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四、黄泉下り—其の弐—
「その必要があるのなら、私は黄泉国へ下るつもりです」
天照大神に問われると、若菜は自分の両手をぎゅっと胸元で握りしめ、一瞬、間を置き迷いもなくそう答えた。朔が動けない以上、もう一人の伴侶を探せるのは自分しかいない。
未知の世界である、黄泉国へ向かうのは恐ろしいが、自分には朔がついているのだ。
若菜の決意に、月読尊はぎゅっと彼女の肩を抱き、案じるように見つめる。須佐之男も口の端に笑みを浮かべ、天照大神は若菜の瞳をじっと見つめると、深く頷いた。
「そなたの決意は固いようだな。では、須佐之男と共に黄泉下りをすると良い。だが、黄泉国から高天原に戻る時は、須佐之男を含め、我と月読尊の三貴神で、禊をしなければならなくなるぞ。穢れは高天原の汚染となり、神々を蝕む病となるのでな」
「禊ですか……?」
若菜は不思議そうに首を傾げる。
平たく言えば、肉体に溜まった黄泉国の穢れを、祓わなければならないと言う事だろうか。高天原に入る前に、三貴神の力を借りて、清らかな水場などで、穢れを洗い落とさなければならないのだろう。若菜は単純に考えを巡らせた。
「はは、分からねぇという顔だな。兄上、はっきり言ったらどうなんだ? こいつは勘違いしているぞ。俺達と夜伽をすると言う事だ、若菜。お前は、産まれたてのヒナと同じ。元より生と死を渡り歩くような、陰陽師の神の安倍晴明とは異なるし、俺達三貴神のように、強い神性を持つ訳じゃねぇからな」
「っ……」
須佐之男の言葉に、若菜は蜜色の瞳を見開き肩を震わせて驚き、目を伏せた。体を洗い流す訳ではなく、身を清めるために、彼らと交わるという事なのか。
思いもよらない答えに、若菜は羞恥に頬を染め、目を潤ませながら恐る恐る尋ねる。
「え、えっと……あ、あの、天照大神様。それは……身を清めるために、神事としてお夜伽をすると言う事でしょうか」
「————そう言う事になる。我らと三人同時に交わるのだから、そなたもつらかろう。引き返すのならば今だ」
「うむ。このうつけも、一応は父上の子だからな。須佐之男は水で清めれば体の穢れは消えるだろうが……、若菜姫は飲まれてしまう。だから、無理をする必要はない。何より、黄泉国は危険だぞ、俺は若菜姫を行かせたくない。こいつに天魔の王妃も、安倍晴明の事も任せておけば良い」
そう言いつつも、月読尊の月長石のような乳白色の肌が、赤らんでいるように見えた。けれど、なにより彼が本気で自分の事を心配しているのは分かる。
若菜と共に居る時は、なにかと我儘で、子供っぽいところのある月読尊だが、思いやりのある方だからこその警告だ。それでも、若菜はキュッと自分の手を握りしめる。
須佐之男が、天魔の王妃と晴明を助けてくれるだろうか。伊邪那美の願いも、分からないのに。
このまま二人を助けないで、最愛の人の元にいればなんの不安もないかもしれない。だが、彼女の性格では大事な人々を見捨てる事が出来ず、見て見ぬふりをした自分自身に、我慢ならなくなるだろう。
禊の件は八百万の女神として、頷く他なかった。神事として割り切り受け止めるしかない。
「は、はい。私にとって、そして天帝にとっても、晴明様は大事な御方です。藍雅ちゃ……様も同じく、縁のある方なので。私に何が出来るか分からないけど、私の助けを、必要としているように感じるから、行きます」
「分かった。我もそなたを危険な目に合わせたくないが、仕方あるまい。くれぐれも、須佐之男から離れぬように」
若菜がほっと胸を撫で下ろすと、須佐之男は良く言ったと言わんばかりに、ニッと笑みを浮かべる。彼と行動を共にしなければいけないのは、複雑な心境だが、須佐之男もまた母と慕う伊邪那美を救うために、黄泉国へ向かうのだ。
今回ばかりは強力し合おう。
「若菜姫。そなたには黄泉国に向かう前に、会っておかねばならぬ神がいる。禍津日神だ。彼は高天原にはおらず、死者と現世の境目にある、黄泉比良坂に居る。月読」
ふと、天照大神が月読尊の名前を呼ぶ。
彼は、溜息をついて紫色の袱紗から、淡く乳白色に煌く、小さな月を取り出した。
若菜は首を傾げて不思議そうに、それを受け取る。神秘的な月の光は掌でぼんやりと光っており、美しい。
「とても綺麗。これはなんですか?」
「黄泉国は、夜の国のように暗いと聞くからな。兄上の陽の光では明る過ぎる。俺の月光を頼りに歩くと良い。行きも帰りも、例えば何か決断に迷った時であっても、若菜姫の道標となって助けてくれるだろう」
黄泉国での灯火と言う事だろうか。あれほど先刻いがみ合っていた須佐之男にも、月読尊は、小さな月光を渡してやった。いくら暴れ者で反りが合わないとはいえ、実の兄弟である。
「若菜姫、黄泉国ではそなたが高天原の女神だと知られぬ方が、良いだろう。一時的に、女神としての魂の魅了、慈愛の治癒力と安産のを封じるが、されどもそなたの肉体に宿る本質の魅了は『神の繭』の時と同じ消えぬので、気を付けよ。あくまで、陰陽師だった西園寺若菜として黄泉国に下るのだ。その手助けを、禍津日神が行ってくれるはず」
「はい、天照大神様。本当の正体を知られないようにして二人を探します」
若菜の額に、天照大神の指が触れた。
女神の羽衣と神御衣は、キョウの都に居た頃の、巫女服へと変わる。
その様子を見た須佐之男は、フンと鼻を鳴らすと、頭の天辺から爪の先まで彼女を見た。
「ふぅん。なるほどな、それが人間だった頃の姿か。神の繭の時に、木花之佐久夜毘売ではなく、俺の神社で仕えていれば、直ぐにでも神隠しに合っていたぞ」
「ゃっ……須佐之男様?」
須佐之男に顎を掴まれた若菜は、戸惑うように彼を見つめた。
彼から、また口付けをされるのではないかと、思わず身構えたが、須佐之男は意味深に親指で若菜の唇を撫で、ニッと笑みを浮かべるだけだった。
「それにしても、また厄介な男に合う羽目になるとはな」
若菜の顎から手を離した須佐之男は、肩を竦め、うんざりとした様子で溜息を吐く。
✤✤✤
道中、天魔界に向かい霧雨から話を聞いた若菜は、居ても立ってもいられなくなってしまった。天帝の加護のある晴明はまだしも、八雷神の八種と名乗る危険な人物に、人質として誘拐された藍雅は、一体どんな扱いをされているのだろう。
どうして、突然天魔界が狙われたのか、それも理由が分からない。
彼女が、無事でいる事を願い、一刻も早く助けなければという気持ちになった。
黄泉比良坂に近付くにつれて、周囲は薄暗くなり、気温は低くなると霧が濃くなってくる。
須佐之男の話によると、禍津日神は彼にとって、三貴神の兄弟とは異なるが、血の繋がりのある、親戚のような関係だという。
夜の世界に籠る、月読尊と同じように、彼は高天原から離れ、死と生の狭間に屋敷を構えているそうだ。
禍津日神は文献によると、災いの元となる悪神であると同時に、災いを祓う事の出来る神である。
とはいえ、若菜が陰陽師だった頃に、彼の名を文献で見た事はあるものの、不明な点が多く、謎の多い神だという認識だ。
けれど、禍津日神が高天原に住まない理由は、若菜にも理解が出来た。
「禍津日神様が、黄泉比良坂にお住まいになられているのは……、高天原では穢れが災いとなるからですか?」
「それもあるが、あの男は悪趣味で変わり者だからな。まるで黄泉国の門番のように、自分の屋敷から、絶望に暮れる死者が行進して行く姿を眺めては、楽しんでいる。ところで若菜、俺の前では敬語は止めろ。眷属達と居る時のように、可愛く囀れ。黄泉比良坂は陰気な場所だからな」
「きゃっ……!」
どことなく、いつもと様子が違う須佐之男は、背後にいた若菜に歩みを合わせ、突然彼女の肩を抱いて護るように歩く。乱暴者の須佐之男だったが、今は協力しなければならない相手だ。
それに、母と慕う伊邪那美に対する思いやりは本物だろう。
「は、はい……。もう、あの時のような酷い事をしないなら、普通に話します」
「フン。俺の下で辱めを受けて快楽に喘いでいた癖に、頑固な女だ。だが夫のために、恐ろしい黄泉国に下るのは良い。そういう一途なお前の心をも、俺の物にして敗北させるのが楽しいからな。観念しろ、俺からは逃げられない」
「こ、心を明け渡したりなんて……」
不適な笑みを浮かべる須佐之男だったが、段々と木々が鬱蒼と茂り、死者の姿がポツポツと見え始めると、静かにするようにと、若菜の唇に指を押し当てた。
霧が濃くなり、薄暗い中で月読尊がくれた月光が、ぼんやりと光る。不意にそれが宙に浮き、死者の間を抜けて、右に浮遊した。
二人は、月に導かれるままそちらへと歩みを進める。
黒い鳥居が見え、まるで廃神社のような佇まいの本殿が見えると、客人を歓迎するかのように、赤い焔が灯る。
不気味な鳥居を潜ると、本殿の階段に座る、揺らめく黒い人影が見えた気がした。
「禍津日神様……?」
若菜が名を呼んだ瞬間『彼』は、彼女の背後に立っていて、両肩を掴まれた。青白い長い指に、黒く尖った爪が印象的だ。
「おや。これは珍しいお客様ですね。須佐之男殿に……こちらは知らないお嬢さんだ。ふふふ……私の名を存じているとは光栄です」
耳元で囁かれた若菜はビクリと震えて背後を振り返る。黒い神御衣の裾が、割かれた布のようにたなびき、結った長い黒髪が、蜘蛛の糸のように空中に広がる。
死人のように青白い顔に、色のない唇。切れ長の瞳は金色に輝いていて、驚くほど冷淡に見えた。禍津日神は、硬直する若菜の首筋から香る匂いを嗅ぐと、低く感嘆の声を上げた。
「貴女から、高天原の匂いがする。私の名を知りながら来られたのですから、それがどういう事か、お分かりでしょう」
————八百万の災いを司る悪神。
それが、禍津日神だ。
黄泉国に近い穢れは病と災いを運び、神々に、最も忌み嫌われるという。
「禍津日神、その女をからかうのは止めろ。今日は願いが会ってお前に会いに来たんだ」
「くすくす……戯れが過ぎましたね。須佐之男殿が、黄泉比良坂を通るのは予想しておりましたよ。私の神使である死出虫や蝶達が、黄泉国が騒がしいと、報告しておりましたので」
須佐之男が注意すると、禍津日神は若菜から離れた。
彼が、指先をふわりと上げると青白い蝶が彼の指に止まる。その蝶に口付け禍津日神は二人に向き直ると、薄く微笑んだ。
随分と背が高く美しい男神だが、どうにも腹の底が見えない不気味さがあり、若菜はゾクゾクと悪寒が隠せなかった。
「俺は母上に会いに行く。神使を通じて、俺に助けて欲しいと頼りにしているんだ」
「貴方に母などおりましたか? くすくす……およしなさい、と私が伝える義理もありませんねぇ。ところでそのお嬢さんは女神のようだが、須佐之男殿の従者ですか?」
「こいつは、俺の女だ。いずれ三人目の妻として娶る」
「ち、ちがっ……!」
禍津日神は顎に触れ、首を傾げた。
若菜は真っ赤になると、慌てて須佐之男の服を引っ張り、頭を振る。泣き出したくなる気持ちを抑え、若菜は勇気を出すと、禍津日神に願いを告げる事にした。
「初めまして、禍津日神様。私は天之木花若菜姫と申します。訳あって、黄泉国へ下った大切な夫と、友人を探すためにここに来たんです。あの……、天照大神様が、黄泉国ヘ下る前に、貴方様にお会いすれば助けて下さると……そう、お聞きしました」
「そうですか。つまり須佐之男殿は黄泉国への招待状はあるが、貴女はお招きされていない女神ですね。そして若菜殿はまだ死ぬ運命ではない。黄泉国に下るには、女神だと隠し、死んだ人間として、偽る必要がある訳ですねぇ。良いでしょう」
要件は分かったとばかりに、禍津日神は微笑む。そして青白い手で手招きした。
須佐之男が一歩踏み出した瞬間に、禍津日神は手を制して微笑む。
「須佐之男殿はここでお待ち下さい。私の社で、黄泉国へ安全に入るために、私が若菜殿に呪いを授けましょう。決して覗かぬように。決して、貴女は振り向かぬように」
禍津日神がそう言うと、切れ長の瞳が鋭く黄金色に光った。
天照大神に問われると、若菜は自分の両手をぎゅっと胸元で握りしめ、一瞬、間を置き迷いもなくそう答えた。朔が動けない以上、もう一人の伴侶を探せるのは自分しかいない。
未知の世界である、黄泉国へ向かうのは恐ろしいが、自分には朔がついているのだ。
若菜の決意に、月読尊はぎゅっと彼女の肩を抱き、案じるように見つめる。須佐之男も口の端に笑みを浮かべ、天照大神は若菜の瞳をじっと見つめると、深く頷いた。
「そなたの決意は固いようだな。では、須佐之男と共に黄泉下りをすると良い。だが、黄泉国から高天原に戻る時は、須佐之男を含め、我と月読尊の三貴神で、禊をしなければならなくなるぞ。穢れは高天原の汚染となり、神々を蝕む病となるのでな」
「禊ですか……?」
若菜は不思議そうに首を傾げる。
平たく言えば、肉体に溜まった黄泉国の穢れを、祓わなければならないと言う事だろうか。高天原に入る前に、三貴神の力を借りて、清らかな水場などで、穢れを洗い落とさなければならないのだろう。若菜は単純に考えを巡らせた。
「はは、分からねぇという顔だな。兄上、はっきり言ったらどうなんだ? こいつは勘違いしているぞ。俺達と夜伽をすると言う事だ、若菜。お前は、産まれたてのヒナと同じ。元より生と死を渡り歩くような、陰陽師の神の安倍晴明とは異なるし、俺達三貴神のように、強い神性を持つ訳じゃねぇからな」
「っ……」
須佐之男の言葉に、若菜は蜜色の瞳を見開き肩を震わせて驚き、目を伏せた。体を洗い流す訳ではなく、身を清めるために、彼らと交わるという事なのか。
思いもよらない答えに、若菜は羞恥に頬を染め、目を潤ませながら恐る恐る尋ねる。
「え、えっと……あ、あの、天照大神様。それは……身を清めるために、神事としてお夜伽をすると言う事でしょうか」
「————そう言う事になる。我らと三人同時に交わるのだから、そなたもつらかろう。引き返すのならば今だ」
「うむ。このうつけも、一応は父上の子だからな。須佐之男は水で清めれば体の穢れは消えるだろうが……、若菜姫は飲まれてしまう。だから、無理をする必要はない。何より、黄泉国は危険だぞ、俺は若菜姫を行かせたくない。こいつに天魔の王妃も、安倍晴明の事も任せておけば良い」
そう言いつつも、月読尊の月長石のような乳白色の肌が、赤らんでいるように見えた。けれど、なにより彼が本気で自分の事を心配しているのは分かる。
若菜と共に居る時は、なにかと我儘で、子供っぽいところのある月読尊だが、思いやりのある方だからこその警告だ。それでも、若菜はキュッと自分の手を握りしめる。
須佐之男が、天魔の王妃と晴明を助けてくれるだろうか。伊邪那美の願いも、分からないのに。
このまま二人を助けないで、最愛の人の元にいればなんの不安もないかもしれない。だが、彼女の性格では大事な人々を見捨てる事が出来ず、見て見ぬふりをした自分自身に、我慢ならなくなるだろう。
禊の件は八百万の女神として、頷く他なかった。神事として割り切り受け止めるしかない。
「は、はい。私にとって、そして天帝にとっても、晴明様は大事な御方です。藍雅ちゃ……様も同じく、縁のある方なので。私に何が出来るか分からないけど、私の助けを、必要としているように感じるから、行きます」
「分かった。我もそなたを危険な目に合わせたくないが、仕方あるまい。くれぐれも、須佐之男から離れぬように」
若菜がほっと胸を撫で下ろすと、須佐之男は良く言ったと言わんばかりに、ニッと笑みを浮かべる。彼と行動を共にしなければいけないのは、複雑な心境だが、須佐之男もまた母と慕う伊邪那美を救うために、黄泉国へ向かうのだ。
今回ばかりは強力し合おう。
「若菜姫。そなたには黄泉国に向かう前に、会っておかねばならぬ神がいる。禍津日神だ。彼は高天原にはおらず、死者と現世の境目にある、黄泉比良坂に居る。月読」
ふと、天照大神が月読尊の名前を呼ぶ。
彼は、溜息をついて紫色の袱紗から、淡く乳白色に煌く、小さな月を取り出した。
若菜は首を傾げて不思議そうに、それを受け取る。神秘的な月の光は掌でぼんやりと光っており、美しい。
「とても綺麗。これはなんですか?」
「黄泉国は、夜の国のように暗いと聞くからな。兄上の陽の光では明る過ぎる。俺の月光を頼りに歩くと良い。行きも帰りも、例えば何か決断に迷った時であっても、若菜姫の道標となって助けてくれるだろう」
黄泉国での灯火と言う事だろうか。あれほど先刻いがみ合っていた須佐之男にも、月読尊は、小さな月光を渡してやった。いくら暴れ者で反りが合わないとはいえ、実の兄弟である。
「若菜姫、黄泉国ではそなたが高天原の女神だと知られぬ方が、良いだろう。一時的に、女神としての魂の魅了、慈愛の治癒力と安産のを封じるが、されどもそなたの肉体に宿る本質の魅了は『神の繭』の時と同じ消えぬので、気を付けよ。あくまで、陰陽師だった西園寺若菜として黄泉国に下るのだ。その手助けを、禍津日神が行ってくれるはず」
「はい、天照大神様。本当の正体を知られないようにして二人を探します」
若菜の額に、天照大神の指が触れた。
女神の羽衣と神御衣は、キョウの都に居た頃の、巫女服へと変わる。
その様子を見た須佐之男は、フンと鼻を鳴らすと、頭の天辺から爪の先まで彼女を見た。
「ふぅん。なるほどな、それが人間だった頃の姿か。神の繭の時に、木花之佐久夜毘売ではなく、俺の神社で仕えていれば、直ぐにでも神隠しに合っていたぞ」
「ゃっ……須佐之男様?」
須佐之男に顎を掴まれた若菜は、戸惑うように彼を見つめた。
彼から、また口付けをされるのではないかと、思わず身構えたが、須佐之男は意味深に親指で若菜の唇を撫で、ニッと笑みを浮かべるだけだった。
「それにしても、また厄介な男に合う羽目になるとはな」
若菜の顎から手を離した須佐之男は、肩を竦め、うんざりとした様子で溜息を吐く。
✤✤✤
道中、天魔界に向かい霧雨から話を聞いた若菜は、居ても立ってもいられなくなってしまった。天帝の加護のある晴明はまだしも、八雷神の八種と名乗る危険な人物に、人質として誘拐された藍雅は、一体どんな扱いをされているのだろう。
どうして、突然天魔界が狙われたのか、それも理由が分からない。
彼女が、無事でいる事を願い、一刻も早く助けなければという気持ちになった。
黄泉比良坂に近付くにつれて、周囲は薄暗くなり、気温は低くなると霧が濃くなってくる。
須佐之男の話によると、禍津日神は彼にとって、三貴神の兄弟とは異なるが、血の繋がりのある、親戚のような関係だという。
夜の世界に籠る、月読尊と同じように、彼は高天原から離れ、死と生の狭間に屋敷を構えているそうだ。
禍津日神は文献によると、災いの元となる悪神であると同時に、災いを祓う事の出来る神である。
とはいえ、若菜が陰陽師だった頃に、彼の名を文献で見た事はあるものの、不明な点が多く、謎の多い神だという認識だ。
けれど、禍津日神が高天原に住まない理由は、若菜にも理解が出来た。
「禍津日神様が、黄泉比良坂にお住まいになられているのは……、高天原では穢れが災いとなるからですか?」
「それもあるが、あの男は悪趣味で変わり者だからな。まるで黄泉国の門番のように、自分の屋敷から、絶望に暮れる死者が行進して行く姿を眺めては、楽しんでいる。ところで若菜、俺の前では敬語は止めろ。眷属達と居る時のように、可愛く囀れ。黄泉比良坂は陰気な場所だからな」
「きゃっ……!」
どことなく、いつもと様子が違う須佐之男は、背後にいた若菜に歩みを合わせ、突然彼女の肩を抱いて護るように歩く。乱暴者の須佐之男だったが、今は協力しなければならない相手だ。
それに、母と慕う伊邪那美に対する思いやりは本物だろう。
「は、はい……。もう、あの時のような酷い事をしないなら、普通に話します」
「フン。俺の下で辱めを受けて快楽に喘いでいた癖に、頑固な女だ。だが夫のために、恐ろしい黄泉国に下るのは良い。そういう一途なお前の心をも、俺の物にして敗北させるのが楽しいからな。観念しろ、俺からは逃げられない」
「こ、心を明け渡したりなんて……」
不適な笑みを浮かべる須佐之男だったが、段々と木々が鬱蒼と茂り、死者の姿がポツポツと見え始めると、静かにするようにと、若菜の唇に指を押し当てた。
霧が濃くなり、薄暗い中で月読尊がくれた月光が、ぼんやりと光る。不意にそれが宙に浮き、死者の間を抜けて、右に浮遊した。
二人は、月に導かれるままそちらへと歩みを進める。
黒い鳥居が見え、まるで廃神社のような佇まいの本殿が見えると、客人を歓迎するかのように、赤い焔が灯る。
不気味な鳥居を潜ると、本殿の階段に座る、揺らめく黒い人影が見えた気がした。
「禍津日神様……?」
若菜が名を呼んだ瞬間『彼』は、彼女の背後に立っていて、両肩を掴まれた。青白い長い指に、黒く尖った爪が印象的だ。
「おや。これは珍しいお客様ですね。須佐之男殿に……こちらは知らないお嬢さんだ。ふふふ……私の名を存じているとは光栄です」
耳元で囁かれた若菜はビクリと震えて背後を振り返る。黒い神御衣の裾が、割かれた布のようにたなびき、結った長い黒髪が、蜘蛛の糸のように空中に広がる。
死人のように青白い顔に、色のない唇。切れ長の瞳は金色に輝いていて、驚くほど冷淡に見えた。禍津日神は、硬直する若菜の首筋から香る匂いを嗅ぐと、低く感嘆の声を上げた。
「貴女から、高天原の匂いがする。私の名を知りながら来られたのですから、それがどういう事か、お分かりでしょう」
————八百万の災いを司る悪神。
それが、禍津日神だ。
黄泉国に近い穢れは病と災いを運び、神々に、最も忌み嫌われるという。
「禍津日神、その女をからかうのは止めろ。今日は願いが会ってお前に会いに来たんだ」
「くすくす……戯れが過ぎましたね。須佐之男殿が、黄泉比良坂を通るのは予想しておりましたよ。私の神使である死出虫や蝶達が、黄泉国が騒がしいと、報告しておりましたので」
須佐之男が注意すると、禍津日神は若菜から離れた。
彼が、指先をふわりと上げると青白い蝶が彼の指に止まる。その蝶に口付け禍津日神は二人に向き直ると、薄く微笑んだ。
随分と背が高く美しい男神だが、どうにも腹の底が見えない不気味さがあり、若菜はゾクゾクと悪寒が隠せなかった。
「俺は母上に会いに行く。神使を通じて、俺に助けて欲しいと頼りにしているんだ」
「貴方に母などおりましたか? くすくす……およしなさい、と私が伝える義理もありませんねぇ。ところでそのお嬢さんは女神のようだが、須佐之男殿の従者ですか?」
「こいつは、俺の女だ。いずれ三人目の妻として娶る」
「ち、ちがっ……!」
禍津日神は顎に触れ、首を傾げた。
若菜は真っ赤になると、慌てて須佐之男の服を引っ張り、頭を振る。泣き出したくなる気持ちを抑え、若菜は勇気を出すと、禍津日神に願いを告げる事にした。
「初めまして、禍津日神様。私は天之木花若菜姫と申します。訳あって、黄泉国へ下った大切な夫と、友人を探すためにここに来たんです。あの……、天照大神様が、黄泉国ヘ下る前に、貴方様にお会いすれば助けて下さると……そう、お聞きしました」
「そうですか。つまり須佐之男殿は黄泉国への招待状はあるが、貴女はお招きされていない女神ですね。そして若菜殿はまだ死ぬ運命ではない。黄泉国に下るには、女神だと隠し、死んだ人間として、偽る必要がある訳ですねぇ。良いでしょう」
要件は分かったとばかりに、禍津日神は微笑む。そして青白い手で手招きした。
須佐之男が一歩踏み出した瞬間に、禍津日神は手を制して微笑む。
「須佐之男殿はここでお待ち下さい。私の社で、黄泉国へ安全に入るために、私が若菜殿に呪いを授けましょう。決して覗かぬように。決して、貴女は振り向かぬように」
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しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
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