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果実 2
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彼はハローワークを出て、溜息をついた。今日もただパソコンの画面の表示された文字を目で追うだけの不毛な時間を過ごして、無駄に疲れた。
失業したのは十月で、二月ほど前。まだ失業保険がきいているので焦りは少なかったが、どの求人を見ても心惹かれるものがなかった。
そもそも本当に心惹かれて仕事をしている人の方が少ないのだろうが、それにしても自分の労働意欲は低すぎると、彼自身呆れるしかない。
前職は営業だった。飛び込みの営業はないという説明を受け、新卒らしい素直さでそれを信じて入社したものの、現実は甘くなく、毎日無理をして飛び込んでは、足りない数字にケチをつけられ、深夜に帰宅し早朝に家を出る生活を強いられた。
できる人であればもっと上手くやれるという実例はあったから、自分が無能なのだということは自覚している。我慢して仕事を続けていれば、いつかはできるようになっていたかもしれないし、三年耐えれば転職しやすかったのかもしれない。
でも、分かっていても、無理だった。一年半で会社を辞めて、今は無職で求職者だ。
真面目に就職活動に身が入らないのには、理由があった。まったく浪費をしない生活だったから、ある程度の貯金があったことと、いざとなったら実家に逃げ込めばいいと思っていること。そして何よりも、今の生活が楽しかったからだ。
彼はその楽しみのために、今日も図書館に向かって歩き出した。
目的地は図書館の五階。人文科学部門の歴史のコーナーだ。彼は私立大学の文学部史学科を卒業しており、大学院進学を志しはしなかったものの、歴史は今でも好きだった。
特別な理由があったわけではない。ただ、娯楽小説を読むのが好きで、一時期時代小説にハマり、その流れで史学科に入った。好きな時代小説の舞台になった時代を調べているうちに、なんとなく歴史って面白いな、と感じるようになっていただけだ。
あの小説とこの小説では、別の作者だけど江戸時代の同じ頃で、時勢がどうで、などと考えているのが楽しい。歴史は必ず前の時代があって次の時代がある。繋がっている。それを感じることに面白みがある。彼はそう思っていた。
今日も一階の小説コーナーから時代小説を一冊引っ張りだして、五階で資料でも読もう。そんなことを考えながら、図書館を目指した。
この趣味は時間を潰すにはもってこいな上に、図書館という公共施設を利用するだけなので、お金がかからない。失業中の身にとっては、いいことずくめだった。
ちなみに移動もすべて徒歩なので、これにもまたお金がかからない。その上、ちょうどいい散歩になるから、健康にも良い。仕事がない以外は、最高の生活だった。いや、仕事がないからこそ、最高なのかもしれない。
急な坂を上り、信号を渡ると、そこが図書館だ。まずは一階で時代小説を引っ張りだした。吉川英治の宮本武蔵だ。
いずれ青空文庫になるからと、あえて手に取らずにそのタイミングを待っていて、スマートフォンで読み始めたものの、結局紙媒体で読みたくなり、今シリーズを読み進めているところで、今日からついに最終巻に入る。
目当ての巻を確保して、それからエレベーターに乗り、五階に上がった。
どこか空いている机はあるかな、とフロアを行ったり来たり。机はフロアの中ほどにいくつか並べられた四人がけのものと、壁際に二人横並びになる自習机とがあった。彼は自習机の方が好みだった。
四人がけの方はあまりにオープンで落ち着かない。多くの人がそう思っているためか、自習机の方が人気だ。先にコートを椅子に掛けて場所を取っておかなければ、さっきまで空いていた席でも、本を取って戻ってきたら誰かが座っていたりする。
彼は運良く席を確保することに成功した。どうやら、隣の席、窓際の方の席には、女性が座っているようだ。本人はいないが、椅子に掛けられている赤い女性物のコートがそれを物語っている。
彼も椅子にコートを掛けて、時代小説を机に置くと、歴史コーナーに向かった。もう、本棚に表記されているコーナー名を見なくても、どこに日本の歴史コーナーがあるのか、体が覚えている。最短距離で本棚の間をすり抜けて、目的地に到着した。今日のお目当ては江戸時代初期の文化の本だ。
俯きがちだった目を上げ、ずらりと並んだ背表紙をなぞろうとした時、彼の視界に飛び込んできたのは、女性の後姿だった。
その後姿は、彼の心に、あまりにも深く食い込んだ。それは何故か。
あまりにも扇情的だったからか。否。それほどに劣情をもよおさせる体型ではなかった。背は高めではあるが、体型としては中途半端で、むちむちとむしゃぶりつきたくなるような尻をしているわけでも、眼を見張るように長く細い足をしているわけでもなかった。
では、何故か。それはただ一つの理由だった。今目の前にある後ろ姿が、彼の記憶に刻まれた女性の後ろ姿と合致したから。
身長に体型、それに長い黒髪も、着ている服以外はすべて、彼の記憶にある後ろ姿と合致していた。
頭の中で、目に映る姿と記憶が合致した瞬間、彼は考える間もなく、手を伸ばしていた。
逃げなければならない。普段ならそう思っているはずだった。それなのに、突然のできごとで、混乱していた。普段なら絶対に取るわけのない行動を取ってしまう。
伸ばした手を、その肩に置き、言葉を発した。
「ま……姫路さん」
舞衣、と下の名前で呼びそうになり、それを慌てて引っ込めて、苗字に改めた。今はもう、名前で呼ぶような関係ではないのだから。
女性は肩を叩かれて、声を上げるでもなく、ビクンと飛び跳ねるでもなく、ワンテンポおいてから、ただゆっくりと振り返った。
長い黒髪が流れて、顔が彼の方へと向けられる。
その顔の全貌が明らかになった時、彼は頭部に大量の血液が流入するのを感じた。顔は赤くなり、頭の中には、しまった、という言葉が何度も何度もリフレインした。
人違いだった。それもそうだ。こんなところに彼女が、姫路がいるわけはない。それなのに、ただ似ているというだけで、声を掛けてしまった。引きずっているのだ、過去を。だから、こんなみっともない真似をしてしまった。
振り返った女性は本を手に、彼の顔を凝視したまま、固まっている。突然知らない男に肩を叩かれたのだ。驚いて思考停止してしまうのも無理はない。彼はすぐさま頭を下げた。
「すみません、人違いでした」
顔を上げると、女性はまだ、状況が掴めていないのか、ポカンとした顔をしていた。
「はぁ……」
そう言って、曖昧に会釈すると、女性は胸に本を抱えて彼の横をすり抜けていった。
特徴はと言うと、メタルフレームのメガネくらいなもので、化粧っけもなく、地味な顔をしている。地味ではあるが、くっきりとした眉毛からは、実直な印象を受けた。すれ違いざまの髪の香りは爽やかなリンゴのようで、思わず彼は鼻から息を吸い込んだ。このまま空気に溶けさせるのは、惜しいような気がした。
彼女の背中を見送って、彼は何事もなかったかのように取り繕い、本の背表紙を目でなぞった。だが、内心は焦りやら恥ずかしさやらで、とても平常心ではいられない。絶対変な人だと思われた。
後で絶対、友達や家族に、変な人がいたと話して笑うに決まってる。いや、それどころか、今このフロアのどこかで、ネット上に呟いているかもしれない。変な男に声をかけられた、と。
そんな想像が頭の中を駆け巡り、胸では心臓がバクバク脈打って、なのに指先は冷たくなって、震えている。
ダメだダメだと、彼は頭を横に振った。そんなことよりも読書を楽しもうと、なんとか気持ちを切り替えようとする。
選んだ本を人差し指でスライドさせて、手に取る。本を読むことに集中していれば、この程度の失敗すぐに忘れられる。そう前向きに考えて、彼は席に戻った。
しかし、
「最悪だ」
思わず声に出しそうになったのを、なんとか堪えることに成功した。彼が確保した席、その隣の席には、今しがた間違えて声を掛けてしまった女性が座っていた。
この席に居座るか、それとも逃げて他の席に移るか。彼は選択を強いられた。このまま席に着くのは気まずいが、席を移動するというのも不自然な気がする。
彼は決断した。このまま素知らぬ顔で読書をしよう。別にこっちは気にしていませんよと、この女性にきちんと示しておきたい。ちょっとだけ見栄を張った。
席に着き、まずは時代小説の方を広げた。横目でチラリと女性を見るが、女性は本に集中して、こちらにはなんの興味も示さない。
良かった。彼はホッと胸を撫で下ろしたが、それでも、この女性に対する緊張が解けるわけではなく、開いた本の内容がまったく頭に入ってこない。いつもは目の前に風景が広がるような情景描写も、今はただの文字の羅列になってしまっている。
ダメだ。これ以上読んでいては吉川英治に失礼だ。それに、盛り上がってきた最終巻、せっかくなら集中して読める時に読みたい。
そう感じた彼は、本を閉じ、そして立ち上がった。コートを着ながら、隣の女性に目をやる。やはり、本に夢中で、こちらを見向きもしない。どんな本を読んでいるのかと背表紙を見ようにも、角度が悪くて見えない。
今日は運が悪かった。もう帰ろう。彼は本を手に取り、最後にもう一度だけと、女性を後ろ斜め四十五度から見つめ、図書館を後にした。
翌日、彼は日課のハローワーク通いの後、これもまた日課の図書館通いを決行していた。昨日は運悪く読書に集中することができなかった。今日こそは宮本武蔵を読破しよう。そう意気込みながら本を確保し、五階に向かった。
今日も自習机を確保することはできるだろうかと探しまわる。
「あ……」
唯一空いていた自習机には、赤い女性物のコートがかかっている。見覚えのあるコートだ。昨日の女性かもしれない。恥ずかしさが蘇る。どうしよう。彼は逡巡した。ここにすべきか、それともオープンスペースの四人がけの机を使うか。
考えるのを後回しにして、彼は昨日確保した本を再び確保しようと歴史コーナーに向かった。
またあの女性がいるかもしれない。そう思うと心拍数が上昇するのを感じたが、それでも昨日本を読めなかった分、今日はどうしても読みたい。女性がいたとしても、足を止めることはできなかった。
本棚の角を曲がり、歴史コーナーに入る。
嫌な予感というものは当たるもので、昨日の女性はそこにいた。昨日と同じメタルフレームのメガネにそれを引き立てるような黒い髪で、服は昨日と違うものの、一目見ただけであの女性だと彼には分かった。
彼がまじまじと女性を見ていると、女性が一冊の本を手に取った。
「あ……」
思わず声が出た。昨日確保して、今日も確保しようと思っていた本を、彼女が今、手に取っている。
そして、女性は彼の声に視線を吸い寄せられるように、彼の方を向いた。
しまった。彼の胸は大きく跳ねた。どうしよう。なんとか取り繕わなければ。
「昨日はどうも」
会釈をする。するついでに、彼女が今、胸に抱いている本を今一度確認した。やはり、自分の目当ての本だ。
「どうも」
女性も丁寧に会釈を返す。胸に本を抱いたまま、黒く長い髪が揺れる。そしてそれ以上の興味はないとでも言いたげに、彼を横切り、自分の席に戻っていった。
すれ違いざま、昨日と同じように甘いリンゴの香りがした。それだけで、自分の目当ての本を持って行かれたことを許してしまいそうになる。
いやいや、それではいけないと首を横に振った。読めないと思うと、なおさらその本を読みたくなってしまうものだ。
かといって、その本は俺が読むんだ、などといちゃもんを付ける気にはなれなかった。ならばどうするか。彼女が本を手放す瞬間を待つしかない。そのための最高のポジションはどこか。彼女の隣に決まっている。
彼の心は決まった。くるりと反転すると、彼は彼女の後を追った。大丈夫、別に怪しくない。別に彼女をつけてるわけじゃなくて、彼女の持ってる本に興味があるんだ。誰に聞かせるわけでもない言い訳をしながら、視界に捉えた女性を追いかけた。
幸い、彼女の隣の席はまだ空いていた。さりげない風を装って、彼は彼女の隣に腰掛けた。横目でちらりと窺うと、彼女はまだ本の序文を読んでいた。これは長期戦の構えかな、と彼は腰を据えて宮本武蔵にとりかかることにした。
ページはみるみるめくられていく。巌流島を前にしてのんびりとした様子の武蔵の行動に焦れながらも、彼の目は迷いなく、そして絶え間なく字を追い続けた。
時間はどんどん過ぎていった。日が沈み、窓の外は橙から濃紫に移り変わる。やがて武蔵が小次郎に勝利し、巌流島を後にした。苦悩する男の話だった。しかしまたこれは、お通という女性の、一途な恋の話だった。そして、人と人の繋がりの話だった。
歴史というのはとどのつまり、人と人の繋がりなのだ。人と人が繋がっているから、歴史もまた繋がっていくのだ。そういうことを考えさせられる本だった。多分、自分にはそういう繋がりが薄いから、それを本を読むことで補おうとしているのかもしれない。
「ふぅ……」
心地よい疲れで、彼は背もたれに体を預け、溜息をついた。存分に本を堪能して、ふと、彼は忘れていたことに気がついた。そういえば、隣の女性が読んでいる本を手放すのを待っていたのだ。
横をちらりと盗み見ると、彼女がこちらを向いていた。いや、こっちを向いているというような生ぬるい見方ではない。凝視していた。彼の顔と、そして彼が今しがた閉じたその本を。
「え?」
戸惑った彼は、思わず声を上げた。
「それ」
女性は彼の目の前にある本を指さした。
「はい」
「それ、面白かったですか?」
吉川英治の宮本武蔵だ。聞かれるまでもない。
「面白いですよ」
即答した。ただ、ひとつだけ気になることがある。この女性、声が大きい。外に出さえすれば、気になるようなボリュームではないのだが、残念ながらここは図書館だ。できれば会話は無声音でしたいところ。
周りの目が気になる。話を切り上げるか。しかし、女性はまだまだ話を続けたいというような顔をしている。
「あの、下の階に行きませんか?」
地階には自販機と休憩スペースがある。そこでなら、多少の会話は許されていた。話をするのであれば移動したい。周りから白い目で見られたくはなかった。
「はい」
女性は頷いた。コートを手に取り、本をそのまま机に置き去りにしてしまう。
「ちょっと」
「はい?」
彼は女性に肩に手を置いた。そのままにしていくとはマナーの悪い。捨て置くわけにはいかなかった。
「本、戻さないと」
「そうなんですか。分かりました」
初耳だというような顔で女性が言うものだから、彼は拍子抜けした。まさか、図書館を利用したことがなかったのだろうか。昨日もいたが、昨日が初めてとか。
ありえないことではない。機会がなければ図書館を利用したことがない人だっているはずだ。本は買う派の人が、何かの理由で図書館を利用し始めたってこともあるはずだ。例えば、失業してお金がないとか。
そう思うと、俄然、この女性に親近感が湧いてきた。利用の仕方を知らないのなら、自分が教えてあげよう。そんな気になってきた。
女性が本を戻したのを見届けて、二人でエレベーターに乗り込む。
「図書館では、小さい声で喋らないと、ダメですよ」
「そうなんですか」
彼女は素直に声のボリュームを落とした。言われたら屁理屈で揚げ足を取ったりせずに、きちんと素直に聞ける人らしい。そう思うと、彼はますます、彼女に対して好感を持った。
それから自分の宮本武蔵を元の場所に戻して、階段で地階に下りた。地階は音楽映像ライブラリーと学習室、それに飲食コーナーがあって、そこが休憩スペースになっている。大声で話すことは憚れるが、会話をするとしたらここをおいて他にはない。
「何か飲みますか?」
「いいえ」
彼女がそう言うので、彼は自販機に小銭を入れ、ボタンを押した。その様子を、彼女がまじまじと見ていることに、彼は気がついた。
やはり何か飲みたいのだろうか、遠慮しているのだろうかと、彼女にもう一度何か飲むかと尋ねたが、彼女はただ首を横に振った。
自販機で飲み物を買うのを、まるで珍しいものを見るような顔で見ているが、何かの勘違いだろうと、光は缶コーヒーのプルタブを開けた。
もう閉館時間も近いためか、飲食コーナーには他に人がいない。学習室も既に閉まっている。周りに気を使う必要はなさそうだ。
「えっと、俺、東光。あずま、ひかるって言います」
「そうですか。東光さん」
「はい。あなたは?」
「……千秋です」
「千秋さん」
それが苗字か名前か分からないが、別にどちらでも、呼び方が分かればそれで良かった。
「あの、千秋さんも歴史、好きなんですか?」
最近では歴女、というものが流行っているらしい。色々な歴史物の作品があるから、そこから入って歴史を好きになるのだろう。
そういう人に対して、光は偏見を持っていなかったが、かつて自分にトラウマを植え付けてくれた人がそれに該当するため、歴女と聞くと、胸に靄がかかったようになる。
「はい。ずっと続いていて、これからも続いていくのだと思うと、心惹かれます」
彼女ははっきりそう言った。
「それ、分かります。全部が繋がってるって感じがするんですよね」
「はい」
千秋はあまり表情豊かな方ではないらしい。
「どのへんの時代が好きなんですか?」
一口に歴史が好きとはいっても、人にはそれぞれ違う好みがある。人が集まると、それによって喧々囂々となってしまう場合はあるが、この人となら、好みによって罵り合いになるようなことはないと、光は判断した。
「まだ勉強し始めたばかりで、詳しくありません」
「そうですか」
返しづらい返答だった。こんなところまで引っ張ってきたのだから、何か会話を弾ませなければ。半ば義務感のような気持ちで話題を探す。
そういえば、と光は思い出した。そもそもここに千秋をつれてきたのは、千秋が宮本武蔵に興味を持った様子だったからだ。
「あの、宮本武蔵に興味があったんですか?」
「はい。あなたの読んでいた本です。どんな内容なんですか?」
宮本武蔵という題名で、なんとなく分かりそうなものだが、と思いつつも、その内容をかいつまんで話すと、どうやら千秋はそれに興味を持ったようだった。
「恋愛ですか。読んでみたいです」
どうやら、特に恋愛周りに興味を持ったらしい。やはり女性だから、取っ掛かりとしてその部分が最適なのかもしれない。
「それなら、読んでみるのが早いですよ」
本なんて、四の五の言わずに読んでしまえばいい。
「そうですね。では早速」
千秋が一歩踏み出した瞬間、館内アナウンスが流れた。
『図書館の閉館は二十時半です。貸出がまだのお客様は――』
これで貸出カウンターは閉めるから、借りるならさっさと借りろとのことだ。ならば、さっさと行かなければ。
「借りるなら、早く行かないと」
「……借りるのは、ちょっと」
「嫌なんですか?」
「……はい」
そういう主義の人もいるのだろう。
「なら、明日また来るしかありませんね」
「はい。明日また来て、読みます。あなたは、明日も来ますか?」
千秋は真っ直ぐ光の目を見て言った。それに気圧されたわけではないが、たじろいだ光は口をぽかんと開けたまま、首を縦に振った。
「そうですか。では、また明日」
それだけ言うと、言葉とは裏腹に、名残惜しさのかけらもないような顔をして、スタスタと歩いていってしまった。光には、追いかける間さえなかった。
「なんだったんだ?」
まったく、不思議な人だった。しかし、光が宮本武蔵の話を延々としている時には真っ直ぐ光に相対して、本当に興味があるのだということを、姿勢で示してくれた。そんなこと、生まれて初めてだった、かもしれない。
不思議で意味不明だけど、決して不快感はない。それに、また明日と言われてしまった。
「来ないわけにいかないよな」
言われてしまった以上、明日も来ないわけにはいかない。また明日。そんなこと言われたの、久しぶりだった。それどころか、誰かとまともに会話したこと自体、久しぶりだった。会社にいた時ですら、あれは会話だったのだろうかと疑問に思ってしまうような会話しかしていない。
生きた心地がした。光は今、生きているという実感があった。それはきっと、誰かと繋がったからだ。誰かと繋がっているということ。それはこんなにも、胸を温めるものなのか。
光はすっかり冷め切ったコーヒーを飲み干して、自分も帰路に着くことにした。今夜はいつもよりもきっと、温かい気持ちで眠れるに違いない。足取りも軽く、光は凍えるような夜の空気を、切り裂くようにして闊歩した。
失業したのは十月で、二月ほど前。まだ失業保険がきいているので焦りは少なかったが、どの求人を見ても心惹かれるものがなかった。
そもそも本当に心惹かれて仕事をしている人の方が少ないのだろうが、それにしても自分の労働意欲は低すぎると、彼自身呆れるしかない。
前職は営業だった。飛び込みの営業はないという説明を受け、新卒らしい素直さでそれを信じて入社したものの、現実は甘くなく、毎日無理をして飛び込んでは、足りない数字にケチをつけられ、深夜に帰宅し早朝に家を出る生活を強いられた。
できる人であればもっと上手くやれるという実例はあったから、自分が無能なのだということは自覚している。我慢して仕事を続けていれば、いつかはできるようになっていたかもしれないし、三年耐えれば転職しやすかったのかもしれない。
でも、分かっていても、無理だった。一年半で会社を辞めて、今は無職で求職者だ。
真面目に就職活動に身が入らないのには、理由があった。まったく浪費をしない生活だったから、ある程度の貯金があったことと、いざとなったら実家に逃げ込めばいいと思っていること。そして何よりも、今の生活が楽しかったからだ。
彼はその楽しみのために、今日も図書館に向かって歩き出した。
目的地は図書館の五階。人文科学部門の歴史のコーナーだ。彼は私立大学の文学部史学科を卒業しており、大学院進学を志しはしなかったものの、歴史は今でも好きだった。
特別な理由があったわけではない。ただ、娯楽小説を読むのが好きで、一時期時代小説にハマり、その流れで史学科に入った。好きな時代小説の舞台になった時代を調べているうちに、なんとなく歴史って面白いな、と感じるようになっていただけだ。
あの小説とこの小説では、別の作者だけど江戸時代の同じ頃で、時勢がどうで、などと考えているのが楽しい。歴史は必ず前の時代があって次の時代がある。繋がっている。それを感じることに面白みがある。彼はそう思っていた。
今日も一階の小説コーナーから時代小説を一冊引っ張りだして、五階で資料でも読もう。そんなことを考えながら、図書館を目指した。
この趣味は時間を潰すにはもってこいな上に、図書館という公共施設を利用するだけなので、お金がかからない。失業中の身にとっては、いいことずくめだった。
ちなみに移動もすべて徒歩なので、これにもまたお金がかからない。その上、ちょうどいい散歩になるから、健康にも良い。仕事がない以外は、最高の生活だった。いや、仕事がないからこそ、最高なのかもしれない。
急な坂を上り、信号を渡ると、そこが図書館だ。まずは一階で時代小説を引っ張りだした。吉川英治の宮本武蔵だ。
いずれ青空文庫になるからと、あえて手に取らずにそのタイミングを待っていて、スマートフォンで読み始めたものの、結局紙媒体で読みたくなり、今シリーズを読み進めているところで、今日からついに最終巻に入る。
目当ての巻を確保して、それからエレベーターに乗り、五階に上がった。
どこか空いている机はあるかな、とフロアを行ったり来たり。机はフロアの中ほどにいくつか並べられた四人がけのものと、壁際に二人横並びになる自習机とがあった。彼は自習机の方が好みだった。
四人がけの方はあまりにオープンで落ち着かない。多くの人がそう思っているためか、自習机の方が人気だ。先にコートを椅子に掛けて場所を取っておかなければ、さっきまで空いていた席でも、本を取って戻ってきたら誰かが座っていたりする。
彼は運良く席を確保することに成功した。どうやら、隣の席、窓際の方の席には、女性が座っているようだ。本人はいないが、椅子に掛けられている赤い女性物のコートがそれを物語っている。
彼も椅子にコートを掛けて、時代小説を机に置くと、歴史コーナーに向かった。もう、本棚に表記されているコーナー名を見なくても、どこに日本の歴史コーナーがあるのか、体が覚えている。最短距離で本棚の間をすり抜けて、目的地に到着した。今日のお目当ては江戸時代初期の文化の本だ。
俯きがちだった目を上げ、ずらりと並んだ背表紙をなぞろうとした時、彼の視界に飛び込んできたのは、女性の後姿だった。
その後姿は、彼の心に、あまりにも深く食い込んだ。それは何故か。
あまりにも扇情的だったからか。否。それほどに劣情をもよおさせる体型ではなかった。背は高めではあるが、体型としては中途半端で、むちむちとむしゃぶりつきたくなるような尻をしているわけでも、眼を見張るように長く細い足をしているわけでもなかった。
では、何故か。それはただ一つの理由だった。今目の前にある後ろ姿が、彼の記憶に刻まれた女性の後ろ姿と合致したから。
身長に体型、それに長い黒髪も、着ている服以外はすべて、彼の記憶にある後ろ姿と合致していた。
頭の中で、目に映る姿と記憶が合致した瞬間、彼は考える間もなく、手を伸ばしていた。
逃げなければならない。普段ならそう思っているはずだった。それなのに、突然のできごとで、混乱していた。普段なら絶対に取るわけのない行動を取ってしまう。
伸ばした手を、その肩に置き、言葉を発した。
「ま……姫路さん」
舞衣、と下の名前で呼びそうになり、それを慌てて引っ込めて、苗字に改めた。今はもう、名前で呼ぶような関係ではないのだから。
女性は肩を叩かれて、声を上げるでもなく、ビクンと飛び跳ねるでもなく、ワンテンポおいてから、ただゆっくりと振り返った。
長い黒髪が流れて、顔が彼の方へと向けられる。
その顔の全貌が明らかになった時、彼は頭部に大量の血液が流入するのを感じた。顔は赤くなり、頭の中には、しまった、という言葉が何度も何度もリフレインした。
人違いだった。それもそうだ。こんなところに彼女が、姫路がいるわけはない。それなのに、ただ似ているというだけで、声を掛けてしまった。引きずっているのだ、過去を。だから、こんなみっともない真似をしてしまった。
振り返った女性は本を手に、彼の顔を凝視したまま、固まっている。突然知らない男に肩を叩かれたのだ。驚いて思考停止してしまうのも無理はない。彼はすぐさま頭を下げた。
「すみません、人違いでした」
顔を上げると、女性はまだ、状況が掴めていないのか、ポカンとした顔をしていた。
「はぁ……」
そう言って、曖昧に会釈すると、女性は胸に本を抱えて彼の横をすり抜けていった。
特徴はと言うと、メタルフレームのメガネくらいなもので、化粧っけもなく、地味な顔をしている。地味ではあるが、くっきりとした眉毛からは、実直な印象を受けた。すれ違いざまの髪の香りは爽やかなリンゴのようで、思わず彼は鼻から息を吸い込んだ。このまま空気に溶けさせるのは、惜しいような気がした。
彼女の背中を見送って、彼は何事もなかったかのように取り繕い、本の背表紙を目でなぞった。だが、内心は焦りやら恥ずかしさやらで、とても平常心ではいられない。絶対変な人だと思われた。
後で絶対、友達や家族に、変な人がいたと話して笑うに決まってる。いや、それどころか、今このフロアのどこかで、ネット上に呟いているかもしれない。変な男に声をかけられた、と。
そんな想像が頭の中を駆け巡り、胸では心臓がバクバク脈打って、なのに指先は冷たくなって、震えている。
ダメだダメだと、彼は頭を横に振った。そんなことよりも読書を楽しもうと、なんとか気持ちを切り替えようとする。
選んだ本を人差し指でスライドさせて、手に取る。本を読むことに集中していれば、この程度の失敗すぐに忘れられる。そう前向きに考えて、彼は席に戻った。
しかし、
「最悪だ」
思わず声に出しそうになったのを、なんとか堪えることに成功した。彼が確保した席、その隣の席には、今しがた間違えて声を掛けてしまった女性が座っていた。
この席に居座るか、それとも逃げて他の席に移るか。彼は選択を強いられた。このまま席に着くのは気まずいが、席を移動するというのも不自然な気がする。
彼は決断した。このまま素知らぬ顔で読書をしよう。別にこっちは気にしていませんよと、この女性にきちんと示しておきたい。ちょっとだけ見栄を張った。
席に着き、まずは時代小説の方を広げた。横目でチラリと女性を見るが、女性は本に集中して、こちらにはなんの興味も示さない。
良かった。彼はホッと胸を撫で下ろしたが、それでも、この女性に対する緊張が解けるわけではなく、開いた本の内容がまったく頭に入ってこない。いつもは目の前に風景が広がるような情景描写も、今はただの文字の羅列になってしまっている。
ダメだ。これ以上読んでいては吉川英治に失礼だ。それに、盛り上がってきた最終巻、せっかくなら集中して読める時に読みたい。
そう感じた彼は、本を閉じ、そして立ち上がった。コートを着ながら、隣の女性に目をやる。やはり、本に夢中で、こちらを見向きもしない。どんな本を読んでいるのかと背表紙を見ようにも、角度が悪くて見えない。
今日は運が悪かった。もう帰ろう。彼は本を手に取り、最後にもう一度だけと、女性を後ろ斜め四十五度から見つめ、図書館を後にした。
翌日、彼は日課のハローワーク通いの後、これもまた日課の図書館通いを決行していた。昨日は運悪く読書に集中することができなかった。今日こそは宮本武蔵を読破しよう。そう意気込みながら本を確保し、五階に向かった。
今日も自習机を確保することはできるだろうかと探しまわる。
「あ……」
唯一空いていた自習机には、赤い女性物のコートがかかっている。見覚えのあるコートだ。昨日の女性かもしれない。恥ずかしさが蘇る。どうしよう。彼は逡巡した。ここにすべきか、それともオープンスペースの四人がけの机を使うか。
考えるのを後回しにして、彼は昨日確保した本を再び確保しようと歴史コーナーに向かった。
またあの女性がいるかもしれない。そう思うと心拍数が上昇するのを感じたが、それでも昨日本を読めなかった分、今日はどうしても読みたい。女性がいたとしても、足を止めることはできなかった。
本棚の角を曲がり、歴史コーナーに入る。
嫌な予感というものは当たるもので、昨日の女性はそこにいた。昨日と同じメタルフレームのメガネにそれを引き立てるような黒い髪で、服は昨日と違うものの、一目見ただけであの女性だと彼には分かった。
彼がまじまじと女性を見ていると、女性が一冊の本を手に取った。
「あ……」
思わず声が出た。昨日確保して、今日も確保しようと思っていた本を、彼女が今、手に取っている。
そして、女性は彼の声に視線を吸い寄せられるように、彼の方を向いた。
しまった。彼の胸は大きく跳ねた。どうしよう。なんとか取り繕わなければ。
「昨日はどうも」
会釈をする。するついでに、彼女が今、胸に抱いている本を今一度確認した。やはり、自分の目当ての本だ。
「どうも」
女性も丁寧に会釈を返す。胸に本を抱いたまま、黒く長い髪が揺れる。そしてそれ以上の興味はないとでも言いたげに、彼を横切り、自分の席に戻っていった。
すれ違いざま、昨日と同じように甘いリンゴの香りがした。それだけで、自分の目当ての本を持って行かれたことを許してしまいそうになる。
いやいや、それではいけないと首を横に振った。読めないと思うと、なおさらその本を読みたくなってしまうものだ。
かといって、その本は俺が読むんだ、などといちゃもんを付ける気にはなれなかった。ならばどうするか。彼女が本を手放す瞬間を待つしかない。そのための最高のポジションはどこか。彼女の隣に決まっている。
彼の心は決まった。くるりと反転すると、彼は彼女の後を追った。大丈夫、別に怪しくない。別に彼女をつけてるわけじゃなくて、彼女の持ってる本に興味があるんだ。誰に聞かせるわけでもない言い訳をしながら、視界に捉えた女性を追いかけた。
幸い、彼女の隣の席はまだ空いていた。さりげない風を装って、彼は彼女の隣に腰掛けた。横目でちらりと窺うと、彼女はまだ本の序文を読んでいた。これは長期戦の構えかな、と彼は腰を据えて宮本武蔵にとりかかることにした。
ページはみるみるめくられていく。巌流島を前にしてのんびりとした様子の武蔵の行動に焦れながらも、彼の目は迷いなく、そして絶え間なく字を追い続けた。
時間はどんどん過ぎていった。日が沈み、窓の外は橙から濃紫に移り変わる。やがて武蔵が小次郎に勝利し、巌流島を後にした。苦悩する男の話だった。しかしまたこれは、お通という女性の、一途な恋の話だった。そして、人と人の繋がりの話だった。
歴史というのはとどのつまり、人と人の繋がりなのだ。人と人が繋がっているから、歴史もまた繋がっていくのだ。そういうことを考えさせられる本だった。多分、自分にはそういう繋がりが薄いから、それを本を読むことで補おうとしているのかもしれない。
「ふぅ……」
心地よい疲れで、彼は背もたれに体を預け、溜息をついた。存分に本を堪能して、ふと、彼は忘れていたことに気がついた。そういえば、隣の女性が読んでいる本を手放すのを待っていたのだ。
横をちらりと盗み見ると、彼女がこちらを向いていた。いや、こっちを向いているというような生ぬるい見方ではない。凝視していた。彼の顔と、そして彼が今しがた閉じたその本を。
「え?」
戸惑った彼は、思わず声を上げた。
「それ」
女性は彼の目の前にある本を指さした。
「はい」
「それ、面白かったですか?」
吉川英治の宮本武蔵だ。聞かれるまでもない。
「面白いですよ」
即答した。ただ、ひとつだけ気になることがある。この女性、声が大きい。外に出さえすれば、気になるようなボリュームではないのだが、残念ながらここは図書館だ。できれば会話は無声音でしたいところ。
周りの目が気になる。話を切り上げるか。しかし、女性はまだまだ話を続けたいというような顔をしている。
「あの、下の階に行きませんか?」
地階には自販機と休憩スペースがある。そこでなら、多少の会話は許されていた。話をするのであれば移動したい。周りから白い目で見られたくはなかった。
「はい」
女性は頷いた。コートを手に取り、本をそのまま机に置き去りにしてしまう。
「ちょっと」
「はい?」
彼は女性に肩に手を置いた。そのままにしていくとはマナーの悪い。捨て置くわけにはいかなかった。
「本、戻さないと」
「そうなんですか。分かりました」
初耳だというような顔で女性が言うものだから、彼は拍子抜けした。まさか、図書館を利用したことがなかったのだろうか。昨日もいたが、昨日が初めてとか。
ありえないことではない。機会がなければ図書館を利用したことがない人だっているはずだ。本は買う派の人が、何かの理由で図書館を利用し始めたってこともあるはずだ。例えば、失業してお金がないとか。
そう思うと、俄然、この女性に親近感が湧いてきた。利用の仕方を知らないのなら、自分が教えてあげよう。そんな気になってきた。
女性が本を戻したのを見届けて、二人でエレベーターに乗り込む。
「図書館では、小さい声で喋らないと、ダメですよ」
「そうなんですか」
彼女は素直に声のボリュームを落とした。言われたら屁理屈で揚げ足を取ったりせずに、きちんと素直に聞ける人らしい。そう思うと、彼はますます、彼女に対して好感を持った。
それから自分の宮本武蔵を元の場所に戻して、階段で地階に下りた。地階は音楽映像ライブラリーと学習室、それに飲食コーナーがあって、そこが休憩スペースになっている。大声で話すことは憚れるが、会話をするとしたらここをおいて他にはない。
「何か飲みますか?」
「いいえ」
彼女がそう言うので、彼は自販機に小銭を入れ、ボタンを押した。その様子を、彼女がまじまじと見ていることに、彼は気がついた。
やはり何か飲みたいのだろうか、遠慮しているのだろうかと、彼女にもう一度何か飲むかと尋ねたが、彼女はただ首を横に振った。
自販機で飲み物を買うのを、まるで珍しいものを見るような顔で見ているが、何かの勘違いだろうと、光は缶コーヒーのプルタブを開けた。
もう閉館時間も近いためか、飲食コーナーには他に人がいない。学習室も既に閉まっている。周りに気を使う必要はなさそうだ。
「えっと、俺、東光。あずま、ひかるって言います」
「そうですか。東光さん」
「はい。あなたは?」
「……千秋です」
「千秋さん」
それが苗字か名前か分からないが、別にどちらでも、呼び方が分かればそれで良かった。
「あの、千秋さんも歴史、好きなんですか?」
最近では歴女、というものが流行っているらしい。色々な歴史物の作品があるから、そこから入って歴史を好きになるのだろう。
そういう人に対して、光は偏見を持っていなかったが、かつて自分にトラウマを植え付けてくれた人がそれに該当するため、歴女と聞くと、胸に靄がかかったようになる。
「はい。ずっと続いていて、これからも続いていくのだと思うと、心惹かれます」
彼女ははっきりそう言った。
「それ、分かります。全部が繋がってるって感じがするんですよね」
「はい」
千秋はあまり表情豊かな方ではないらしい。
「どのへんの時代が好きなんですか?」
一口に歴史が好きとはいっても、人にはそれぞれ違う好みがある。人が集まると、それによって喧々囂々となってしまう場合はあるが、この人となら、好みによって罵り合いになるようなことはないと、光は判断した。
「まだ勉強し始めたばかりで、詳しくありません」
「そうですか」
返しづらい返答だった。こんなところまで引っ張ってきたのだから、何か会話を弾ませなければ。半ば義務感のような気持ちで話題を探す。
そういえば、と光は思い出した。そもそもここに千秋をつれてきたのは、千秋が宮本武蔵に興味を持った様子だったからだ。
「あの、宮本武蔵に興味があったんですか?」
「はい。あなたの読んでいた本です。どんな内容なんですか?」
宮本武蔵という題名で、なんとなく分かりそうなものだが、と思いつつも、その内容をかいつまんで話すと、どうやら千秋はそれに興味を持ったようだった。
「恋愛ですか。読んでみたいです」
どうやら、特に恋愛周りに興味を持ったらしい。やはり女性だから、取っ掛かりとしてその部分が最適なのかもしれない。
「それなら、読んでみるのが早いですよ」
本なんて、四の五の言わずに読んでしまえばいい。
「そうですね。では早速」
千秋が一歩踏み出した瞬間、館内アナウンスが流れた。
『図書館の閉館は二十時半です。貸出がまだのお客様は――』
これで貸出カウンターは閉めるから、借りるならさっさと借りろとのことだ。ならば、さっさと行かなければ。
「借りるなら、早く行かないと」
「……借りるのは、ちょっと」
「嫌なんですか?」
「……はい」
そういう主義の人もいるのだろう。
「なら、明日また来るしかありませんね」
「はい。明日また来て、読みます。あなたは、明日も来ますか?」
千秋は真っ直ぐ光の目を見て言った。それに気圧されたわけではないが、たじろいだ光は口をぽかんと開けたまま、首を縦に振った。
「そうですか。では、また明日」
それだけ言うと、言葉とは裏腹に、名残惜しさのかけらもないような顔をして、スタスタと歩いていってしまった。光には、追いかける間さえなかった。
「なんだったんだ?」
まったく、不思議な人だった。しかし、光が宮本武蔵の話を延々としている時には真っ直ぐ光に相対して、本当に興味があるのだということを、姿勢で示してくれた。そんなこと、生まれて初めてだった、かもしれない。
不思議で意味不明だけど、決して不快感はない。それに、また明日と言われてしまった。
「来ないわけにいかないよな」
言われてしまった以上、明日も来ないわけにはいかない。また明日。そんなこと言われたの、久しぶりだった。それどころか、誰かとまともに会話したこと自体、久しぶりだった。会社にいた時ですら、あれは会話だったのだろうかと疑問に思ってしまうような会話しかしていない。
生きた心地がした。光は今、生きているという実感があった。それはきっと、誰かと繋がったからだ。誰かと繋がっているということ。それはこんなにも、胸を温めるものなのか。
光はすっかり冷め切ったコーヒーを飲み干して、自分も帰路に着くことにした。今夜はいつもよりもきっと、温かい気持ちで眠れるに違いない。足取りも軽く、光は凍えるような夜の空気を、切り裂くようにして闊歩した。
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