果実

伽藍堂益太

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果実 3

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 翌日、光は罪悪感を覚えながらも、ハローワークに行かず、家から図書館に直行してしまった。仕事を探さなければならないというのに、昨日の女性、千秋に会うことを優先してしまった。
 今日だけ今日だけと自分に言い聞かせて、光は図書館の自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り込んで、五階のボタンを押す。ドアが閉まり一人きりになった瞬間、光の顔には締りがなくなった。
 好感を持っていたのだ。千秋に。それと同時に、ある種の期待も持っていた。若い女性と話すこと自体久しぶりで、多少ときめいてしまったとしても、それは否定できるものではない。乾いた生活に、潤いがもたらされたのだから。
 五階について、ドアが開く。光は顔を引き締めて、千秋はどこにいるのかと、自習机を見て回った。
 いた。
 いつもと同じ赤い女性物のコートを椅子に掛けて、本を開いて瞬きもしない。光が接近し、隣に腰を下ろしているにも関わらず、それに気づいた様子はなく、本を読み続けている。
 これはしばらく気づいて貰えそうにないなと、光は昨日読みそこねた本を取りに行った。今日は恙無く本を確保することができた。席に戻っても、彼女は本に夢中だった。光も本を開き、時折千秋の方を盗み見る。
 千秋は昨日話した通り、宮本武蔵を読んでいた。一巻の、すでに半分以上読んでいる。一体何時からここにいるのだろうか。昼食を食べてから家を出た光がさっき到着したばかりだから、もしかすると、開館からいたのではなかろうか。
 すごい集中力だと感心すると同時にちょっと呆れて、光は思わず笑った。
 その気配に気がついたのか、千秋は顔を上げた。
「こんにちは」
「あ、はい。こんにちは」
 唐突な挨拶に、光の方が焦ってしまう。彼女は昨日教えた通り、小さな声で話した。
「読んでます」
 千秋は本を開いた形のまま両手で持ち上げて、それを光に見せた。
「はい。それ読み終わったら、また下に行きませんか?」
 思わず誘ってしまった。自然に誘えただろうかと、光は心拍数の上昇を感じたが、千秋は表情を変えない。
「はい。では、読んでしまいます」
 その意気込みが感じられるように、千秋の顔に力が入った。別に千秋は、無表情なわけではないようだ。そしてまた、千秋は本に目を落とす。光はそれを邪魔しないように、自分も本に集中することにした。
 そして、二時間も経った頃、不意に光の袖が引っ張られた。
「ん?」
 千秋の仕業だ。
「読みました」
「じゃ、行きましょうか」
 平静を装ったものの、どぎまぎしてしまうのを抑えることができない。女性に対する抵抗がなさすぎるのだ。情けなくなるが、何年も女性と親密になろうという気になれなかった自分のせいだと諦めるしかない。今更どうすることもできないのだから。
 千秋は本を小脇に抱えて立ち上がった。光はまだ本を読み終わっていなかったが、それよりも千秋と会話することを選び、本を閉じた。
 本を返して地階に向かう。今日はまだ学習室が開いている時間だから、声のボリュームには気をつかわなければならなそうだ。
「どうでした?」
「はい、あまり小説は読んだことがありませんでしたが、面白いものですね」
 それからしばらく、光は千秋と宮本武蔵の話題で話し込んだ。それからの流れで、光のオススメの本は何かという話になり、光は腕を組んで考え込んだ。千秋の好きそうなジャンルはどのあたりなのか。
 女性ならベタに、恋愛小説か。しかし光自身、恋愛小説に関しては、まったく詳しくない。時代小説は気に入ってくれたようだから、その方向でいくか。
「藤沢周平とかどうです? なんていうか、ほっこりするような夫婦愛の話とかあって、俺は結構好きなんです」
「愛……」
 外したか。光は焦った。
「愛も人と人の繋がりですね。読んでみます」
 ハズレではなかったようだ。オススメを教えるのであれば、千秋の個人的な情報を得たい。そうすれば、どんな話が好きそうだとか予想がつくのだが、と光は我ながら言い訳がましいことを考えていると苦笑いした。
 そうだ。単純に、千秋のことが知りたいと、そういう気持ちになってしまったのだ。
 それからまたしばらく会話をしたが、結局千秋の個人的なことを聞き出すには至らず、自分の意気地のなさに嫌気が差しそうになった光だが、まだチャンスはあるじゃないかと言い聞かせる。
 がしかし、本当にまだチャンスはあるのだろうか。千秋にまた会える保証はあるのだろうか。
 会話が途切れる。すると、途端に不安になる。この人が、不意に目の前からいなくなるんじゃないかと。
 今だって、そんなに近くにいるわけじゃないのに、知りたいと思わされたそばから離れられてしまう。そんな釈然としない結果、見たくない。なら、どうするべきか。たった一言、彼女に伝えればいい。
「あの」
「なんでしょう?」
「明日また、図書館に来ますか?」
「はい」
「なら、明日また、会えますか?」
「はい」
 あまりにも平坦に、そして即答で答えられてしまった。光はベタなコントばりにずっこけたくなるのを我慢して、次の言葉を繋いだ。
「それじゃ、俺はそろそろ帰ります。また明日」
 また明日。この言葉を伝えて後、それでもまだ言葉を繋いでしまえば、それは蛇足になってしまう。だから、これでお暇する。
「はい、また明日」
 光が手を振ると、千秋もつられたように、しかしぎこちなく手を振った。まるで、生まれて初めて手を振ったみたいな、ぎこちなさだ。
 初めてを貰ったような、そんな震えるほどの喜びを胸に、光は日の届かず窓もない地階から、吹き抜けのガラス窓から西日の眩しい一階へと上った。このままの気分で帰るのがきっとベストだ。光はコートの前を正して、自動ドアを抜け、図書館を後にした。

 それから毎日、光は千秋に会うために図書館を訪れた。図書館に通い始めた当初と目的は変わってしまったが、むしろそれが、光の生活にメリハリをくれた。
 今まで気楽に考えていた無職という立場も、なんとなく座りが悪くなってしまって、前向きに就職活動を始めた。千秋にいつか、仕事は何をしているのかと聞かれた時に、無職と答えるのが悔しいし、かといって、自分の言ったことをすんなり受け入れてしまう千秋に対して、仕事をしているという嘘はつきたくなかった。
 すんなり受け入れてしまうといえば、千秋は光が薦めた本を片っ端から読んでいた。宮本武蔵は一日二冊のペースで読んでいたから、四日で読み終わったようだし、その後も藤沢周平や、山田風太郎まで、薦められるがままに読んでくれたことに、光はほとんど目眩を覚えた。
 大抵人は、誰かにオススメを紹介されたところで、自分の興味の範疇か範疇でないかを判断して、範疇でなければ端から相手にはしない。口先で今度読んでみるね、などと言ってもだ。
 しかし、そんな光の中にあった後ろ向きな常識は、千秋には通用しなかった。通用しないからこそ、本気で薦めたいと思うものを薦める。つまり、光にとって千秋は、真摯に向き合わなけれはならない相手になっていた。
 十二月も半ばになった。未だに千秋の個人的なことは聞けていないが、毎日会っていたため、焦りはなくなっていた。いつか聞けばいいさ。本気でそんな風に考えることができるようになっている。
 昨日もまた明日を合図に別れて、今日もまた会う約束をしている。ただ、昨日は日曜だったため、図書館の閉館が早く、十七時にはお開きになってしまったのが心残りではあった。
 ハローワークを出て、そろそろ図書館に向かおうと、光は携帯の時計を見た。時刻は十六時を回っている。それもそうだ。海の向こう側から、オレンジ色の光が真っ直ぐに差している。思わず目をしかめるほどの西日だ。
 真面目に職を探していたため、時間を食ってしまった。今日も千秋が待っている。早く図書館に行かなければ。
 携帯には時刻と共に、日時が表示されている。十二月十五日、月曜。
「月曜?」
 何かが引っかかる。何だ。何が引っかかるんだ。光は必死でその原因を探ろうと、自分の記憶に深く潜り込んだ。
「あ!」
 思わず声に出してしまって、光を追い越して歩いていった人が振り返った。気まずさで会釈して、しかしそれに謝罪の気持ちなんて含まれていなかった。ただ、会釈することで一拍おいて、冷静になりたかった。
 光は立ち止まって、携帯のブラウザを立ち上げる。そして、図書館のホームページを検索する。
「うわ、やっぱそうだ」
 見たかったのは今月の休館日。見事に今日が、月一回の休館日だ。
 普通の人であれば、融通をきかせて、状況で判断して、帰宅するに違いない。連絡しなくたって、明日、昨日は休館日だったねと笑って話せばいい。
 しかし、千秋相手に、それが通じるとは思えなかった。千秋が今どうしているか、ありありと想像できてしまう。だから光は、脇目も振らず走り出した。千秋に連絡先を聞いていなかったことを後悔した。後で必ず連絡先を聞こう。光は心に誓った。
 距離はそこそこある。普段運動している人なら、どうということはない距離だろう。普段から節約のためよく歩いている光でも、あの急な坂を走って上るのは辛い。まさに心臓破りだ。しかしすでに、自分の体を気遣ってる余裕はなくなっていた。
 頭にあるのは千秋のことばかり。千秋が今どうしているのか、そのことばかりが気にかかる。心臓破りの坂は、光の心肺を容赦なく攻撃した。胸が張り裂けそうになる。しかしそれは、坂のためばかりか。
 その答えは、坂を上った先にあった。図書館が見えてくる。人気はない。自転車やバイクの台数が少ない。当たり前だ、休館日なのだから。
 だが、そんな当たり前を覆すように、千秋がそこにいた。千秋は図書館の前で、何をするわけでもなく、ただ立っていた。そして、光を見つけると、ペコリと会釈した。
 光は腹が立ってきた。図書館は閉まっているのだから、帰ってしまえばいいのに。こんな寒いのに、待っている必要なんてなかったのに。風邪でも引いたらどうするんだ。
 ズンズン大股で、息を切らせてほとんど食って掛かるみたいな顔で、千秋に迫る。
「今日は図書館、お休みだったんですね」
 千秋の、あまりにも力の入らない緩やかな、普段通りのその声が、光の全身から力を抜き去った。膝から崩れ落ちかねない勢いで脱力してしまう。
「ずっと待ってたんですか?」
「はい」
「いつから?」
「朝から」
 思わず額に手をやって、光は溜息をついた。
「そういう時は、帰っていいんですよ。図書館やってないんだから」
「でも、約束しましたから。また明日って」
 融通がきかないのか頑固なのか機転がきかないのか、ここまでくると、もはや美点とは言えない。でもそれが、光にはとても愛おしく感じられた。
 愛おしさが、光の手を導く。導かれた手は、千秋の手を包み込んでいた。
「こんなに冷たい」
「いつもこんなものですよ」
 声はいつも通り平坦で、怒ったり恥ずかしがったりする様子もなくて、これがこの人なんだと強く感じさせられる。
「温かいとこに行きましょう。喫茶店でも行って、温かいものでも飲みましょう」
「はい」
 光が促すと、千秋は後ろについてきた。光は少し速度を落として、千秋と並んで歩く。女性と並んで歩くなんて、光にとっては何年ぶりのことだった。
 図書館から坂を下りて、駅の方に向かう。家はどこか知らないが、駅から近いほうが千秋も帰りやすいだろう。
 いつもはこの時期、避けていた駅だった。そこはデートのメッカとも言える場所で、この時期はイルミネーションも輝いて、光にとっては最悪の場所だ。
 今までは、否応なしにクリスマス・イブのトラウマが蘇る場所に、わざわざ行こうなんて思えなかった。なのに今は、自然とその場所に足が向かっている。光自身、不思議でならなかった。
 駅について、広場を見渡すと、そこはすでに平生の景色とは変わっていて、クリスマスに向けて綺麗に装っていた。駅の先に進んでいけば、その装いはより華やかになることだろう。
 それを前にして、光は立ち止まった。
「ここにしましょうか?」
 駅前のカフェを指差した。
「はい」
 千秋は頷く。自動ドアをくぐり店内を見回すと、幸い席は空いていた。コートを脱いで千秋を座らせる。
「何にしますか?」
「分からないので、あなたのと同じで」
「コーヒーでいいですか?」
「はい」
 光は注文をしに、レジに向かった。コーヒーをふたつ頼んで、千秋は砂糖とミルクは使うのだろうかと疑問に思う。思えば千秋と図書館以外の場所で一緒にいるのは初めてだ。図書館の飲食スペースでも、千秋はいつも何も飲まないし、食事の好みも何も知らない。
 今日は、いい機会かもしれなかった。千秋の、個人的なことを聞くことができるかもしれない。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「こういうところ、あんまり来たことないですか?」
 さっき、分からないと言っていたのが気になっていた。尋ねながら、千秋の前にコーヒーとミルクと砂糖を差し出す。
「はい。来たことありません」
「一度も?」
「はい、一度も」
 驚きを流し込むように、光はコーヒーを飲み込んだ。それに倣うように、千秋も一口、コーヒーをブラックで飲んだ。砂糖とミルクはいらなかったか。
 一度もない、というのは光にとって驚きだった。もしかすると、とんでもない深窓のお嬢様なのかもしれない。
「せっかくだから、色々聞いていいですか?」
 バクバクと心臓が高鳴る。
「何をですか?」
「千秋さんのことを、です」
 あなたに一歩近づきたいと、そう言っているのと同義だ。千秋がそのことを察しているのかどうか、あやしいものだが。
「はい」
 千秋はいつものように、平坦な声で頷いた。
「じゃ、せっかくなんで。お仕事って、何されてるんですか?」
「仕事ですか? していません」
 なんと、無職か。光は思わず緩みそうになった頬を引き締めた。千秋も無職であれば、自分も今無職だということを、蔑まれたりはしなそうだ。
 正直なところ、千秋に無職だと知られて、軽蔑されるかもしれないという恐怖心は常にあった。それが取り除かれたことで、光の胸がスッと軽くなった。
 朝から図書館に入り浸っているのだから、無職というのは当然と言えば当然だった。日がな一日、それも連日、図書館にいる人が、仕事をしているわけがない。
 前職は何をしていたのか、それは聞く気になれなかった。もしかしたら、心を病んで仕事をやめてしまっているのかもしれない。今の時代、そういう人は多い。
 自分だって診断を受けたわけではないが、精神的に追い詰められていた。前の仕事の話は、あまり聞かれたくはない。千秋だって、そうかもしれない。平坦な喋り方だって、それが原因という可能性だって、なきにしもあらずだ。
「だから図書館に通っていたんですね」
「はい」
 そう答えて、会話がそれ以上弾まない。こちらがした質問には、嫌悪感のない様子で答えてくれる。しかし、こちらには質問してきてはくれない。
 千秋は自分に興味はないのだろうか。興味を持ってくれているなんて思うのは、おこがましい考えだと自覚している。しかし、興味を持って欲しいと思わずにはいられない。興味が一方通行というのは、寂しい。
 もしかしてと、光の脳裏に、歓迎し得ない可能性が浮上した。千秋には想い人がいて、だから自分などは眼中に入らないということなのではないだろうか。
 すごく嫌な想像だった。出会ってまだ十日ほど。まだ光は千秋のことをほとんど知らない。
 それでも、千秋と過ごせた時間は、無味乾燥な生活を送っていた光にとって、唯一の色彩だった。その色彩が他の誰かに奪われていく、もしくはすでに誰かのものだとしたら、その事実に耐えられるだろうか。
 今ならまだ耐えられる。しかし、このまま進んでいってしまったら、間違いなく。だから光は、覚悟した。傷つくのなら、なるべく早い方が傷は浅い。だから、意を決した。
「あの、こんな不躾なことを聞くの、申し訳ないんですけど」
「はい」
「彼氏って、いますか?」
「彼氏? 交際相手ということですか?」
「そうです」
「いません」
 やった。光はココロの中でガッツポーズした。いや、待て。喜ぶのはまだ早い。光は気を取り直して、さらに一歩踏み込んだ。
「じゃあ、結婚は?」
「しているかどうかということですか?」
「そうです」
「結婚はできません」
 できないとはどういうことだ。千秋は特別目を引くほどの美人ではない。しかし、光の美的感覚から言えば、可愛いの範疇に入る顔をしている。
 それに、光による勝手な見た目での判断では、自分とそう変わらない年齢と見える。どんなに離れていても五歳差というところだ。それなのに、もう結婚をあきらめているのだろうか。自分に収入がないと、将来に自信が持てないということもあるが。
「あぁ、俺もできそうにありませんね。何せ相手がいないですから」
 聞きたいことは聞けた。今現在、特定の相手がいないのであれば、それでいい。寝取り寝取られなんて世界、恐ろしすぎる。心が楽になったので、雑談の方向に持っていくことにした。
「そうですか。私も相手はいません」
 それだけ聞くことができれば充分だ。
「ははは、お互い寂しいですね」
「はい。繋がりがないというのは、寂しいことです」
 平坦な声が揺らいだ。最後のフレーズは僅かに揺れて、それは悲しげな旋律に聞こえた。
「そう、ですね。寂しいですよ、やっぱ。だから本を読んで、それを埋めようとするんです」
「私もそうです。そうやって勉強すれば、繋がりを持てるかもしれないと、そう思っていました」
 千秋もまた、自分と同じようなことを考えていたのか。それを知ることができた。大きな収穫だ。
 繋がりが欲しい。繋がっていないことは寂しい。誰だって感じることだ。
 器用な人は、その繋がりを上手に手繰ることができる。手繰ることができれば、口で寂しいと言っていても、手繰ることすらできない人よりはずっと、寂しくなんてないはずなんだ。だが、手繰ることのできない人は本当に孤独に落ちてしまう。
 光は今まで、手繰り方を知らずに生きてきた。手繰ってみようと頑張ったことはあった。でも、結局手繰ることができずに、その細い細い糸のような繋がりに痛手を負わされ、そして傷ついた。もう手繰りたくないと、そう痛みに思わされてきた。
 でも今、光は再び手繰りたいと思わされる、繋がりになる前の、便りなさ気にたなびく糸を見つけてしまった。手繰りたい。光は強烈な欲求を感じていた。
 手繰るためには、過去に負わされた痛みを超えなければならない。超えるためには、過去にできなかったことを成すしかない。そのために、この季節はうってつけで、おあつらえ向きだった。
「あの、千秋さん」
「なんでしょう?」
 光の雰囲気が変わったことを感じたのか、揺れていた声は、再び平坦になっていた。
「十二月二十四日、予定はありますか?」
 千秋は視線を左上にして、頭の中で何か計算している素振りを見せた。
「ありません」
「それなら、俺と、デ、出かけませんか?」
「どこへですか?」
「そうですね。今日みたいに、いや、今日よりももうちょっといい店に。こうやってまた、千秋さんとお話したりとかですね」
「分かりました」
 本当に分かっているのだろうか。これはデートの誘いなのだぞ、と確認したくなった光だが、確認した上で断られたりしたらあまりにも深すぎる痛手になりそうだから、やめておいた。
「じゃ、詳しい話は、また明日以降でいいですか?」
「はい。では、また明日、ということですか?」
「そう、また明日、です」
 思わず、光の口角は上がった。千秋の表情は変わらないけれど、千秋から言ってくれる「また明日」は、何度でも聞きたい言葉だった。
「あの、それじゃ、連絡先教えてもらえませんか? 携帯でも、SNSのフレンドになるんでもいいんですけど」
「携帯もSNSもありません」
「え? 携帯持ってないんですか?」
 SNSのアカウントを持っているかどうかは人それぞれだが、携帯を持っていないというのには驚いた。深窓のお嬢さんどころの話ではない。もはやいっそ、仙人だとかそういう方がしっくりくる。
「持っていないです」
「……そうですか」
 もしかして、連絡先を教えることに抵抗があるから、嘘をついているのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。しかし、クリスマス・イブに一緒に出掛けるのを承知しておいて、連絡先を教えるのは嫌だ、ということは考えにくい。やはり本当に、携帯を持っていないのだろう。
「でも、図書館で会えますもんね」
「はい、会えます」
 即答で断言だった。やはり、嫌悪感を持たれているという線は薄いぞと、光は胸を撫で下ろした。
 これで区切りかと、光がそろそろ帰ろうと言うと、千秋はひとつ頷いて、立ち上がった。喫茶店に入る前よりも、どことなく千秋の肌に張りが出たような気がした。やはり、寒い中ずっ立っていたから、体が冷えきっていたのだろう。喫茶店に入って正解だった。
 コートを着ながら、光は考えた。いつか、いつの日か、千秋が「まだ帰りたくない」なんて言ってくれる日は来るのだろうかと。来たらいいなと、光はすっかり日が沈んだ空に浮かぶ煌々と白銀の光を放つ月を見上げて、そんな日が来ると想像するのも難しいような未来を想像した。
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