イマジナリーライン

あずま

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今日も象が部屋にいる

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 感情のごみ箱が欲しかった。吐き出したらとりあえずは自分の中からなくなってくれるような、それでいてちゃんとごみとして形にできるような、ごみ箱が欲しかった。そうでないと、酢谷をごみ箱にしてしまうような自覚があったから。
 帰宅してすぐ自室へ向かい、充電器に差してある端末でTwitterを開き、その足で父の書斎へ入る。それが一年かけて成立させた、受験生の長い梅雨に差し掛かった夏生の日課だった。
 この二年で、父は週に一度すら家族の前に姿を表さなくなった。父の面影を感じるのは、火曜日の朝に書斎の卓上に置かれた、黒い袋だけ。毎週その中には五枚の映画が入っており、夏生はほぼ毎日それを観る。今日もその中から一本雑に抜き取り、レコーダーに押し込んだ。
 父のチョイスは、まぁセンスが良かった。ジャンルの偏りもないし、有名どころを押さえてくれるかと思えば、隠れた名作も挟んでくれる。明るい展開ばかりのものが五本並ぶこともないし、その逆もない。製作国の偏りだってないし、季節に合わせたチョイスをするセンスもあった。
 以前LINEでぽつりと呟くように送った、『映画監督になりたい』という夏生の言葉だって笑うことなく、インプットを増やそうとしてくれているのだろう。夏生の何倍もの映画を観てきた映画ファンとして、できることをやってくれている。それに対しては、当然感謝している。
 でも、これを父子のコミュニケーションとして捉えていて、満足した気になっているなら、一抹の腹立たしさが眉間に現れてしまうけれど。

 今日再生したのは、痛々しいほどの青春映画だった。再生し始めてから、見覚えのあるタイトルに気付く。よりによってこのタイミングで、と、思わず片手が額に伸びた。
 耳の奥で、聞こえるはずもない母の金切り声が聞こえる気がした。なぜ自分はこうも普通に生きられないのだろう。母を気の毒に思いながらも、母を穏便に過ごさせるには普通の枠に収まっていればいいのだと知っていながらも、洗脳のように酢谷のことを最優先に置いてしまう。
「あんた、こんなことして高校はどうするつもりなのよ。」母の地をなぞるような声は、未だ耳にへばりついたままだ。「教師に歯向かうなんて……せっかく一年生の頃の暴力沙汰に、目を瞑ってもらえるようになったのに。こんなんじゃあ推薦もしてもらえないじゃない……。」
 その声は、怒るや責めるというよりも、ただただぽつりぽつりと降って地面を湿らせていく、雨のような愚痴であった。それに対して傷付くわけでもなく、自分の心はそれに合わせてただ淡々と滲みをつくっていく。
「……認めないから。」数拍空けてひねり出された母さんの声は、今まで聞いた中で最も低かった。ばっとそちらを振り返ると、一片の光もない黒い三白眼が、冷たく重くこちらを睨んでいた。
「あいつと同じ高校なんて、なにがあっても行かせない。」決して鈍かったわけではないが、ここで疑惑が確信に変わった。同時に、目の奥が窄まり、意味もなく涙がこみ上げてきそうなのがわかる。母は夏生の、酢谷への並々ならぬ汚泥のような想いに気付いている。

 いつから、いつから気付いていたのだろうか。なんて、当の本人に訊かなければ答えなんてわかるはずもない疑問が、脳裏に浮かんだ。
 母は酢谷の母親を見下していた。でもそれは学歴や家柄なんていう、専業主婦なら全く意味をなさないステータスのせいだ。きっと酢谷自身は関係ない。
 本当に? 否定にふわりと猜疑が混じる。少なくとも、夏生たちがまだ幼稚園児のころは、母と酢谷の母親の間に交流はあった。母としては不本意だったかもしれないが、今みたいに誘われても断ったり、家の前で顔を合わせることすら嫌がったりするほどではなかったはずだ。
 酢谷の母親のステータスなんて、探りたがりの母なら最初から知っていただろう。同世代の隣人で、しかも同じ年の同じ月に同じ性別の子どもが産まれたんだ。なにかと交流しなきゃいけないことはわかる、それにあたって母が酢谷の母親のことを調べなかったわけがない。そういう人だ。
 じゃあどうして。あぁそうか。今まで目を背けていただけで、至極簡単な話だ。母が嫌っていたのは、学歴の低い酢谷の母親だけじゃあない。酢谷海里本人も嫌っていたのだ。

 幼稚園も小学校も同じだから、母も酢谷海里がどういう人間なのか知っている。それこそ母親同士の会話で知ることもあっただろうが、幼稚園児のころは登園も一緒だったこともあって素行なんかも目の当たりにしていた。夏生が毎朝、幼稚園児にしては異常なくらい身だしなみを整えていたことも。
 母の思い描く理想の息子製造計画にとって、酢谷海里の存在は邪魔だったのだろう。毎朝決まった時間に起きることもできない、忘れものも多い、毎朝身だしなみは整えられていないし、挨拶だってまともにできない。できることよりできないことを数えた方が早い酢谷は、母にとって息子の友人にふさわしくなかった。息子がそんなやつの世話係に興じていることも、不服だったのだろう。
 だから中学受験をさせた。遠い学校に通わせれば、少なくとも登下校は一緒にしなくなる。ほんの少しでも距離を置かせることができれば、時間は目ざとくそれを亀裂としてくれるだろう。青春なんてそんな脆いもの。ああ、そうだ。きっと母ならそう考える。
 でも夏生は中学受験を失敗させた。いつの間にか出願されていて、当日は搬送される荷物のように受験校の前まで送迎されたが、テストはすべて白紙で提出し、試験中は寝て過ごした。面接だってあったが、受けずに帰った。
 母さんは烈火のごとく怒り狂い、三日間は食事も用意されなかったが、そんなことはどうだってよかった。夏生は再三受けたくない、海里と同じ中学校に行くと意思表明していたし、それを聞いてくれなかった母にこそ落ち度があると思っていたから。
 それに、どんな高名な中学校でも、酢谷と一緒じゃないなら価値なんて皆無だった。「かお、ちょっと痩せた? 」三日間の断食によるちょっとした苦しみも、酢谷の心配そうな声があれば相殺された。風邪を引いたなんて詭弁で休んでいたし、受験をばっくれたことなんて酢谷が知るはずもなかったが、その表情にはなぜか少しの罪悪感すら感じられた気がしていた。
 言ったのかもしれない、とふと思う。ヒステリックな母のことだ。外面もいいから、他人に対して喚き散らすことはないだろうとも思うけれど、レンタルビデオ店という公共の場で脇目も振らず怒鳴り散らしていたこともある。きっと一定のラインを超えると、理性も吹っ飛んでしまう節があるのだろう。だからもしかしたら、中学受験という一大イベントを阻害された腹いせに、酢谷の母親に怒鳴り込んだのかもしれない。

 そう考えれば、あのときの酢谷の微妙な表情も説明がつく。でももしそうだったならば、なぜ酢谷は中学でも変わらず自分と幼なじみとして交流を続けていたんだ? 
 仮定が疑問になり、答えも見つからないまま目だけがスクリーンに浮かぶ物語を追う。一年前とはちがい、ちゃんと集中できていると思いながらも、意味もなく端末を掴んでいる右手をにぎにぎと握力で咀嚼した。

 一年前のあの日、決意したのは『自身の感情を文字として吐き出すこと』と 『映画監督になるという夢を叶えること』だった。元々薄らぼんやりと映画監督という職業への憧れはあったものの、将来の目標として歴然と指標を定めたのはあの日が初めてであった。
 というのも、撮りたくなったのだ。知識の薄い若造の戯れ言だと笑われてもいいが、夏生の目に映る映画とは芸術の皮を被った独善的な主張に他ならなかった。だからこそ惹かれた。だからこそ、自分も映画監督になりたいと思った。
 酢谷を感情のごみ箱にしたくなかったという理由もあるが、同時にどうせならその欲を形にさせてほしいと希ったのだ。欲とも言えるその独善を、映像という芸術に昇華するためには、まず自分の中の汚泥を形あるものにしなければならない。正直に言ってしまえば、方法は日記でもなんでもよかった。毎日毎日当然のように沸き起こる酢谷海里への慟哭めいた激情を、文字として可視化する機会が与えられるなら、どんな形だってよかった。
 そのツールとして最近流行っているSNSを選んだ理由としては、ただの好奇心に近い。一四〇字という限られた枠の中で訥々と壁に向かって語り続ける形態が、自分には向いているのではないかと、ふと、本当にただぼんやりと、思っただけにすぎない。
 まぁ一年も経てばその壁は物言わぬ一枚岩ではなく、人の顔をした有象無象になったのだが、夏生としては基本的になにを言われようともどうだってよかった。同性の幼なじみに恋慕を向けていることに対する批判や過度な共感も、そう、基本的には。
 だが今日のように、精神にダメージを受けたときはそうも言っていられない。だれに届くでもない息を吐きながら、右手に持つ端末の画面をちらりと確認する。「つらかったですね」「でも障壁を乗り越えてこその愛ですからね! 」「幼なじみBL尊い」「掘りたいの? 掘られたいの? 」。
 いつの間にか千人を超えたフォロワーは、口々に勝手なことを言う。相手のことを言えやしないが、向こうも生身の人間に言っている感覚はないのだろう。創作された物語に文句を言ったり、同情やそれらしいアドバイスをしたりすれば、主導権を握れるとでも思っているのかもしれない。
 普段ならそんな外野を見下し、やはり自分には酢谷しかいらないと思うはずなのに、こんな日は見下していた世界にずるずると引き込まれてしまう。まるで自分の感情は汚泥だという証明の裏付けのように、克明に否定を刻み込まれるのだ。

「ばかにするな。」痛々しい唸りは、口から出たものだったか、胸に押しとどめられていたものなのか。水に落ちたインクのシミのように、じわりじわりと痛みが広がっていくような感覚があった。
 ばかにするな、なんて。自分が言っていい言葉ではない。それはつい数時間前、いかつい表情の体育教師に言われた言葉だったから。そんな言葉を無意識になぞるなんて、ほんの少しでも罪悪感を覚えてしまっているようで嫌だった。自分がしたことは選択故の正義なのに、罪悪感がそれを否定しているようで、腹立たしかった。

 夏生からすればどこまでもくだらない理由で陸上部に入部した酢谷は、傍目に見ても昨年度まではうまくやっていた。陸上部の顧問は社会科の教師で、大会に対してもそんなに乗り気ではなく、普段の部活動もほとんど顔を出さないと有名だった。
 だからか、夏休みになると髪色が変わるタイプの奴とか、文化祭や運動会になるとやたら張り切るタイプの奴にも人気だったらしく。「陸上部は団体競技じゃないし、大会出場も個人の自由って方針なんだって! 一軍もたくさんいるし、運動できないのもあんまりバレないかも! 」一年生の四月、興奮気味にそう語ってきた酢谷の姿は未だ鮮明に記憶している。
 「一軍? なにそれ。」絶賛読書中だった夏生は、気だるげに訊き返した。「明るい、クラスの中心みたいな人だってば! 前も言ったろ? 運動部に多いんだよ。」二軍は文化部の明るい方で、一軍とも普通に話せるくらいには仲がいい人たち。そして三軍は、基本的に一軍とも二軍とも喋ってはいけない、教室の隅にいるような人たちらしい。
 へぇ。そんな生返事で返したのはもちろん、今も昔も、夏生はそんなことに全く興味が無かったからだ。そんな反応に酢谷は薄い唇を尖らせ、拗ねていたが、夏生が陸上部には入らないと告げた途端、表情を驚きの方へとシフトチェンジさせていた。
 「えっ! なんで!? 」酢谷には割と、こういう無意識な誘導がある。なんというか、こちらを期待させるようなことをさらっと言うのだ。このことに関しても、酢谷は『当然』夏生が酢谷と同じ部活に入るだろうと決めてかかっていたからこその言動だったのだろう。
 夏生は珍しく、じとりとした目で酢谷を一瞥すると、小さく息を吐いた。「別に。運動とか、だるいし。」

 嘘だった。それに、きっと嘘だということを酢谷は気付いていた。
 顧問のスタンスで成立している緩い部活なんて、顧問が代われば環境が変わる。そんなことは当たり前のことで、たぶん酢谷だって薄々勘づいてはいた。ただ酢谷は何かと考えなしだから、変なところで楽観視してしまったのだろう。『少なくとも三年間は代わらないだろう』なんて、考えていたのかもしれない。
 夏生が陸上部に入らなかったのは、母の精神状態を考えて、という理由もある。いくら幽霊部員になることを決めた上での入部と言えども、いかんせん夏生は比較的運動ができる。足だって速い。どういうきっかけで大会に出るように誘導されるかはわからないし、酢谷から大会に出た方がいいなんて言われたら、きっと自分は調子に乗って部活動に励んでしまうだろう。
 そうなったら、母が一人で家にいる時間が増えてしまう。当時から既に大分不安定だったのに、これ以上危ない橋は渡りたくはなかった。
 まぁ結局、酢谷と一緒に下校するために放課後は学校で時間を潰していたし、それを見かねた母に塾へ入れられるのだから、今となっては目的と本心がしっちゃかめっちゃかになっている感は否めないのだが。

 見ようとしなかっただけで、ずっと母が酢谷を敵対視していることには気付いていた。でもそれを見たら、理解したら、深く考えたら、夏生は酢谷と母を天秤にかけなくてはいけなくなる。それが嫌だった。
 嫌だった、はずなのに。自分からそれを目の当たりにする機会をつくってしまったのだ。

 「体罰だと思います。」今日の昼休み、職員室で夏生は教師に向かってそう言い放った。
 相手は今年赴任してきた数学教師。仕事熱心で、周囲からも一目置かれているようなタイプ。それだけならどうだってよかったのだが、そいつが今年から陸上部の顧問になったことが問題だった。
『顧問が変われば部活の雰囲気はがらりと変わる』。過去の夏生の予想通り、陸上部の雰囲気は一変した。幽霊部員も部活動への参加を強制され、それができないなら退部を余儀なくされたという。
 でもこの中学校は必ずどこかの部活に入部しなければいけない。そのせいで、今年になってから美術部の部員が激増したらしい。まぁ夏生は入学してから一度も参加していないから、知ったことではないのだが。
 さらに、部活動での指導はだいぶ厳しいらしい。前時代的ではあるが、なぜかその教師はいつも竹刀を持って校庭に現れる。陸上部の顧問なのになぜ竹刀? と思わなくはないが、気に入らないことがあるとそれでグラウンドを叩き、脅すらしい。
 さすがに竹刀で部員を叩いたり、手をあげたりすることはないらしいが、運動場での奴の怒鳴り声は教室にいても聞こえるレベルの大きさだったし、授業中も気に食わないことがあると教卓や黒板を強く殴っていた。

 そいつの主な標的が、酢谷だった。普段は明るいのに、ちょっと強気な態度を取れば怯んでみせる。そんな酢谷は正直、怒っていて楽しかったのだろう。
 夏生は知っていた。その教師が怒っている姿を見る度に、思っていたのだ。こいつは怒ることを楽しんでいるタイプの人間だと。
 宿題を忘れてきただけの生徒なんて数分の注意で済むだろうに、そいつは授業を中断してまで怒鳴り続け、むしろ終了のチャイムが鳴っても怒鳴り続けていることもあった。テスト返却の際も、点数が悪い生徒には中々返そうとせず、嘲るように高笑いしていた。その表情はどちらも悦に入っていると言うにふさわしい高揚があり、夏生はひどく気分を害していた。

 奴の人間性の片鱗は、転任当初から垣間見えていた。とにかく声が大きく、名前や容姿で生徒をいじる。そんな眉をひそめたくなる人間性は、始業式の挨拶から読み取れた。
 そんな奴が陸上部の顧問に赴任すると聞いて、酢谷は大丈夫だろうかと、夏生が心配になるのは当然のことだった。三年生になると塾は毎日通わなければいけなくなり、酢谷と下校をともにすることはほとんどなくなった。いや、原因という原因は、また別にあることくらい、夏生にだってわかっているのだが。
 それでもなお、登校は一緒にしていたが、酢谷が部活動のことについて不平不満を漏らすことはなかった。だから塾の授業のない日、本当ならば授業がない日も自習しに行くよう母に言われていたけども、もはや慣れた手つきで携帯電話の電源を切り、夏生は放課後学校に残っていた。

 放課後に窓から見下ろした光景は、想像通りというかなんというか。フォームがなっていないとか、やる気が見られないとかいうくだらない理由で怒鳴られ続け、酢谷は涙を堪えるためか、唇を噛んでいた。自分の足もとをじっと見つめ、奴の竹刀が音を立てる度、わかりやすく肩を竦ませてもいた。
 それでも、夏生がなにか行動を起こすことはしなかった。耐えたのだ。一年の頃と同じ轍を踏むほど馬鹿ではない。酢谷当人に助けを求められたわけでもないし、さすがに教師を相手にするのは分が悪すぎる。
 どうせ三年生の部活動なんて、夏には退部するし、それまで辛抱できないほど酢谷は弱くない。というか毎朝一緒に登校しているのだから、辛抱できなかったら頼る相手に夏生を選んでくれるくらいには、信用されているだろう。
 酢谷当人が助けを求める……まではいかなくても、愚痴をこぼすくらいしてくれれば、行動を起こすことができる。愛の名のもとに正当化される。なんて、ひどく短絡的な思考で耐え続けていたのだ。頼られたい、頼ってほしい。そうすればこの沸々とした苛立ちは、しっかり結果として形に収まってくれる。ただの八つ当たりにはならず、酢谷からの信頼を増幅させる一因になってくれる。
 そうすれば、そうなったならば。いつかきっと、お前は諦めて俺を選んでくれるはずだから。

 でも、酢谷は幼なじみを頼らなかった。酢谷も、耐えてしまった。
 毎朝、いつものように家の前まで迎えに行き、普通に挨拶を交わす。歩き始めて二三言会話を交えると、なにか言いたげに下唇を噛んで視線を泳がせる。でも、それだけ。夏生がその目を見ようと顔を覗けば、なにもなかったかのように顔を上げ、関係のない話に笑顔を見せる。
 そんなちっぽけで形にすらなってくれない信頼を、夏生の方からなかったことにできてしまえば、どんなに楽か。結局夏生は酢谷の屈託のない笑顔を見る度、何度も何度も、言い聞かせるように拳を握り締めることしかできなかった。

 そんな日々が終わりを告げるのは、想像よりもずっと呆気なくて。雨の匂いが色濃い五月の末の今日、夏生はいつも通りイライラした毎日を過ごしていた。
 窓から見下ろした先に見える、校庭周りを走る体操着姿の酢谷は、クラスメイトに対してにこにこと笑いかけていて。まだ半分以上残っているだろうに、汗を額にきらめかせ、夏生に見せる明るさと同じような笑顔をそこら辺の有象無象に振り撒いている幼なじみに、イライラしていた。
 あぁ、違う。自分に見せる笑顔と同じなんじゃあない。他に見せる笑顔と、同じものを見せているのだ。じゃあなんだ、俺はあいつらと同等の存在か? ずっとずっとそばにいて、小さな機微にも手を伸ばし、どんな言葉や挙動すら愛おしげに見つめてきた俺と、そいつらが同等なのか? なんで、早く俺を『選択』しろよ。
 苛立ちは、またもや授業を放棄して、嬉々と宿題を忘れてきた生徒に怒鳴り散らす、あの数学教師のせいでもある。あぁなんでよりによって、酢谷が笑っている姿を見れてしまう時間と、こいつの授業を受けるのが同じタイミングなのだ。なんで俺は、校庭が一望できてしまう席なんかに座ってこいつの授業を受けているんだ。
 だから言ってやった。進路とか、母がどう思うかとか、頭の端っこにすらなかった。ただイライラしていて、奴の怒声が脳の皺にへばりつき、酢谷の笑顔が汚く見えてならなかった。自分が望んだことなのに。今はまだ、心地いいだけの幼なじみでいたいと望んだのは夏生自身なのに、これ以上酢谷の顔を見ていたくはなかった。

 それでも、授業が終わるのを待つ余裕は夏生の中にもあったらしい。今回はチャイムで理性を取り戻したのか、満足したように息を吐いて教室を出る奴を追いかけ、廊下でその背中を呼び止めた。「体罰だと思います。」奴は振り返った。
「あ? あぁ、伊藤か……。」成績だけは優秀な夏生のことを、奴は覚えていたらしい。「運動ができないからと言って、ちょっとミスが多いからと言って、竹刀を振り回したり、怒声を浴びせたりしていい理由にはならないと思います。」流動的に、言葉が口から出てきた。まるで用意していた台詞のように、奇妙でなめらかだった。☆
「あ? 」教師の顔がゆがむ。本当の優等生ならば、こんなとき口にするのは、先程授業を説教で無駄にしたことに対する文句だったのだろうか。なんて、頭の片隅にあったようななかったようなことが、今更ちらつく。
 たしかに、それも苛立ちを助長させた一因だ。でもそれを口にしてしまっては、本末転倒になってしまう。俺は、俺の行動の起因はすべて、酢谷への恋愛感情でなくてはならないのだから。
「お前……なんのことを言っているんだ? 」「酢谷海里です、陸上部の。」間髪入れずに答える。自分の行動のすべてが、いつか酢谷の隣という幸せな永住権を得る理由になってくれるような、報われてくれという切なる思いが溢れているようで、我ながら気持ち悪かった。
「あ? お前ら、仲良かったのか? 」「幼なじみなんです。あいつ、ストレス抱えやすいんで、そういうのやめてください。」自分がこんなに用意周到だったなんて、知らなかった。どこかで練習でもしていたのか、なんて思うほど、奴の質問に対する答えがすらすら出てくる。まるで次に訊かれる質問すら、わかっているかのようだった。
「なんだ、酢谷に助けでも求められたんか? 」「いえ、俺の一存です。」奴が後頭部をぽりぽりと掻くだけで、無条件に汚いと感じた。汚いものを見たら、酢谷の笑顔を見たくなる。さっきと言っていることが変わるようだが、有象無象に見せる笑顔と同じでいいから、あいつの笑顔でこの目を浄化させてほしいと思った。あいつの笑顔の真ん中に位置するあの目に自分が映るだけで、全身が、心臓がじゃぶじゃぶと綺麗に洗われているような感覚がするのだ。

「は? なんだそりゃ。お前には関係ないだろ。」「関係なくないです。」揃えられていない奴の不格好な眉が、訝しげに歪む。「酢谷は運動できないんです。先生には理解できないかもしれないですけど、たくさん練習しても四段の跳び箱すら跳べなかったり、二重跳びすらできなかったりするやつもいるんです。」
「なに言ってんだぁ、お前? 」奴の声が、威圧的に響いた。「陸上部に入部したのは、酢谷の意思だろ。」唇の中の薄皮を、にじりと噛んだ。意味もないそんな行為が、不思議と頭を冴えさせる。「酢谷の意思ですが、別にあいつは運動したかったから陸上部に入ったわけじゃ……」「はあ!? 」
 ガンッ! と強く鈍い音と共に、奴の怒声が廊下に響く。その音が廊下の壁を蹴った音だと気付くのに、少し時間を要した。頭は冴えているはずなのに、奴の行動に対しては少し鈍いらしい。
「運動できなくてぇ! したくもなくてぇ! じゃあなんで陸上部に入ったんですかぁ? 」奴の煽るような威圧感のある下品な態度に対しても、夏生は静かに眉をひそめるだけだった。「はぁ、だるいなぁ……ほんと。」普段なら、こういう高圧的な態度を取れば、生徒はみんな怯んだのだろう。夏生の態度が気に食わなかったのか、奴は項垂れながらぽりぽりと後頭部を掻くと、わかりやすく舌打ちした。
「あのなぁ、こっちも仕事なんだよ。別に退部しちゃダメなんてひと言も言ってないし、こっちの指導が気に食わないなら辞めればいい。辞めないなら、顧問として指導する。当たり前だろうが。」「指導の仕方に問題があるという話をしているのですが。」早口にまくし立てる奴に対し、夏生はあくまでも淡々と問い詰めた。
「高圧的に怒鳴り散らし、指導には必要ない竹刀を不必要に振り回し、とても効果的だとは思えない練習で疲弊させる。精神的に負荷をかけるだけで、部員の成長に繋がっているとは思えません。」周囲の視線がチラチラとうるさく、煩わしかった。それらはまるでもっと言えと言わんばかりに期待に満ち満ちているようだったが、夏生からしたら天井の古びた蛍光灯と何ら変わりなかった。
 夏生が欲しいのは、今も昔もずっとずっと、暗く甘い飴玉を携えた、朝焼けの太陽の光だけだった。たとえその太陽が自分以外をも同じ光で照らしたとしても、最後の最後には夏生ひとりの傍で輝いてくれるのならば、我慢できる、我慢してみせる。そのためにも、守り続けなくてはならないのだ。約束したのだから。

 そんなメッキのような覚悟も、奴の下卑た声でいとも容易く形が揺らぐ。奴は夏生の長台詞に、ぽかんと目と口を見開いたかと思うと、嘲笑の表情をなぞるように目を細め、口角をいやらしく上げた。
「……あぁ、なるほどなァ? 」その声だけで、身体が硬直する。言われる言葉が想像できてしまう、自分の防衛本能が憎らしい。「お前、頭おかしいんだな。」ご丁寧に距離を詰め、周囲からは聞こえないような小声で、喉を奥で笑いながら言った。
「陸上部に所属しているわけでもない、運動も勉強もできる優等生が、まさかこんなにも頭のネジぶっ飛んでるとはなァ……? 」目の奥が意味もなくヒリヒリと痛む。当然見えているわけではないが、充血しているのではないかとすら思った。言葉に潜む棘の数は違うはずなのに、なぜかあの日の父を思い出した。

 口が動かなかった。否定しなければ、優等生として体罰教師を見過ごせなかっただけだと、言葉にしなければ。ついさっきまで、自分の行動原理は全て酢谷への愛でなければいけないなんて覚悟を決めていたくせに、口を動かそうとしていたのはただ一色の保身であった。思えば思うほど、口唇を動かさなければならないと喉に力を入れれば入れるほど、異様なほどに食道で痰が絡まるのがわかった。
 周囲の蛍光灯がチカチカと鈍くこちらを照らす。まずい、と思った。苦々しい人工灯の中に、恋い焦がれて止まない自然光が近付く気配がしたのだ。我ながら、吐き気がするほど気持ち悪い。幼なじみのテレパシーだとか、長年の付き合いだからわかる気配なんていう小綺麗なものじゃない。なんで、どうしてこんなにも、コントロールできないところまでこじらせてしまったのだろう。
 口に浮かんだのは、嘲笑だった。頭の中は必死に逡巡を走らせていたのに、表情筋を操ったのは自嘲という暗い感情一色であった。
 思い起こされるのは、いつだったかの、まばたきを忘れていた酢谷の顔。近付く幼なじみの顔に、動揺と諦観と受容を滲ませた、どこまでも悲しく愛おしい顔。あれはだめだ、あいつに安心以外の感情を抱かせるのは、もっともっと先でいい。それが計画であり、それ以外は計画にそぐわないことなのだ。
 嘲笑の奥で、自身にそう言い聞かせれば、不思議と周囲の音が静まり返る感覚に陥った。今思えば、夏生が取った行動は愚行以外のなにものでもないのだが、妙に頭が冴え渡っているかのような感覚だったあのときは、自分の行動が正しいと信じて疑わなかったのだ。

 周囲から、驚いたような、息を呑んだような声が上がる。きゃあ、だか、あっ、だか。咄嗟のことに対応もできなかったらしいクソ教師は、こうして至近距離で見ると身長もそう変わらなかった。
 上書きされろ、と願うばかりだった。形のない願いばかりが先行し、ただただ意味もなく奴のよれたシャツを掴む手に力を込める。わかりたくもないのに、変に距離が近いせいで、奴の息が詰まるのがわかった。だがそんな汚い音よりも、夏生の耳が拾ったのは聴き慣れた呼称。
「かお……、? 」震えよりも、動揺が勝つ弱々しい声。ちらりとそちらを見れば、大衆の最前列に、着替えを終えたらしい酢谷が大きい目をいつもよりも大きく開いて、こちらを見ていた。その胸には体操着が入っているであろう袋を両手で庇うように抱えており、浅ましい思春期の欲が夏生の喉をごくりと鳴らしたのを、覚えている。
 果たしてあのとき、俺はまるで『幼なじみが来たことに今気付いた』みたいな表情が、できていたのだろうか。できていなければ困る。少なくとも今の酢谷が、俺の感情を知ってはいけないのだから。

 酢谷への感情を正解だと裏付けるために行動の全てを選択し、酢谷がいつか一緒に地獄を歩む決意を下すために計画を練る。でも、じゃあ、いつかっていつだ。そんな未来、本当にあるのか?
 ふとそんな迷いが浮かんだのは、酢谷の呼称があまりにもか弱かったからだろうか。

 あのとき、咄嗟に奴の胸ぐらを掴んだのは、一連を見ていた奴らの中の記憶を上書きしなくてはならないと思ったからだ。盗み聞きしただけの大衆が、奴への苦言のどの部分を吹聴するかわからない。伊藤夏生は酢谷海里のことが好きなのかもしれないなんて噂が流れるくらいなら、伊藤夏生は教師の胸ぐらを掴むような暴力性を持つ人間だと思われた方が、よっぽどマシだった。
 でも今思えば、あの行動は夏生が奴の胸ぐらを掴むほど感情を揺さぶられたことを裏付けてもいる。それはつまり、夏生の激情が友情や親愛を飛び越えた先にあるものだと、立証してしまったようなものだろう。
 がり、がりり。携帯を持っていない方の手が、持っている方の腕を引っ掻く。何度も何度も、痕ができてもなお、繰り返し引っ掻き続けた。スクリーンの映画はもうエンドロールに入っており、夏生の視界はただ無常に天井を映し続ける。
 つまらねぇ映画。だれがこんなもの観たがるんだ。自嘲に笑いながら、右手の指は何度も左手の腕を往復した。若干筋肉のついた腕は、少々引っ掻きにくかった。

「つまり自分がイライラしたから起こした問題行動を、愛の名のもとに正当化してるってこと? 」さっき目にしてしまった自分への返信が、しつこく視界に入ってくる。「自分の中にある感情だからって、見返りを求めてる時点で幼なじみくん巻き込んでるのにな。」黙れ、黙れ、黙れよ。
 外野のくせに、俺の感情を笑うばかりで、いつか生まれうる傑作の材料にもなりゃしねぇ。「なんか、ここまでくると哀れだよね……。」お前らの方が下なんだよ。同性だとかいうつまらない理由で、画面の向こうにいる文字だけの相手だからという理由で、差別と好奇で照らし上げるくせに。
「この人、自分は論理的な人間ですみたいなツラしてるけど、言い訳に言い訳を重ねて自分の行動を正当化してるだけじゃん。」「幼なじみくん可哀想~……。」「なんか、これだけ必死に顔真っ赤にして言い訳繰り返してると、自分で自分の感情が間違いだって認めてるみたいだよね。」うるさい、お前らなんか、映画だったら映りもしないモブ共なくせに。……もっとも、こんな汚い感情に塗れた主人公が映り込む映画なんて、つまらなくて観れたもんじゃないが。
 がしがしと掻き続けていた腕から、小さく赤い血が浮かぶ。見てはいないが、感覚でわかった。そんなにも掻いてしまっていたのか。そんなにも俺は、自分がゆるせないのか。

 違う、俺の感情は正しい。だって『選択こそ善』なんだろう? 善ってことは正しいってことだ、ヒーローだって最後は絶対に勝つ。選択してこそ善性が宿る。選べなくて支配された道に善はなく、正しくない。選択したものは正しいのだ、絶対。何度も言い聞かせては、あの瞬間に浮かんだ迷いをかき消した。
 俺は酢谷海里を選択した。恋慕という感情を選択した。ずっと傍にいたから庇護欲を履き違えたわけじゃあない。もしそうだとしたのならあの日、自身の体操着に対しての奇行を止められなかったはずだ。情欲じゃなくて選択した正しい感情だからこそ、自分をコントロールできたんだ。俺は正しく酢谷という人間に恋い焦がれ、正しく今の道を選んだ。だから外野の声なんて、ただの雑音だ、そうに決まっている。きっとそう遠くない未来、俺は酢谷の隣で笑ってこんな過去を一蹴するんだ、絶対。

 喉が痛かった。目の奥が痺れてきた。もうスクリーンから音の音は止んでいた。
 本当に、本当にすべてが正解だったなら、どうしてこんなに苦しいんだ。どうして酢谷は俺を頼りもせず、否定も肯定もせず、純粋無垢に飼い殺し続けるんだ。俺を恋という地獄へ突き落としたくせに。いや違う、その思考がだめなんだ、俺は自ら選択して酢谷海里という地獄を選んだんだ、だからいつかきっと酢谷は俺の手を取ってくれて、それがハッピーエンドで。答えの見えない真っ暗闇の迷路みたいな場所で、ぐるぐるとおぼつかない足取りで歩き続ける毎日には、もうとっくに疲れていた。
「……くそったれ。」地を這うような、低い声が喉を震わせる。いつの間にか掻く手は止まっていた。
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