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果実 4
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それから時が経つのは、恐ろしく早かった。光陰矢の如しとはこのことかと実感しながら、光は待ちわびたはずの日のプレッシャーに押しつぶされそうになっていた。
逃げ出したい気持ちにすらなる。トラウマが蘇る。だが、約束した以上、それを違えることをしてはならない。それは何もない光が唯一千秋に対して見せることのできる、誠実さという名の美徳だったから。
デートコースはどうしよう、なんて考えたのは何年ぶりだった。そもそも、デート自体数えるほどしかしたことがない。経験値なんてものは、ないに等しい。
ネットで検索をしたり、雑誌を買ってみたりしているうちに、とうとうクリスマス・イブ前日になってしまった。今日は祝日。いつもよりも閉館の時間は早い。さっさと明日の予定を決めてしまわなければ。せめて、待ち合わせ場所と時間だけでも。
本を読んでいた千秋を飲食コーナーに誘い、光は話を切り出した。
「明日のことなんですけど」
「はい」
「えっと、千秋さんて、好きな食べ物ありますか? あと、嫌いな食べ物」
「……特にありません」
視線を上げて、しばらく考えた後に、千秋はそう言った。
「じゃ、どうしたらいいかな……果実料理とかどうですか? 最近流行ってるみたいだし」
果実の肉、つまり果肉は、最近健康食として女性からも男性からも人気が高い。果肉は高タンパク低カロリーな上、ビタミンやミネラル、食物繊維も豊富だった。
果肉は部位による栄養の違いも少なく、品質のブレも小さい。その上、工場で培養されて作られることが多いため、安定して供給され、価格の変動も少ない。タマゴに替わる、新世紀の物価の優等生となりつつあった。
果実はその見た目のせいか、出始めの頃は食べることを忌避する人も多かった。まるで人間を食べているみたいじゃないかと、年齢層が上がるほど、その傾向は顕著だった。しかし、最近ではほとんど当たり前の食材として浸透している。
スタイルの良い果実を食べれば、その果実と同じようなスタイルになれるという噂がまことしやかに囁かれるようになってからは、その需要はさらに伸びた。
実際に、スタイルのいい、というか、痩せている果実は太っている果実に比べて脂質の割合も少なく、そういった意味では事実に近いのかもしれない、というようなことを、光は雑誌で読んだことがあった。
千秋も、どこかぼんやりしているが、若い女性だ。そういったことに興味がある可能性は高い。
「……あまり詳しくないので、光さんにお任せします」
手応えがない。ハズレのようだ。見た目で果実を食べるのが苦手という人は、当たり前の食材になった今でもいる。
うなぎの蒲焼は光にとってはこの上もなく美味いが、うなぎの見た目が気持ち悪くて食べられないという人もいる。それと同じことだ。
食事はこちらで決めておこう。どこで食べるかが問題なのではない。誰と食べるかが重要なのだ。
ネットでレビューでも見て、その点数が高いところに決めれば良い。嫌いなものはないと言っていたから、別に果実料理屋だって、他の料理屋だって、千秋は文句を言ったりはしないだろう。
「それじゃ、待ち合わせ場所と時間だけ決めましょうか。待ち合わせ場所は――」
「ここがいいです」
珍しく、千秋がそう主張した。珍しく、というか、初めてだった。
「そうですね。そうしましょう」
千秋の主張だ。それを承知しない理由はない。それに、この図書館は、光にとって特別だ。千秋にとっても特別であってくれたら嬉しい。
「時間は、十八時でいいですか?」
「はい」
コクリと千秋が頷いたのを合図にしたみたいに、館内アナウンスが流れた。
「閉館三十分前です。まだ貸出がお済みでないお客様は――」
タイムアウトだ。これで後はもう、明日に挑むのみ。光は深呼吸して気持ちを落ち着かせ、そして、いつもの言葉を千秋に伝えた。
「それじゃ、また明日」
「……はい」
ふわっと、光の胸に靄がかかった。何故だ。その理由を探すけれど、どこになんの違和感を感じているのか、結局分からずじまいで、もっと深く考えることができるほど、今の光には余裕がなかった。刻一刻と、明日が近づいてくるから。
そして夜は明けて、朝が来ると、あっという間に待ち合わせの時間になっていた。レストランの予約は入れた。デートスポットから少しずれた場所にあるレストランで、時間も早めだったため、まだ席には空きがあった。
準備は万端だ。後は、二人でクリスマス・イブを楽しむだけ。今日で、かつてのトラウマを払拭できる。自分にとってのクリスマス・イブという日を、今までと反転することができる。
プレゼントは、あえて準備をしなかった。それを重く感じられたらショックだと、傷つく前に保身にはしった。もし雰囲気が良くなれば、どこかの店に入って買ってもいい。カードは財布の中に入っている。
予定の時間よりも十分早く図書館に着いた光が、千秋と出会った時から今までのことを回想していると時刻は待ち合わせの時間、ピッタリになっていた。
携帯で時間を確認する。千秋は少し遅れているようだ。こういう時、携帯で連絡を取れないのは困る。今度携帯を持つのはどうかと提案してみよう光は思った。
毎日図書館で会っていたものの、時間を決めて会うのはこれが初めてだ。もしかしたら、千秋は意外と時間にルーズなタイプなのかもしれない。
とにかくまだ、待ち合わせ時間になったばかりだ。まだまだレストランを予約した時間までは余裕がある。なるべく前向きに前向きに、考えるようにしていた。
手を擦り合わせて暖を取る。今日に限って、いつもよりも少し薄着をしてきてしまった。デートだからと色気を出したのがいけない。
体が冷える。体を強ばらせて何もせずにいると、嫌な想像をしてしまう。まさかまた、いつかのクリスマス・イブのように、期待させられるだけ期待させられて裏切られるのか。今までの平坦なあの態度は、すべて自分といることが乗り気じゃなかったからだったのか。
千秋はどこか、感情を抑制しているような節があった。それには何か、理由があるのだろう。
その理由を勝手な解釈で導き出そうとしたこともあった。だがその理由は簡単で、自分みたいな人間に付きまとわれて迷惑だっただけなんじゃないか。そんな考えが、光の頭をよぎる。
別の可能性もある。例えば、事故に巻き込まれてしまったとか。交通事故だとか、可能性は低いけれど、ありえない話ではない。また、乗っているバスや電車が遅れているってことだってありえる。その可能性は高い。毎日どこかで、遅延は起きているだろうから。
しかし、それらの可能性を押しのけて、一番強烈に思い浮かべてしまうのは、千秋が自分以外の男と、一緒にいるのではないかということ。いや、そんなわけはないと、光は荒くなりかけた呼吸を、深呼吸で抑え込んだ。
携帯を取り出して時間を確認すると、十八時半を回っていた。
「時間だ」
レストランを予約していた時間になってしまった。電話して、予約をキャンセルした方がいいのだろうか。いや、まだ早い。光は首を横に振った。まだ、遅れるだけで済むかもしれない。電話を掛けるのは保留することにした。
また、なのか。光は絶望が足元から這い上がってくるのを感じた。いや、まだ、可能性は残っているはず。
「そうだ」
光は思わず声を上げた。昨日、千秋との約束は、ただ「ここで」と約束しただけだ。図書館の前で待ち合わせとは言っていない。
待ち合わせといえば扉の前だろうという先入観でここに立っていたが、千秋は図書館の中で、という意味で言ったのかもしれない。冬だ。寒い。だったら中で待っていた方がいいじゃないか。
千秋は言葉にはしなかったが、そういった意味を込めていたのかもしれない。光は急いで図書館の中に入った。
中に入ると温度差で、肌がひび割れを起こすかと思った。それくらい、寒さで体が強ばっていた。いや、そればかりではないだろう。全身に、ずっと力が込められていたのだ。
光はまず、階段を下りて飲食コーナーに向かった。昨日、最後に千秋と別れたのはそこだ。だが、一目見て、千秋がいないことが分かった。飲食コーナーには誰もいない。
次だ。光は駆け出した。
次に千秋がいそうな場所、それは五階。初めて千秋と出会った場所。いつも五階の自習机で本を読んでいた。今日だって。光はエレベーターのボタンを押した。早く来い。早く降りてこい。何度ボタンを押したって、降りてくるのにかかる時間は変わらない。分かっていても、何度も押してしまう。
ようやく来たエレベーターの、まだ開ききらない扉に肩をぶつけながら乗り込む。五階のボタンを押し、すぐにめ閉ボタンを押した。いつになく、エレベーターの動きが鈍い。
止まるエレベーター。一階。三階。四階。乗る客。降りる客。すべてにいらつきながら、扉の真上の表示を見上げる。灯れ。灯れ。五階の表示を見つめる。灯った。開く扉。光はまだ開き切らない扉から、すり抜けるように飛び出した。
ほとんど駆け足で、光はすべての自習机を見て回った。いない。いない。いない。焦燥感が光を駆り立てる。どの自習机の椅子にも、あの赤いコートはかかっていなかった。この階に、千秋はいない。すべての開架の間を覗いても、どこにもその姿はない。
ここにいないなら。一階だ。一階の小説コーナー。千秋はまだ、光が薦めたすべての本を読んだわけではない。まだ読んでいない本が何冊もある。一階で小説を見繕っているのかもしれない。
エレベーターの扉の前に立ち、扉の上の表示を見る。よりにもよって、エレベーターは一階にいた。
「くそ」
焦れた光は非常階段を目指した。トイレの脇を抜けて、階段に。一段飛ばしで駆け下りる。もしかしたら千秋が一階にいるかもしれない。一秒でも早く行かなければ、すれ違いになってしまうかもしれない。
非常階段だ。ぐるぐるぐるぐると回りながら降りることになる。目が回る。足元がフラつく。それでも、速度は緩めない。
一階に辿り着いた。ほとんど転げまわりそうになりながら、光は一階の奥、小説コーナーに向かう。いてくれ。いてくれ。そう願いながら。
雑誌コーナーを挟んで見える場所に、千秋はいない。すべての開架の間を探す。それでも、千秋はいない。どこにもいない。
千秋はどこにいる。考えたって分からない。ならどうする。足を使うまでだ。すべての階のすべての場所を探す。
だが、どこにも千秋の姿はない。どこにもない。もう一度、図書館を出てみる。図書館前の広場を探す。どこにもいない。もう一度、図書館の中を探してみる。どこにもいない。
もう一度。もう一度。もう一度。どこにも千秋の姿はない。
何度も何度も、外と中を行き来した。外に出る度に、空気の冷たさは増していく。なのに体はどんどん熱くなって、額からは汗が流れる。何度繰り返したのか、回数はもう分からない。ただ、時間だけが過ぎていく。
そして、それはやってきた。閉館。タイムリミット。もう、図書館に入ることはできない。警備員が自分に目をつけていることには気がついていた。初めは警戒心を顕にしていた警備員の目が、やがて哀れんでいる目に変わっていったことにも。
蛍光灯の電気が落とされていく図書館。玄関前の広場は、階段を一段一段弾みながら下りるようなリズムで、暗くなっていく。それと連動するように、光の目の前は、真っ暗になっていた。
図書館前の広場。自転車やバイクが減り、すっかり広くなったこの場所の片隅。コンクリで出来たベンチに腰掛けると、冷気が体を蝕んでいくのを感じた。急激に汗が冷えていく。ガタガタガタガタと体が震える。それでも、光はベンチから立ち上がろうとはしなかった。
現実を受け止めるのに時間がかかる。千秋は来なかった。来なかったのだ。
昨日のことを思い出す。いつものように「また明日」と言って別れたはずなのに。
「いや……」
千秋は言っていない。思い出した。昨日「また明日」といったのは、自分だけだ。千秋は言っていない。あの時感じた違和感は、これだった。千秋は「また明日」と言っていない。いつか千秋からもくれた「また明日」という言葉を、昨日は千秋から貰っていない。
「そっか……」
ということは、昨日の時点でもう、千秋に、今日会うつもりはなかったということだ。連絡先を教えてくれなかったのは、そういうことだ。
自分が気づけなかっただけなのだ。光は顔を手で覆って、笑った。間抜けだ。浮かれていた昨日までの自分が、滑稽だ。
迷惑だったんだろう。話しかけてきて、本を薦めてくるやつが。嘘だったのかもしれない。人との繋がりが欲しいなんていうのは。すべて、自分が曲解して、期待して、それで勝手に絶望しているだけなんだ。
考えるとおかしくて、笑えてくる。自分はなんて間抜けなんだろう。トラウマは更新された。乗り越えることなんてできなかった。
光は冷たいコンクリの上で、身じろぎもせず、顔を覆ったまま、熱のこもった白い息だけを吐き出していた。
逃げ出したい気持ちにすらなる。トラウマが蘇る。だが、約束した以上、それを違えることをしてはならない。それは何もない光が唯一千秋に対して見せることのできる、誠実さという名の美徳だったから。
デートコースはどうしよう、なんて考えたのは何年ぶりだった。そもそも、デート自体数えるほどしかしたことがない。経験値なんてものは、ないに等しい。
ネットで検索をしたり、雑誌を買ってみたりしているうちに、とうとうクリスマス・イブ前日になってしまった。今日は祝日。いつもよりも閉館の時間は早い。さっさと明日の予定を決めてしまわなければ。せめて、待ち合わせ場所と時間だけでも。
本を読んでいた千秋を飲食コーナーに誘い、光は話を切り出した。
「明日のことなんですけど」
「はい」
「えっと、千秋さんて、好きな食べ物ありますか? あと、嫌いな食べ物」
「……特にありません」
視線を上げて、しばらく考えた後に、千秋はそう言った。
「じゃ、どうしたらいいかな……果実料理とかどうですか? 最近流行ってるみたいだし」
果実の肉、つまり果肉は、最近健康食として女性からも男性からも人気が高い。果肉は高タンパク低カロリーな上、ビタミンやミネラル、食物繊維も豊富だった。
果肉は部位による栄養の違いも少なく、品質のブレも小さい。その上、工場で培養されて作られることが多いため、安定して供給され、価格の変動も少ない。タマゴに替わる、新世紀の物価の優等生となりつつあった。
果実はその見た目のせいか、出始めの頃は食べることを忌避する人も多かった。まるで人間を食べているみたいじゃないかと、年齢層が上がるほど、その傾向は顕著だった。しかし、最近ではほとんど当たり前の食材として浸透している。
スタイルの良い果実を食べれば、その果実と同じようなスタイルになれるという噂がまことしやかに囁かれるようになってからは、その需要はさらに伸びた。
実際に、スタイルのいい、というか、痩せている果実は太っている果実に比べて脂質の割合も少なく、そういった意味では事実に近いのかもしれない、というようなことを、光は雑誌で読んだことがあった。
千秋も、どこかぼんやりしているが、若い女性だ。そういったことに興味がある可能性は高い。
「……あまり詳しくないので、光さんにお任せします」
手応えがない。ハズレのようだ。見た目で果実を食べるのが苦手という人は、当たり前の食材になった今でもいる。
うなぎの蒲焼は光にとってはこの上もなく美味いが、うなぎの見た目が気持ち悪くて食べられないという人もいる。それと同じことだ。
食事はこちらで決めておこう。どこで食べるかが問題なのではない。誰と食べるかが重要なのだ。
ネットでレビューでも見て、その点数が高いところに決めれば良い。嫌いなものはないと言っていたから、別に果実料理屋だって、他の料理屋だって、千秋は文句を言ったりはしないだろう。
「それじゃ、待ち合わせ場所と時間だけ決めましょうか。待ち合わせ場所は――」
「ここがいいです」
珍しく、千秋がそう主張した。珍しく、というか、初めてだった。
「そうですね。そうしましょう」
千秋の主張だ。それを承知しない理由はない。それに、この図書館は、光にとって特別だ。千秋にとっても特別であってくれたら嬉しい。
「時間は、十八時でいいですか?」
「はい」
コクリと千秋が頷いたのを合図にしたみたいに、館内アナウンスが流れた。
「閉館三十分前です。まだ貸出がお済みでないお客様は――」
タイムアウトだ。これで後はもう、明日に挑むのみ。光は深呼吸して気持ちを落ち着かせ、そして、いつもの言葉を千秋に伝えた。
「それじゃ、また明日」
「……はい」
ふわっと、光の胸に靄がかかった。何故だ。その理由を探すけれど、どこになんの違和感を感じているのか、結局分からずじまいで、もっと深く考えることができるほど、今の光には余裕がなかった。刻一刻と、明日が近づいてくるから。
そして夜は明けて、朝が来ると、あっという間に待ち合わせの時間になっていた。レストランの予約は入れた。デートスポットから少しずれた場所にあるレストランで、時間も早めだったため、まだ席には空きがあった。
準備は万端だ。後は、二人でクリスマス・イブを楽しむだけ。今日で、かつてのトラウマを払拭できる。自分にとってのクリスマス・イブという日を、今までと反転することができる。
プレゼントは、あえて準備をしなかった。それを重く感じられたらショックだと、傷つく前に保身にはしった。もし雰囲気が良くなれば、どこかの店に入って買ってもいい。カードは財布の中に入っている。
予定の時間よりも十分早く図書館に着いた光が、千秋と出会った時から今までのことを回想していると時刻は待ち合わせの時間、ピッタリになっていた。
携帯で時間を確認する。千秋は少し遅れているようだ。こういう時、携帯で連絡を取れないのは困る。今度携帯を持つのはどうかと提案してみよう光は思った。
毎日図書館で会っていたものの、時間を決めて会うのはこれが初めてだ。もしかしたら、千秋は意外と時間にルーズなタイプなのかもしれない。
とにかくまだ、待ち合わせ時間になったばかりだ。まだまだレストランを予約した時間までは余裕がある。なるべく前向きに前向きに、考えるようにしていた。
手を擦り合わせて暖を取る。今日に限って、いつもよりも少し薄着をしてきてしまった。デートだからと色気を出したのがいけない。
体が冷える。体を強ばらせて何もせずにいると、嫌な想像をしてしまう。まさかまた、いつかのクリスマス・イブのように、期待させられるだけ期待させられて裏切られるのか。今までの平坦なあの態度は、すべて自分といることが乗り気じゃなかったからだったのか。
千秋はどこか、感情を抑制しているような節があった。それには何か、理由があるのだろう。
その理由を勝手な解釈で導き出そうとしたこともあった。だがその理由は簡単で、自分みたいな人間に付きまとわれて迷惑だっただけなんじゃないか。そんな考えが、光の頭をよぎる。
別の可能性もある。例えば、事故に巻き込まれてしまったとか。交通事故だとか、可能性は低いけれど、ありえない話ではない。また、乗っているバスや電車が遅れているってことだってありえる。その可能性は高い。毎日どこかで、遅延は起きているだろうから。
しかし、それらの可能性を押しのけて、一番強烈に思い浮かべてしまうのは、千秋が自分以外の男と、一緒にいるのではないかということ。いや、そんなわけはないと、光は荒くなりかけた呼吸を、深呼吸で抑え込んだ。
携帯を取り出して時間を確認すると、十八時半を回っていた。
「時間だ」
レストランを予約していた時間になってしまった。電話して、予約をキャンセルした方がいいのだろうか。いや、まだ早い。光は首を横に振った。まだ、遅れるだけで済むかもしれない。電話を掛けるのは保留することにした。
また、なのか。光は絶望が足元から這い上がってくるのを感じた。いや、まだ、可能性は残っているはず。
「そうだ」
光は思わず声を上げた。昨日、千秋との約束は、ただ「ここで」と約束しただけだ。図書館の前で待ち合わせとは言っていない。
待ち合わせといえば扉の前だろうという先入観でここに立っていたが、千秋は図書館の中で、という意味で言ったのかもしれない。冬だ。寒い。だったら中で待っていた方がいいじゃないか。
千秋は言葉にはしなかったが、そういった意味を込めていたのかもしれない。光は急いで図書館の中に入った。
中に入ると温度差で、肌がひび割れを起こすかと思った。それくらい、寒さで体が強ばっていた。いや、そればかりではないだろう。全身に、ずっと力が込められていたのだ。
光はまず、階段を下りて飲食コーナーに向かった。昨日、最後に千秋と別れたのはそこだ。だが、一目見て、千秋がいないことが分かった。飲食コーナーには誰もいない。
次だ。光は駆け出した。
次に千秋がいそうな場所、それは五階。初めて千秋と出会った場所。いつも五階の自習机で本を読んでいた。今日だって。光はエレベーターのボタンを押した。早く来い。早く降りてこい。何度ボタンを押したって、降りてくるのにかかる時間は変わらない。分かっていても、何度も押してしまう。
ようやく来たエレベーターの、まだ開ききらない扉に肩をぶつけながら乗り込む。五階のボタンを押し、すぐにめ閉ボタンを押した。いつになく、エレベーターの動きが鈍い。
止まるエレベーター。一階。三階。四階。乗る客。降りる客。すべてにいらつきながら、扉の真上の表示を見上げる。灯れ。灯れ。五階の表示を見つめる。灯った。開く扉。光はまだ開き切らない扉から、すり抜けるように飛び出した。
ほとんど駆け足で、光はすべての自習机を見て回った。いない。いない。いない。焦燥感が光を駆り立てる。どの自習机の椅子にも、あの赤いコートはかかっていなかった。この階に、千秋はいない。すべての開架の間を覗いても、どこにもその姿はない。
ここにいないなら。一階だ。一階の小説コーナー。千秋はまだ、光が薦めたすべての本を読んだわけではない。まだ読んでいない本が何冊もある。一階で小説を見繕っているのかもしれない。
エレベーターの扉の前に立ち、扉の上の表示を見る。よりにもよって、エレベーターは一階にいた。
「くそ」
焦れた光は非常階段を目指した。トイレの脇を抜けて、階段に。一段飛ばしで駆け下りる。もしかしたら千秋が一階にいるかもしれない。一秒でも早く行かなければ、すれ違いになってしまうかもしれない。
非常階段だ。ぐるぐるぐるぐると回りながら降りることになる。目が回る。足元がフラつく。それでも、速度は緩めない。
一階に辿り着いた。ほとんど転げまわりそうになりながら、光は一階の奥、小説コーナーに向かう。いてくれ。いてくれ。そう願いながら。
雑誌コーナーを挟んで見える場所に、千秋はいない。すべての開架の間を探す。それでも、千秋はいない。どこにもいない。
千秋はどこにいる。考えたって分からない。ならどうする。足を使うまでだ。すべての階のすべての場所を探す。
だが、どこにも千秋の姿はない。どこにもない。もう一度、図書館を出てみる。図書館前の広場を探す。どこにもいない。もう一度、図書館の中を探してみる。どこにもいない。
もう一度。もう一度。もう一度。どこにも千秋の姿はない。
何度も何度も、外と中を行き来した。外に出る度に、空気の冷たさは増していく。なのに体はどんどん熱くなって、額からは汗が流れる。何度繰り返したのか、回数はもう分からない。ただ、時間だけが過ぎていく。
そして、それはやってきた。閉館。タイムリミット。もう、図書館に入ることはできない。警備員が自分に目をつけていることには気がついていた。初めは警戒心を顕にしていた警備員の目が、やがて哀れんでいる目に変わっていったことにも。
蛍光灯の電気が落とされていく図書館。玄関前の広場は、階段を一段一段弾みながら下りるようなリズムで、暗くなっていく。それと連動するように、光の目の前は、真っ暗になっていた。
図書館前の広場。自転車やバイクが減り、すっかり広くなったこの場所の片隅。コンクリで出来たベンチに腰掛けると、冷気が体を蝕んでいくのを感じた。急激に汗が冷えていく。ガタガタガタガタと体が震える。それでも、光はベンチから立ち上がろうとはしなかった。
現実を受け止めるのに時間がかかる。千秋は来なかった。来なかったのだ。
昨日のことを思い出す。いつものように「また明日」と言って別れたはずなのに。
「いや……」
千秋は言っていない。思い出した。昨日「また明日」といったのは、自分だけだ。千秋は言っていない。あの時感じた違和感は、これだった。千秋は「また明日」と言っていない。いつか千秋からもくれた「また明日」という言葉を、昨日は千秋から貰っていない。
「そっか……」
ということは、昨日の時点でもう、千秋に、今日会うつもりはなかったということだ。連絡先を教えてくれなかったのは、そういうことだ。
自分が気づけなかっただけなのだ。光は顔を手で覆って、笑った。間抜けだ。浮かれていた昨日までの自分が、滑稽だ。
迷惑だったんだろう。話しかけてきて、本を薦めてくるやつが。嘘だったのかもしれない。人との繋がりが欲しいなんていうのは。すべて、自分が曲解して、期待して、それで勝手に絶望しているだけなんだ。
考えるとおかしくて、笑えてくる。自分はなんて間抜けなんだろう。トラウマは更新された。乗り越えることなんてできなかった。
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