【R18】月に叢雲、花に風。〜黄泉界編〜

蒼琉璃

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四、黄泉下り—其の弐—

「その必要があるのなら、私は黄泉国へ下るつもりです」

 天照大神に問われると、若菜は自分の両手をぎゅっと胸元で握りしめ、一瞬、間を置き迷いもなくそう答えた。朔が動けない以上、もう一人の伴侶を探せるのは自分しかいない。
 未知の世界である、黄泉国へ向かうのは恐ろしいが、自分には朔がついているのだ。
 若菜の決意に、月読尊はぎゅっと彼女の肩を抱き、案じるように見つめる。須佐之男も口の端に笑みを浮かべ、天照大神は若菜の瞳をじっと見つめると、深く頷いた。

「そなたの決意は固いようだな。では、須佐之男と共に黄泉下りをすると良い。だが、黄泉国から高天原に戻る時は、須佐之男を含め、我と月読尊の三貴神で、禊をしなければならなくなるぞ。穢れは高天原の汚染となり、神々を蝕む病となるのでな」
「禊ですか……?」

 若菜は不思議そうに首を傾げる。
 平たく言えば、肉体に溜まった黄泉国の穢れを、祓わなければならないと言う事だろうか。高天原に入る前に、三貴神の力を借りて、清らかな水場などで、穢れを洗い落とさなければならないのだろう。若菜は単純に考えを巡らせた。

「はは、分からねぇという顔だな。兄上、はっきり言ったらどうなんだ? こいつは勘違いしているぞ。俺達と夜伽をすると言う事だ、若菜。お前は、産まれたてのヒナと同じ。元より生と死を渡り歩くような、陰陽師の神の安倍晴明とは異なるし、俺達三貴神のように、強い神性を持つ訳じゃねぇからな」
「っ……」

 須佐之男の言葉に、若菜は蜜色の瞳を見開き肩を震わせて驚き、目を伏せた。体を洗い流す訳ではなく、身を清めるために、彼らと交わるという事なのか。
 思いもよらない答えに、若菜は羞恥に頬を染め、目を潤ませながら恐る恐る尋ねる。

「え、えっと……あ、あの、天照大神様。それは……身を清めるために、神事としてお夜伽をすると言う事でしょうか」
「————そう言う事になる。我らと三人同時に交わるのだから、そなたもつらかろう。引き返すのならば今だ」
「うむ。このうつけも、一応は父上の子だからな。須佐之男は水で清めれば体の穢れは消えるだろうが……、若菜姫は飲まれてしまう。だから、無理をする必要はない。何より、黄泉国は危険だぞ、俺は若菜姫を行かせたくない。こいつに天魔の王妃も、安倍晴明の事も任せておけば良い」 

 そう言いつつも、月読尊の月長石のような乳白色の肌が、赤らんでいるように見えた。けれど、なにより彼が本気で自分の事を心配しているのは分かる。
 若菜と共に居る時は、なにかと我儘で、子供っぽいところのある月読尊だが、思いやりのある方だからこその警告だ。それでも、若菜はキュッと自分の手を握りしめる。
 須佐之男が、天魔の王妃と晴明を助けてくれるだろうか。伊邪那美の願いも、分からないのに。
 このまま二人を助けないで、最愛の人の元にいればなんの不安もないかもしれない。だが、彼女の性格では大事な人々を見捨てる事が出来ず、見て見ぬふりをした自分自身に、我慢ならなくなるだろう。
 禊の件は八百万の女神として、頷く他なかった。神事として割り切り受け止めるしかない。

「は、はい。私にとって、そして天帝にとっても、晴明様は大事な御方です。藍雅ちゃ……様も同じく、縁のある方なので。私に何が出来るか分からないけど、私の助けを、必要としているように感じるから、行きます」
「分かった。我もそなたを危険な目に合わせたくないが、仕方あるまい。くれぐれも、須佐之男から離れぬように」

 若菜がほっと胸を撫で下ろすと、須佐之男は良く言ったと言わんばかりに、ニッと笑みを浮かべる。彼と行動を共にしなければいけないのは、複雑な心境だが、須佐之男もまた母と慕う伊邪那美を救うために、黄泉国へ向かうのだ。
 今回ばかりは強力し合おう。

「若菜姫。そなたには黄泉国に向かう前に、会っておかねばならぬ神がいる。禍津日神マガツヒノカミだ。彼は高天原にはおらず、死者と現世の境目にある、黄泉比良坂よもひらさかに居る。月読」

 ふと、天照大神が月読尊の名前を呼ぶ。
 彼は、溜息をついて紫色の袱紗ふくさから、淡く乳白色に煌く、小さな月を取り出した。
 若菜は首を傾げて不思議そうに、それを受け取る。神秘的な月の光は掌でぼんやりと光っており、美しい。

「とても綺麗。これはなんですか?」
「黄泉国は、夜の国のように暗いと聞くからな。兄上の陽の光では明る過ぎる。俺の月光を頼りに歩くと良い。行きも帰りも、例えば何か決断に迷った時であっても、若菜姫の道標となって助けてくれるだろう」

 黄泉国での灯火と言う事だろうか。あれほど先刻いがみ合っていた須佐之男にも、月読尊は、小さな月光を渡してやった。いくら暴れ者で反りが合わないとはいえ、実の兄弟である。

「若菜姫、黄泉国ではそなたが高天原の女神だと知られぬ方が、良いだろう。一時的に、女神としての魂の魅了、慈愛の治癒力と安産のを封じるが、されどもそなたの肉体に宿る本質の魅了は『神の繭』の時と同じ消えぬので、気を付けよ。あくまで、陰陽師だった西園寺若菜として黄泉国に下るのだ。その手助けを、禍津日神が行ってくれるはず」
「はい、天照大神様。本当の正体を知られないようにして二人を探します」

 若菜の額に、天照大神の指が触れた。
 女神の羽衣と神御衣は、キョウの都に居た頃の、巫女服へと変わる。
 その様子を見た須佐之男は、フンと鼻を鳴らすと、頭の天辺から爪の先まで彼女を見た。

「ふぅん。なるほどな、それが人間だった頃の姿か。神の繭の時に、木花之佐久夜毘売コノハナサクヤヒメではなく、俺の神社で仕えていれば、直ぐにでも神隠しに合っていたぞ」
「ゃっ……須佐之男様?」

 須佐之男に顎を掴まれた若菜は、戸惑うように彼を見つめた。
 彼から、また口付けをされるのではないかと、思わず身構えたが、須佐之男は意味深に親指で若菜の唇を撫で、ニッと笑みを浮かべるだけだった。

「それにしても、また厄介な男に合う羽目になるとはな」

 若菜の顎から手を離した須佐之男は、肩を竦め、うんざりとした様子で溜息を吐く。

 ✤✤✤ 
 
 道中、天魔界に向かい霧雨から話を聞いた若菜は、居ても立ってもいられなくなってしまった。天帝の加護のある晴明はまだしも、八雷神の八種と名乗る危険な人物に、人質として誘拐された藍雅は、一体どんな扱いをされているのだろう。 
 どうして、突然天魔界が狙われたのか、それも理由が分からない。
 彼女が、無事でいる事を願い、一刻も早く助けなければという気持ちになった。
 黄泉比良坂に近付くにつれて、周囲は薄暗くなり、気温は低くなると霧が濃くなってくる。
 須佐之男の話によると、禍津日神は彼にとって、三貴神の兄弟とは異なるが、血の繋がりのある、親戚のような関係だという。
 夜の世界に籠る、月読尊と同じように、彼は高天原から離れ、死と生の狭間に屋敷を構えているそうだ。
 禍津日神は文献によると、災いの元となる悪神であると同時に、災いを祓う事の出来る神である。
 とはいえ、若菜が陰陽師だった頃に、彼の名を文献で見た事はあるものの、不明な点が多く、謎の多い神だという認識だ。
 けれど、禍津日神が高天原に住まない理由は、若菜にも理解が出来た。

「禍津日神様が、黄泉比良坂にお住まいになられているのは……、高天原では穢れが災いとなるからですか?」
「それもあるが、あの男は悪趣味で変わり者だからな。まるで黄泉国の門番のように、自分の屋敷から、絶望に暮れる死者が行進して行く姿を眺めては、楽しんでいる。ところで若菜、俺の前では敬語は止めろ。眷属達と居る時のように、可愛く囀れ。黄泉比良坂は陰気な場所だからな」
「きゃっ……!」

 どことなく、いつもと様子が違う須佐之男は、背後にいた若菜に歩みを合わせ、突然彼女の肩を抱いて護るように歩く。乱暴者の須佐之男だったが、今は協力しなければならない相手だ。
 それに、母と慕う伊邪那美に対する思いやりは本物だろう。

「は、はい……。もう、あの時のような酷い事をしないなら、普通に話します」
「フン。俺の下で辱めを受けて快楽に喘いでいた癖に、頑固な女だ。だが夫のために、恐ろしい黄泉国に下るのは良い。そういう一途なお前の心をも、俺の物にして敗北させるのが楽しいからな。観念しろ、俺からは逃げられない」
「こ、心を明け渡したりなんて……」

 不適な笑みを浮かべる須佐之男だったが、段々と木々が鬱蒼と茂り、死者の姿がポツポツと見え始めると、静かにするようにと、若菜の唇に指を押し当てた。
 霧が濃くなり、薄暗い中で月読尊がくれた月光が、ぼんやりと光る。不意にそれが宙に浮き、死者の間を抜けて、右に浮遊した。
 二人は、月に導かれるままそちらへと歩みを進める。
 黒い鳥居が見え、まるで廃神社のような佇まいの本殿が見えると、客人を歓迎するかのように、赤い焔が灯る。
 不気味な鳥居を潜ると、本殿の階段に座る、揺らめく黒い人影が見えた気がした。

「禍津日神様……?」

 若菜が名を呼んだ瞬間『彼』は、彼女の背後に立っていて、両肩を掴まれた。青白い長い指に、黒く尖った爪が印象的だ。

「おや。これは珍しいお客様ですね。須佐之男殿に……こちらは知らないお嬢さんだ。ふふふ……私の名を存じているとは光栄です」

 耳元で囁かれた若菜はビクリと震えて背後を振り返る。黒い神御衣の裾が、割かれた布のようにたなびき、結った長い黒髪が、蜘蛛の糸のように空中に広がる。
 死人のように青白い顔に、色のない唇。切れ長の瞳は金色に輝いていて、驚くほど冷淡に見えた。禍津日神は、硬直する若菜の首筋から香る匂いを嗅ぐと、低く感嘆の声を上げた。

「貴女から、高天原の匂いがする。私の名を知りながら来られたのですから、それがどういう事か、お分かりでしょう」

 ————八百万の災いを司る悪神。
 それが、禍津日神だ。
 黄泉国に近い穢れは病と災いを運び、神々に、最も忌み嫌われるという。

「禍津日神、その女をからかうのは止めろ。今日は願いが会ってお前に会いに来たんだ」
「くすくす……戯れが過ぎましたね。須佐之男殿が、黄泉比良坂を通るのは予想しておりましたよ。私の神使である死出虫や蝶達が、黄泉国が騒がしいと、報告しておりましたので」

 須佐之男が注意すると、禍津日神は若菜から離れた。
 彼が、指先をふわりと上げると青白い蝶が彼の指に止まる。その蝶に口付け禍津日神は二人に向き直ると、薄く微笑んだ。
 随分と背が高く美しい男神だが、どうにも腹の底が見えない不気味さがあり、若菜はゾクゾクと悪寒が隠せなかった。

「俺は母上に会いに行く。神使を通じて、俺に助けて欲しいと頼りにしているんだ」
「貴方に母などおりましたか? くすくす……およしなさい、と私が伝える義理もありませんねぇ。ところでそのお嬢さんは女神のようだが、須佐之男殿の従者ですか?」
「こいつは、俺の女だ。いずれ三人目の妻として娶る」 
「ち、ちがっ……!」

 禍津日神は顎に触れ、首を傾げた。
 若菜は真っ赤になると、慌てて須佐之男の服を引っ張り、頭を振る。泣き出したくなる気持ちを抑え、若菜は勇気を出すと、禍津日神に願いを告げる事にした。

「初めまして、禍津日神様。私は天之木花若菜姫と申します。訳あって、黄泉国へ下った大切な夫と、友人を探すためにここに来たんです。あの……、天照大神様が、黄泉国ヘ下る前に、貴方様にお会いすれば助けて下さると……そう、お聞きしました」
「そうですか。つまり須佐之男殿は黄泉国への招待状はあるが、貴女はお招きされていない女神ですね。そして若菜殿はまだ死ぬ運命ではない。黄泉国に下るには、女神だと隠し、死んだ人間として、偽る必要がある訳ですねぇ。良いでしょう」

 要件は分かったとばかりに、禍津日神は微笑む。そして青白い手で手招きした。
 須佐之男が一歩踏み出した瞬間に、禍津日神は手を制して微笑む。

「須佐之男殿はここでお待ち下さい。私の社で、黄泉国へ安全に入るために、私が若菜殿にまじないを授けましょう。決して覗かぬように。決して、貴女は振り向かぬように」

 禍津日神がそう言うと、切れ長の瞳が鋭く黄金色に光った。

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