要素がどこにあるんだよ?!」
冴えわたるツッコミとは裏腹に沈んでいく一方の俺の顔色から内心を察した玉城が、レンズ越しの目を思慮深く細める。
「何かお悩みでもあるんでしょうか」
「話したくねーな。第一なかよしこよしでお悩み相談するような間柄じゃねーだろ、俺とお前は」
俺と玉城の関係。
スリと刑事、痴漢と痴漢被害者、強姦加害者と被害者。
不倶戴天の天敵にして宿敵、犬猿の仲あらためハブとマングースの仲の張本人と見知らぬガキを間に挟んで呑気に茶をしばいてる状況自体俺にとっちゃありえないのだ。
ぬるくなったコーヒーをお上品に啜りながらいけしゃあしゃあとのたまう玉城。
「好敵手に覇気がないとやる気がでませんので」
「どの口がぬかす。てめえとなれあうつもりはねえ」
「頼っておいてその言いぐさはないでしょうに。無作法な人ですね」
「あっ!」
甲高い悲鳴に下を向けばみーちゃんが手を滑らせてカフェオレを零していた。
「あーあ、なにやってんだ」
傾いたコップの口から零れたカフェオレがみーちゃんのズボンに茶褐色のシミを作る。思わずスツールから腰を浮かせ、ハンカチ……はないので、ナプキンを何枚かまとめて引っ掴んでズボンを雑に拭いてやろうとして。
気付く。
「ごめんなちゃい!」
「え?」
みーちゃんが両手で頭を抱え込み、ぶるぶる震えてカウンターに突っ伏す。土下座せんばかりの過剰反応に面食らう。俺がまごついてるあいだにみーちゃんはナプキンをまとめて何枚も引っこ抜いて急き立てられるようにズボンを拭きだす、だがその仕草があんまりにもせわしないせいで皮肉にも染みは広がっていき、ますますパニックに陥ってあわや一触即発半泣きの態になる。
追い詰められ思い詰めみーちゃんがべそをかく。
「ごめんなちゃい、きたなくして……おそうじするから……」
「わざとじゃねーならそんな気にしねーでも」
「待ってください」
玉城が俺の肩を掴んで引き止める。なれなれしい奴め。しかしその怒りは、語尾に押し被さった涙声の謝罪に打ち消される。
「わるいこはみーちゃんだから……おかーさんをぶたないで……」
玉城と顔を見合わせ困惑。
「……どういうこったよ」
みーちゃんは頭を抱え込んだままぐすぐす泣きじゃくる。無邪気なみーちゃんの突然の豹変にあっけにとられる俺をよそに、玉城は迅速に適切な行動をとる。みーちゃんの正面に回りこみ、非の打ちどころない笑顔を作る。
「大丈夫、怒りませんよ」
「……ほんと?」
「本当です。指切りします」
今にも消え入りそうな声で疑わしげに念を押すみーちゃんに小指を絡めにこやかに約束、唐突に真剣な目になる。
「だれがぶつんですか?」
スツールから足をぶらさげて俯き、おどおどした様子で店内に視線を走らせてから玉城の顔へと戻り、呟く。
「……おとーさん。みーちゃんがわるいことするとおかーさんをたたく」
「それって……」
鈍い俺もさすがに察しがつく。
みーちゃんは一つ一つ言葉を選びつつ、たどたどしく言い募る。暗く思い詰めた表情で、大粒の涙に潤んだ瞳で。
「みーちゃんがごはんこぼしたりジュースこぼすといつもおっかないカオでおかーさんを怒る。おまえが悪いんだって言う。ちがう。わるいのはみーちゃん。みーちゃんが悪い子だからおとーさんは怒るしおかーさんは泣くの。みーちゃんがぶたないでっておねがいしてもだめなの。おかーさんにいたいことするの、しつけだって……」
子供の口から訥々と語られる夫婦の日常は荒んでいる。
旦那が嫁を殴る。よくある胸糞悪いDV。
苦いモノが喉にこみ上げる。
ただの迷子とばかり思い込んでたガキの複雑な家庭事情を垣間見て、絶句して立ち尽くすしかない情けない俺とは違い、玉城は柔和な口調で質問を重ねる。
「ここにはお母さんときたんですか」
みーちゃんはこっくり頷く。
「お父さんから逃げてきた?」
またこっくり。
「お父さんに内緒で?」
こくん。
「……なるほど。よくわかりました。よく最後までお話できましたね、えらいですよ」
にっこり笑ってみーちゃんを褒めて、ズボンの膝に染みたカフェオレを、背広のポケットからだしたブランド物のハンカチで丁寧に拭いてやる。まるで子煩悩な父親だ。
今の玉城はどこからどう見ても頼れるおまわりさんだ。みーちゃんの嗚咽も次第に落ち着いていく。
眼鏡のブリッジを人さし指で押し上げて立ちあがった玉城が、プラスチックの筒に刺された伝票を手に取り真剣な表情で振り返る。
「みーちゃんのお母さんさがしを手伝ってください羽生さん」
「わかった」
真新しいナプキンをとってみーちゃんの洟を噛んでやりつつ相槌を打てば、玉城が意外そうに目を瞬く。
「なんで俺が?とは言わないんですね」
「そんなアホな質問しねーよ」
使用済みのナプキンを丸めて盆に投げる。スラックスのポケットに手を突っ込んで吐き捨てれば、虚を突かれたような一呼吸の沈黙が流れる。
玉城の好奇心に満ちた視線に耐えかねてそっぽを向き、不承不承口を開く。
「……わかっちまったんだ、この子が迷子じゃねーって言い張ったわけが」

自分も母親も迷子じゃないと、あれほどかたくなに言い張った理由。
自分が迷子になったとバレたら大好きな母親が怒られるから、かわりに怒られてぶたれるから、みーちゃんはいなくなった母親を庇い立てした。
母親が迷子になったとしても同じ結末を辿るから、みーちゃんはその事実を認める訳にはいかなかった。
こんな小さい子がそこまで心を痛めて頭で考えた事を、大人の一存で蔑ろにしていいわきゃない。

俺をまっすぐ見据えて玉城が破顔する。
伝票を持ってきびきびと会計へ向かいがてら俺の肩に手を滑らせ、耳朶にくすぐったい吐息を吹きかける。
「あなたのそういうところ好きですよ、私」
 
新宿駅は無駄に広い。伊達にダンジョンの異名をとってない。おまけに人通りも多い。
「こん中で人探しってハードだな……」
効率面を考え玉城と二手に分かれる事にしたが早速立ち往生する。辟易として雑踏を見渡し、みーちゃんから聞き取った母親の人相の特徴を脳内で反芻。
「髪は肩まで、水色のシャツ、お花の模様の白いバッグ……」
たったこれだけの情報で人探しは無茶振りだ、新宿駅を一日に利用する人間は何万何十万にものぼる。名前さえわかりゃ駅員に交渉しアナウンスで呼びだしてもらう手もあるがそれもできない。積んでる。面倒な事に巻き込まれたと自分のツキのなさを呪いたくなるが、泣きじゃくりながらズボンの染みをナプキンで拭うみーちゃんを思い出し考えを改める。
「いっちょやるか」
小声で活を入れ、己を鼓舞して歩き出す。文字通り東奔西走、雑踏を突っ切るように大股で歩き特徴に合致する女をさがして注意深く視線を巡らせる。
だだっ広い駅構内を駆けながらみーちゃんを玉城に預けてきて正解だったと痛感する。ガキを抱えながらの人探しは疲労と手間が倍乗だ。みーちゃんも大人しく言う事を聞いてくれて助かった。別れ際、不安げに俺を見上げるみーちゃんの頭をぎこちなくなでてやった。子供の頭ってあったかいんだな、と妙に感心した。

まったく俺らしくもねえ。
ケチな小悪党が今更善人の真似事か?
柄にもねーことをしてる自覚はある。
ままならない反感というか、ガキ一匹に振り回されるみっともない自分を斜に構えて嘲笑いたくなる気持ちが心の片隅に燻ってる。


真っ当な人生を歩んでいたら今頃俺にもあれ位の子供がいたかもしれない。羨望と憧憬と焦燥と、手に入ったかもしれない「もしも」の可能性を想像すらしないといったら嘘になる。エリート街道驀進中で人生順風満帆充実してる玉城にゃわからねーだろうが……
『あなたに覇気がないと仕事のやる気がでませんので』
「アイツにも仕事の悩みなんてあるのかね」
好敵手なんて言われると尻がむずがゆくなる……この表現に他意はねえ。断じて。
手の中で携帯が着メロを奏でる。ジョーズのテーマソング。名前欄には「玉城(変態)」の表示。
「もしもし」
『進捗どうですか?』
「そっちは……聞くまでもねーか」
『今どのあたりです』
「南口の有料トイレの近くのコインロッカーって言やわかるか」
『私は山手線乗り場の近くの売店です』
こそこそ話し合ってる気配。
『みーちゃんが言いたいことがあるそうなので代わりますね』
携帯を渡しているのだろう間をおいて、初対面の印象を裏切る遠慮がちな、切迫した声音がもぐりこむ。
『……おかあさんいた?』
「まだ。さがしてるとこ」
『おかあさん……だいじょうぶ?おとうさんにいたくされない?つかまっていたいことされない?』
たった一言の「だいじょうぶ?」に万感の思いがこもっていた。この子は何度も父親が母親に暴力を振るう現場を目撃してきたのだろう、声音に隠しきれない怯えが混じっている。もし自分が迷子になったせいで母親がお仕置きされたらどうしようと心底案じて責任を感じている。沈黙に押し潰され不安のあまり今にも泣き出しそうなみーちゃん。呼吸がどんどん荒くなる。

『おかーさん、見つかる?』
『おかーさんだいじょうぶ?』

大丈夫と訊かれたら大丈夫と、嘘でも安請け合いするのが正しい大人の対応だろう。
でも俺はそうしなかった。


近くの柱に背を凭せ、浅く跳ねる息遣いが伝わる携帯を強く握り締める。
「……わからねえ」
正直にそう答える。みーちゃんが絶句する。
俺は正しい大人じゃねーから、母親の消息を不安がって今にもべそかきそうな小さい女の子に約束一つくれてやれねえ。
でも、一つだけ言えることがある。
行きがかり上で仕方なくでも、成り行きでイヤイヤでも、俺は今この子の為に走ってる。
この子を母親に会わせるために異世界のダンジョンに比肩する広さの新宿駅を駆けずりまわってるのだ。
「おかーさんはずっとみーちゃんを守ってくれたんだろ」
『……うん』
別れる前スカジャンの袖をまくりあげて確認したが、みーちゃんの身体には痣や傷がひとつもなかった。ドメスティックバイオレンスは母親にだけ向けられてた可能性もあるが、俺は母親が身を挺して庇った方がありえると踏んだ。理由は勘だ。俺の勘はよく当たる。
まだ会った事ないみーちゃんの母親の顔を思い浮かべる。長い間旦那の理不尽な暴力に耐えていたがとうとう守りきれねーと判断したら子供を連れてさっさと逃げた、その女は正しい選択をした。
アンタは間違ってねえよ。
だから俺は言う。
「あきらめんな」
携帯のむこうでハッと息をのむ気配。
「かくれんぼもおいかけっこも諦めたヤツのまけだ、殴られようが蹴られようが粘り勝ちしたヤツが最後に笑うんだ。べそかいてる暇あるならお前も必死こいておかーさんをさがせ、お前のおかーさんだろ」
四つかそこらの子供にキツいことを言ってるとは思った。だが事実だ。ぐすぐす泣いてうじうじ悩んでる暇があるなら足を使って捜し回れ、頭を使って体を動かせ。俺だってスリの仕事で何度も失敗した、でも諦めなかった、足を洗おうとは思わなかった。

現実はしょっぱくて、「大丈夫」なんて安請け合いできるほど物事は上手く運ばない。
世の中は理不尽が罷り通り、人々は不条理に泣く。
だがそれでも譲れないものがある。

世間様に顔向けできねー仕事だろうが人様に言えねー生業だろうが履歴書に書けねー前科だろうが、コイツが俺の天職と恃んだなら意地でもその誇りを貫き通す。
「俺も今必死にさがしてる。だからみーちゃんもさがせ、でかい声でおかーさんを呼ぶんだよ、気付いてもらえるように。おかーさんが心配なんだろ?だったら腹ン底から声を張り上げろ、ギャン泣きしてここにいるって主張しろ、玉城なんてほっとけ困らせちまえ、通行人の注目の的でいいザマだ。声を上げなきゃ誰にも気付いてもらえねーよ、人生行動あるのみだ。それに……」
『視姦される方は好みじゃないのですがね』
「代わったんならそう言えよ!?」
顔から火が出る。なにマジに語ってんだ俺恥ずかしい。危なく携帯をぶん投げてその場にしゃがみこみそうになった。
「ふざけんなよ!!」
突然の怒号に振り向く。コインロッカーの前、一組の男女がなにやら激しく口論してる。一人は会社員風の二十代の男、女性の腕を掴んで口汚く罵倒してる。対する女は……
水色のシャツ。花柄のハンドバック。ボブカット。
「……ご都合主義過ぎるだろ」
『どうしました?』
「……いたぞ。男と喧嘩してる」
コインロッカーに預けていた荷物を取りに来たらしい女は、男を無視してロッカーの扉を開けようとするが、男はそれを許さない。醜く歪んだ憤怒の形相で、猛烈な剣幕で女に食い下がる。
「美奈をどこへやった!」
「あなたには関係ないでしょ、放っておいて」
「俺は父親だぞ?それをお前、あんな薄っぺらい紙切れ一枚おいて消えやがって……馬鹿にしてるのか!」
「もう限界。あなたとやってくのは無理。今までずっと我慢してきた、でも無理。もっと早くこうするべきだった」
「わかるように話せ!」
「毎日毎日つまらないことで殴られて。ちゃんと掃除してないとか料理がまずいとか服に糸くずがついてたとか、小さい子が見てる前で……ずっと誰にも言えず我慢してきた、それが間違ってたのよ。このままじゃ私壊れちゃう、どうにかなっちゃう。あなたがこないだジュースを零して床を汚したって美奈を蹴ろうとした時わかったの、ここで逃げなきゃずっと同じことの繰り返しだって」
「俺が会社に行ってるあいだにこそこそ逃げ出してずるいぞ!メールも無視して!親にチクる気か!」
「子供みたいなこと言わないでよ!」
そうか。だからみーちゃんはジュースを零した時あんなに焦ったのか。
トラウマがフラッシュバックして
よくよく見たら厚化粧で隠しているが女の顔には青黒い痣が透けていた。薄手の長袖シャツに隠された腕には無数の痣が散らばっているのだろう、痛みを感じているせいで男を振りほどこうとする動作はぎこちない。日常的な暴力の痕跡を巧妙に隠そうとした努力のあとが痛ましい。
ここら一帯は人通りが少ないが、それでも痴話喧嘩に興味を引かれて物見高い野次馬が集まり始めている。スマホを構えて呑気に写メを撮る野次馬の輪の中心、怯えを虚勢に塗りこめて女が金切り叫ぶ。
「しつこくするなら警察に行くわよ!」
最後の切り札の脅し文句。幼稚な暴言をがなりたてる旦那にキレたのだろう、だがこれが裏目にでた。
「俺だけ悪者にしやがって」
妻に恥をかかされ理性が蒸発した男が、背広の胸からくしゃくしゃに畳んだ紙切れを取り出す。離婚届だ。
「こんなものこうしてやる!!」
「やめて!!」
派手なパフォーマンスに野次馬がどよめき喧しくスマホのシャッターが切られる。怒号と悲鳴が交錯した一瞬、野次馬の垣根をなめらかに掻い潜り体が動く。
妻の眼前に離婚届をつきつけ真っ二つに破り捨てようとする男、反吐がでそうなにやつき顔が視界の端を掠めたのは一瞬の事。突如として手の中の離婚届が消えて男が驚愕、女も事態を呑み込めず硬直する。
「な、ない?消えた?どこに」
男の当惑が野次馬に感染、手品に化かされたかのような驚愕と困惑が同居するざわめきが広がっていく。
「大丈夫か?」
「あ、あなたは」
「通りすがりのスリッパ職人だ」
付け加えるなら、少々手癖が悪い。
放心状態の女を抱き起こす。目元のあたりがみーちゃんと似ている。やっぱり母娘だ。母親似でよかったな。
「誰だあんた、関係ない奴は引っ込んでろ!」
「オリジナリティのねー台詞だな。俺の目に映る事で関係ねーことなんかひとっつもねーんだよ」
周囲で他人事と決め込んで物見遊山にスマホで撮影してる野次馬をでかい声であてこすってやれば、そのうち何人かはスマホをしまいこそこそと退散していく。ざまーみろ。
男は疑心暗鬼に苛まれて俺と女とを見比べていたが、その顔に唐突に理解の色が浮かぶ。
「お前……コイツとデキてるのか?」
「ああん?」
「子供を連れて駆け落ちする気だったな!?」
「あー……はいはい、この状況でそうなる訳ね」
キチガイに何を言っても無駄だ、理性的な会話が成立しない。
「いつからデキてたんだ?俺が仕事で死にかけてるあいだずっと浮気してたのか?何も知らない俺をベッドの中で嗤ってたのか?俺に内緒で、ずっとだまして、ずっとずっとずっと……」
完全に俺と妻の仲を誤解した男が勝手に妄想を暴走させ支離滅裂な戯言を述べ立てるのをうんざりと眺める。だが次に発した一言が、俺の理性を蹴っ飛ばす。
「美奈もそいつの子なんだろ!」
「……言っていいこととわりーことがあるぜ」
妻の不貞を疑うだけじゃ飽き足らず、自分の子供まで貶める発言をした男へと一歩詰め寄る。
男は既に自棄気味で、卑屈な笑みを顔一杯に貼り付け、手足をめちゃくちゃに振り回し唾とばし喚き立てる。
「どうもおかしいとおもってたんだ、ちっとも俺に懐かない、いやな目で睨んでくる。俺の子じゃない?どうりでかわいくないわけか、今までそうとは知らず他の男のガキを金かけて育てさせられてたって訳かははっ!だけど離婚はしないぞ絶対に、自分の種でもない子供のために高い養育費払い続けるなんて冗談じゃ……」
きゃあっ、と黄色い悲鳴が上がる。上げたのは傍らの痣まみれの女じゃない、最前列でスマホを構えてた茶髪の女子高生だ。高笑いしながら得々と喚いていた男のベルトが突如として引き抜かれズボンがずりおちる、
「やだっ何脱いでんの変態?」
「露出狂じゃない?」
「やだーキモい」
「だれかおまわりさんよんできたら」
「ていうか白ブリーフって笑えるし」
公衆の面前で下半身パンツ一丁の醜態をさらした男が笑顔のまま固まる、女子高生ははしゃいだ嬌声を上げ変態下半身露出男の股間のもっこりを撮り続ける。SNSで拡散炎上しないよう祈るばかりだ。
「クソ野郎、ぶっ殺してやる!!」
パンツ一丁の下半身と俺の手の中のベルトを結び付けまっしぐらに突っ込んでくる男。即座にベルトを投げ捨て女を突き飛ばす、最前列の女子高生がスマホを落とし寸手で女を抱きとめる。よくできました。
振り抜きが甘い。一発目は見切って余裕で躱す。だてにそこそこ修羅場は踏んでない。パンツ一丁の男がいきりたって襲ってくるのはシュールを通り越しなかなか笑える光景だが、今まさに襲われてる当人としちゃ笑ってばかりもいられない。野次馬が悲鳴を上げる。顔を右に傾けて拳を躱す。
「どうした腰抜け、やり返してみろ!びびってんのか!」
空振りが続いた男はますます火に油で激昂、嫁の間男と誤解した俺に調子に乗って罵倒を浴びせる。

―「羽生さん!」―

その声は構内の喧騒を貫いて、不思議とまっすぐに耳に響く。
わざわざ伸び上がり野次馬の頭越しに視認しなくてもわかる、玉城だ。繋ぎっぱなしにした携帯を頼りに駆けてきたのだろう、事の一部始終は当然把握済みだ。
「~来るのが遅えんだよ!」
注意が逸れた一瞬の隙を突かれる。横っ面に衝撃が炸裂、体が吹っ飛ぶ。薄情な野次馬どもが悲鳴を上げて避けた床にしたたか叩き付けられる。まともにパンチを食らった。殴られるのは久しぶり、懐かしい痛みだ。頬が熱を持って疼く。口の中が切れて喋りにくい。鉄錆びた血の味が広がっていく。起き上がってすぐに脇腹に衝撃、革靴の爪先が容赦なく抉りこまれる。
「ぐふっ、」
断水時の蛇口のように喉が詰まる。うつ伏せに倒れたところに続けざま蹴りを浴びせられる。腹を庇って身を丸める、肩を腕を背中を腰を尻を足を固い革靴でめちゃくちゃに蹴られる、死ぬかなコレ、ろくでもない走馬灯の中に紛れ込んだムカツク顔、銀縁眼鏡がイヤミなほど似合ういかにもエリートでございって取り澄ました面の男がにこやかに笑ってる。
『その程度ですか?笑えますね』
幻聴か。
上等だ。
「この!死ね!いい気味だ!恥かかせやがって他人のくせに、ひとの女に手を出しやがって」
「もうやめて、ほんとに警察を呼ぶわよ!」
「それにはおよびません」
女の悲鳴。落ち着き払った玉城の制止。ぱたぱたと軽い足音。
「スリッパのおじちゃんいじめちゃだめ!」
「みーちゃんだめっ!」
野次馬の足元からとびだしたみーちゃんが、よりにもよってぼろ雑巾の如くくたばっった俺のもとへ駆け寄ってくる。漸く娘と再会できた喜びも棚上げに、修羅場の真っ最中で取り乱した母親が凄い勢いで這いずって娘を押し倒す。案の定それを見て攻撃の矛先が転じる。凶暴性を露わにした男が必死の形相の女を力ずくで引っぺがしみーちゃんをひったくろうとする。
「全部お前のせいだ!」
男の腕が力強く振り上げられ、咄嗟に子供を抱き締めた女がぎゅっと目を瞑る。
燃えるような激痛に苛まれ指一本動かすのはおろか瞬きするのも億劫だったが、余力を振り絞って床に落ちたベルトを鋭く撓らせ投擲。狙い違わず鎌首もたげたベルトは男の足に絡んで縺れさせ、振り上げられた拳の軌道がブレる。

そして。
「断じて違います。あなたのせいですよ」

母娘の背後から進み出た玉城がサッと両者のあいだに割り込んで、男の胸ぐらに手をかけ、その体を背中にのっける。
それなりに上背も体重もある男の身体が、むしろ華奢ともいえる玉城の背を軸に弧を描く。
コマ落としの如く綺麗な一本背負い。

俺が玉城に惚れてたらもっぺん惚れ直しちまうところだったが、元々印象最悪だったのでほんの一瞬目を奪われるだけですんだ。


一連の騒動で人だかりを増した野次馬からわっと拍手喝采が湧く。
ネクタイを締め直し几帳面に襟元を正す刑事さんを、床に這いずったまま呆れて見上げる。
「……お見事」
「どういたしまして。ナイスアシストでしたよ」
二人のコラボレーションですね、といけしゃあしゃあ付け加える。まったくいい性格をしてやがる。
高揚感に包まれ野次馬が見守る中、玉城はあざやかに踵を返すと、一本背負いをキメられ軽い脳震盪を起こした男へと物柔らかな口調で告げる。
「さて、一部始終をこの目で見届けました。傷害と恐喝の現行犯として署にご同行願いましょうか」
「な、なんで俺が。コイツが俺の妻と浮気して」
「証拠は?」
「コイツが今ここにいるのが証拠だ!」
「なるほど。仮に彼が人妻に手を出す手癖の悪い節操なしだとして、刑法では浮気は裁けません。民事でもむずかしいかと。対するあなたは?無抵抗の人間に殴る蹴るの現場をここにいる全員が目撃してます、翻しここにいる全員が証人です。言い逃れの余地があるとでも?」
「ぐっ……」
コイツを殴り倒すのは簡単だった。でもそうしなかった。衆人環視の中、無抵抗の人間を一方的に殴り倒した事実が欲しかったから。慣例としてDVはじめ家庭の問題に首を突っ込むのに消極的な警察も、駅という公共の空間において、白昼堂々他人に暴行を働くパンツ一丁の不審者がいたら署に強制連行しないわけにいかない。
「被害届だします?」
「ああ」
計算通りだ。俺が出す被害届がコイツの抑止力になる。警察の世話になるのは業腹だが、この際わがままは言ってられない。事前に連絡していたのだろう、最寄りの交番の巡査が二人やってきてすっかりしょげ返った男を引っ立てて行く。
立ち去り際、抱き合い蹲った妻子に未練たらし一瞥くれるが相手はもう目を合わせようともしない。自業自得だ。
交代の巡査に現場報告と引き継ぎを済ませた玉城が戻ってきて、未だ腰が抜けて蹲ったままの女に優しく声をかける。
「詳しい事情を聴きたいのであなたもご同行お願いできますか」
「……はい」
「DVにお困りなら生活安全課の専門家にご相談をお勧めします、家庭の問題に強い弁護士を紹介してくれますよ。離婚をご希望なら今回の一件が有利に働くでしょうね」
そう言って背広の胸ポケットから出した名刺を渡す。如才なく警察手帳をチラつかせるのも忘れずに、だ。玉城が後処理を負ったなら安泰だ。コイツは変態だが仕事はキチッとこなす。
腫れた横顔に視線を感じる。みーちゃんを抱き締めた女がおずおずと俺を見上げ、会釈する。
「あの……ありがとうございます」
「別に」
「治療費はお支払いしますので……お名前とご住所をお聞きしても」
「ンなのどうでもいいから」
用は済んだ。みーちゃんは無事母親と再会でき、父親はお縄になった。めでたしめでたし大団円。顔を見合わせ再会を喜び合う母と娘。ケチな小悪党はさっさと退場するに限る。
みーちゃんはもう怖い思いをしなくてすむ。母親は旦那の拳に怯えず安眠できる。
いいじゃないか、それで。上出来の成果だ。
「ん」
ズボンの裾を引っ張られ視線を落とす。みーちゃんがいた。
「たすけてくれてありがと。スリッパのおじちゃん」
「……あー。うん。まあ、な」
「みーちゃんね、おかーさんもね、もうだいじょうぶになったよ。おじちゃんはだいじょうぶ?」
正直大丈夫じゃない。体中が痛い。関節が軋んで悲鳴を上げる。蹴られた脇腹と肩と腰と尻と殴られた顔が激痛を訴えて、壁に凭れて辛うじて立ってる状態だ。どうやら俺を心配してくれてるらしい小さい女の子に、何て切り返したらよいものか答えあぐねて視線を泳がせ……
なれなれしく肩に手がのる。玉城だ。
「大丈夫ですよ。私がおりますので」
ちっとも大丈夫じゃねえよこの野郎。
喉元までこみ上げた罵倒をぐっと嚥下、肩におかれた手を振り払って歩き出す。目指す先は漸く落ち着きを取り戻したみーちゃんの母親。
「これ返す」
尻ポケットに手を突っ込み、丁寧に折り畳んだ紙きれを母親に手渡す。離婚届だ。
「今度はなくさねーようにしろよ」
あっけにとられこくんと頷く母親に背を向けて、今度こそ潔く消えようとしたが、みーちゃんがそれを許してくれない。足早に雑踏に紛れる俺の背に追いすがり、行き交う通行人がおもわず二度見する大声を張り上げる。
「スリッパのおじちゃん、またねー!」
……みーちゃんの中じゃすっかりスリッパのおじちゃんで定着しちまったみてーだ。本業を明かす訳にゃいかねーからそれでいいか。どうせこれっきりだ。
振り向かずに立ち去れたら恰好よかったが、誘惑に負けて一度だけチラッと振り返ったら、両手をぶん回して全身でバイバイするみーちゃんと深々と頭を下げる母親がいた。どちらの顔にも乾いた涙の跡があったが、並んで俺を見送る顔には吹っ切れた清々しさこそあれ、涙は一粒も見当たらなかった。

あの二人なら大丈夫だろう、きっと。

隣に硬質な靴音が並ぶ。わざわざ見なくてもわかる、駅構内を雑踏に乗じて並んで歩くのは俺の疫病神だ。
「手を振り返してあげないんですか?」
「そんなサービス精神持ち合わせてねーよ」
「こっぴどくやられましたねえ。目のとこ黒くなってますよ」
「るっせえ。付き纏うな」
「用が済んだ途端これですか。本当ツレないですね」
「お前といるとろくなことにならねえ。今日だって」
「今日はあなたが持ちこんだんでしょうに」
……ぐうのねもでねえ。
「これからどうします?」
「家に帰って寝る」
「医者に行かないんですか」
「めんどくせー。騒ぎ立てるような怪我じゃねーよ、唾つけときゃ治る」
「なるほど」
つと腕を引かれる。乱暴に振りほどかなかった理由は単純、痛いから。ただそれだけだ。
玉城に軽く肘を引っ張られ、大判のポスターを貼った人けのない柱の陰に連れ込まれる。
「なにす」
顔の横に手をつかれ柱におさえつけられる。薄く汗ばんだ鼻の頭がぶつかりあう距離に端正な顔が迫り、心臓がひとつ跳ねる。身もがいて抜け出すより早く、口をこじ開けてぬるつく舌が忍びこむ。切れた口の粘膜を舌の先端が好奇心逞しくまさぐる、傷に唾液がしみて痺れるような疼痛が走る、柱に背中がぶつかる、口を口で塞がれ息ができず酸欠の苦しみに喘ぐ。
「-かはっ、やめ、んっふぐ!」
人に見られたらどうする?真っ昼間っからサカってる二丁目のゲイカップルと誤解される?のしかかる玉城をひっぺがそうと必死に身をよじりギブアップを訴えるよう肩を叩く、生理的な涙が目に滲んで視界が淡くぼやける、ポスターの下品な原色と目の端を通り過ぎる雑踏の色とがぐちゃぐちゃに混ざり合って撹拌されて酸欠の苦しみと相乗して頭がボーッとする。
「はっ……」
肩を叩く拳から力が抜けてしおたれる。ディープキスはした事もされた事もある。当然女にだ。男は勝手が違う。
羽生が俺の口の中に溜まっていた血を唾液と一緒に吸いだす。
透明な糸を引いて唇が離れ、柱に背中を凭せたまま腰砕けにずりおちる。
「消毒です」
これ見よがしに取り出したハンカチを開き、薄く血の滲んだ唾を吐きだす。
俺の唾は汚くて呑み込めねえってか。……いや、そうじゃない。そうじゃねーだろ。何か言い返したいが頭が朦朧として働かない。相変わらず体は痛い、二本の足で立ってるのも辛い状態だ。
膝から崩れて今にも倒れ込みそうな俺をサディスティックに眺め、玉城がニヒルな笑みを刻む。
「煙草くさいですよ」
「お前はレモン味だ」
「さっきまで飴をなめてましたので」
「みーちゃんにあげた飴か」
「悪くない後味でしょう」
「あまったりぃのはお断りだ」
今度という今度こそ玉城を振り払い、無造作に顎を拭いがてら鞭打って歩きだせば、ひとの神経を逆なでする呑気な声が背中におっかぶさる。
「みーちゃんがあなたに懐いた理由知りたいですか?」
少し行きかけて振り返る。
何の皮肉か痴漢撲滅を訴える大判ポスターを背に佇んだ玉城が、自分の目尻に人さし指を添えてあっさり種をあかす。
「羽生さんが大好きな戦隊ヒーローのイエローに似てたからそうですよ。特にその泣きぼくろが」
そういえば、みーちゃんのスカジャンには日曜朝に放送してる戦隊ヒーローの肖像がプリントされていた。たいして気にも留めなかったが……
「この人なら絶対助けてくれると思ったんでしょうね」
「強くてカッコイイみんなの憧れのヒーローってか。お生憎さまだな」
現実の俺はケチなスリ師だ。
玉城におさえこまれて手も足もでない、おちょくられてもやられっぱなしの情けない男。子供に人気のヒーローにゃ縁遠い。
唇をひん曲げて自嘲する俺へと、ポケットに手をさしこんだ玉城が何かを放り投げる。   
「イエローならお笑い担当の三枚目でしょう」
玉城のコントロールは正確だ。
綺麗な放物線を描いたそれを反射的に手を伸ばしてキャッチすれば……
飴玉。
「ご褒美です」
「飴ちゃん一個が」
「不服なら口移しであげましょうか」
「断る。言ったろ、あまったりぃのは嫌いだって」
「喉に詰まらされても困りますからね」
なんとなく、どちらからともなく笑い合う。
今日はさんざんな一日だ。こうるさい迷子に振り回されて天敵におちょくられて殴る蹴るボロボロにされて、なのに妙に痛快だ。なるほど、俺の働きには飴玉一個分がお似合いかもしれない。その場で包装紙を開いて口にほうりこんだら、さっきの玉城の唇と同じほんのり甘酸っぱいレモンの味がして、ピリッと傷にしみた。
「羽生さん」
「んだよ」
顔をしかめて痛みをやりすごし、ガマンして飴玉をなめる。
雑踏を遮るように立ち止まった玉城が、コイツには珍しいはにかむような笑いを浮かべ、自分の手柄を自慢するように内緒めかして告げる。
「私ね、貴方のそういうところ、結構本気で好きですよ」



俺が飴を喉に詰まらせたのは言うまでもない。
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