幸福物質の瞬間

伽藍堂益太

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幸福物質の瞬間 2

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高石祐介 2

 俺の平穏な学生生活は、高校二年の二学期を迎えようとしていた。八月も終盤に差し掛かっているが、日差しは一向に衰えず、握った自転車のハンドルは焼肉ができるんじゃないかという程に熱い。べたつくシャツにうんざりしながら、俺は塾へとペダルを漕ぐ。
 自宅から十分程度、駅のほど近く。細やかな個人指導が売りの塾だ。大手ではないが、県内に何校か教室を構えていて、小学校の同級生も何人か通っているようだった。個人指導なので、多くても授業は二人同時まで。だから、同級生と一緒に授業を受けたことはない。
 俺がここに通っているのは、大学受験前に苦手科目をなくしておくという名目で、親に勉強してこいと言われ、しぶしぶ首を縦に振ったからだ。部活にも入っていないので、断ろうにも断る理由がなかった。それに、塾にでも通わなければ勉強しないであろうことを、親はよく理解している。事実、ここに通っていなければ、学校外での勉強時間はテスト前を除くと、ほとんどゼロだっただろう。宿題ですら、大抵は学校にいる間に済ましてしまう。聞く価値のない授業の時間だとか、提出期限目前の休み時間だとかに。
 先生たちは大学生でアルバイトなんだろうが、社員の教育がいいのか、非常に熱心で評判がいい。早くも社畜根性のようなものを叩きこまれているのだろうか。どうしても、俺はそういう姿を見ると、一歩引いてしまう。別にこっちは、分かりやすく効率的に説明してくれれば、後は適度に距離を保ってくれればそれでいいのだ。
 そのせいで、最近は塾に通うのがより一層憂鬱になっていた。俺の今の担当は、塾の中でもかなり評判がいい方の先生で、それを同じ塾に通っている人に羨ましがられたことすらある。熱血で、親身に話を聞いてくれる。だからこそ、俺は塾まで漕ぐ自転車のペダルが、異様に重く感じられた。
 塾の前に自転車を止めて、鍵をかけ、階段を上った。塾はビルのテナントの二階にある。階段から受付は日光が入らないせいかなんとも辛気臭く、俺がそれが苦手だった。
 受付で今日のブースを確認する。今日は一番奥のブースだ。塾の中はブースで区切られているだけで、教室がいくつもあるわけではない。外からでも、中の様子は簡単に覗けるし、覗かれる。ただ、授業の時間は一律に区切られているので、出入りがあるのはその合間の時間だけだから、気が散ることは少ない。
 いくつかのブースを横切って、一番奥へ。ブースの中を覗くと、今日も暑苦しい顔が出迎えてくれた。
「おっす、高石くん。今日で夏期講習も最後だな」
 塾では苗字にくんかさんをつける決まりになっているらしい。担当の先生はよく日焼けした肌に短髪黒髪、いかにもスポーツマンといった感じで、大抵の人は好感を持つだろう。有り体に言えばイケメンってやつだ。この人が悪口を言われているのを、俺は聞いたことがない。従って、俺もこの人の悪口を言ったことはない。良く思われている人間の悪口を言えば、自分が批判されるに決まっている。
「そうですね」
「元気ないなぁ。夏バテか?」
 いつもこんなもんだ。それなのに、いちいちこうして俺のことを気にかけてくる。多分、そのきっかけは俺が先生に相談したことだと思う。
 相談、というほど大層なものではなかったが、内容は進路についてだ。中高一貫の進学校に通っているから、大学受験をするのは既定路線で、別に、それに反発するほどやりたいことはないし、なりたいものもない。うちの高校は、私立か国公立か、どんな学部を受験するのか、高校二年に上がるタイミングで決めなければならない。俺は数学が嫌いという理由で私立文系コースに入ったため、すでに受験できる学部も絞られている。その上で、まだ学部を決めることができない。高二なんて、大抵そんなもんだろう。俺の周りだってそうだ。
 だから俺は何の気なしに、まだやりたいことや夢もなく、行きたい学部もないと、先生に言ってしまった。それが大きな間違いだった。
 先生はそれからというもの、やたらと俺にかまってくるようになってしまった。やれ大学受験は目的を持ってやらなきゃダメだとか、将来の夢は探すべきだとか、好きなものを探すだけでいいんだとか、そんな当たり前のことを言ってきた。
 言われなくたって分かっている。きっと、そうした方がいいのだろう。だが、それを強要されると面倒くさくなる。俺は超能力を持っているわけで、邪魔だと思うやつがいるのなら、その気になれば誰にもバレずに始末することだってできる。多分俺はこれから先、人よりも苦労せずにやっていける。客観的に見て、俺は特別な存在なわけだから。どんな道を進むことになったって、結局俺の人生はイージーモードなわけだ。最悪、殺し屋になったって別に構わない。もう今まで数えきれないくらい、それも我ながらくだらない理由で人を殺してきているから、罪悪感なんてこれっぽっちもない。そういえば、初めて人を殺した時から、バッタの足を引きちぎるくらいの心構えで人を殺せたような記憶がある。その時点で、すでに俺は特別と言えるのかもしれない。
 それなのにこの先生は、俺のことを知りもしないで説教臭いことを言う。俺とそう年齢も変わらないくせに、大学受験を乗り越えただけで、俺よりも上の存在なんじゃないかと勘違いしている。まったく無礼だ。
 思い出すだけで、考えるだけで、フラストレーションが溜まっていくのを感じていた。今日は何を言われることやら。
「いやいや、全然、元気っすよ」
 愛想笑いで応えておく。
「そっか。それで、夏休みはどうだった? 楽しめた?」
 この先生は世間話が好きだ。いや、本当に好きかどうかは知らないが、授業の前に世間話をするのを、準備運動のように捉えているらしい。まずは会話でリラックス、それから集中して授業に、みたいなことを実践しているんだろう。それもまた、人気の一因かもしれない。
「まぁ、それなりに」
「おいおい、そんなんじゃ、せっかくの夏休みが勿体無いぞ? 来年は受験勉強することになるんだから、自分の夢とかやりたいことを探す時間にしなきゃ」
 暑苦しい。大体、そんな有意義な夏休みの過ごし方をするやつがいるのだろうか。部活をやっていれば、毎日のように部活動に勤しむだろう。部活に行って、帰ってきて寝て、起きて部活に行く。
 部活をやっていない俺のような学生は、深夜まで無駄に起きてテレビを見たり、ゲームをしたりネットをしたり、そんな無為な時間を過ごしている。統計をとったわけじゃないから分からないけれど、俺の体感ではそれが九割を占めるんじゃなかろうか。有意義で将来につながるような夏休みを過ごしているのなんて、ごくごく一部の、意識の高い学生だけだ。
 なのになんで、いちいち説教じみたことを言われなければならないのか、その理不尽さにイライラしてくる。作り笑顔にヒビが入る。
「学部はもう決めたのか?」
 またその質問だ。
「いや、経済か法かってところですけど」
 文系で目指すものや勉強したいことがない人は、このどちらかを選ぶんじゃなかろうか。俺の偏見だろうか。
「へぇ、どんなことしたいの?」
「いや、就職に有利そうなんで」
「学部で就職に有利も何もないって! 数学科だって銀行から内定もらうし、国文学部だって不動産やるんだからさ。それよりも、もっと自分の勉強したいこととか、色々考えなきゃダメだって! 高二の夏休みは二度と来ないんだぞ?」
 そんなこと言われなくたって分かってる。分かってるからいちいち言うな。
 ここのところ、会う度にそんなことを言われて、いい加減うんざりしている。俺にしてはかなり長いこと我慢してきた。それももう、そろそろ限界だ。
「そうですよね。いや、分かってるんですけどね。色々ネットで検索してみたりしてるんですけど」
「そうやって、ネットにばっか頼ってちゃダメだぞ。実際に自分の目で見て、手で触ることが大事なんだから」
 お前だって俺とほとんど同じ世代だろ。それなのに、上から目線で説教かましてきやがる。もう、決めた。今日、こいつを殺す。知り合いを殺すのは久しぶりだったが、問題ないだろう。気持ちの面でも、法的な面でも、俺を縛るものはない。別にこいつを殺すことに躊躇はないし、こいつを殺したところで、俺が殺したという証拠は絶対に残り得ない。自分の周りで人が死ぬと、慌ただしくなるから嫌だっただけだ。こいつが説教してくるうるささと、こいつが死んで周りが騒ぐうるささだったら、後者の方がまだマシだ。
 授業中にやってしまっては、色々と面倒くさそうだ。このコマが終わってこのブースを出たら、やってやろう。
「残り少ない夏休み、せっかくだから有意義に過ごそうぜ。な?」
「はい」
「よし、じゃあ、前回の続きからいこうか」
 やっと授業が始まる。勉強なんて好きなわけがないけれど、正直こいつの世間話よりはよっぽどマシだ。一コマ分、集中しているフリをしてさえいれば、その先は気分爽快になれること間違いなしだ。なんだか心が踊ってきた。いつもよりもペンが走る速度が上がっている。早く授業が終わらないかなと、俺は遠足前夜の小学生のような気分になっていた。

 時計を見上げる。顔ごと上げてしまうと、集中しろと小言をもらってしまうかもしれないから、上目遣いに視線を飛ばす。視線は秒針を追う。四、三、二、一、時間だ。
「さてと、今日はここまでかな」
 先生はファイルに何やら書き込んでいる。前に何を書いているのか聞いたことがあるが、それは内緒と笑ってごまかされた。今となってはもう、興味ない。それより早くこいつを片付けたいと、この一コマ、そればっかり考えていた。
「ありがとうございました」
 一応、終わりの挨拶はしておく。なるべく行動は普段通りに。殺人の前には、これが鉄則だ。逃げようとされたところで間違いなく殺すことはできるが、思わぬ抵抗を受けたくはない。だから、いつも人を殺す時は、その張本人の目の前では普段通りに、死角に入ってから、サイコキネシスに力を込めるなり、ほくそ笑むなりするようにしている。
 教科書とノートを片付けて、鞄を左手に、そして右の手の平を広げた。そして、先生の心臓の位置を探る。それと同時に立ち上がった。すべての動作はさり気なく、同時進行でこなさなければならない。
 心臓に触れた感覚がある。指を心臓に添えるようにして曲げる。
「うっ」
 先生が呻いた。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもない」
 それはそうだろう。まだうっすらを膜を張るようにしか触っていない。それに、心臓自体は痛みを感じないと聞いたことがある。違和感か何かを察知したのだろう。
「それじゃ、また」
「はい、じゃ、また来週」
 来週なんてないけどな。思わず皮肉を言ってやりたくなるのを抑えて会釈。その間もずっと、心臓の位置だけは外さないように、サイコキネシスを維持し続ける。そしてブースを出て通路に。受付まで行って、そこで掲示板を見るふりをする。
 そろそろいいだろう。あいつの人生は、ここで終了だ。お疲れ様。心の中でそう呟いて、俺は右手に思い切り力を込めた。ガシャンと、ブースの奥の方で椅子の倒れる音がした。見なくとも分かる。あいつが苦しさのあまり、椅子から転げ落ちて、その拍子に椅子を倒したのだろう。心臓の位置は下方に落ちた。しかし、しっかりと握りしめているので、心臓からサイコキネシスの手を離してしまうようなことはない。
 あいつの心臓は俺の手の中で、離せ離せと抗うように、強く鼓動しようともがいていた。しかし、俺はそれを力でねじ伏せる。
「なんだ?」
「どうした?」
「おい、大丈夫か?」
 フロアは俄に騒がしくなった。いかにも事態を把握できていないというような顔で、誰もが通路に顔を向ける。塾の講師たちが一番奥のブースに集まっていった。授業を終えた生徒たちも、何事かと様子を覗こうとする。
「おい、大丈夫かよ。おい!」
 講師が大きな声を出す。
「教室長! 教室長!」
 他の講師が教室長を呼ぶ。教室長は、俺の見立てではこの教室唯一の社員だ。何かあったら、教室長を呼ぶというのは妥当な判断だろう。
「なんだ?」
 受付の奥から教室長が出てくる。騒ぎ声を聞いてすでに立ち上がっていたのか、行動が迅速だ。ズンズンとブースの奥に進んでいく。
 俺の周りには誰もいなくなった。好都合だ。俺は更に力を込める。
「おい、どうしたんだ?」
 教室長が声を上げた。
「ぎぎぎ」
 喘ぎ声のようなものが聞こえた。そして、あいつが地面を這い、通路に出てきた。
「うわ」
 俺は思わず声を上げてしまった。なんという執念だ。心臓を止められているのに、まだ体を動かしている。その姿を見て、俺は正直に、気持ち悪いと感じた。もう絶対に死ぬというのに、何にすがりつこうというのか。
 侮蔑の視線をぶつけていると、不意に、あいつは顔を上げた。そして一直線に、俺を見つめる。睨みつけるわけでもなく、俺を憐れむような目で見てくる。何か言おうとして言えないでいるみたいに、口をパクパクさせている。左手で胸を掴み、右手を俺に向かって伸ばす。待て、とでも言っているようだ。
 なんなんだ。俺がやっていると分かっているのか。いや、そんなはずはない。俺の能力がバレるわけはない。もしバレるとしたら、それは俺と同じような、超能力者だけだろう。心を読めれば一発だ。同じような超能力者なら、状況から判断したりできるかもしれない。
 でももう、そんなことは関係ない。俺の手はあいつの心臓を鷲掴みにしている。万が一あいつが超能力者で、俺の超能力に気づいたとしても、こんな状況で抗うことができるわけではない。
 だから俺は、あいつに向けて、思い切り笑顔を見せてやった。満面の笑みってやつだ。それを見て、あいつはどんな風に顔を歪めるのか、見ものだ。まだ生きていたいと悔しがるだろうか。それとも、死んでしまうことを悲嘆するだろうか。もしかしたら、怒るかもしれない。なんで俺が死ななきゃいけないんだ、みたいな。
 でも、俺の予想はすべて外れた。あいつはまるで、俺を憐れむような目で見てきた。そんなことしちゃダメだとか、説教するみたいな顔で、俺を目で諭してくる。こいつは、最後の最後まで、俺に説教するつもりなのか。
 カッと頭に血が昇るのを感じた。だから俺は、お前を殺すんだ。偉そうにしやがって。俺は鞄を地面に放り投げた。そして超能力を使っていた右手に、空いていた左手を添えて、更に力を込める。
 あいつは目を見開いた。苦しさに耐えかねたのか、顔を無様に歪ませる。力なく地面に伏した。でも俺は、この手に込めた力を微塵も緩めない。こいつが俺の超能力の届く範囲内にいる限り、その心臓を握り続ける。
「おい、救急車呼んでくれ!」
 教室長が叫んだ。
「はい!」
 先生の一人が受付まで飛んでくる。俺が両手で宙を掴んでいることには、見向きもしない。このフロアにいる全員が必死だった。無論、俺を含めて。早送りのようなスロー再生のような、曖昧な時間の流れの中を、俺はただ明確な殺意だけをコンパスの針にして進んだ。
 やがて救急車がやってきて、救急隊員たちがフロアに上がってきた。担架のようなものを運んでくる。その間も、俺は力を緩めることなく、あいつの心臓を握りしめていた。担架に、ぐったりと倒れたあいつが乗せられる。運ばれる。俺はそれをずっと視線で追った。あいつに付き添うのか、教室長が他の先生に何事か言付けると、そのままフロアを出て行った。俺もそれについていく。一度心臓を掴んで場所を把握しているとはいえ、自分の知覚の範囲内にターゲットを納めておいた方がサイコキネシスの精度は高くなる。あまり遠くに離れられてしまうのはよろしくない。
 きっと、あいつと教室長の後を追う俺は、あいつのことを慕っていて、心配で心配で堪らなくなってしまった、心優しい生徒のように見えたことだろう。何せ俺の今の顔は、必死そのものだから。その証拠に、教室長が俺に声を掛けてきた。
「大丈夫、墨田先生は絶対助かるからな。大丈夫だからな」
 緊急事態にも人を気づかえる度量があるのだなと意外に思い、俺は少し教室長を見なおした。うだつのあがらないクソ中年という評価は返上してやった方がいいかもしれない。だけど、その見当違いな心遣いに、思わず噴き出しそうになる。
 あいつと教室長は救急隊員と共に救急車に乗り込み、そして救急車は走りだした。俺はその姿が見えなくなるまでずっと、見送った。両手に力を込めて、この超能力の及ぶ範囲内から外れるまでずっと、確実に息の根を止めるため、俺は二歩三歩、救急車を追いかけ、走った。

 それから俺は受付に戻り、鞄を回収して、何事もなかったように帰宅した。後で確認したところ、初期の処置がうまくいかずに、結局あいつ、墨田先生は死んだらしい。それを聞いて、俺はほっと胸を撫で下ろした。
 今回のことがショックだったともっともらしいことを言って、俺はあの塾を辞めた。辞める口実までできるとは、あの時の選択はまさに一石二鳥だったようだ。
 俺は清々しい気持ちで残りの夏休みをだらだらと過ごした。新学期を迎える気分は上々だ。両手に筋肉痛を感じながらも、達成感と爽快感が大きく、満足感で思わず相貌が崩れた。
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