幸福物質の瞬間

伽藍堂益太

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幸福物質の瞬間 14

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墨田亮次 3

 日曜日の深夜、俺は住宅街を歩いていた。兄のスーツにスニーカーというマヌケな出で立ちで、人目を避けるように。
 父と母には見つからないように家を出た。こんな格好で家を出て行ったら、それこそ兄が戻ってきたのではないかと、悲しい期待をさせてしまう。それだけは避けたかった。
 スニーカーを履いているのは、これからすることを考えたら、当然の選択だった。だって、俺はこれから高石祐介の家のベランダに侵入するのだから、革靴を履くなんていう愚行は犯せない。機動性を殺すことは、俺自身を殺すことになるかもしれないからだ。
 相手は超能力を持っている。俺が殺されたっておかしくはないんだ。結構な蛮行だと思う。なんでこんなことをしているのか。ちらつく蛍光灯がうるさい夜の路地で、俺は一人苦笑しそうになった。
「直基、俺、何してんだろうな」
 笑いながら、どこにもいるはずのない兄に問いかけるのは、多分、怖いのを紛らわそうとしているからだ。俺はそんなに、勇敢なタイプじゃない。兄とは違う。兄はいつだって真っ直ぐだったけど、俺は兄とは違う。何かしなければ収まりがつかないけれど、真っ直ぐ相手に向かっていく勇気はないから、遠回りをするしかない。
「ここか」
 誰にも聞こえない声で呟いた。なんの変哲もない、ただの民家。結構裕福なんじゃないか。少なくとも家の外壁は、真新しいというほどではなかったけれど、そこそこ綺麗だった。一軒家だし。
 まず一周、家の周りをぐるりと見渡す。すべての部屋の電気が消えている。これでは、やつの部屋の位置が分からない。シューイチから、両親の居室は一階、高石の部屋は二階だという情報は事前にもらっていたが、それでもベランダ沿いの部屋を全部覗くのは、リスクが高いように思われた。が、その時、二階の一室の電気が付いた。ここか。ここが高石祐介の部屋か。
 侵入経路なんて、そんな大層なものを考える必要はない。ただ外壁を上って、ベランダによじ登ればいい。若者の体力を舐めるな。両手の力でベランダの柵に、腕力でなんとか上る。
 これ、完全に不法侵入だよな、と思いつつ、ベランダを跨いだ。訴えられたらもう、有罪だ。
 ここまで、かなり頑張って音を殺していたけれど、さすがにベランダを歩く足音は殺しきることができなかった。まぁいい。微かに軋むベランダの音で、俺の存在に気づけ。
 部屋の前にたどり着く。カーテンは締め切られていた。光が漏れるが、中の様子は分からない。耳を澄ませてみる。音がしない。音が、しなすぎる。生活音がない。中にいる人物は、明らかに音を殺してる。俺と同じように。
 間違いない。ここが高石祐介の部屋だ。大丈夫。俺は大きく息を吸い、深く吐いた。
 俺は直基。
 俺は直基。
 自分に言い聞かせる。今だけ直基を自分に憑依させるようなつもりで、直基と心が繋がっていた時の感覚を思い出す。今の俺は、直基だ。俺の話す言葉は直基の言葉。
 そっと手をガラスに添える。さぁ、覚悟を決めろ。

 ダンダン。

 強めに二回。ダブルクリックのテンポでガラスを叩いた。反応はない。無視しているのだろう。

 ダン。ダン。

 強めに二回。言葉を聞き取れなかった相手に、はっきりと一音ずつ、言い直すように、ガラスを叩く。それでもまだ、反応はない。構わない。反応するまで、何度でも叩く。

 ダン。ダン。

 強く二回。ガラスが割れない程度に。まだ無視を決め込んでいるようだ。上等だ。だが、いつまでガラスは保つだろう。もし割れてしまったら、ベランダから飛び降りて、走って逃げよう。

 ダン。ダン。ダン。

 窓ガラスのフレームが揺れて、中のカーテンまで揺れる。と、その揺れが不自然に止まった。止められたのだ。カーテンの隙間から指が覗く。
 よし、よし。カーテンを掴んだ手が、サッと横に引かれ、中の光が飛び出してきた。そこに、高石祐介の姿があった。哀れなほどに怯えている。口はわなわなと震えて、顔はげっそりとやつれていた。
「な……なんで、だよ」
 窓ガラス越しでも、高石の声はこちらに届いた。
「墨田……先生?」
 高石祐介の反応は完璧だった。完全に、俺を兄と勘違いしている。当然といえば当然だ。今の俺と兄は、超難問の間違い探しくらいに似ているのだから。
 高石はカーテンに手を掛けたまま、固まっていた。固まって、俺の顔を凝視している。まぶたは痙攣し、顎をわなわなと震わせている。高石は、その場にへたり込んでしまった。両手で体を支えて、なんとか床に倒れずにいるといった様子だ。なんて哀れな姿。これが本当に、今までたくさんの人を殺してきた殺人鬼なのだろうか。
 俺の中に恐怖はなかった。例え超能力で人を殺してきたという前情報を持っていても、こんな弱く情けないやつに対して恐怖心を持てという方が難しい。
 さぁ、聞き出そう。高石本人の口から、高石本人の生きた言葉を。死んだ兄のために。
「なぜ殺した?」
 一番聞かなければならないこと。どうして兄が殺されなきゃならなかったのか。こればっかりは、高石の心の問題だから、兄と記憶や感情を共有していても分からなかった。
「な、なんでって……なんでって、あんたがいつもいつもうるさいからじゃないか。将来のことだとか、学部は考えろとか、夏休みを有意義に過ごせとか……あんたはいつもいつも、お節介だったじゃないか」
 そんなことで、兄は殺されなければならなかったのか。冗談じゃない。兄はいつだって、こいつの将来のことを考えて、その上でアドバイスしていただけなんだ。大学に入ってみれば分かる。志や目的もなく大学に入ったやつが、講義をサボったり、最悪中退するやつだっていて、そういう奴らは俺や兄の周りにだっていて、自分の生徒がそうならないで欲しいから、だからアドバイスしていたっていうのに。
 ボコボコにしてやりたい。いや、それどころか、今ならこいつを殺すことだってできる。身長差は十センチ以上ありそうだし、体重はたぶんそんなに変わらないけど、こんなたるんだ体をしているやつに、俺は負けたりしない。喧嘩なんてしたことないけど、そこらへんにある、鈍器になりそうなもんで何回も何回も殴れば、殺すことは難しいことじゃない。覚悟の問題だけだ。
 こいつは何人も殺してきた。ってことは、自分が殺される可能性があるってことも、考慮しているだろう。していなきゃおかしい。しているべきなんだ。
 そうだ。本当に超能力で殺したのか、確認しておいた方がいい。殺すなら、きちんと確認してから、こいつのことを殺したい。
「どうやって殺した?」
 超能力というのは聞いている。だけど、自分と兄以外の超能力者は見たことがない。いつだって、テレビの向こうの世界の話だ。
「どうやってって、あんた、気づいてたじゃないか。俺が心臓を握って殺したって」
 心臓を握って、ということは、本当にサイコキネシスで殺しているのか。
 高石は、自分の右手を見ながら、必死に笑顔を作ろうとしている。それは、虚勢だろう。自分が殺した相手に、自分の方が下だと思われたくないのかもしれない。なんて虚栄心の強いやつなんだ。
「人を殺して、悔やんだことはないのか? 人を殺して、罪悪感はなかったのか?」
 考えた言葉ではなく、ただ思い浮かんだ言葉だった。
「そんなの、ないけど……」
 こいつ、人間じゃないのか。人を殺して罪の意識がないなんて、それはもう、人間じゃない。血の気が引いた。それと同時に頭に血が昇る。まるで、自分が二人いるみたいだ。
 兄がこんなことを聞いたら、こいつになんて説教するだろう。考えるまでもなく、言葉は口をついて出ていた。
「お前が殺した人にも大事な人がいた」
 俺の言葉を、高石は呆然とした顔つきで俺の顔を見ながら聞いていた。
「お前が殺した人のことを、大事に思う人がいた」
 ここまでが、きっと兄が言うであろう言葉。そして、これから先は、ただの俺の感情そのままの言葉だ。
「大事な人を失った人が、どれだけ悲しい思いをするか」
 父と母の顔が思い浮かぶ。
「お前にも、同じ思いを味わわせてやろうか?」
 高石の顔が、恐怖に歪んだ。
「や、やめてください!」
 ガラスにへばりつき、高石は懇願する。
「祟ってやる。お前が生きている限り、俺はあの世からお前を祟り続けてやる。お前の大事に思う人は、皆祟り殺してくれる」
 感情を込め、恨みを高石の体内にねじ込むように、低く、そして確かな声で言った。
「そ、そんな……」
 絶望に打ちひしがれたような顔をして、高石は泣きだした。今の言葉に絶望を感じるということは、こいつにも大事な人がいるのだろうか。殺した人だって自分と同じだった。そういう想像はつかなかったのだろうか。
 腹が立つ。でも、俺は自分の言葉を顧みた。こいつにも大事な人がいて、こいつのことを大事に思う人がいるのか。例えば、今下の階で寝ている、こいつの両親とか。
「どうしたら、どうしたら許してくれますか?」
 窓にへばりつき、俺に許しを請う。その姿はあまりにもみっともなかった。ただ必死で、自分の身に降りかかる不幸から逃げようとしている。
 俺の気持ちは。殺してやりたい。でも、ビビってる。殺せるからって殺す奴は、そうそういないと思う。誰だって、普通の神経をしていたら人を殺すのは怖い。俺だってそうだ。兄を殺された恨みがあるけど、それでも、高石が目の前に首を晒していて、俺が日本刀を手にしていても、それを振り下ろすのは恐ろしい。
 兄だったらどうするだろう。あの熱血で善人だった兄なら、きっと罪を悔いるチャンスを与えるに違いない。そんな聖人みたいなやつ、現実味はないけれど、兄はそういうやつだった。そう思わせてくれるやつだった。心が繋がっていた俺だから、断言できる。ここで高石を殺すという結論には、絶対に至らない。
 俺は逃げてるだけ。兄はその優しさと強さで。それでも、出した答えはきっと同じになる。俺と兄は、ずっとそうやってきたから。
「罪を悔いろ」
 俺の言葉に、高石は震えを止めた。
「もう二度と、人を殺すな」
 高石は弱々しくも、首を縦に振った。本心かどうか分からない。ただ今のこの状況から逃げ出したいだけかもしれない。
「人のために生きろ」
 あぁ、こいつに、生きることを許可してしまった。
 高石は頷いた。信じていいのだろうか。
「俺はいつでもお前を見張っているぞ。いいな。お前がまた道を踏み外したら、俺はいつでもお前の前に現れる。覚えておけ」
 高石はまた、頷いた。今は、信じよう。その顔は蒼白で、なのに汗が浮いていて、見るに耐えない醜態だけど、少なくとも、嘘がつける状態だとは思えない。俺にできるのはここまでだ。もう何も言うまい。
 さて、お化けっぽく帰るには、どうしたらいいだろう。さっと消えるには。仕方ない、飛び降りるか。俺は高石祐介の部屋の窓からさっと退くと、ベランダの柵に足を掛けた。下を見下ろす。結構高い。でもま、怪我したって、捻挫程度だろう。縁に両手を掛けて、体を投げ下ろす。両手だけで宙吊りになると、あまりにも覚束ない気持ちになった。地に足がついていないとはこのことか。
 両手を離して、地面に飛び降りた。膝を曲げて、それでも足りない分は地面を転がって、衝撃を殺す。残った衝撃で、両脛が痺れるように傷んだが、俺は苦痛に顔を歪める間もなく、走りだした。高石のテリトリーから一刻も早く出て行くために。こんなマヌケな姿を見られては台無しだから、最後の仕上げとばかりに、路地を一気に駆け抜けた。

 どれくらい走っただろう。大して走ってはいない。角を何個か曲がったところからは、歩いてきた。でも、家の近所を歩いている今、まだ肩で息をしている。自覚はなかったけれど、それなりに緊張していたのだろう。
 俺のやったことは、これで良かったのかな。問いかけても、答えはない。
 家に着く頃には、もう深夜も深夜、丑の刻に差し掛かるところだった。寄り道などはもちろんしていないが、考え事をしながら歩いていたためだろう、時間は結構経っていた。
 とぼとぼと地面を見ながら歩いていたが、見慣れた地面に促されるように顔を上げると、自宅が見えた。もうこんなところまで来ていたか。
「あれ、電気付いてる」
 こんな時間だというのに、両親はまだ起きていたのか。明日からまた仕事なのに。
 鍵穴に鍵を差し込み、回す。しかし、手応えがない。
「あれ、開いている」
 ドアノブを回して入ろうとした時、俺が回すよりも先に、ドアノブの方が回り、そしてドアが勝手に開いた。俺はドアに押し出される形で後退りした。
 そこには母がいて、そしてその後ろに父がいた。
 母と目が合う。ほとんど泣き出す寸前の顔で、母が俺を見ている。いや、もしかしたら俺じゃなくて、兄を見ているのかもしれない。だって俺は今、まるっきり兄と同じ格好をしているのだから。
「亮ちゃん、こんな時間になにやってたの?」
 母は震える声で言った。そして弾かれたように飛び出し、俺を抱きすくめた。こんなの、子供の時以来かもしれない。
「なにって……」
 言えるわけがない。それに。
「俺って分かるの?」
 兄の格好をしているのに。高石は完全に俺を兄と間違えていたのに。
「なに言ってるの? 当たり前でしょ」
 母が金切り声で言った。
「当たり前だ。家族なんだから」
 父が繋いだ。
「そっか」
 それ以上は、喉が詰まって何も言えなくなった。
「まったく、直基の格好なんてして、なにしてたんだ」
 父は呆れているみたいだ。
「ちょっとね」
 もうダメだ。これ以上声を出すと。
「あまり心配かけるなよ」
 父の言葉数は多くない。でもその一言で、多くの気持ちが伝わってくる。
 もう、限界だった。涙が溢れてくる。
 兄はもういないんだ。急に現実味が広がって、それが実感される。いつの間にか、俺の半分に居座っていた虚無は消えていて、俺は俺だけになっていた。
 もう、兄はいない。でも、俺はまだ、生きていく。
「母さん、父さん」
「なに?」
「ん?」
 俺の声、まだちゃんと聞き取れる声かな。
「生きていこう。直基の分も」
 月並みな言葉だったけど、この言葉を言えるようになるまで、随分時間がかかった。
「そうだな」
「えぇ」
 兄が死んで、俺は今日、初めて泣いた。心の整理をして、兄の死を乗り越えていくのは、これからなのかもしれない。

 翌日、俺はシューイチにメッセージを送った。
『もう、気が済みました。俺の復讐は、ここで終わりにします。お世話になりました』
 帰ってきたメッセージは、
『そうですか。こちらこそ、お世話になりました』
 簡潔なメッセージで、俺たちのやり取りは終わった。これでいい。この後、シューイチが高石祐介に何をするのかは、分からない。だけど、生きて罪を償わせてやってくれたらいいと思う。
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