少年プリズン

まさみ

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百五十話

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 巨大な廃工場。
 ひと昔前に閉鎖された廃工場の一階には埃を被った圧搾機が放置され、鉄骨の梁が幾何学的に交差した天井からは大振りのチェーンがたれていた。天井の近く、壁の高い位置に穿たれた窓は板で目張りされてるせいで昼でも全体に薄暗く、埃臭く陰湿な空気がよどんでいる。
 仄暗い空間を照らすのは板の隙間から射しこむわずかな明かり。
 高い位置に穿たれた窓。目張りされた板の隙間から仄かに射しこむ一条の光に薄く埃が舞うなか、静寂に溶けこむように工場の真ん中に佇むのは一人の少年。
 肉の薄い瞼を閉ざした双眸は長く優雅な睫毛で縁取られ、ノーブルに筋が通った鼻梁はさながら生ける彫刻。
 まるで豹のようだ。
 人よりは獣に近い。
 廃工場の中央、瞑想するかの如く瞼を下ろして黙していた少年がゆっくりと目を開ける。
 三十メートル先に並んだ空き瓶の数は二十本。
 左手でシャツの首元をまさぐり内側の金鎖を手繰り寄せる。射撃訓練前には欠かすことができないまじないめいた儀式。左手に絡めた金鎖の先端、金色に輝く十字架に軽くキスをする。
 祈る神様を持たない人間でも、誰かに祈りたくなるときはある。
 こんな風に。
 『終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい』
 廃工場の仄暗がりに甘くかすれた声が響く。
 それが合図だった。
 『そのときに人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者になり』
 引き金を引く指は止まらない。
 子供のように無邪気に、薄らと笑みさえ浮かべて銃を撃ちながら口ずさむのは聖書の一節。
 『情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり』
 機械的なまでの正確さと精密さ。
 銃弾の発射から瓶を撃ち抜くまでコンマ一秒の狂いもなく引き金を引き、聖書の一節を唱え続ける。
 『見えるところは敬虔であってもその実を否定する者になるからです』
 ここまで十本、全弾命中させることができたのは生まれ持った身体能力の高さと幼少期からの訓練の成果だ。そのことについて特に感慨はないが、血なまぐさい環境に磨かれた人殺しの才能に助けられ、14歳になる今日まで戦場で生きながらえてきたのもまた事実だ。
実際彼に備わっていたのは人殺しの才能としか言いようがない危険極まりない性向だった。
物心付いたときから身の周りにあるものはなんでも武器にするように叩き込まれた。
銃がなければナイフ、ナイフがなければフォーク、フォークがなければ缶きり。日常身の周りに溢れてる何の変哲もない日用品や雑貨も彼の手にかかれば容易に人を殺傷できる凶器へと変貌した。
 まだ試したことはないが、本の角で人を殺せる自負もある。
 『こういう人々を避けなさい。こういう人々の中には家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちはさまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるがいつになっても真理を知ることができない者たちです。また、こういう人々はちょうどヤンネとヤンブレがモーゼに逆らったように真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った信仰の失格者です』
 コーラの空き瓶を的にして射撃訓練を始めたのは確か七才の時だ。子供の小さな手には発砲時の反動は凄まじく、手首を捻挫しそうな衝撃におもわず銃を取り落とした記憶がある。
体が大きくなるとともに骨格が成長した今では連射の反動にもラクに耐えられるようになったが、無理矢理射撃訓練をやらされてた子供の頃はいやでいやでたまらなくてよく訓練をサボって抜け出してきた。しかしサボったはいいが同年代の遊び相手もなし、他にやることもなく暇を持て余して仕方なく聖書を読んだ。
彼の母親はフィリピン人のキリスト教徒で、普段肌身離さず身に付けてる十字架も母から貰ったものだ。
 人殺しの慰みに口ずさむ聖書の文句は、幼い頃、母親に読み聞かされるうちに自然と覚えてしまったものだ。
 『バチあたりめ』
 無意識に金鎖を手繰り、掌に乗せた十字架を見下ろしていた彼を我に返したのは男の声。
 声がした方に顔を向ければ、汚れた迷彩服を着た男が工場の壁に凭れ、ウォッカの瓶をあおっていた。
 『銃撃ちながら聖書の文句唱えるなよ』
 『仕方ないだろ、癖なんだよ』
 『キリストの怒りにふれるぜ。せめてさ、歌とか唄ったらどうだ』
 年の頃は三十代前半だろうか。
 お世辞にも美形とは言い難いが、精悍に日焼けした顔だちを一層魅力的に引き立てているのはスコールに洗われた空のようにカラッと晴れた青い目。
 壁に凭れかかった男が古い英語の歌を口ずさむ。少年が知らない、男の祖国の歌だ。
 『なんて歌?結構好きかも、それ』
 『レディ・ディことビリー・ホリディの「ストレンジ・フルーツ」』
 歌詞を真似て唄い出せば、気持ちよく歌を口ずさんでいた男がウォッカに咽る。
 『おま、おまえ音痴だなあ!なんだそれ、本当におなじ歌か。ソウル・ディーバに失礼だろ、謝れよ』
 『ああ?んなことねえよ、ちゃんと唄えてるじゃねえか』
 『耳腐ってんじゃねえか。それとも何か、生まれてくる前に悪魔にリズム感売り渡したのかよ』
 何か言い返そうと口を開きかけた少年が、その指摘にふと押し黙る。
 『―そうかも。悪魔にリズム感売り渡して人殺しの才能買ったんだよ、きっと』
 『射撃上手い奴はリズム感に恵まれてるって言うけどな』
 『迷信だろ』
 悪戯っぽく笑い、男の隣に並んでもたれかかる。
 男と並んで工場内を見渡す。目張りされた板の隙間から射した光が大気中に沈殿した埃をゆっくりかき回している幻想的な光景にそのまましばらく見入る。沈黙を破ったのは隣から聞こえてきたしゃっくりだ。
 『で、今度の標的はだれだ』
 残り少なくなったウォッカをちびちび舐めながらの質問にひょいと肩を竦めてみせる。
 『日本の政府高官』
 『Japan?』
 『Yes.米軍と癒着して裏で武器とかバンバン流してる政界の大物みたいでさ、今度こっちに来るんだって』
 『またなんだって戦争真っ只中のこの時期に』
 『知らねえ。ジブンとこの軍隊の視察が目的じゃないの?日本も米軍に協力して軍隊とか物資とか派遣してるし』
 『日本もなあ、憲法第九条があった頃はよかったんだけどなあ』 
 『なにそれ』
 『平和を愛して戦争を憎む法律』
 『ふーん。いい法律だ』
 『昔話だよ。二十一世紀始まって早々にイラク戦争だなんだゴタゴタあってじきに改正、もとい改悪されちまった。第二次ベトナム戦争はじまると同時にアメリカの尻馬乗ってばんばん軍隊とか物資送りこんできたろ。おかげで東南アジア圏の人間にゃおなじイエローモンキーの裏切り者って憎まれて唾吐きかけられる始末だ』
 『あんたがよく言う二十一世紀前半に道を踏み誤った国のひとつってわけ?』 
 『そういうことだ』
 『……なんかすげー他人事に聞こえんだけど、米軍ドロップアウトしてこっち側に逃げてきたやつが偉そうに言う資格ないよな』
 『しかたねえだろ、ほれた弱味だ。戦場で果たす運命の出会い、銃弾飛び交う死線上のロマンス!しかもだ、ほれた女が反政府ゲリラの一員とあっちゃサム・ペキンパーの映画みたいによくできた話だと思わねえか?さしずめ俺はジェームズ・コバーン』
 『なにひとりで酔ってんだよ、寒いんだよ三十路。誰だよサム・ペキンパーって。マイク・タイソンの知り合い?マイケル・ジョーダンの親戚?』
 『まあそのへんだ』
 そのへんてどのへんだよ、口には出さずに顔に不満を出す。マイケル・ジョーダンもマイク・タイソンも全部この男の口から聞いた名だ。特にこの男はマイケル・ジョーダンに心酔してた、百年以上前に活躍したバスケットプレーヤーの何にそんなに惹き付けられるのかと最初は醒めた気持ちもあったが男の口伝にマイケル・ジョーダンの凄さを聞くにつれどんどんのめりこんでいった。
よくよく考えれば見てきたようにマイケルの凄さを話す男も、過去に活躍したスポーツ選手を特集したテレビの映像や雑誌のスクラップでしか本人を知らないはずなのにと気付き、「騙された!」と我が身の不覚を呪ったものだ。
 まあ、彼がマイケル・ジョーダンに心酔していたのはファースト・ネームが同じだからという単純な理由だが。
 『どうやって近付くんだ?』
 ふざけた口調で転落の軌跡を物語っていた男がさりげなく話題を変える。何を言われてるのかすぐわかった、どうやって標的に取り入るのかと探りをいれてるのだ。隣のしゃっくりを聞きながら、床一面に散乱した瓶の破片を見下ろしてあくびする。
 『考え中。どうせ俺が考えなくても上の連中が考えてくれるし……ああ、体でたらしこむのもアリか』
 『本気か?その政治家って男だろ?』
 『冗談だよ。そりゃ俺は男でも女でもかまわないけど一応好みがあるんだぜ、万年発情期の犬を見るような軽蔑の目を向けるなよ』
 『……危険じゃねえのか、その仕事』
 『危険に決まってんじゃん』
 「いまさら何言ってんだ」とあきれて振り向けば、ウォッカを飲み干して瓶をからにした男がいつになく辛気くさく黙りこんでいた為、こういうしんみりした雰囲気に免疫がない少年は道化を演じきることに慣れたフリで朗らかに笑う。
 『マジになんなって、ガキの頃からやってきたんだから今回も大丈夫だって!やばくなったらパッと逃げてくるし殺られたりとっ捕まったりしねえから……あ、でもアジト吐かすために拷問されんのはやだなあ。俺好みの美女が足の裏に刷毛でハチミツ塗ってぺろぺろ舐めてくれるくすぐり拷問なら大歓迎なんだけど』
 乾いた笑い声が萎んでいく。瞳の真剣さが度合いを増す。
 『マイケル。マリアのこと、幸せにしろよ』
 懇願、ではなく命令。
 そうして男は口を開く、祖国の言葉で『憎悪』と名付けられた少年を安心させるために。

 『OK,My son』
 まかせとけ、息子よ。

 力強い答えを聞き、少年はホッと笑みを浮かべた。憑かれたように銃を撃っていた時からは想像もできないほどにあどけない、子供っぽい笑顔だった。『No』と言えば撃たれてたかもしれない、と不吉な考えが脳裏をかすめたのは男の口に目を凝らしてる間じゅうジーンズのポケットに手をかけてたのに気付いたからだ。おそらくは無意識の動作だろうが、あの褐色の手が目にもとまらぬ速さで銃を抜き取るところを想像して冷や汗をかいた。 
 銃がなければナイフ、ナイフがなければフォーク、フォークがなければ缶きり、缶きりがなければ本。
 連想ゲームの臨機応変さで身のまわりの品々を武器に変える少年にはなるほど『憎悪』の名が相応しいかもしれない。それでも男は余計な一言を言わずにはいられない、近い将来父親になる身として義理の息子が生まれついた宿命を嘆かずにはいられないのだ。
 『レイジなんて似合わねえ名前だ』
 『そうか?ぴったりだろ』
 進行方向の瓶を無造作に蹴りどけ、銃のグリップを握り締めて背中から鉄扉に寄りかかる。背中に体重をかければ錆びた軋り音をあげて鉄扉が開き、網膜を焦がす白熱の奔流が殺到する。
 外の眩しさに目を細め、左手で手庇を作り、その影で右手の銃を掲げる。
 『強姦されて孕んだガキにはさ』
 
 熱帯気候の青空の下、乾いた銃声が轟いた。

 そして、人が死んだ。30メートル先の茂みに潜み、少年を蜂の巣にしようとしていた米軍の兵士が。
 少年がシャツの内側から引っ張り出した十字架にキスをする。 
 『終わりに言います。主にあってその大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために神のすべての武具を身につけなさい』 
 銃がなければナイフ、ナイフがなければフォーク、フォークがなければ缶きり、缶きりがなければ本。
 たった今人ひとり屠ったばかりだというのに、恍惚の笑みさえ浮かべて呟く少年は確かにその通り、敵の策略に対して立ち向かうためにすべての武具を身につけた稀有なる存在だった。
 生まれ持った才能と素質を環境が研磨したら金剛石より強い光を放ちだすのは知れたこと……即ち無敵。
 開け放たれた鉄扉の外、逆光を背に十字架にキスする少年の姿を見詰め、マイケルはため息まじりに考えた。  
 やっぱりコイツには、Rageの名が相応しいかもしれない。
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