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紫陽花の猫①

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 薄っすらと目を開けると、隣には知らない男性……では無く、人間の姿になった槐が横になっていた。長い睫毛まつげが呼吸をする度に震えている。整った鼻筋に薄い唇、目の前にある槐の顔に、くるみは昨晩の記憶が蘇り真っ赤になって起き上がった。
 どうやら槐は、軽く腰を抱きしめるようにして眠っていたようで、静かに吐息を漏らすと目を覚ました。気怠そうに肘を付くと寝起きのくるみを見つめる。

「目が覚めたか、くるみ。おはよう」
「オハヨウ……ゴザイマス」

 まるで恋人のように、自然に振る舞う槐に心臓が高鳴るのを感じ思わず片言になってしまった。もう二十歳も過ぎたけど、槐に流されるようにして初体験をしてしまった。好きな相手も恋人もいないのだから、誰にも咎められる事は無いけれど、血を吸う鬼と初体験なんて普通ではない。ただ、凄く槐を意識してしまって落ちかず頬が火照ってドキマギしてしまう。
 人間の姿の時も、鬼の時もとにかく槐の色気が心臓に悪い。あまり朝が強そうにも見えない従兄弟の槐は、ゆっくりと体を起こすと耳元で気怠そうに囁いた。
 
「可愛い反応だな、くるみ。風呂にでも入って参れ。俺が朝餉あさげでも作っておいてやろう」
「~~~~っっ、顔が近い! 槐、顔が近いよ!」 

 吐息と甘めの低音ボイスが、鼓膜を刺激するとくるみは槐の着物を体に巻きつけて立ち上がった。まるで、小動物を眺めるように銀の月の瞳を細めるとクスクスと笑って見つめられた。 
 完全に、恋人やら旦那さん気取りの槐から逃れるように、くるみは風呂場へと直行した。取り敢えず、お風呂に入って頭の中を一旦整理したい。
 くるみは温かいシャワーを頭から浴び、昨日の出来事を全て思い出していた。十年ぶりに再会した生き血をすする吸血鬼。なんの因果か知らないが、その吸血鬼に見初められてしまった。
 人を惑わす術がきかず、鬼達が作る常夜とこよに自ら入る事が出来て、彼らを意識できる存在を、空蝉うつせみの姫と呼ぶ。鬼にとって、自分達を正気の状態で意識できる空蝉の姫の存在は、脅威でもあり、それと同時に抗え難い魅力的な存在でもある。あの瞬間、槐にとって運命の相手が、くるみとなり現実の世界では伊吹槐いぶきえんじゅという、存在がくるみの従兄弟として人々の記憶に刻まれた。

(ともかく……、槐が従兄弟になってしまった事実が変えられないなら、受け入れるしか無い、よね……。とりあえず、振り回されないようにしなくちゃ、私の本来の目的はここのカフェを手伝いながら、絵本を描く事。スランプから抜け出す事なんだから)

 くるみは深呼吸した。わざわざ東京から叔父さんの営むカフェを手伝いにきたのは、お洒落なカフェで働きたいという目的と、それとは別にスランプに陥ってしまった絵本作家の仕事をこのまま、諦めたく無いからだ。
 絵本作家で生きて行くという選択は、優良企業に就職して欲しい両親達にとっては期待はずれなもので、事あるごとにぶつかり合ってしまった。両親に納得して貰えるような作品を描く為に、昔から優しく味方で居てくれた叔父夫妻の住む田舎に来たのだ。
 カフェの店員をするのも、良い顔はしなかったが、弟の所ならばまだマシたと苦々しく言われた。

「槐は、多分悪い鬼じゃないよ……ね。絵本もお店も頑張ろう」

 槐に触れられる事は嫌じゃなかった。姿形は人とは異なるけれど話していても、口説かれる事に羞恥はしても話す事が苦痛だとか嫌悪は感じなかった。不思議な感覚だが、側にいるとまるでずっと昔から一緒にいたような気持ちになる。
 人と鬼の間にも本当に、運命の糸のようなものがあるのかな、などと言う恋愛ゲームさながらの設定が頭に浮かんでしまって、恥ずかしくなると、くるみは体を綺麗にして風呂場から上がった。
 髪を乾かし居間に向うと、いい香りがしてくるみは目を見開いた。

「お味噌汁に、ご飯……玉子焼きに、焼き魚? 凄い、旅館の朝食みたい! これ槐が全部作ったの?」
「無論。朝食はしっかり取っておけ。血を吸われた分は補わんとな。それに今日は初出勤だ」

 完璧な朝ごはんに、くるみは驚きつつも正面に正座すると、いただきます、と呟きおかずに箸をつけた。玉子焼きも味噌汁も上品な味付けで美味しい。焼き魚も良い焼き具合だ。人間と同じ物も食べられると言うが、槐は鬼であるのに料理好きなように思える。
 正面で同じように食べる槐に、疑問をぶつけてみた。

「ねぇ、どうして……槐は鬼なのに、人間が食べる物を作れるの? 生き血だけじゃなくて、同じ物を食べられるって聞いたけど、こんなに凝った料理作れるなんて不思議だな、って思って」
嗚呼ああ、それはだな。俺は元々人間だったからのう。それにしても昨日より随分と俺に心を開いてきたな。くるみになら何でも話してやる」
「なっっ……」
 
 くるみは、艶っぽく見つめられて耳まで赤くなった。こんな調子でからかわれるので、ついつい反応してしまうが、槐が元は人間だったと言う事に驚いた。どうして鬼になったのか気になるが、その理由を聞いて良いものなのだろうか、と悩んだ。

「別に思い悩む必要はない。簡単な話よ。俺があまりに美しくて、連日興味の無い女達から恋文が届けられ、読む事も無く、捨て置いたら恨まれてな。その怨念が俺を鬼に変えた。だが、鬼でいる方が性に合っているので、今や女共には感謝しか無いぞ」
「そ、そんな事ってあるんだ……、あっ、ちょっと、また私の心を読んで! あのねっ、凄く恥ずかしいから心を読むの止めて欲しいなっ。この家に私と居たいなら、心を読むのは禁止ですっ」

 槐が自分を美しいと言っても、事実そうなのであまり違和感は無いのだが、またしても心の中を勝手に読まれたくるみは、槐に抗議をした。俺の勝手だろうと文句をつけられると思ったが、あの優しげな瞳で笑うと「わかった」と素直に了承した。姿格好が人間に化けているだけに、本当に鬼である事を忘れてしまいそうなる。
 食事を終えた槐が、不意に箸を置くとくるみを見つめながら言った。

「鬼と言うのはな、ほとんどが人間から変異した者や、人間に近い場所に居た者達だ。だから人に惹かれる……特にお前は特別なんだから気を付けろ、俺の空蝉の姫はお人好しのようだからな。鬼は人を騙すものだ」
「鬼は人を騙す……」

 くるみは、身震いするように肩を竦めた。

✤✤✤

 昨日に引き続き、くるみが仕事に慣れるまで午前中は『妖』で叔父と一緒に接客をする事になった。チェーン店での経験が生かされ、モーニングも乗り切れた。
 年配と常連さんが多いカフェだが、SNSにお洒落なカフェの写真を投稿するのが流行るようになってから、若い女性やカップルも来るようになったようだ。そんなに人は来ない、と叔父から聞いていたが、どう考えても、平行世界誰かさんのせいでお客さんが増えているように思える。

「はい。コーヒーのブラック、カプチーノ、アイスカフェラテですね。かしこまりました……そうですか、東京から来られたんですね。観光、楽しんで下さいね」
「は、はいっ。明後日までここに泊まってるので、またこのカフェに来ちゃおうかな」
「うん、いいね、来ようよ! お兄さんシフトに入ってるんですか」
「僕は、ここに住み込みで働いているんです。その日は確か、仕事だからシフトに入ってますよ」

 オーダーを取る槐の爽やかな微笑みに、3人の大学生らしき女の子が、頬を染めて食い入るよ見つめていた。本当に鬼なのか、と疑いたくなる位に接客が上手いかつ、お客さんの心を捕らえている。
 自分と話している時には、見た事もないような、キラキラとした爽やかな青年を演じる槐をカウンター越しに眺めると、くるみは呆れたように苦笑した。

(本当に外面だけはいいなぁ……まぁ、店員が鬼でも、お客さんが気持ちよく過ごせてるなら、それで良いんだけどね)

「槐くん、テキパキしてるからフロアを一人でも回せそうだね。女性やお年寄りのお客さんの評判も良さそうだし……安心したよ」

 珈琲を煎れている隣で、焼き立てのベーグルに包丁を入れてサンドイッチを作る叔父が笑いながら言った。叔父に術をかけた事は許せないが、槐が働く事で叔父が助かるならば、災い転じて福となす、なのだろうか。くるみは複雑な気持ちで頷いた。

「あっ、そうだ……くるみちゃん。午後から使う牛乳が切れそうなんだ。珈琲は僕が煎れておくから、少し買ってきてくれないか」
「うん、わかった。自転車で行ってくるね」

 くるみは、エプロンを脱ぐと急いで自転車に乗ると、近くのコンビニまで向かう事にした。と言っても都会とは違い、自転車で20分はかかる場所にある。
 とりあえずお店は二人に任せて、くるみはコンビニまで行くと牛乳を買った。お店に帰る道中、田舎道で夏の風を感じながら走っていると、電柱の脇に茶トラの猫が座っている事に気付いた。
 首輪のようなものがついており、このあたりの家で飼われている猫かも知れないと思いながら、くるみは自転車のブレーキをかけて止まった。

「可愛いな……」

 幼い頃から動物が好きなくるみは、自転車が止まっても逃げようとしない猫の元へと向かうと、頭を撫でてやる。茶トラの猫はゴールドの瞳を細めてゴロゴロと鳴いた。そして、くるみの足元にすりより前足を膝に乗せて、唇に口付けてきた。

「わぁ、凄い慣れてる……ここらへんの子なのかな? 格好いい首輪してるね。なんて言うお名前なの? あ、私から名乗らなくちゃね。くるみだよ」

 茶トラの首元には赤の首輪に、小さな勾玉の飾りがついていた。背中を撫でながら可愛がっていたが、流石に牛乳を腐らせるわけにはいかない。名残惜しそうに喉を撫でると、手を振って自転車に跨った。

「バイバイ、猫ちゃん、また逢えたらいいね」

 くるみが自転車で、走り去ると茶トラの姿は人間のものへと変わる。金髪のストレートの髪に、ゴールドの猫目。獣の耳と尻尾をつけた美少年の首元には、勾玉の飾りのついた赤い首輪がつけられていた。電柱に持たれかかるようにして、しなやかに腕を組むとにっこりと微笑む。

「くるみ、て言うんだ。可愛いなぁ……欲しいな……空蝉の姫」

 くすくす、と無邪気に微笑むと目を鋭く光らせた。
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