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幸福物質の瞬間 4
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高石祐介 4
頭が重い。理由は考えるまでもなく寝不足のせいだ。結局朝方、目覚ましが鳴る直前に一瞬落ちただけで、ちゃんと寝ることはできなかった。具合が悪いと嘘をついて学校をさぼろうかとも思ったが、今日は授業初日だ。出席しないのは気まずい。
都道沿いの狭い道を歩く。そろそろこの辺りで、いつも背中を叩かれるな。そう思っていると、案の定、背中を叩かれた。
「おっす、高石」
予想に反する声が聞こえ、俺の体が無闇矢鱈と素早く反応する。
「は?」
バッと振り返ると、そこにいたのは西坂だった。その数歩後方で、麻友が申し訳無さそうな顔でこちらの様子を窺っていた。口の動きが、ごめんと俺に伝えている。
「なんだよ、西坂」
多少威圧感を込めて言ったつもりだが、西坂は全然こたえていないようで、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべ、俺の肩から手を離そうとしない。俺はそれを、埃を叩くように払いのけた。
「別に、見かけたから、声かけただけだよ」
「あっそ、それならもう用は済んだろ? さっさと先行けよ」
「いいじゃん、一緒に行こうぜ」
「俺は麻友と一緒に行きたいんだよ」
「別に約束はしてないんだろ?」
痛いところを突いてくる。確かに約束はしていない。しかし、ほとんどそれも同然で、暗黙の了解というやつだったんだ。それを邪魔されてはかなわない。だから少しだけ、勇気を出した。
「じゃ、今日から約束だ。な、麻友?」
ますます申し訳無さそうに肩を縮こまらせていた麻友が、俺の言葉で顔を上げた。
「え……う、うん。そう。今日から約束」
俺の言葉の意味を理解したのか、麻友はこくこくと頷いた。
「そういうことだから、行こう、麻友」
「うん!」
並んで歩き出した俺と麻友を、さすがに気がとがめるのか、西坂は追って来なかった。ものすごく良い気分だ。高揚する。何が目的か知らないが、麻友を利用して俺に近づこうとしていることだけは分かる。それを頓挫させてやった。これ以上気持ちいいことがあるだろうか。
殺してやりたい。俺の感情がはっきりとそう自己主張する。しかし、こいつは同級生で、しかも俺に近づこうと妙なことをしているため、心臓を止めて殺すにはいかにもタイミングが悪い。普段から、なるべく身近な人間は殺さないように気をつけているのだ。ただでさえ、最近墨田先生を殺したばかりだから、しばらくは身の回りの人を殺すのは控えなければならない。俺の周りの人がよく死ぬなんて言われてしまって、死神なんてアダ名をつけられてしまったら、今の俺の学校での地位が危うくなってしまう。それは、一番避けなければならない事態だ。
とにかく、西坂をやりこめたことで持ち直した気分おかげか、歩調が軽やかになり、麻友と二人で歩いた通学路は、いつもよりも短く感じた。
一時限目を乗り越えて、もはや眠気は頂点に達していた。休み時間をギリギリまで机に突っ伏して過ごし、始業のチャイムで体を起こす。
次は古典だ。チャイムから先生が教室に現れるまでは若干のラグがある。古典はプリントの宿題が出ていた。授業が始まる前に提出物を確認する。
学生鞄を漁る。いつもは少ない荷物だが、学期初めなので夏休みの間、家に持ち帰っていた教科書類で鞄がパンパンだ。みっちり詰められた教科書とプリント、ひとつひとつの間に手を差し込んで、コレは何でアレは何でと確認する。
「あれ?」
思わず声に出してしまった。もう一度、端から端まで確認する。焦りで湿った手に、乾いた紙が吸い付き、煩わしい。
「マジかよ……」
忘れてしまった。古典は夏休みの宿題の提出が早い方の授業だったから優先して処理したというのに、それを忘れてしまうとは。あのメッセージのせいだ。”なお1”からのメッセージさえなければ、こんなミスは犯さなかったのに。昨晩の恐怖を塗りつぶすように、腸が煮えくり返る。
何をこんなくだらないことで大げさな、と思われるかもしれないが、せっかくやったことをくだらないミスで無駄にしてしまうことほど腹の立つことはない。もしも超能力があったらなんていう想像は、俺には何の意味もないと考えていた時もあったが、あれは撤回する。もしも超能力があったら、テレポーテーションで宿題を取りに家に戻りたい。
予想外の出来事に額から汗を流していると、無慈悲にも古典の先生が教室の扉を開いた。今年から赴任した古典の講師だ。担任は確か持っていない。
「おはようございます」
先生の苗字は入間といった。下の名前は知らない。いつもどこかくたびれていそうで、やつれたというような痩せ方をしていて、髪はだらしなく伸びている。しかし、授業は分かりやすく、テンポもいいため、意外と人気がある。笑うと口が歪んで、どこかシニカルさを感じさせ、そこがただつまらない大人なだけの他の先生とは違うと思わせるのだろうか。俺も、この先生に嫌悪感を持ったことはなかった。
「さて、それじゃさっそく宿題集めるか。後ろから前に回してくれ」
なんの前置きもなく、入間先生は本題に入った。他の先生であれば、ここで長い無駄話を挟むところだろう。提出までの時間の猶予はなかった。どのみち、授業が始まってしまった時点で、事態を打開する術はなくなっている。俺は諦めて、授業が終わったら先生に謝りに行くことにした。
何事もなかったかのように、後ろから送られてきたプリントの束に自分のプリントを重ねることなく、前に回す。壁寄りでも窓側でもなく、一番前でも一番後ろでもない席で、目立たないのがラッキーだった。
そして授業が進行される。古典というと、退屈で進む進度も遅くて、というイメージだった。一年の時の古典の先生のせいかもしれない。しかし、古典は文系であれば受験で使う、必須科目だ。それが退屈では、都合が悪い。だが、先生は受験にも役立ちそうな情報を織り交ぜたりしながら、分かりやすくシステマチックに解説してくれるので、むしろ聞き逃すまいという姿勢になる。
そんな入間先生の授業だが、今日ばかりは俺の眠気を覚ますには至らなかった。気がついた時には意識が飛んで、授業の時間はあっという間に過ぎていた。ノートなんて取っているわけもなく、最後のあがきをしたのだろう、ミミズのようにのたくった謎の象形文字のようなものがいくつか並んで、その後パッタリと途絶えていた。
もう間もなく授業が終わる。ノートは後で写させてもらうからいいとして、問題はこれから先生に宿題を忘れたことを報告することだ。寝てた上に宿題を忘れただなんて、真面目とは言いがたい生徒の俺としても、さすがに気が引ける。
そう思っているうちにチャイムが鳴り、先生はパッと授業を切り上げ、教室の扉を開いた。後を追わなければ。先生の心証を悪くするのを覚悟して、その後を追った。
「入間先生、すいません」
「ん?」
先生は気だるげに振り向いた。
「あの、すいません、俺今日宿題忘れちゃって。やってあるんですけど、昨日夜色々あって鞄に入れ忘れちゃって」
我ながらしどろもどろになっていると思う。随分格好わるいし、惨めにもなってくる。余計に”なお1”に腹が立ってくる。
「そっか。じゃ、次の授業の時、提出よろしく」
先生はシニカルっぽい笑顔を浮かべると、それだけ言って、俺を咎めることもなく、職員室に戻っていった。ハッキリ言って肩透かしだ。でも、それで幾分か気持ちが軽くなる。
一仕事終えた気分で教室に戻ると、俺の席に男子生徒が座っていた。ニヤニヤと嫌らしい笑顔をこちらに向けて、軽く手まで振ってくる。
「最悪だ……」
今朝撃退したはずなのに、西坂のやつがまた生き返ってきやがった。今ここで殺してやろうかとも思ったが、諸々の状況を鑑みて、衝動を抑える。
「なんだよ?」
出来る限りドスを聞かせるが、喧嘩などしたことがないので、その加減が分からない。
「別に、休み時間だから話しに来ただけだけど?」
そのニヤけづらに拳を叩き込みたくなるが、人の殴り方も知らない。
「いいから、そこをどけ」
肩を押して無理矢理どかす。
「つれないなぁ」
当たり前だ。不審者に親しげに話しかけられて、フレンドリーに返すやつがどこにいる。チャイムが鳴る。いい助け舟だ。
「なんだ、もう終わりかよ。じゃ、また来るから」
「二度と来るな」
西坂が言い終わる前に、かなり食い気味に言ってやる。しかし、やはりこたえた様子なく、こいつには人の心を察する機能がないのだろうかと疑問に思う。
「高石ってあいつと仲良かったっけ? つか、あいつ誰」
隣の席の男子に尋ねられる。当然だ。西坂の近づき方は異様と言う以外にない。
「知らね。なんか絡まれてるんだよ」
「大変だな、高石も」
俺の苦労を分かってくれ。溜息をつき、頬杖をつき、次の授業が始まるのを待った。
最低の一日だった。良いことはなく悪いことばかり。あの後、西坂は休み時間の度に俺のところにやってきては、チャイムが鳴るまで粘着してきた。何かの使命を帯びているのではないかと思わされるほどで、同性愛者なのかと疑いもしたが、その様子はなく、目的が分からないのが不安を煽った。
おかげで麻友は今日一日遠巻きに申し訳なさそうな顔をするばかりだ。それは仕方のないことだとは思う。ただ、何かしらのフォローがあってもいいのではないかと期待しているが、今のところない。
ホームルームが終わって鞄を引っ掴むと、そのまま逃げるようにして家に帰り、昼寝をし、夕食を終えてだらだらと、今日は早めに寝ようと思い、風呂に入って今に至る。
部屋を暗くしてベッドに寝転び、目を閉じる。このまますぐにでも眠りに落ちることができそうだ。しかしそれは耳元の激しい振動により妨害された。
「誰だよ」
そう独り言ちながら、俺は枕元で充電していた携帯を手に取った。心のどこかに、麻友からのフォローなんじゃないかという期待があったが、それは敢え無く裏切られた。今日はそういう一日だ。俺の希望とは反対をいくようになっているらしい。諦観で半笑いしながら見る携帯のディスプレイに表示されていたのは、知らない電話番号だった。
「誰だ?」
SNSで友達登録だけをして、電話番号を交換していないこともよくあるし、教えてもらっておいて電話帳に登録していないということもよくあったので、特に不審には思わず、俺は電話を受けた。
「もしもし?」
反応がない。
「もしもし?」
応えない。電波が悪いのだろうか。耳から携帯を離して、画面を見る。こちらの電波は大丈夫だ。向こうの電波が悪いのだろうか。
「もしもし? 誰? 聞こえてる?」
息遣いが聞こえた。すっと息を吸う音がして、そして、鼓膜をくすぐるような、微かな声が聞こえてきた。
「――した?」
何か問いかけてきている。しかし、よく聞こえない。
「ん?」
「なんで殺した?」
鼓膜がひび割れるような声で、電話がビビビと震えた。しかも聞き覚えのある声、見覚えのある内容。口の中の水分が、波が引いていくようにサッと喉の奥へ逃げていった。
「は? なんで?」
威圧的に聞き返してやろうかとも思ったが、声が震えて虚勢が維持できない。電話口の向こうにいるのは、墨田先生なのか。声と会話の内容から考えるに、そうとしか思えない。
「俺には分かってるんだぞ?」
この声、やはり聞き覚えがある。本当に墨田先生なのだろうか。問いただしたくとも、声が出ない。
「お前は誰にも気付かれず、人を殺すことができる」
俺は聞き終わるか終わらないか、すぐさま通話を遮断した。そして、すぐに電源を切る。心臓がバクバクと鼓動を打ち、頸動脈が取れるかと思うくらいにビクンビクンと脈打つ。手の汗で、思わず携帯をベッドに落とした。もう、それを触る気にもなれない。
「くそっ」
携帯を蹴り飛ばすと、ベッドの隙間の暗闇へと吸い込まれていった。硬質な音が響く。その後に続く静寂。流れる汗が体を冷やす。
俺はまた、布団を頭から被って、何も聞こえないように耳を塞ぎ、目を閉じて、ひたすらに朝が来るのを待った。
頭が重い。理由は考えるまでもなく寝不足のせいだ。結局朝方、目覚ましが鳴る直前に一瞬落ちただけで、ちゃんと寝ることはできなかった。具合が悪いと嘘をついて学校をさぼろうかとも思ったが、今日は授業初日だ。出席しないのは気まずい。
都道沿いの狭い道を歩く。そろそろこの辺りで、いつも背中を叩かれるな。そう思っていると、案の定、背中を叩かれた。
「おっす、高石」
予想に反する声が聞こえ、俺の体が無闇矢鱈と素早く反応する。
「は?」
バッと振り返ると、そこにいたのは西坂だった。その数歩後方で、麻友が申し訳無さそうな顔でこちらの様子を窺っていた。口の動きが、ごめんと俺に伝えている。
「なんだよ、西坂」
多少威圧感を込めて言ったつもりだが、西坂は全然こたえていないようで、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべ、俺の肩から手を離そうとしない。俺はそれを、埃を叩くように払いのけた。
「別に、見かけたから、声かけただけだよ」
「あっそ、それならもう用は済んだろ? さっさと先行けよ」
「いいじゃん、一緒に行こうぜ」
「俺は麻友と一緒に行きたいんだよ」
「別に約束はしてないんだろ?」
痛いところを突いてくる。確かに約束はしていない。しかし、ほとんどそれも同然で、暗黙の了解というやつだったんだ。それを邪魔されてはかなわない。だから少しだけ、勇気を出した。
「じゃ、今日から約束だ。な、麻友?」
ますます申し訳無さそうに肩を縮こまらせていた麻友が、俺の言葉で顔を上げた。
「え……う、うん。そう。今日から約束」
俺の言葉の意味を理解したのか、麻友はこくこくと頷いた。
「そういうことだから、行こう、麻友」
「うん!」
並んで歩き出した俺と麻友を、さすがに気がとがめるのか、西坂は追って来なかった。ものすごく良い気分だ。高揚する。何が目的か知らないが、麻友を利用して俺に近づこうとしていることだけは分かる。それを頓挫させてやった。これ以上気持ちいいことがあるだろうか。
殺してやりたい。俺の感情がはっきりとそう自己主張する。しかし、こいつは同級生で、しかも俺に近づこうと妙なことをしているため、心臓を止めて殺すにはいかにもタイミングが悪い。普段から、なるべく身近な人間は殺さないように気をつけているのだ。ただでさえ、最近墨田先生を殺したばかりだから、しばらくは身の回りの人を殺すのは控えなければならない。俺の周りの人がよく死ぬなんて言われてしまって、死神なんてアダ名をつけられてしまったら、今の俺の学校での地位が危うくなってしまう。それは、一番避けなければならない事態だ。
とにかく、西坂をやりこめたことで持ち直した気分おかげか、歩調が軽やかになり、麻友と二人で歩いた通学路は、いつもよりも短く感じた。
一時限目を乗り越えて、もはや眠気は頂点に達していた。休み時間をギリギリまで机に突っ伏して過ごし、始業のチャイムで体を起こす。
次は古典だ。チャイムから先生が教室に現れるまでは若干のラグがある。古典はプリントの宿題が出ていた。授業が始まる前に提出物を確認する。
学生鞄を漁る。いつもは少ない荷物だが、学期初めなので夏休みの間、家に持ち帰っていた教科書類で鞄がパンパンだ。みっちり詰められた教科書とプリント、ひとつひとつの間に手を差し込んで、コレは何でアレは何でと確認する。
「あれ?」
思わず声に出してしまった。もう一度、端から端まで確認する。焦りで湿った手に、乾いた紙が吸い付き、煩わしい。
「マジかよ……」
忘れてしまった。古典は夏休みの宿題の提出が早い方の授業だったから優先して処理したというのに、それを忘れてしまうとは。あのメッセージのせいだ。”なお1”からのメッセージさえなければ、こんなミスは犯さなかったのに。昨晩の恐怖を塗りつぶすように、腸が煮えくり返る。
何をこんなくだらないことで大げさな、と思われるかもしれないが、せっかくやったことをくだらないミスで無駄にしてしまうことほど腹の立つことはない。もしも超能力があったらなんていう想像は、俺には何の意味もないと考えていた時もあったが、あれは撤回する。もしも超能力があったら、テレポーテーションで宿題を取りに家に戻りたい。
予想外の出来事に額から汗を流していると、無慈悲にも古典の先生が教室の扉を開いた。今年から赴任した古典の講師だ。担任は確か持っていない。
「おはようございます」
先生の苗字は入間といった。下の名前は知らない。いつもどこかくたびれていそうで、やつれたというような痩せ方をしていて、髪はだらしなく伸びている。しかし、授業は分かりやすく、テンポもいいため、意外と人気がある。笑うと口が歪んで、どこかシニカルさを感じさせ、そこがただつまらない大人なだけの他の先生とは違うと思わせるのだろうか。俺も、この先生に嫌悪感を持ったことはなかった。
「さて、それじゃさっそく宿題集めるか。後ろから前に回してくれ」
なんの前置きもなく、入間先生は本題に入った。他の先生であれば、ここで長い無駄話を挟むところだろう。提出までの時間の猶予はなかった。どのみち、授業が始まってしまった時点で、事態を打開する術はなくなっている。俺は諦めて、授業が終わったら先生に謝りに行くことにした。
何事もなかったかのように、後ろから送られてきたプリントの束に自分のプリントを重ねることなく、前に回す。壁寄りでも窓側でもなく、一番前でも一番後ろでもない席で、目立たないのがラッキーだった。
そして授業が進行される。古典というと、退屈で進む進度も遅くて、というイメージだった。一年の時の古典の先生のせいかもしれない。しかし、古典は文系であれば受験で使う、必須科目だ。それが退屈では、都合が悪い。だが、先生は受験にも役立ちそうな情報を織り交ぜたりしながら、分かりやすくシステマチックに解説してくれるので、むしろ聞き逃すまいという姿勢になる。
そんな入間先生の授業だが、今日ばかりは俺の眠気を覚ますには至らなかった。気がついた時には意識が飛んで、授業の時間はあっという間に過ぎていた。ノートなんて取っているわけもなく、最後のあがきをしたのだろう、ミミズのようにのたくった謎の象形文字のようなものがいくつか並んで、その後パッタリと途絶えていた。
もう間もなく授業が終わる。ノートは後で写させてもらうからいいとして、問題はこれから先生に宿題を忘れたことを報告することだ。寝てた上に宿題を忘れただなんて、真面目とは言いがたい生徒の俺としても、さすがに気が引ける。
そう思っているうちにチャイムが鳴り、先生はパッと授業を切り上げ、教室の扉を開いた。後を追わなければ。先生の心証を悪くするのを覚悟して、その後を追った。
「入間先生、すいません」
「ん?」
先生は気だるげに振り向いた。
「あの、すいません、俺今日宿題忘れちゃって。やってあるんですけど、昨日夜色々あって鞄に入れ忘れちゃって」
我ながらしどろもどろになっていると思う。随分格好わるいし、惨めにもなってくる。余計に”なお1”に腹が立ってくる。
「そっか。じゃ、次の授業の時、提出よろしく」
先生はシニカルっぽい笑顔を浮かべると、それだけ言って、俺を咎めることもなく、職員室に戻っていった。ハッキリ言って肩透かしだ。でも、それで幾分か気持ちが軽くなる。
一仕事終えた気分で教室に戻ると、俺の席に男子生徒が座っていた。ニヤニヤと嫌らしい笑顔をこちらに向けて、軽く手まで振ってくる。
「最悪だ……」
今朝撃退したはずなのに、西坂のやつがまた生き返ってきやがった。今ここで殺してやろうかとも思ったが、諸々の状況を鑑みて、衝動を抑える。
「なんだよ?」
出来る限りドスを聞かせるが、喧嘩などしたことがないので、その加減が分からない。
「別に、休み時間だから話しに来ただけだけど?」
そのニヤけづらに拳を叩き込みたくなるが、人の殴り方も知らない。
「いいから、そこをどけ」
肩を押して無理矢理どかす。
「つれないなぁ」
当たり前だ。不審者に親しげに話しかけられて、フレンドリーに返すやつがどこにいる。チャイムが鳴る。いい助け舟だ。
「なんだ、もう終わりかよ。じゃ、また来るから」
「二度と来るな」
西坂が言い終わる前に、かなり食い気味に言ってやる。しかし、やはりこたえた様子なく、こいつには人の心を察する機能がないのだろうかと疑問に思う。
「高石ってあいつと仲良かったっけ? つか、あいつ誰」
隣の席の男子に尋ねられる。当然だ。西坂の近づき方は異様と言う以外にない。
「知らね。なんか絡まれてるんだよ」
「大変だな、高石も」
俺の苦労を分かってくれ。溜息をつき、頬杖をつき、次の授業が始まるのを待った。
最低の一日だった。良いことはなく悪いことばかり。あの後、西坂は休み時間の度に俺のところにやってきては、チャイムが鳴るまで粘着してきた。何かの使命を帯びているのではないかと思わされるほどで、同性愛者なのかと疑いもしたが、その様子はなく、目的が分からないのが不安を煽った。
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「誰だよ」
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「誰だ?」
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「もしもし?」
応えない。電波が悪いのだろうか。耳から携帯を離して、画面を見る。こちらの電波は大丈夫だ。向こうの電波が悪いのだろうか。
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息遣いが聞こえた。すっと息を吸う音がして、そして、鼓膜をくすぐるような、微かな声が聞こえてきた。
「――した?」
何か問いかけてきている。しかし、よく聞こえない。
「ん?」
「なんで殺した?」
鼓膜がひび割れるような声で、電話がビビビと震えた。しかも聞き覚えのある声、見覚えのある内容。口の中の水分が、波が引いていくようにサッと喉の奥へ逃げていった。
「は? なんで?」
威圧的に聞き返してやろうかとも思ったが、声が震えて虚勢が維持できない。電話口の向こうにいるのは、墨田先生なのか。声と会話の内容から考えるに、そうとしか思えない。
「俺には分かってるんだぞ?」
この声、やはり聞き覚えがある。本当に墨田先生なのだろうか。問いただしたくとも、声が出ない。
「お前は誰にも気付かれず、人を殺すことができる」
俺は聞き終わるか終わらないか、すぐさま通話を遮断した。そして、すぐに電源を切る。心臓がバクバクと鼓動を打ち、頸動脈が取れるかと思うくらいにビクンビクンと脈打つ。手の汗で、思わず携帯をベッドに落とした。もう、それを触る気にもなれない。
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