少年プリズン

まさみ

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百十八話

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 「正直あんまり思い出したくないな」
 壁越しに声がする、と思ったのは勘違いで実際には壁の上方に設けられた通気口から漏れてくるのだと悟ったのはその時だ。壁際に位置したベッドの頭の方向、高い所に等間隔に鉄格子を嵌めた矩形の穴が開いてる。鍵屋崎の声はおそらく壁を挟んで左右対称に位置する通気口を伝って聞こえてくるのだ。
 「あんまり思い出したくないって年上の女に犯されたのか」
 「………」
 「図星?」
 「違う。一応合意の上だ」
 「一応?」
 ため息。聞き手、すなわち俺の飲み込みの悪さにうんざりしたのか、壁越しの鍵屋崎が捨て鉢な口調で続ける。
 「僕がはじめて性交渉を持った女性は父、即ち鍵屋崎優の研究室の助手を勤めていた24歳の才媛だった。名前は……どうでもいいな。プライバシーに配慮して伏せておくのが無難だろう。日常父の研究を手伝っていた関係で彼女はよく世田谷の家を訪れて必然的に僕と顔見知りになった。ある日、彼女と僕が書斎でふたりきりになった。父は大学の資料室に本を取りに行って不在、母は海外の大学に講演に招かれて一週間ばかり家を留守にしていた」
 「で、ふたりきりになったときに何かあったんだな」
 生唾を飲み下しぐっと身を乗り出したのはオスの本能故の行動だ。俄然食い付きがよくなった俺を壁越しに透視してるかのように鍵屋崎の声が冷えこむ。
 「日常的に父の論文執筆を手伝っていた僕は書斎に残り原稿を仕上げていた。パソコンの液晶画面に集中しててドアが開く音にも気付かなかった。背後に忍び寄る足音に気付いても顔は上げなかった、時間の無駄だからだ。論文執筆中に部外者に入室されるのは正直不愉快きわまりなかったが論文が山場にさしかかり集中力が頂点に達していたから無視してキーを打ち続けた。そうしたら後ろから首に腕を回された。それだけならべつにかまわない、鬱陶しいことこの上ないがキーを打つのさえ邪魔しなければ。振り払うのは一段落ついてからでいいだろうと楽観視してたんだ、潔癖症のこの僕が」
 鍵屋崎が自嘲的に笑う。
 「僕が何も言わなかったから図に乗ったんだろう、相手が断りもなくシャツのボタンを外して襟元をはだけてきた。さすがに一方的に素肌にさわられるのは抵抗があったし生理的嫌悪で耐え切れなかったから振り向いて言ったんだ」
 「なんて?」
 固唾を呑んで先を促した俺に一呼吸おき、鍵屋崎が言う。台本を棒読みしてるような熱のない口調で。
 「『ピルを服用してるか』」
 ………え?
 「ピルも知らないのか?世間知らずも度が過ぎてるぞ」
 「馬鹿にすんなよ、それくらい知ってるよ。中出ししても大丈夫な薬だろ、カプセルの」
 問題なのはそう、ここで問題にすべきはなんで脈絡もなく会話中にピルがでてくるかの一点だろ?今の会話のどこに前後の繋がりがあるんだ、意味不明だ。二十一世紀初頭に日本に入ってきたピルは解禁された当初こそ敬遠されたがそれから徐徐に浸透して行って今じゃ当たり前に女が服用してる時代だ。ビタミン剤を飲む感覚で、いや、生理の鎮痛剤を飲むのと同等の気安さで女がピルを服用するようになった現代だから鍵屋崎の質問はあながち的外れじゃない、のか?いや、大いに的外れだろう。書斎で椅子に腰掛けて論文執筆に没頭してる最中に誘惑してきた、全くの他人ではないにしてもさりとて親しくもない女にむかって投げかける第一声としては十分すぎるほどに不自然だ。
 なに考えてるんだコイツ。
 「相手が肯定したら話は早い。後は語るまでもないだろう」
 「待て待て大事なのはそっから先だろう?」
 自分勝手に話を終了させようとしている鍵屋崎にあわてて待ったをかける。というか何でコイツこんな冷静なんだ、初体験の話をしてるってのに興奮してる様子も全然ないし。まあ不感症なら仕方ないが。
 「まだ聞きたいのか?下世話だな」
 心底あきれたような声で嘆かれぐっと言葉に詰まる。そりゃ鍵屋崎の初体験に興味がないといったらうそになる、いつでも体温低そうな無表情のコイツが、男と女の情事を蟻の交尾と同じ位に考えてるコイツが初めて女と寝た時の話に下世話な好奇心がわかないといったら嘘になるが……それにしたってあんまりだろう、これは。
 「でも、寝たってことは女のこと憎からず思ってたんだろ」
 「いや全然。彼女自身にも彼女の性的嗜好にもまるで興味がなかった」
 「じゃあなんで?」
 「彼女自身にも彼女の性的嗜好にも全然興味はないが行為そのものには好奇心を刺激されたからな」
 早い話恋愛感情度外視で好奇心を優先したってことか?いかれてやがる完璧。
 「彼女がそんな目で僕を見てるなんて気付かなかった。まあ、彼女にしてみれば遊び半分で手をだすのにちょうどよかったんだろうな。僕なら性交渉を持ったところで上司の鍵屋崎に告げ口する心配もないだろうし妙な自己顕示欲にかられて周囲に吹聴するおそれもない。まさか十歳以上年の離れた僕を本気で恋愛対象と見てたわけじゃないだろう。あちらは遊び、僕は実験。お互い様だ。それに、」
 「それに?」
 「惠が家にいたからな。へたに騒がれて異変を気付かれる前に速やかに終わらせたほうがいいと判断したんだ、書斎で」
 あきれた。コイツ妹のことしか考えてないのか。途方もない疲労感に襲われて膝を抱えこみ、うんざりと警告してやる。
 「おまえいつか刺されるぞ」
 「刺されはしなかったが、ぶたれた」
 「?」
 「惰性で関係を続けていたが三回目で別れを切り出したらいきなり」
 「なにか頭に来るようなこと言ったんだろ」
 「僕はただ『これ以上貴女と関係を続けても得られるものは何もない、こんな非効率で不利益で肌を重ねる毎に不快感ばかりが募る無為な関係は白紙に戻したほうがお互いの為じゃないか?貴女と性交渉を持った時間を原稿用紙に換算すれば五十枚は論文が進んだはずなのに僕としたことが判断を誤った。一世一代の失態、人生最大の汚点だ。それで大至急ノーマン・マクベスの『ダーウィン再考』を取り寄せてほしいのだが、』と事実をありのままに端的に述べただけだ。ついでに資料を手配してもらおうと頼みかけて」
 開いた口がふさがらない。
 「………よく刺されなかったな」
 いくら遊び半分でちょっかいかけたとはいえ自分と寝たことを「一世一代の失態」だ「人生最大の汚点」だ言いたい放題言われたんじゃ黙ってられないだろう女心はよくわかる。いや、人間として当然の心理だ。鍵屋崎にはそのへんの機微わからないだろうけど、永遠に。「女性にぶたれたのは初めてだった。貴重な体験だった」とか妙にしみじみ言ってるのがその証拠だ、ほら。
 沈黙が落ちた。
 懐に抱いた膝に顔を伏せ、心の底に沈めていた本音を吐露する。
 「…………女抱きてーなあ」
 男に抱かれるまえにせめて女抱いときゃよかった。今度はしっかりと味わって女を抱いて絶対感触を忘れないようにしてそれを支えするんだ、メイファの時はあっというまに終わっちまったから気持ちいいというよりあっけない感の方が強かったし。目を閉じてメイファの裸を思い出そうとして途中からそれがお袋の背中とすりかわり動揺する。結局お袋に戻ってきちまうのか、俺がいちばん長く一緒に過ごした女の上に。あと何時間後かには男に犯られようって危機的状況なのに最後に思い出した女の映像が実のお袋の裸なんて嫌すぎる。こんなことなら娑婆にいる間にもっとたくさんの女とヤッときゃよかった。かぶりを振って嘆けば壁向こうからあきれた声がする。
 「女性に幻想を抱きすぎじゃないか?」
 「妹に妄想抱きすぎが口だすな」
 間髪いれず返せば鍵屋崎が憮然と押し黙る。頭のネジがまとめて外れたコイツでも妹をやばいほど溺愛してる自覚はあるのだろう。話のネタも尽き、重苦しい沈黙がふたたびやってくる。ベッドで膝を抱えて正面の壁ばかり見つめていると時間の感覚がおかしくなってくる。昨日一晩中泣いてたせいで瞼が重たい。寝不足が祟り、うつらうつらまどろんでいた俺の耳に流れこんできたのは念仏。
 ……念仏?
 「3.1415926535 8979323846 2643383279 5028841971」
 うとうと船を漕いでいたのに耳に侵入してきた数字の羅列のせいですっかり目が覚めちまった。抗議を兼ねて壁を叩き、怒鳴る。
 「いやがらせか、いやがらせなのか?ひとの耳元で意味不明な数字唱えるんじゃねえっ」
 「円周率だ。五千桁暗記してる」
 「……口寂しけりゃ歌でも唄ってろ」
 五千桁唱えられちゃたまらない。壁に背中を預けて崩れ落ちた俺の背後、束の間逡巡するような沈黙を挟んでから再開されたのは鼻歌。通気口からもれてきたのは俺が聞いたことない、いや、どこかで聞いたことがあるような郷愁かきたてる旋律。どこか哀愁をおびた旋律には三半規管を酔わせる不思議な魅力がある。
 鍵屋崎はレイジほど音痴じゃないらしい。それなりに上手い。
 「……なんだっけ、その歌」
 「ホテルカリフォルニア。百年以上前の古い歌だ。父がレコードを所蔵してた」
 大気に溶けこむように鼻歌が途切れる。背中越しに鍵屋崎の気配を感じる。ちょうど同じ姿勢で壁にもたれたのだろう鍵屋崎が茫洋とした目で天井を見上げてる光景がありありと目に浮かぶ。
 「……ネーミングセンスは最悪だが、レコードの趣味はそれほど悪くなかったな」
 だれのことを言ってるのか、なんて間抜けな質問はしなかった。親父のことに決まってる。鍵屋崎がなんで両親を殺したんだか知らないがだれにも言えない複雑な事情を抱えてるんだろう、きっと。両親を殺害したことを反省してるわけでも後悔してるわけでもないだろうが、そう呟いた声は殆ど起伏がないくせに妙に湿っぽく聞こえた。
 また、鼻歌が始まる。
 流暢な発音の英語の歌詞が哀愁おびた旋律に織りこまれて通気口からもれてくる。天井に満ちた音符が鼓膜に押し寄せるのを心地よく聞きながら急速に眠りに落ちてゆく。ちょっと低いトーンの歌声は鍵屋崎の声じゃないみたいだ、溺愛してる妹にもこんな風に子守歌を唄ってやってたのかと本人に聞いてみたいところだがダメだ、限界だ。
 そうして俺は瞼を閉じた。
 
 数時間後。
 壁際で膝を抱えた姿勢でぐっすり寝入ってた俺を起こしたのは、壁のむこうから聞こえてきた悲鳴だった。
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