イマジナリーライン

あずま

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今日も象が部屋にいる

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 愛だろうが優しさだろうが、沈殿した感情は全て汚泥である。

「おはよ、かお! 」酢谷海里の笑顔は、いつもと変わらなかった。あっけらかんと渇いた笑顔で、朝日のように伊藤夏生の目を照らす。それは昨日の今日でも変わらず、もはや誰にでも見せるようになってしまったその笑顔に、夏生はまた自身の恋心を重く深く自覚した。
 バチバチと強い雨が傘を殴り続けても、酢谷の笑顔の輝きが失われることはない。ふにゃり、とかいうふざけた効果音が似合うようなその笑顔は、夏生にとってむしろこの雨よりも攻撃的ですらあった。
「かお、今日も塾? 」一年の大半を厚い雨雲が空を隠すこの地域では、こんな強い雨もそう珍しくはない。鈍臭いとからかわれがちな酢谷も、慣れた足取りで水溜まりのないアスファルトをぴょんぴょんと飛び跳ねるみたいに、夏生の前を歩いていた。
「うん、自習だけどな。」今日は塾の授業がない曜日。それでもわざわざ自習しに行かなければならないのは面倒なことこの上ないが、夏生自身、勉強自体は嫌いではないため、苦痛ではなかった。
 勉強はいい。理解できないことも学べば理解できるようになっているし、間違えた問題も、構造を理解したり何度も繰り返し解いたりすれば、同じ轍を踏まなくなる。なによりも、正解というものが存在する。なにが正解かもわからず、想っても想っても見合った報酬が返ってこない人間の感情なんかよりも、よっぽど誠実だ。
 正解ばかりを追い求め、考えて考えて考え抜くことでようやっと自分の立つ場所が定められる。そんな不安定な自信家である夏生にとって、勉強は明瞭で心地よくすらあったのである。
「うへぇ、毎日大変だぁ……。」もっとも、酢谷にはそんな感情、到底理解できないようだが。正直に言うと、夏生が勉強を重ねる理由は他にもある。酢谷に褒められたいというのはもちろん、酢谷の柔らかい感情にも滲み入るような、そんな言葉を探し続けているから。
 そんなおぞましいほどにいじらしい感情を知らない酢谷は、わかりやすく顔をしかめると、お約束のようにばしゃん! と音を立てて水溜まりに両足を突っ込んだ。慣れた足取りと言えども、やはり酢谷海里という男の注意力のなさは侮れない。
「あ。」数拍遅れ、酢谷の声が気まずく響く。水溜まりでずくずくとズボンの裾まで滲みが侵食しているというのに、未だ自身の状況が把握しきれていないのか、酢谷は水溜まりから足をあげず、硬直したように立ちすくむ。
 そのまた数秒後、酢谷は水溜まりから足を退かすでもなく、ゆっくりと錆びついた機械人形のように首を後ろへ回すと、「……へへっ、」無理やり笑顔をつくって見せた。

 夏生からしたら、そんなことは慣れっこだった。溜め息を吐くこともなく、でも少々の呆れを滲ませて柔らかく破顔すると、夏生は酢谷との距離を詰め、傾いたまま酢谷の頭上を守らない傘の角度を治す。「とりあえず、出ろよ。」
 意識するまでもなく口から出る柔らかい声は、紛れもなく酢谷相手にしか見せないものであった。呼応するように、固まっていた酢谷の表情もふにゃりと溶け、一瞬の躊躇もなく、その手は夏生の肘のあたりを掴んだ。
 お互い、それが当然のことであるかのように、夏生は両足に力を入れて踏ん張り、酢谷はその体幹を信じて水溜まりから踏み出した。「あぁ……靴ん中までびしょびしょ……。」「だろうな。」

 言ったことはないが、海里はこういう、夏生の困ったように下がる眉がたまらなく好きだった。怒るでもない、呆れて溜め息を吐くでもない、ただただ甘く、愛おしいものを見るためだけに動くその眉の形が、見蕩れるほどに好きだった。

「……なに。」酢谷の視線に気付いたのか、やや不機嫌そうに夏生が言う。雨足はなおも強くなり、バチバチと攻撃的に薄いビニール傘へ強く身を投げ打っているが、当人たちにとってそんなことはどうだってよかった。この時間が永遠に続けばいい、と海里は思い、きっと永遠に続くのだろう、と夏生は思っていた。
「べっつにぃ? 」感謝の言葉も要らず、手を振り払われることもない。ただ、ちょっとバランスを崩してどちらかが前に身体を倒しでもしたならば、互いの表情が硬直してしまうだろうというような。安心感の上に成り立つ、やじろべえのような不安定な関係性が、ひどく心地よかった。
 未だ降り止まぬ雨の奥に、柔らかい陽の光が眠っている。「やべ、遅刻する。」夏生の腕から手を離さないまま、濡れた靴でぐちゅぐちゅと地面を踏みしめながら、酢谷は体勢を立て直す。「濡れるって。」
 ふたつのことを同時にできないこの男に、夏生はまた眉を柔らかく曲げながら、また傾いた酢谷の傘を、彼の頭を守れる位置に戻した。その間、当然夏生は、酢谷に掴まれている左手を微動だにさせない。
 酢谷に掴まれた先にある、夏生の左手の平が持つ傘が役目を放棄し、自身の肩を雨が侵食しようとも、夏生の左手の意識が酢谷の重心を支えている肘以外に向くことはない。「かおも濡れてるじゃん。」それは酢谷に対しても言えることなのか。酢谷はけらけらと笑いながら夏生の肩に目をやり、ようやく夏生の肘から離した右手で、夏生の濡れた肩に触れた。
 傘の角度を治すわけでもなく、ただ肩を撫でるように触れるだけ。それだけの行為で濡れた肩が乾くはずもないのに、酢谷は繰り返し、肩を撫でる手を往復させた。なに。訝しげな夏生の声が、暴力的な雨音に掻き消される。
 夏生の声が聞こえたのか聞こえなかったのか。酢谷は甘く緩い生返事だけを喉に溜め、なおも濡れる夏生の左肩を撫で続けた。曲線とも直線とも言えない結び方をされた酢谷の薄い唇はなかなか開かず、焦れるように雨足が強くなる。
「かお、おれ、」雨に掻き消された時間を取り戻すかのように、なにか意を決したらしい酢谷は、やや早口で言いかけるが、またすぐに口を噤んだ。雨よりも、梅雨の持つ湿度よりも湿った、夏生のじとりと濡れた視線に絡み取られてしまえば、この弱々しい少年がそれに抗うなんてことはできようはずもなかった。

「酢谷、遅刻する。」自身がどんな目で幼馴染を見ているかなんて、この男は自覚しているようで、露も知らない。幼なじみというぬるま湯に浸かり続けて、考える余裕や能力すら奪ってしまおうと狡猾なことを考えていながら、自分の一挙手一投足がどう見ても幼なじみのそれではないことを、理解できてはいないのだ。
 伊藤夏生の感情に触れたすべての人間が、それは幼なじみの域を出ていると断言したとしても、当の本人が気付かなければいい、自分はちゃんと隠し切れていると、本気で思い込んでいるのだ。
「まだ大丈夫。」「大丈夫じゃねぇよ。これ以上濡れたら風邪引くだろ。」自分を器用だと思い込んでいる不器用な人間ほど、愚かなものはいない。素直に心配すら口にできない長身の幼なじみに対し、必然的な上目遣いをかましながら、酢谷はわかりやすくむくれた。
「おれバカだから、風邪引かねぇよ。」「馬鹿は風邪引いたことにも気付かねぇだけで、雨に濡れまくって身体冷やしたら、馬鹿でも風邪引くんだよ。」ほら。また傾いてきていた酢谷の傘の角度をぶっきらぼうな声とともに治しながら、夏生は自分の傘の角度もゆるりと修正した。濡れ続ける自分の肩のためではない。もはや掴まるためか、撫でるためかはわからないが、未だに夏生の肩を撫で続ける酢谷の右手のためだ。

「かお。」海里の口から、またひらがながこぼれ落ちる。肩を撫でるのではなく、傘が落ちるのも雨に濡れるのも気にせずに、夏生の節くれだった手を握ればいいのだろうか。喉よりも心臓よりも、もっともっと奥深くで、海里はふんわりじんわりとそんなことを思ったが、それを行動に移すには、あまりにも雨が邪魔だった。

「なに。」肩を撫でる手を振りほどくことも、背を向けて先を歩くこともしない。ほどけないほど強固に絡まっていて、原型がわからないほど歪んでしまっていて、名前のつけようもないこの関係は、お互いにとってたしかな永遠であった。
「……ん。」撫でていた夏生の肩を、軽くぽんぽんと叩くと、酢谷は濡れた足に力を込めて夏生の頬に触れた。と言っても、比較的柔らかい手のひらで触れたのではない。酢谷は指の関節をぐりぐりと夏生の左頬に押し付けた。子ども体温とからかわれがちな酢谷の薄桃色の肌の中でも、指の関節は特に濃い血色に染まっており、その行為はまるで自身の体温を分け合うようであった。
 酢谷当人がそれを意識したのかはわからないが、夏生は鬱陶しげに、それでいて身体をねじったり制止の声をあげたりすることはなく、「……なんだよ。」ただ軽く顔をしかめるだけで、大人しくその行動を受け入れた。
「んん? ……んひひっ! 」それに気を良くしたのか、酢谷が独特な笑い声をあげる。「いつもありがとなぁ。」あどけない笑い声の後に続いたのは、ぞっとするほど儚くて蕩けるような声だった。

 思わず夏生の目は見開かれ、酢谷の表情を視認するが、そこにはただ夏生がなによりも好きな、太陽が溶けたような笑顔があるだけで。夏生は三白眼の瞳孔を細め、胸焼けに似た感情を覚えながら、空いた右手のひらで酢谷の右手首を優しく包み、自身の頬から離した。
「兄ちゃん、だからな。」そう、兄ちゃんだから。正当化で足場を固めてきた夏生が出した答えがこれだ。腹からひねり出すように、切なる声で夏生が頬をゆるめれば、酢谷は大人しく右手を下ろした。

 にいちゃん。声にはせず、口の動きだけで、海里はその単語を追う。にいちゃん、にいちゃん。同い年で、一ヶ月だけ遅く生まれた、大事な大事な幼なじみが、自分より高い場所から甘く、そう宣言する。
 そんな歪な姿に対して覚えたこの感情は、なんだったのだろうか。雨音に紛れて生まれた淡い疑問も、海里はいつも通り、水溜まりと一緒に強く踏みつけた。
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