幸福物質の瞬間

伽藍堂益太

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幸福物質の瞬間 1

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高石祐介 1

「もしも超能力を持ってたらなら、どうする?」
 ごくごくありきたりな質問だ。それに対するありきたりな回答として、瞬間移動で遅刻ギリギリまで寝ていたいとか、時間を止めて女子更衣室を覗きたいだとか、透視して綺麗なお姉さんの裸を見たいだとか、そういったものが挙げられると思う。我々うら若き男子であれば、誰しもこんな妄想をするのではないだろうか。
 しかし、この質問、俺にとってはまるで意味を成さない。だって”もしも”超能力があったらなんて、俺には考える必要のないことだから。
 なにせ俺は、実際に超能力を持っている。別に大した能力じゃない。一般的にサイコキネシスと呼ばれている類の能力だけど、落ちてきた瓦礫を止めたりするほどの力はないし、電話の向こうの相手を殺すことだってできない。
 できることといえばせいぜい、自分の感知できる範囲内で、自分の筋力でも持てる程度の重さのものを移動させたり掴んだりすることぐらいだ。今、同じ電車の同じ車両の五メートルくらい先に乗っている人の携帯を叩き落とすくらいのことはできるけど、隣の車両と隣の隣の車両の連結部で立っている人のネクタイを引きちぎるなんてことはできない。そういうこと。
 すごく長い手があと二本あると考えたら、それが一番分かりやすくて、しっくりくるかもしれない。
 満員電車に揺られていると、そんな取り留めもないことを考えてしまう。何せ片手は吊り革、片手は肩から下ろした学生鞄。朝買った漫画雑誌はおろか、携帯すらいじることもできない。これから伸びるとは思うが、背が低いせいか、周りのサラリーマンたちの圧迫感をモロに受ける。空気が薄く感じる。
 毎朝通学はこんな感じだ。うんざりはするけれど、上り電車に乗らなければ通えない私立を選んだ自分が悪いのだ。中学と高校合わせて六年間、あと三年弱通うのだから、諦めなければやっていられない。
 電車が駅に止まる。今日の運転手が下手なのか、それともパンパンに詰め込まれた乗客の重みのせいか、停車の反動が大きく、乗客たちが一斉につんのめった。俺も思わず歩幅を広げて踏ん張る。
「って」
 隣に立っていたOLの足を踏んでしまった。踏んだといっても上から踏みつけてしまったわけではなくて、ちょっと足を掠めてしまった程度だ。
「すいません」
 それでも一応謝っておく。今の若いやつは謝ることもできない、とか言われたら癪だから。
「ちっ」
 返ってきたのは舌打ちだった。なんて下品な女なんだ。顔だって可愛くない上に、よく見てみたらごってり化粧を塗りたくって、それでも隠せない皺が、もう若くないですよと自己紹介している。
 腸が煮えくり返りそうだった。なんなんだ、この女は。思わずぶっ殺しそうになるのを必死で我慢する。
 俺はこういう場面に遭遇すると、いつも疑問に思う。なんで人は、こうも危機感というものを持っていないのだろう。人は、と一括りにしてしまうのは間違っているかもしれない。日本人は、というのもまだ広すぎる。とにかく世の中、危機感を持っていない人が多すぎる。
 もし、俺が危ないやつで、ナイフをポケットに忍ばせていて、そんなふてぶてしい態度を取られたら、今ここで殺されないとも限らないのだ。そんな可能性すら頭に置かないで、ただ自分の感情を顕にしている。なんて愚かなんだろう。俺より十歳以上、一回りは年上だというのに、見下さずにはいられない。
 そして女は人の波に乗って、ホームに降りていった。電車は動き出し、女との距離はみるみる開いていく。俺は素直に、命拾いしたなと、女の運の良さに免じて見逃してやることにした。なんだかんだあって電車が止まれば、困るのは俺自身だ。追跡してやるような時間的余裕はない。
 身動きできないイライラと、女に対するイライラを解消できないまま、電車がゴトゴト走って行く。やがて電車は学校の最寄り駅に着いた。東京でも五指に入るターミナル駅、渋谷だ。多くの人がここで電車を降りる。自分で歩かずとも自動的に押し出されて、俺もホームに降り立った。
 ホームのほとんど端から端まで移動して改札口へ。俺はここが学校の最寄りで乗り換えもないため、先を急ぐ人たちに合わせて忙しく歩く必要はない。歩調を緩めて、学生鞄を肩にかけ直すのに勢いをつけて持ち上げた時だった。
「痛っ」
 声が上がった。すぐに自分の鞄が当たったのだと、持ち上げた時の感触で分かった。
「すいません」
 俺は振り返り、すぐさま謝罪した。女性だ。それも、妊婦らしい。顔や肩の感じと比較して、不自然に腹が出ている。自分の周りに妊婦がいたことはないから妊娠何ヶ月か予想もつかないけれど、もうすぐ生まれるんじゃなかろうか。女性は腹を押さえていた。それに、俺のことを親の仇を見るような目で睨んでくる。凄まじい怨念すら感じるような目だ。
 身長は俺よりも低い。小柄だ。しかし、メガネの奥にあるその目は、俺を睨みつけていることを差し引いてもつり目がちで、いかにもキツい性格をしていそうだ。丸々としたボブっぽい髪型も、目から滲み出る刺々しさを緩和させるには至らない。
「すいませんでした」
 もう一度頭を下げて、俺は身を翻した。こういう手合には長いこと関わっちゃいけない。俺の経験がそう言っていた。だから俺は歩幅を広くして、回転数も上げてこの場からさっさと立ち去ることにした。
「ちょっと、待ちなさいよ」
 強引に手首を掴まれた。意外なくらいに力が強い。
「何ですか?」
 もう謝ったというのに、これ以上何があるというんだ。
「鞄、お腹に当たったんだけど?」
 真っ直ぐに俺の目を見据えて、妊婦は言う。
「だから、すいませんでした」
 謝る他にできることなんて思いつかないので、もう一度謝っておく。
「謝っただけで済むと思ってんの? お腹に当たってんだけど? お腹の赤ちゃんに何かあったらどうしてくれんの?」
 口調はヒステリックで、まるで理不尽に怒りを振りまいている時のうちの母親のようだ。これ以上かまっていられない。
「すいません、急ぐんで」
 俺は強引に妊婦の手を振りほどいて、逃げた。妊娠して気が立ってるんだかんだか知らないが、これは関わっちゃいけないタイプの人だ。三十六計逃げるに如かず。漫画に書いてあったし、俺もそうすることにした。
「ちょっと、待ちなさいよ」
 それでもしつこく妊婦は追ってくる。ポケットから財布を出して、改札に定期を叩きるける。これでちょっとは怯んだか。振り返って確認する。ダメだ。妊婦は鬼の形相で追いかけてくる。
「待ちなさいって」
「待ってどうするんですか? なんなんですか? どうしたらいいんですか?」
 さすがに苛ついてきた。しつこすぎる。
「誠意が感じられないのよ。誠意が。謝れば済むと思ってるその態度がムカつくの。だいたい、どういう教育受けてきてるのよ? 親の顔が見てみたいって、こういう時に使う言葉だったのね。ほんと腹立つわ」
「だから、どうしたらいいんですか? お金でも払えばいいんですか?」
「そういう問題じゃない。誠意を見せろっていってんのよ。これだから最近のガキは」
 妊婦の声がでかい。通り過ぎる人の視線が痛い。学校の誰かに見られたらどうしてくれるんだ。こんなみっともないところ、見られたくない。携帯を向けているやつがいる。まさか、写真か動画でも撮ってるんじゃなかろうか。顔が熱くなる。もう我慢の限界だ。腹は決まった。この妊婦に、社会の恐ろしさってやつを教えてやる。
「すいません。学校遅れるんで」
 妊婦じゃ絶対に追いつけない速度で駆け出す。そして、一番近くの角で曲がり、身を潜め、顔だけ出して妊婦の姿を確認する。妊婦は追いかけてきていた。だけどまだ、俺が角から様子を窺っていることには気がついていないようだ。俺はこちらに迫ってくる妊婦の胸に向かって、右の手の平を広げた。目立たないように、肘を曲げて、手の調子を確かめているのだと、俺のことを見ているかもしれない誰かに対して装う。
 そして、妊婦の胸の中、肋骨の奥、その心臓を想像する。人間の体の中身は、教科書や人体模型を見て、勉強していた。容易にその中身が想像できる。俺は自分の超能力、サイコキネシスを発現させた。発現させたなんて、大層なもんでもない。ただ握力計に力を込めるのと、同じようなもんだ。肉体を使うのと労力としては変わらない。
 手を握ると、超能力はそれに呼応して、掴めるはずのないものを掴む。俺のサイコキネシスが、妊婦の心臓を捉えた感触がした。ドクドクと、俺のサイコキネシスに反発して鼓動しようとするのを、力でねじ伏せる。
 妊婦は胸を押さえて、膝から崩れる。行き交う人は妊婦を助けることなく、ただ、横目でチラリと見るだけだった。
 妊婦は自分の胸を鷲掴みにしたまま、地面に崩れ落ちた。立ち止まる人がちらほら。しかし、まだ誰も救急車を呼ぶものはいない。若い女が妊婦の横にしゃがみ込み、何事かを伝えようとしている。でも、そんなの無駄だ。今、妊婦は心臓を鷲掴みにされている最中なのだから。
 もし今ここで力をゆるめて、後日またあの妊婦に見つかって声をかけられたら最悪だ。その時にはきっと、俺と口論したから心臓発作を起こしたんだとかなんとか言って、またヒステリックに喚き散らすに違いない。だから、後顧の憂いはここで断つと決めた。
 完璧に殺すためには、かなり長い時間心臓を止めていなければならない。心臓を止めて殺すのは、実は結構効率が悪いのだ。でも、これが一番、不自然でなく人を殺せるんじゃないかと、学生なりに一生懸命考えた結果だ。小学生の時、同級生の脳をぐしゃぐしゃにかき混ぜて殺した時は、大変な騒ぎになってしまった。だから、同じ轍を二度は踏まない。地味に地味に殺すのが一番なのだ。
 いや、別に今ここで完全に殺す必要はないかもしれない。要は、あの妊婦と二度とすれ違うことがなければいい。あの妊婦、いつまでも恨みを覚えていそうなタイプだけど、心停止で脳に障害が残れば、さすがに一人でここに来るようなことはないだろう。俺のことも認識できなくなるに違いない。
 ポケットから携帯を取り出して、時間を確認する。今は七時五十分ちょい前。学校の予鈴は八時十分。ここから徒歩十分程度だから、余裕を持って登校するにはそろそろ学校に向かいたいところだ。
 今、あの妊婦の心臓を止めてどれくらい経ったろう。心停止から五分を経過すると、脳に障害が残る可能性が上がるんだったか。曖昧な記憶を掘り起こそうとしても無駄だった。どの道、今から誰かが救急車を呼んでも、来るまでには時間がかかるだろうし、それに咄嗟にAEDを使えるような人は、そうそういないだろう。俺だったら使えない。それも相手は妊婦だ。誰だって、何かあっては大変と、二の足を踏むんじゃなかろうか。
 もういいか。学校に向かうとしよう。俺は角に隠れるのを止め、平静を装って妊婦の周りの人だかりを横切る。俺と妊婦が口論していた時に携帯を構えて写真だか動画だかを撮っていたやつは、いまだに携帯を構えていた。多分、動画を撮っているんだろう。まったく、人が倒れているのに動画を撮り続けるなんて、その神経を疑う。最低なやつだ。もう動画には映りたくないので、カメラの死角に回り込む。人混みを背に、俺は学校に向かった。
 駅の構内を出て、通学路へ。先輩後輩同級生の姿がちらほらと見えてきた。
「おはよ、祐介」
 背中から声を掛けられる。
「あ、おはよ、麻友」
 クラスメイトだ。体型は細めで、俺の好み。ロングの髪もありだが、茶色く染めているのはいただけない。ただまぁ、その点に目を瞑っておけば、もうひと押しで付き合えそうなので、わざわざ相手を否定するような発言は控えておく。
「なんか駅に人だかりできてたね。何だったんだろ?」
「あぁ、なんか妊婦が倒れたみたいだよ」
「えぇ、可哀想。大丈夫かな?」
「あれだけ人がいたんだから、誰かしら救急車でも呼んでるんじゃない?」
「それもそっか。でも、心配だね」
「うん、心配だ」
 自分でやっておいて心配もくそもないのだが、とりあえず相手が言ったことには同調しておく。そうしておけば、学校生活は間違いない。
 今日は朝からツイてなかった。だけど、こんなことはよくあることだ。いちいち気にしていたって仕方がない。通学路を歩きながら、麻友と他愛もない会話をする。それだけで、苛立ちはどこかへ流れていく。ゆっくりと歩く俺たちに、クラスメイトたちが追い付いてくる。取るに足らないようで、かけがえのない、そんな青春の一ページがめくられていく。
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