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第二話「様々な日々」/伊集院京介
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今日もまた、退屈でつまらない学校がやっと終わった。
毎日、同じことの繰り返し。
授業など本を読んで理解できなかった者の質問時間にでもすればよいのだ。
なぜいちいち言葉にして説明が必要なのだろうか? 文字を読んで理解できない話が、言葉として耳から入ってきて理解度が上がる理屈が分からない。
必要な科目は国語だけだと思う。
授業が終わり、俺は少しそんなことを考えた。
教室を出て、これからどうしようかと頭を切り替える。
昨日は図書室、今日は……、読みかけの本を自宅に置いてきてしまったのを思い出す。
「帰るか……」
校舎を出て校門をくぐる。これからの俺はいつものように小説の世界へと潜る。
これが俺にとって同じ日々の繰り返しではない証だった。様々な小説の数だけ、俺の中に様々な日々がある。
俺は伊集院 京介。どこにでもいる普通の高校二年生だ――と思っている。
ただし家庭環境は少し変わっているかもしれない。
父親は、俺が小学生の時にそれなりの大企業勤めを辞めて、会社を立ち上げた。
昔なら中小零細の零細企業だったが、今時はベンチャーなどと言い世間の通りは良いらしい。
俺は大学に入学してからその会社を手伝うように言われている。そして卒業後は正式に入社をせよとも言われていた。
よく小中高から大学までエスカレーターなどと揶揄されているが、俺の場合は自力で階段を上がって、それからは動く歩道やレールが待っているという感じだ。
別段そんな父親に反発はしていない。
会社を立ち上げたばかりの頃、必死に働き事業を軌道に載せた姿を見ていたし、尊敬している。そして何より俺の考えを尊重してくれている。
父の会社の仲間は、俺を幼い頃から可愛がってくれている、気の良いおっさんたちだ。
将来あの中に自分も入ると想像するのは悪くない。
自宅に帰りコーヒーを入れてから自室に引き籠もる。
ふと読むのではなくて、書いている作者はどのような感覚に襲われるのかと思った。やはり今を失うような、削られるような感覚を覚えるのだろうか?
そういえば時々図書室で一緒になる、いや同じクラスで前の席の西園寺は小説を書いていて、在籍している文芸部では活躍していると聞く。
読むのではなくて、書くとはどのような体験なのだろうか? 読む時間とは何が違うのか?
俺は現実でのどうしよもない時間を小説に没頭しているので、西園寺のような人間がどのように思っているのか少し興味が湧いた。
「そういえば――」
そういえば文学部にはホームページがあったと思い出す。入学当時にアクセスしていくつか作品を読んでいた。
机のノートパソコンを立ち上げて、コーヒーに口を付ける。
「――あった……」
昨年の過去作品の中に、西園寺の小説を見つけ、最初の数行を読む。
「ふーん、文学か……、一応」
それは昨年、一年生の頃に書かれた定例の発表文集の短編作品だった。
同じ年頃の女子高生が、季節の風景描写と共に描かれている。
雨の日には雨が主人公の感情として描かれ、晴れも風も突然の雷も、彼女の日常の出来事を伺わせていた。
天候描写の連続であるが、それは全てヒロイン心情の比喩として表現されている。
凄いな……。
ただそれだけの連続で作り上げられている恋愛ストーリーだった。
桜が咲く季節から始まり、夏の積乱雲がスコールを呼び、その後の快晴がラストシーンとなり物語は終った。
解らない……。
恋が成就したのか? それとも、相手をふっきれだけなのか漠然とした終わり方だった。
くそっ!
俺は再読するが、それでもどちらが正解なのかは解らなかった。
何だよ……。
作者には明確なゴールがあるが、読者には解らない小説。ラストは読者の考えに依存させる意図なのだ。
それも、おそらくは長編の比喩部分だけを抜き出して、短編小説としてまとめているように感じた。
こんな小説を書くのか!
「西園寺はこんな小説を書くのか……」
改めて思う。万年筆は伊達じゃない。本物の小説家志向だった。
これを中学の時に思いついて、高一で、たった一人でまとめたのか? いや、彼女の側には誰か助言している奴、大人がいると思った。
毎日、同じことの繰り返し。
授業など本を読んで理解できなかった者の質問時間にでもすればよいのだ。
なぜいちいち言葉にして説明が必要なのだろうか? 文字を読んで理解できない話が、言葉として耳から入ってきて理解度が上がる理屈が分からない。
必要な科目は国語だけだと思う。
授業が終わり、俺は少しそんなことを考えた。
教室を出て、これからどうしようかと頭を切り替える。
昨日は図書室、今日は……、読みかけの本を自宅に置いてきてしまったのを思い出す。
「帰るか……」
校舎を出て校門をくぐる。これからの俺はいつものように小説の世界へと潜る。
これが俺にとって同じ日々の繰り返しではない証だった。様々な小説の数だけ、俺の中に様々な日々がある。
俺は伊集院 京介。どこにでもいる普通の高校二年生だ――と思っている。
ただし家庭環境は少し変わっているかもしれない。
父親は、俺が小学生の時にそれなりの大企業勤めを辞めて、会社を立ち上げた。
昔なら中小零細の零細企業だったが、今時はベンチャーなどと言い世間の通りは良いらしい。
俺は大学に入学してからその会社を手伝うように言われている。そして卒業後は正式に入社をせよとも言われていた。
よく小中高から大学までエスカレーターなどと揶揄されているが、俺の場合は自力で階段を上がって、それからは動く歩道やレールが待っているという感じだ。
別段そんな父親に反発はしていない。
会社を立ち上げたばかりの頃、必死に働き事業を軌道に載せた姿を見ていたし、尊敬している。そして何より俺の考えを尊重してくれている。
父の会社の仲間は、俺を幼い頃から可愛がってくれている、気の良いおっさんたちだ。
将来あの中に自分も入ると想像するのは悪くない。
自宅に帰りコーヒーを入れてから自室に引き籠もる。
ふと読むのではなくて、書いている作者はどのような感覚に襲われるのかと思った。やはり今を失うような、削られるような感覚を覚えるのだろうか?
そういえば時々図書室で一緒になる、いや同じクラスで前の席の西園寺は小説を書いていて、在籍している文芸部では活躍していると聞く。
読むのではなくて、書くとはどのような体験なのだろうか? 読む時間とは何が違うのか?
俺は現実でのどうしよもない時間を小説に没頭しているので、西園寺のような人間がどのように思っているのか少し興味が湧いた。
「そういえば――」
そういえば文学部にはホームページがあったと思い出す。入学当時にアクセスしていくつか作品を読んでいた。
机のノートパソコンを立ち上げて、コーヒーに口を付ける。
「――あった……」
昨年の過去作品の中に、西園寺の小説を見つけ、最初の数行を読む。
「ふーん、文学か……、一応」
それは昨年、一年生の頃に書かれた定例の発表文集の短編作品だった。
同じ年頃の女子高生が、季節の風景描写と共に描かれている。
雨の日には雨が主人公の感情として描かれ、晴れも風も突然の雷も、彼女の日常の出来事を伺わせていた。
天候描写の連続であるが、それは全てヒロイン心情の比喩として表現されている。
凄いな……。
ただそれだけの連続で作り上げられている恋愛ストーリーだった。
桜が咲く季節から始まり、夏の積乱雲がスコールを呼び、その後の快晴がラストシーンとなり物語は終った。
解らない……。
恋が成就したのか? それとも、相手をふっきれだけなのか漠然とした終わり方だった。
くそっ!
俺は再読するが、それでもどちらが正解なのかは解らなかった。
何だよ……。
作者には明確なゴールがあるが、読者には解らない小説。ラストは読者の考えに依存させる意図なのだ。
それも、おそらくは長編の比喩部分だけを抜き出して、短編小説としてまとめているように感じた。
こんな小説を書くのか!
「西園寺はこんな小説を書くのか……」
改めて思う。万年筆は伊達じゃない。本物の小説家志向だった。
これを中学の時に思いついて、高一で、たった一人でまとめたのか? いや、彼女の側には誰か助言している奴、大人がいると思った。
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