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後編・肌をあわせて
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「津田!!」
背後から声をかけられ、振り向くと、赤い軽自動車の運転席から荻野が顔を出していた。
「馬鹿。傘もささずに……。とにかく乗れよ」
そう言って、荻野は由佳子を助手席に乗せた。
「どうしたんだ、一体」
その荻野の問いに由佳子は答えない。
まるで、由佳子は意思のないお人形のように蒼白な顔をしていた。
由佳子に何があったのか……
ただ、只事ではないことだけは荻野にもわかる。
何を考えたか、荻野は車をとりあえず発進させた。
◇◆◇
「入って」
荻野は部屋の明かりをつけ、由佳子を中へと誘った。
「とりあえず、着替えろよ。俺のパジャマを貸すから。ああ、その前に風呂に入れ。体が冷え切ってるだろ。暖めた方がいい」
そう言って、荻野は半ば強引に由佳子をバスルームへと放り込んだ。
由佳子は、狭いバスルームの中で一瞬、どうしよう、と惑ったが、何しろ体が冷えている。
抵抗はあったが、思い切って服を脱ぎ、隅に畳んで置くと、熱いシャワーを浴びることにした。
ザーザーと水音が響く。
由佳子の長い髪の先が濡れる。
躰を伝う雫はまるで自分の涙のようだと由佳子は思い、また泣けてくる。
シャワーの音に紛れて、由佳子は嗚咽を漏らす。
泣いても、泣いても、涙は尽きることがなさそうで、由佳子は途方に暮れた。
シャワーを浴びながら、由佳子はひとしきりいつまでも泣いた。
「ああ。あがったか。パジャマも一応着れるな」
由佳子が風呂から上がってきて、荻野が用意した男物のパジャマにちゃんと着替え、部屋の隅にいる。
「そんなところに立ってないで、炬燵に入れよ」
荻野は、言った。
由佳子は無言のまま荻野の言う通りにしたが、炬燵に入るとやはり俯き、涙を流し始めた。
「津田……」
荻野は呟くと、由佳子を抱き寄せた。
瞬間、びくりと体を震わせた由佳子だが、抵抗もせず、荻野の胸の中で泣き続ける。
荻野は、不意に由佳子に口づけた。
びっくりしたように、由佳子は目を見開いたが、やはり抵抗はしなかった。
荻野君……どうして……
そんな想いが一瞬、過ぎったが、今の由佳子にはどうでもいいことだった。
「津田……好きだ」
荻野は呟いて、由佳子を床へと押し倒した。
今から何が始まるか、由佳子は知っている。
それは、晃輝と何度も繰り返してきたことだ。
ただ、由佳子はその途中までの道程しか知らない。
それだけのことだ。
けれど、その時。
由佳子は、この先に何が待っているのか見てみたい気がした。
晃輝と二人では共有できなかったこと。
どうしても突き進むことができなかった道。
その先に待っている風景がどんなものか、由佳子は今、知りたいと思う。
由佳子は、震える自分を意識しながらも荻野に身を任せた。
◇◆◇
「津田」
由佳子に腕枕を貸しながら、荻野が言った。
「何を考えてる」
由佳子は暫く黙っていたが、ぽつんと言った。
「こんなに簡単なことだったのね……」
意外なほどすんなりと、由佳子は荻野に抱かれた。
それは、荻野も由佳子自身も不思議なほどだった。
「何があんなに怖かったのかしら……」
晃輝に触れられるだけで涙ぐんでいた自分。
なのに、荻野には素直に抱かれた。
怖くなかったわけではない。
ただ、荻野に体の隅まで触れられても不思議に嫌ではなかった。
恥ずかしさや躊躇いがなかったわけでもない。
けれど、言うなれば「構え」がなかったように思う。それは、意外なほど「自然体」だった。
思えば、荻野とは普段から音楽のことで、率直にディスカッションする仲だ。
一方、晃輝といる時は好きなあまり嫌われないようにと、いつもどこかで緊張していたように思う。
その差異がこういう形で現れたのかもしれない。
由佳子にはわからないが、しかし、海が凪いでいるように、不思議とすっきりとした気分を今、感じていた。
まるで、胸につかえていた異物が取り除かれたかのように、それは清々しいともいえる胸の心地だった。
「津田」
荻野は、由佳子を胸にかき抱いた。
「俺とつきあえよ」
「え……?」
「俺は、いい加減な気持ちじゃない。ずっと前から、お前のことが好きだった」
由佳子は、荻野を見つめる。
荻野のまなざしは、痛いほど真剣だった。
「荻野君……」
荻野の由佳子を想う真摯な気持ちは、由佳子にも伝わってくる。
由佳子を抱いている時、荻野は終始、由佳子の躰を気遣ってくれていた。
それは、言わば強引に由佳子を抱こうとしていた晃輝とは対照的だったと言って良い。
でも、私は……
晃輝を忘れられるだろうか。
あれほど好きだった、生まれて初めて好きになった人だ。
私は、荻野君のことを……
由佳子はきゅっと口唇を噛みしめた。
「私は……。晃輝さんのことが忘れられないかもしれない……。それでもいいの?」
「ああ。例えどれだけかかっても、いつかは俺のことを振り向かせるよ。お前が……あいつのことを忘れられるように」
それは力強い言葉だった。
「荻野君……」
由佳子はそれ以上言葉はなかったが、ただ荻野に抱き締められるまま、そっと瞳を伏せた。
◇◆◇
「由佳子」
荻野が、由佳子の背後から由佳子に声をかける。
「昌くん」
由佳子は嬉しそうに立ち止まり、振り向いた。
二人は、並んで歩きだした。
「ブラ3の譜読み、どうだ?」
(注:ブラームスの交響曲第三番)
「うん、やっぱり難しい。でも、楽しいわ。なんていっても名曲だものね」
楽しそうに二人は会話を交わす。
「来週から春休みだな。長崎、天気がいいといいな」
「うん……。昌くんとの旅行、すごく楽しみだわ」
由佳子がはにかむ。
あれから。
二人はごく自然につきあっている。
それは、躰から先に始まった関係。
しかし、元々、オケ部で良好な間柄だった二人の関係は、とても上手く進展している。
そして。
たまに肌を合わせることに、由佳子は存外スムーズに順応した。
何をあれほど恐れていたのか、もはや由佳子にはわからない。
恐怖心を克服した今では、それは幸福な感情をこそもたらすものだ。
「私……どうしてあんなに……」
その時、ぽつりと由佳子は呟いた。
荻野はその呟きを、聞かなかったふりをした。
ただ、由佳子の肩に腕を回し、由佳子を優しく抱き寄せた。
背後から声をかけられ、振り向くと、赤い軽自動車の運転席から荻野が顔を出していた。
「馬鹿。傘もささずに……。とにかく乗れよ」
そう言って、荻野は由佳子を助手席に乗せた。
「どうしたんだ、一体」
その荻野の問いに由佳子は答えない。
まるで、由佳子は意思のないお人形のように蒼白な顔をしていた。
由佳子に何があったのか……
ただ、只事ではないことだけは荻野にもわかる。
何を考えたか、荻野は車をとりあえず発進させた。
◇◆◇
「入って」
荻野は部屋の明かりをつけ、由佳子を中へと誘った。
「とりあえず、着替えろよ。俺のパジャマを貸すから。ああ、その前に風呂に入れ。体が冷え切ってるだろ。暖めた方がいい」
そう言って、荻野は半ば強引に由佳子をバスルームへと放り込んだ。
由佳子は、狭いバスルームの中で一瞬、どうしよう、と惑ったが、何しろ体が冷えている。
抵抗はあったが、思い切って服を脱ぎ、隅に畳んで置くと、熱いシャワーを浴びることにした。
ザーザーと水音が響く。
由佳子の長い髪の先が濡れる。
躰を伝う雫はまるで自分の涙のようだと由佳子は思い、また泣けてくる。
シャワーの音に紛れて、由佳子は嗚咽を漏らす。
泣いても、泣いても、涙は尽きることがなさそうで、由佳子は途方に暮れた。
シャワーを浴びながら、由佳子はひとしきりいつまでも泣いた。
「ああ。あがったか。パジャマも一応着れるな」
由佳子が風呂から上がってきて、荻野が用意した男物のパジャマにちゃんと着替え、部屋の隅にいる。
「そんなところに立ってないで、炬燵に入れよ」
荻野は、言った。
由佳子は無言のまま荻野の言う通りにしたが、炬燵に入るとやはり俯き、涙を流し始めた。
「津田……」
荻野は呟くと、由佳子を抱き寄せた。
瞬間、びくりと体を震わせた由佳子だが、抵抗もせず、荻野の胸の中で泣き続ける。
荻野は、不意に由佳子に口づけた。
びっくりしたように、由佳子は目を見開いたが、やはり抵抗はしなかった。
荻野君……どうして……
そんな想いが一瞬、過ぎったが、今の由佳子にはどうでもいいことだった。
「津田……好きだ」
荻野は呟いて、由佳子を床へと押し倒した。
今から何が始まるか、由佳子は知っている。
それは、晃輝と何度も繰り返してきたことだ。
ただ、由佳子はその途中までの道程しか知らない。
それだけのことだ。
けれど、その時。
由佳子は、この先に何が待っているのか見てみたい気がした。
晃輝と二人では共有できなかったこと。
どうしても突き進むことができなかった道。
その先に待っている風景がどんなものか、由佳子は今、知りたいと思う。
由佳子は、震える自分を意識しながらも荻野に身を任せた。
◇◆◇
「津田」
由佳子に腕枕を貸しながら、荻野が言った。
「何を考えてる」
由佳子は暫く黙っていたが、ぽつんと言った。
「こんなに簡単なことだったのね……」
意外なほどすんなりと、由佳子は荻野に抱かれた。
それは、荻野も由佳子自身も不思議なほどだった。
「何があんなに怖かったのかしら……」
晃輝に触れられるだけで涙ぐんでいた自分。
なのに、荻野には素直に抱かれた。
怖くなかったわけではない。
ただ、荻野に体の隅まで触れられても不思議に嫌ではなかった。
恥ずかしさや躊躇いがなかったわけでもない。
けれど、言うなれば「構え」がなかったように思う。それは、意外なほど「自然体」だった。
思えば、荻野とは普段から音楽のことで、率直にディスカッションする仲だ。
一方、晃輝といる時は好きなあまり嫌われないようにと、いつもどこかで緊張していたように思う。
その差異がこういう形で現れたのかもしれない。
由佳子にはわからないが、しかし、海が凪いでいるように、不思議とすっきりとした気分を今、感じていた。
まるで、胸につかえていた異物が取り除かれたかのように、それは清々しいともいえる胸の心地だった。
「津田」
荻野は、由佳子を胸にかき抱いた。
「俺とつきあえよ」
「え……?」
「俺は、いい加減な気持ちじゃない。ずっと前から、お前のことが好きだった」
由佳子は、荻野を見つめる。
荻野のまなざしは、痛いほど真剣だった。
「荻野君……」
荻野の由佳子を想う真摯な気持ちは、由佳子にも伝わってくる。
由佳子を抱いている時、荻野は終始、由佳子の躰を気遣ってくれていた。
それは、言わば強引に由佳子を抱こうとしていた晃輝とは対照的だったと言って良い。
でも、私は……
晃輝を忘れられるだろうか。
あれほど好きだった、生まれて初めて好きになった人だ。
私は、荻野君のことを……
由佳子はきゅっと口唇を噛みしめた。
「私は……。晃輝さんのことが忘れられないかもしれない……。それでもいいの?」
「ああ。例えどれだけかかっても、いつかは俺のことを振り向かせるよ。お前が……あいつのことを忘れられるように」
それは力強い言葉だった。
「荻野君……」
由佳子はそれ以上言葉はなかったが、ただ荻野に抱き締められるまま、そっと瞳を伏せた。
◇◆◇
「由佳子」
荻野が、由佳子の背後から由佳子に声をかける。
「昌くん」
由佳子は嬉しそうに立ち止まり、振り向いた。
二人は、並んで歩きだした。
「ブラ3の譜読み、どうだ?」
(注:ブラームスの交響曲第三番)
「うん、やっぱり難しい。でも、楽しいわ。なんていっても名曲だものね」
楽しそうに二人は会話を交わす。
「来週から春休みだな。長崎、天気がいいといいな」
「うん……。昌くんとの旅行、すごく楽しみだわ」
由佳子がはにかむ。
あれから。
二人はごく自然につきあっている。
それは、躰から先に始まった関係。
しかし、元々、オケ部で良好な間柄だった二人の関係は、とても上手く進展している。
そして。
たまに肌を合わせることに、由佳子は存外スムーズに順応した。
何をあれほど恐れていたのか、もはや由佳子にはわからない。
恐怖心を克服した今では、それは幸福な感情をこそもたらすものだ。
「私……どうしてあんなに……」
その時、ぽつりと由佳子は呟いた。
荻野はその呟きを、聞かなかったふりをした。
ただ、由佳子の肩に腕を回し、由佳子を優しく抱き寄せた。
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