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第一部
真名
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外へ出たターニャの正面に、男がひとり佇んでいた。くすんだ鉛色の髪を逆立てた、鎧を思わせる頑強な体躯の内に途方もないほどの魔力を宿した男だった。
男がの周りには数人の男女が倒れ伏していた。その光景目にして湧き上がる激情を顔には一切出さずに、極めて冷静に彼らを観察する。
その視線に気づいたのか、男がつまらなさそうに言った。
「死んじゃいねえよ。俺は雑魚には興味ねえんだ。ま、向かってきたんでちょいと遊んでやったがな」
男がめんどくさそうに、虫を払うように手を振った。その言葉に嘘はないのだろう。そう信じられるくらいに、男の冒険者たちに対する態度は無関心そのものだった。
ターニャは内心で安堵しつつも決して顔には出さずに、男に話しかけた。
「最近の若者はノックの仕方も知らないのでしょうか?」
「鍵のかかった扉はぶっ壊す。それが俺の世界のマナーなんでな」
男はそれこそが真理だとでも言わんばかりに大笑する。
「……よろしい。では私がこの世界のマナーを躾て差しあげましょう」
どこからともなく取り出した短剣を両の手に握ってだらりと構えた。
「いいね、さっきの雑魚どもよりずっと楽しめそうだ」
一見隙だらけに見えて全く攻め込む隙のない女の所作に、男が口笛混じりに獰猛な笑みを浮かべた。
血に飢えた獣の顔だった。
ターニャは男の殺気が込められたぎらつく眼光を真っ向から受け止める。
睨み合いの末、先に動いたのは意外にもターニャの方だった。
土を蹴り、風のようにするりと男の懐に潜りんこんだ。
「なにっ!?」
意識の死角をついた接近だった。
男が一瞬遅れて驚愕の声を上げた。
その隙を見逃さず、ターニャが右手の短剣で刺突を繰り出す。
上体を反らしてかわそうとする男の顔を、迫る刃がわずかに掠めた。
距離を取ろうとバックステップで後ろに飛ぶ男にぴたりと張り付いたように追従し、男の首めがけて左の短剣を横に振るった。
男は首と刃との間に腕を滑りこませる。
ギィイン!と鋼が打ち合う重い音が響いた。
刃は男の腕に少しくい込んだところでぴたりと止まっていた。
「ははっ!いいじゃねえか、想像以上だぜ!」
男が獰猛に笑い、ターニャの左腕を掴んだ。
「ちっーー」
ターニャは振り払おうと力を込めるがぴくりとも動かなかった。ミシミシと骨の軋む音がして、やがて果物が潰れるようなグシャッという音と共にターニャの左腕があらぬ方向に折れ曲がった。
男がにやりと笑みを深める。
「甘いですよ」
腕が折れたにも関わらず全く顔色を変えず、隙ありとばかりにターニャはすかさず右手の短剣で男の腕を切り払った。
刃が男の鋼鉄の肉体に食込み、男の腕が宙を舞った。
ターニャは振り切った勢いをそのままにその場で回転しさらに蹴撃を放つ。
男は体を屈めてターニャの方に突っ込むようにしてそれを回避し、彼女の脇腹に拳を打った。
メキメキと拳が身体にめり込み、巨大な鉄の塊で殴られたような衝撃がターニャの全身をはしった。耐えきれず、ターニャが吹き飛んでいく。
ズガァァン!
屋敷の壁へ激突し、轟音と土埃を撒き散らした。
常人なら確実に死んでいる有様だがターニャは何食わぬ顔で立ち上がり、被害状況を確認した。
屋敷は結界によって無傷なままだったが、ターニャの身体はそうはいかなかった。
先程攻撃を受けた脇腹から鈍い痛みが走り、ミンチのようになった左腕はもはや何の感覚もない。
それでも彼女は屋敷が無事だったことにほっと安堵の息をついた。
「おいおい、余所見とはずいぶんと余裕じゃねえか」
嘲笑うような男の声に、ターニャは屋敷から男に視線をうつした。
先程切り飛ばした腕の断面の肉が盛り上がり再生していき、やがて十秒も経たずに男の腕は元通りになった。その様子眺めていたターニャが肩を竦めるようにして言った。
「余裕などとんでもない。正直、あなたが想像よりもずっと強くてどうしようか考えていたところです」
「ああ……?まさか逃げるなんて言わねえだろうな。久々に楽しめる相手を見つけたんだ、もっと楽しませてくれよ?」
「……この村の住民全てを見逃がしてくれるというなら、それも悪くありません」
「そりゃあ無理だ。俺個人としては雑魚が生きようが死のうがどっちでもいいけどよ、皆殺しって命令だからよ。逃がすわけにゃいかねえ」
男がいかにも気だるそうに言った。
「そうですか」
ターニャはさして気にも留めていない様子で呟いた。
「なら、本気でやるしかありませんね」
何かを決意した顔で、ターニャは残った右腕で短剣を構えて戦う意志を示す。
そのターニャの様子を見て、絶えず猛禽類じみた笑みを浮かべていた男の顔から不意にそれが消えた。
「わかんねえな。あのガキといいてめぇといい、どうしてそんなに雑魚どもに気を回す?戦えばてめぇらは死ぬんだぜ。ひとりなら逃げ切れるかもしれねえ。なぜ逃げねえ」
「あのガキ……とはアルテア様のことでしょうか」
「名前なんて知らねえよ。奇妙な本持った赤い髪のガキだ」
男がぶっきらぼうに言う。
「あっちの方でやり合ってるやつらがいるのはてめぇも気づいてんだろ。俺のツレのババアとそのガキだ。ガキのわりにはなかなかやるが、ババア──ツヴァイには勝てねぇ。あのガキ、死ぬぜ」
「そうですか……坊ちゃんが」
男が言うのを聞いてターニャが目を細めた。呆れているようでもあり、喜んでいるようでもあった。
今のアルテアではまず勝てない。男の言う通り、戦えば死が待っているだろう。
逃げていてほしい。
そう思う反面、あの少年ならきっと立ち向かってしまうだろうという予感があった。それは予感であり、期待だった。
あの子が、皆を守るために戦っている。
矛盾しているが、それがターニャには嬉しかった。
「てめぇ、なんで笑ってやがる。気でもふれたか?」
ターニャは男を問に答えることなく続けた。
「なぜ戦うのか……なぜ逃げないのかと、あたなは聞きましたね」
「ああ?」
「坊ちゃんは……アルテア様は、よく笑うようになりました。最初は全く笑いもしなかったあの子が……」
「それがどうしたってんだ?」
「私はあの子の笑った顔が好きなのです。それを奪うというのなら、誰であろうが許しはしません」
「くだらねえ……そんなのがてめぇの死ぬ理由か」
男が心底つまらなそうに吐き捨てて、ゆっくりとターニャの方に歩き出した。
「まあ、あなたにはわかりませんか」
ターニャが男に哀れみの目を向けて言ってから、「それに」と続けた。
「勘違いしているようですが、死ぬのはあなたです。──ドライケル」
氷のような声でターニャ男の名を呼ぶ。
ターニャの瞳から光が消えた。
人としての感情を捨て、ただ相手を殺すことのみを考える修羅の目だった。
ターニャの深淵を宿した瞳に見つめられ、男はぞくりと背筋を震わせた。あたり一帯の空気が一気に重く冷えていくのを感じた。まるで極寒の地に変わったのかと思うほどに。
「てめぇ……なんで俺の名を」
一度も名乗りは上げていない。
全てを見透かされているような感覚に陥り、それを紛らわせようとドライケルの語気が荒れた。
「その昔、剣聖クルードと聖女ミリアに打ち倒されし四天魔王の一柱、ドライケル。あなた、なかなか有名ですよ。人間に敗北して逃げ帰った雑魚として」
ターニャが深く冷たい笑みを浮かべる。
ドライケルはその笑みにひとつの予感を感じた。
「……殺す!!」
その予感を振り払うように雄叫びを上げて魔力を練り込む。
男の周囲にまるで嵐のように魔力が渦巻き収束していく。
「死ねや!!!!」
男が叫びターニャに向けて破壊の奔流を解き放った。
「雷王竜の咆哮!!」
巨大な竜を形取った雷が、雷鳴の轟きとともに周囲に破壊の嵐を巻き起こし、まさに電光石火の勢いでターニャに襲いかかった。
ドライケルが放ったのは風系統の超級雷撃魔法。
詠唱破棄とはいえ人間が受ければ細胞ひとつ残らず消滅する威力の破壊の権化だ。
しかしターニャは自身に迫る死の脅威に眉ひとつ動かすことなく、悠然と折れた左腕を前へ突き出した。
ミンチのようにグチャグチャになっていた腕が、内側で爆発が起きているようにボコボコと膨れ上がって瞬時に再生する。
そしてその腕で、男の放った途方もない威力の雷撃を受け止め、握り潰した。
まるで虫を払うかのように、何気なく。
一瞬の光だけを残して雷龍は大気に霧散し消えていった。
「な….…バカな……」
男は呆然と目の前の光景を眺めながら、先程の予感がはっきりと形をもって浮き上がっていくのを感じた。
男はそれを知っていた。
今まで、数え切れないほど自分が与えてきた。だからこそはっきりと理解することができた。
絶対的強者を前にした時の感覚。
深く濃密な死の予感。それがほの暗い水の底から湧き上がる泥のように、べっとりと身体にまとわりついていた。
「くくっ……ははは……ハーッハッハッハッハッハッハッハッ!!!」
狂ったように笑い出す男を見てターニャが告げた。
「今後一切あなたが人を襲わないと誓うなら見逃します」
「見逃すだあ?バカが……俺はてめえみたいなやつを待ってたんだよ!己の命をかけるにふさわしい相手をなぁ!」
男が喜びに打ち震えながら絶叫する。
身体から溢れた魔力が天を撃つ勢いで立ち上った。
引く気はないと見てとったターニャが冷たい声で吐き捨てるように言った。
「愚かな」
同時に男が大地を蹴り、稲妻が光った。
雷光と化した男がターニャの周囲を駆け巡り雷の檻をつくっていく。
雷の嵐の中をターニャは悠然と佇んでいた。目を開いてすらいなかった。高速で移動する男の魔力を感覚して捉えていた。
男の動きに合わせて体の向きを変え、右手を置いた。
そこに少し遅れて、まるであらかじめそこ打ち込むと決まっていたかのように、
雷と化した男の拳がすっぽりと入り込んだ。
轟音とともに雷の余波が周囲に迸り大地を削り空気を引き裂いた。
だがそれだけだった。ターニャには傷ひとつついてはいない。
「てめぇ、バケモンか……」
渾身の一撃をあっさり受け止められた男が愕然とした。
「あなた。仮にも魔王と呼ばれているのに、魔のなんたるかがまるでわかっていませんね。冥土の土産に、魔道の深淵を少しだけお見せしましょう」
右腕から漆黒の影が滲みだし、やがて魔法陣を形成する。
周囲の光を飲み込む幾何学模様は自ら形を変えて彼女の右手の先で
曲線を描き収束、禍々しい長柄の曲刃へと変貌していく。
「祈れ──宝具『冥王の右腕』」
彼女の手の中に、光を閉じ込めたような漆黒の大鎌が形成された。
斬。
彼女が大鎌を軽く一振りすると黒い幾筋もの軌跡がはしり、鋼鉄にも勝る男の体がたやすく細断される。
「がッーー!?」
男は細切れにされた己の体を見て、困惑しながら吐血する。
すぐさま再生を始めようとする男にターニャは更なる追撃を加える。
「異相天魔結界──『死死千影王王氷花楼』」
ターニャの足元に極大の魔法陣が浮かび上がり、足元から噴出した影が周囲の景色を一瞬で黒く塗りつぶした。
大地を染める黒い影の海から伸びる、亡者の腕とでもいうような黒い流線が男の体に絡みつき動きを封じた。
ターニャがトンと軽く大鎌の柄で地面を打つと、影が天を衝くように立ち上り、一切を飲み込む漆黒の津波となった。
男にもはや成すすべはなかった。
男は濁流に呑まれて途切れそうな意識の中で、はっきりと女の声を聞いた。
「申し遅れました。私はサタナキア・ディーテ・シルファラエル。
この名を抱いて死ねば、そこそこ通りも良いでしょう」
「てめ……まお……か、よ……」
呆れたように呟いた後、男の体は濁流の中で砕け散った。
男がの周りには数人の男女が倒れ伏していた。その光景目にして湧き上がる激情を顔には一切出さずに、極めて冷静に彼らを観察する。
その視線に気づいたのか、男がつまらなさそうに言った。
「死んじゃいねえよ。俺は雑魚には興味ねえんだ。ま、向かってきたんでちょいと遊んでやったがな」
男がめんどくさそうに、虫を払うように手を振った。その言葉に嘘はないのだろう。そう信じられるくらいに、男の冒険者たちに対する態度は無関心そのものだった。
ターニャは内心で安堵しつつも決して顔には出さずに、男に話しかけた。
「最近の若者はノックの仕方も知らないのでしょうか?」
「鍵のかかった扉はぶっ壊す。それが俺の世界のマナーなんでな」
男はそれこそが真理だとでも言わんばかりに大笑する。
「……よろしい。では私がこの世界のマナーを躾て差しあげましょう」
どこからともなく取り出した短剣を両の手に握ってだらりと構えた。
「いいね、さっきの雑魚どもよりずっと楽しめそうだ」
一見隙だらけに見えて全く攻め込む隙のない女の所作に、男が口笛混じりに獰猛な笑みを浮かべた。
血に飢えた獣の顔だった。
ターニャは男の殺気が込められたぎらつく眼光を真っ向から受け止める。
睨み合いの末、先に動いたのは意外にもターニャの方だった。
土を蹴り、風のようにするりと男の懐に潜りんこんだ。
「なにっ!?」
意識の死角をついた接近だった。
男が一瞬遅れて驚愕の声を上げた。
その隙を見逃さず、ターニャが右手の短剣で刺突を繰り出す。
上体を反らしてかわそうとする男の顔を、迫る刃がわずかに掠めた。
距離を取ろうとバックステップで後ろに飛ぶ男にぴたりと張り付いたように追従し、男の首めがけて左の短剣を横に振るった。
男は首と刃との間に腕を滑りこませる。
ギィイン!と鋼が打ち合う重い音が響いた。
刃は男の腕に少しくい込んだところでぴたりと止まっていた。
「ははっ!いいじゃねえか、想像以上だぜ!」
男が獰猛に笑い、ターニャの左腕を掴んだ。
「ちっーー」
ターニャは振り払おうと力を込めるがぴくりとも動かなかった。ミシミシと骨の軋む音がして、やがて果物が潰れるようなグシャッという音と共にターニャの左腕があらぬ方向に折れ曲がった。
男がにやりと笑みを深める。
「甘いですよ」
腕が折れたにも関わらず全く顔色を変えず、隙ありとばかりにターニャはすかさず右手の短剣で男の腕を切り払った。
刃が男の鋼鉄の肉体に食込み、男の腕が宙を舞った。
ターニャは振り切った勢いをそのままにその場で回転しさらに蹴撃を放つ。
男は体を屈めてターニャの方に突っ込むようにしてそれを回避し、彼女の脇腹に拳を打った。
メキメキと拳が身体にめり込み、巨大な鉄の塊で殴られたような衝撃がターニャの全身をはしった。耐えきれず、ターニャが吹き飛んでいく。
ズガァァン!
屋敷の壁へ激突し、轟音と土埃を撒き散らした。
常人なら確実に死んでいる有様だがターニャは何食わぬ顔で立ち上がり、被害状況を確認した。
屋敷は結界によって無傷なままだったが、ターニャの身体はそうはいかなかった。
先程攻撃を受けた脇腹から鈍い痛みが走り、ミンチのようになった左腕はもはや何の感覚もない。
それでも彼女は屋敷が無事だったことにほっと安堵の息をついた。
「おいおい、余所見とはずいぶんと余裕じゃねえか」
嘲笑うような男の声に、ターニャは屋敷から男に視線をうつした。
先程切り飛ばした腕の断面の肉が盛り上がり再生していき、やがて十秒も経たずに男の腕は元通りになった。その様子眺めていたターニャが肩を竦めるようにして言った。
「余裕などとんでもない。正直、あなたが想像よりもずっと強くてどうしようか考えていたところです」
「ああ……?まさか逃げるなんて言わねえだろうな。久々に楽しめる相手を見つけたんだ、もっと楽しませてくれよ?」
「……この村の住民全てを見逃がしてくれるというなら、それも悪くありません」
「そりゃあ無理だ。俺個人としては雑魚が生きようが死のうがどっちでもいいけどよ、皆殺しって命令だからよ。逃がすわけにゃいかねえ」
男がいかにも気だるそうに言った。
「そうですか」
ターニャはさして気にも留めていない様子で呟いた。
「なら、本気でやるしかありませんね」
何かを決意した顔で、ターニャは残った右腕で短剣を構えて戦う意志を示す。
そのターニャの様子を見て、絶えず猛禽類じみた笑みを浮かべていた男の顔から不意にそれが消えた。
「わかんねえな。あのガキといいてめぇといい、どうしてそんなに雑魚どもに気を回す?戦えばてめぇらは死ぬんだぜ。ひとりなら逃げ切れるかもしれねえ。なぜ逃げねえ」
「あのガキ……とはアルテア様のことでしょうか」
「名前なんて知らねえよ。奇妙な本持った赤い髪のガキだ」
男がぶっきらぼうに言う。
「あっちの方でやり合ってるやつらがいるのはてめぇも気づいてんだろ。俺のツレのババアとそのガキだ。ガキのわりにはなかなかやるが、ババア──ツヴァイには勝てねぇ。あのガキ、死ぬぜ」
「そうですか……坊ちゃんが」
男が言うのを聞いてターニャが目を細めた。呆れているようでもあり、喜んでいるようでもあった。
今のアルテアではまず勝てない。男の言う通り、戦えば死が待っているだろう。
逃げていてほしい。
そう思う反面、あの少年ならきっと立ち向かってしまうだろうという予感があった。それは予感であり、期待だった。
あの子が、皆を守るために戦っている。
矛盾しているが、それがターニャには嬉しかった。
「てめぇ、なんで笑ってやがる。気でもふれたか?」
ターニャは男を問に答えることなく続けた。
「なぜ戦うのか……なぜ逃げないのかと、あたなは聞きましたね」
「ああ?」
「坊ちゃんは……アルテア様は、よく笑うようになりました。最初は全く笑いもしなかったあの子が……」
「それがどうしたってんだ?」
「私はあの子の笑った顔が好きなのです。それを奪うというのなら、誰であろうが許しはしません」
「くだらねえ……そんなのがてめぇの死ぬ理由か」
男が心底つまらなそうに吐き捨てて、ゆっくりとターニャの方に歩き出した。
「まあ、あなたにはわかりませんか」
ターニャが男に哀れみの目を向けて言ってから、「それに」と続けた。
「勘違いしているようですが、死ぬのはあなたです。──ドライケル」
氷のような声でターニャ男の名を呼ぶ。
ターニャの瞳から光が消えた。
人としての感情を捨て、ただ相手を殺すことのみを考える修羅の目だった。
ターニャの深淵を宿した瞳に見つめられ、男はぞくりと背筋を震わせた。あたり一帯の空気が一気に重く冷えていくのを感じた。まるで極寒の地に変わったのかと思うほどに。
「てめぇ……なんで俺の名を」
一度も名乗りは上げていない。
全てを見透かされているような感覚に陥り、それを紛らわせようとドライケルの語気が荒れた。
「その昔、剣聖クルードと聖女ミリアに打ち倒されし四天魔王の一柱、ドライケル。あなた、なかなか有名ですよ。人間に敗北して逃げ帰った雑魚として」
ターニャが深く冷たい笑みを浮かべる。
ドライケルはその笑みにひとつの予感を感じた。
「……殺す!!」
その予感を振り払うように雄叫びを上げて魔力を練り込む。
男の周囲にまるで嵐のように魔力が渦巻き収束していく。
「死ねや!!!!」
男が叫びターニャに向けて破壊の奔流を解き放った。
「雷王竜の咆哮!!」
巨大な竜を形取った雷が、雷鳴の轟きとともに周囲に破壊の嵐を巻き起こし、まさに電光石火の勢いでターニャに襲いかかった。
ドライケルが放ったのは風系統の超級雷撃魔法。
詠唱破棄とはいえ人間が受ければ細胞ひとつ残らず消滅する威力の破壊の権化だ。
しかしターニャは自身に迫る死の脅威に眉ひとつ動かすことなく、悠然と折れた左腕を前へ突き出した。
ミンチのようにグチャグチャになっていた腕が、内側で爆発が起きているようにボコボコと膨れ上がって瞬時に再生する。
そしてその腕で、男の放った途方もない威力の雷撃を受け止め、握り潰した。
まるで虫を払うかのように、何気なく。
一瞬の光だけを残して雷龍は大気に霧散し消えていった。
「な….…バカな……」
男は呆然と目の前の光景を眺めながら、先程の予感がはっきりと形をもって浮き上がっていくのを感じた。
男はそれを知っていた。
今まで、数え切れないほど自分が与えてきた。だからこそはっきりと理解することができた。
絶対的強者を前にした時の感覚。
深く濃密な死の予感。それがほの暗い水の底から湧き上がる泥のように、べっとりと身体にまとわりついていた。
「くくっ……ははは……ハーッハッハッハッハッハッハッハッ!!!」
狂ったように笑い出す男を見てターニャが告げた。
「今後一切あなたが人を襲わないと誓うなら見逃します」
「見逃すだあ?バカが……俺はてめえみたいなやつを待ってたんだよ!己の命をかけるにふさわしい相手をなぁ!」
男が喜びに打ち震えながら絶叫する。
身体から溢れた魔力が天を撃つ勢いで立ち上った。
引く気はないと見てとったターニャが冷たい声で吐き捨てるように言った。
「愚かな」
同時に男が大地を蹴り、稲妻が光った。
雷光と化した男がターニャの周囲を駆け巡り雷の檻をつくっていく。
雷の嵐の中をターニャは悠然と佇んでいた。目を開いてすらいなかった。高速で移動する男の魔力を感覚して捉えていた。
男の動きに合わせて体の向きを変え、右手を置いた。
そこに少し遅れて、まるであらかじめそこ打ち込むと決まっていたかのように、
雷と化した男の拳がすっぽりと入り込んだ。
轟音とともに雷の余波が周囲に迸り大地を削り空気を引き裂いた。
だがそれだけだった。ターニャには傷ひとつついてはいない。
「てめぇ、バケモンか……」
渾身の一撃をあっさり受け止められた男が愕然とした。
「あなた。仮にも魔王と呼ばれているのに、魔のなんたるかがまるでわかっていませんね。冥土の土産に、魔道の深淵を少しだけお見せしましょう」
右腕から漆黒の影が滲みだし、やがて魔法陣を形成する。
周囲の光を飲み込む幾何学模様は自ら形を変えて彼女の右手の先で
曲線を描き収束、禍々しい長柄の曲刃へと変貌していく。
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斬。
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すぐさま再生を始めようとする男にターニャは更なる追撃を加える。
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ターニャがトンと軽く大鎌の柄で地面を打つと、影が天を衝くように立ち上り、一切を飲み込む漆黒の津波となった。
男にもはや成すすべはなかった。
男は濁流に呑まれて途切れそうな意識の中で、はっきりと女の声を聞いた。
「申し遅れました。私はサタナキア・ディーテ・シルファラエル。
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