果実

伽藍堂益太

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果実 5

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 もう、笑い出しそうだった。こんな間抜けがこの世に存在するなんて、誰が思うだろうか。光は寒さで強張った表情を動かしてみようとしたが、上手くいかなかった。
 今ならなんでもできそうだ。どんなに身を落とすようなことでもできる。むしろ、落ちぶれられるところまで落ちぶれてやろう。そんな気になっていた。
 熱に浮かされている。体は芯から冷え切っているのに、頭だけはカッカしている。湯気でも立ち昇りそうなほどだ。
 これが自暴自棄というものなのだなと、光は思い知った。だが、何をしたらいいのか分からない。羽目をはずすという体験が無きに等しいからだ。
 図書館前の坂を下り始めて、その並びにあるのはほとんどが飲食店。倒れるまで食ってやろうか、飲んでやろうか。そう思いながら横目で店内を覗くと、どこもかしこも、カップルで溢れている。
 実際の割合は分からない。しかし、光の目には、カップルばかりが映る。自分もあんな風にしていたはずなのに。そんなことを考えてしまうと、自分で自分を殴りたくなる。
 飲食店に入るのはやめだ。光は熱に浮かされて、フラフラと歩いた。ただ家から図書館までの道を、ウキウキとした往路の足跡を、そのまま辿るルートで。
 飲食店以外の商店は、ほとんどが閉まっていた。時刻は二十二時をとっくに回っている。そんな時間に空いている店は、ターミナル駅の家電量販店か、雑多な店内にところせましと商品が置かれたチェーンの店くらいなものだろう。
 だが、ただ一軒だけ、開いている店があった。果実屋だ。加工されていない果実、つまりその用途が主に性玩具である果実の商店だ。
 光は今まで、そのままの果実を購入したことがなかった。射精に金をかけるなんて、と思い、風俗に行ったことはないし、それに果実ではない性玩具、オナホールなども買ったことはない。
 しかし、今夜の光は何かをしてやりたいと考えていた。何か、いつもの自分とは違う何かを。
「よし」
 ガラス越しに覗いた店内には、数時間前、行きにちらっと覗いた時にいた店長と思しき初老の男性がレジ横にいた。呑気に本など読んでいる。客はいない。光は果実屋に入ることにした。
 ドアを開くと、初老の男性は顔を上げた。
「いらっしゃい」
 落ち着いた、枯れた声だ。湿り気がなくて、今の光には耳心地良い。それに会釈して、光は店内に足を踏み入れた。
 敷地面積は、思ったよりも広い。それもそのはず。商品が人間大で、それなりに大きいのだから、店舗の面積もそれなりになってしまう。ガラスのショーケースが並べられており、その中に果実たちが突っ立っている。
 ほとんどが女性型で、男性型の方が少ない。みな、きちんと服を着ている。裸で置かれている果実はいなかった。ガラスには、張り紙がされている。
『商品の確認をなさるお客様は、店員にお声がけください』
 確認、とはつまり、果実の服を脱がす、ということだろうか。試着でもするみたいなことか。服を脱がせたら自分の好みの体型ではありませんでしたでは、お金を溝に捨てることになってしまう。服だって靴だって試着するし、食品だって試食がある。それと同じことだろう。
 並べられている果実たちは、どれも一様に微笑を浮かべていた。これはおそらく、商品として正しい姿だ。購入する人を睨みつけるような果実を買いたいと思う人は、一部のマニアでなければ、いないだろう。
 果実には個性がある。友達の誰かが言っていた気がする。ネットでも見たことがある。一体一体違いがあって、それを楽しむものらしい。
 魚だって個体差があるし、野菜だって産地によって違う。そういうことだろうと思っていたが、どうやらそれとはまた少し違うらしい。
 立ち居振る舞いが違うのだ。果実はそもそもホムンクルス、人造人間の一種なのだから、人間と同じように考える力もあるし、それぞれに性格も違うのだ。それは豚や牛だって同じことだが、果実は自分たち人間と同じ形をしていて、それに喋ることだってできるのだから、相手の意思表示が理解できる。
 手を振るもの。ウインクするもの。谷間を見せてくるもの。それぞれがそれぞれに、自分を買って欲しいと、消費して欲しいと自己主張しているのが分かる。食肉にされる豚や牛、鶏とは違って、自分がどういう存在で、これからどうなるということを理解しているのだろう。
 ただ、果実はあくまで動物ではなく、植物の一部、果実なのだ。だから、ベジタリアンだって食べる食品で、それはやっぱり、物として扱われるべきなのだ。
 それに対して疑問はない。果実の権利を、などと叫んでいたのは、果実が出始めの時にちょうど購買層だった人、そこにいる初老の男性くらいの年齢の人たちだけだ。
 果実の消費期限が一ヶ月程度なことや、装置の中で培養されることなど、人間とは決定的に違うのだということが理解されていく中で、そういった運動は淘汰されていき、現在ではそのようなことを口走るのは、狂人くらいなものだ。野菜に人権を、などと街頭で叫んでいたら、誰もが目を合わせないようにして、足早に通り過ぎるだろう。
 どれにしようか、と光は店内を見て回った。
 どこを見るか。それはもちろん商品そのものの造形なのだが、それと同時に、値札も見なければならない。
 食品用に加工されているものはともかく、加工されていない、素のままの果実は所謂嗜好品だ。食材であってもそうだが、値段はピンきり。物価の優等生ではあるが、その変動が少ないだけで、物による値段の違いは、タマゴよりも遥かに大きい。
 光は財布の中身を確認した。待ち合わせ場所の図書館に行く前にお金はある程度下ろしてあったので、手持ちは三万円と少し。無職の光にはすべて使ってしまうのは痛手だが、この金は取っておくよりも、使ってしまった方がさっぱりしそうだ。生々しい未練も、パッと使うことで多少は楽になるかもしれない。
 この店でも、高いものは三十万以上する。そんなものには手が出ないが、安めの果実であれば、三万ほどで買える。
 果実は大体の価格帯で分けられ、陳列されていた。光はもちろん、一番安い方へと足を向ける。
 どれもそこまで美人だったり、可愛かったりするわけでなく、需要の高い巨乳だったりするわけでもない。どれも微妙な、実際にそこらにいる女性に近い。逆にその方が興奮するという人も多そうだ。
 どれにしようかと値踏みする。今夜は果実をめちゃくちゃにしてやろう。自分のあらん限りの性欲を、乱暴にぶつけてやろう。ようは、八つ当たりがしたいのだ。
 ガラスのケースに映った自分の顔に、むしゃくしゃした気持ちが滲みでてしまっていた。それに気がついた光が、これではいかんと表情だけは切り替えようとした時だった。
「光さん」
 声が聞こえた気がした。千秋の声だ。
 こんな場所で、聞こえるわけのない声が聞こえた。いよいよ、自分は頭がおかしくなってしまったのかもしれない、いや、本当に熱が出始めているのかもしれない。光は額に手を当てた。熱い。
 そもそも、千秋に名前で呼ばれたことなど、一度もないのだ。幻聴が聞こえてしまった。どれだけ追い詰められているんだと、自分で自分が情けなくなる。
 やはり、スカッと鬱憤を晴らさなければ、心の均衡を保つことはできそうにない。さて、どの果実にしてやろうか。どの果実にこの泥水のような気持ちをぶつけてやろうか。
 そんなことを考えていると、下腹部に血が集まりそうになって、光は慌てて冷静になろうと気持ちを落ち着けた。会計時、店長らしき初老の男性にそれを見られるのは恥ずかしい。
 コーナーを行ったり来たりして、吟味する。すると、店長らしき人が近づいてきた。
「どれか確認なさいますか?」
「えっと、どうしようかな……」
 どの商品も、光にはピンと来なかった。価格帯を上げなければいけないだろうか。そうなると、カードを切らなければならない。だが、買わないという選択肢はなくなっていた。
「こちらの価格帯でしたら、裏にこれよりも高いグレードで同じくらいの値段のがありますよ?」
「え? なんでグレード高いのに、安いのがあるんですか?」
「果実はナマモノですからね、期限が近づけば、値段を下げてお売りするんですよ。表に出しておくのは、新鮮なやつじゃないとね。値下げ品のコーナーですよ。アウトレットかな」
 言いながら、店長らしき人は店の奥に進んで、暖簾が掛けられ、区分けされた場所に入っていった。ここが、果実のアウトレット。
「それよりも期限が危なくなったらどうするんですか?」
「食用に加工しますよ。うちはそっちもやってるから」
 なるほど、性玩具でも食用でも、ものは同じだ。加工食品にしてしまえば、劣化は抑えられるということか。
「なるほど」
 社会の仕組みを、ひとつ知れたような気がして、光は知的な満足感を得た。
 だが、今はそういった快楽よりも、より肉体的な快楽を得たいところ。あらためて、アウトレットコーナーを物色する。確かに、同じ値段であれば、こちらの方が美人だったり、巨乳だったりする。男性型も僅かではあるが、あった。
 数は表よりもずっと少ないが、その方が選びやすくはある。
「こっちは何体くらいあるんですか?」
「今は、十五くらいだね。表は常時百弱はあるよ」
 十五なら、すべてじっくり見ても大して時間はかからなそうだ。
「期限は値段の横にありますよ」
 赤字で書かれた値段の横に、日付が書かれている。これが期限か。
 どれにしようか。光が顔を上げて、果実の顔を見ていると、一体の果実の前で、光の目が釘付けになった。
「そっくりだ」
 思わず呟いた。メガネはしていない。しかし、顔の作りが似ている。千秋に顔が似ているのだ。背の高さも似ている。それに、無表情さが似すぎている。
 だが、その顔は、千秋よりも老けているように見えた。顔を近づけてよく見ると目尻には皺があり、肌も千秋と比べると、潤いが足りないように思える。
 これしかない。これしかないと光は思った。千秋に対する鬱憤を、この果実にぶつけてやろうと思った。
 値札を見る。価格は二万八千円。消費税は込みだ。期限は十二月三十一日、つまり大晦日。あと一週間しかない。それでは、アウトレットに回されても仕方ない。
 顔はそこまで飛び抜けた美人ではないし、体型も中途半端だ。表にある三万円クラスのものと、クオリティーとしてほとんど変わらなそうだ。それにしては高い。
 他のものは、明らかに高価なものが値下げされている感があるのに、これでは、誰もこの果実を購入しないだろう。商売が下手なのかと思わされてしまう。
 そこまで考えてもやはり、光はこの果実にしようと思った。コストパフォーマンスの問題ではなくとにかくこれが欲しい。どこか感じさせられる千秋の面影がそうさせる。
「これにします」
 光は果実を指さした。
「本当に、これでいいんですね?」
 含みのある言い方をする。
「はい」
 この果実以外に、欲しい物はなかった。光は当然、首を縦に振る。
 店長らしき人は、果実と目を合わせた。すると、果実が僅かに頷いた。
「では、レジに」
 もし、ここで果実が頷かなければ、売ってもらえなかったのだろうか。光がそんなことを考えていると、店長らしき人は果実の手首に付けられた値札を外し、果実を試着室のような場所に入らせ、そしてレジに光を促した。それに従い、光は後を追った。
 店長らしき人が値札のバーコードをレジに読み取らせると、値段が表示される。二万八千円。光は一万円札を三枚差し出し、二千円のお釣りを受け取った。
「少々お待ちくださいね。今準備してるので」
 準備しているというのは、もちろん、果実自身が自分で準備しているのだろう。これから何をされるのかも知らずに。いや、果実には考える力がある。何をされるのか知っているだろう。その上で、自ら準備しているのだ。
 しばらくすると、果実が奥から出てきた。
「ほら、コートを着ないと不自然だから、着なければいけないよ」
 今度は店長らしき人が奥に引っ込み、そしてコートを取ってきた。
「やめてくれよ」
 光は思わず呟いた。赤いコートだった。赤いコートなんて、どこにだってある。無難とは言えないが、商品のラインナップに入っていてもなんら不思議のない色だ。だから、いちいち千秋を連想する必要なんてない。なのに、ほんのちょっとしたきっかけで、千秋が浮かび上がってくる。
 果実はコートを着せられ、自分でボタンを止めた。
「さ、いってらっしゃい」
 店長らしき人が果実の背中を押す。果実は会釈すると、光と向き合った。佇まい。やはり、千秋に似ている。
「ありがとうございます」
 店長らしき人に頭を下げられ、少し気まずくなる。アウトレットのセール品を買った身としては、あまり丁寧にされると、申し訳なくなる。
「どうも」
 光も頭を下げて、ドアを開いた。ドアを押さえて、果実を通してやる。果実は会釈して、光の隣をすり抜けた。
 ドアを閉め、歩き出す光に、果実は何も言わずついてきた。道中、何も話すことはない。果実に対して質問をすることに、何の意味があるのだろう。
 果実の寿命は約一ヶ月。期限があと一週間だから、生まれて三週間と少し。たったそれだけの時間しか生きていないのだから、光から何か聞いたところで、心に触れるような答えが返ってくるとは思えない。
 無言のまま、自宅まで歩いた。時間にして、三十分弱。節約のためとはいえ、果実をつれて歩くには、長い距離に感じた。
 頭がフラフラするし、熱っぽい。これは、本格的に風邪を引いたか、と額に手を当てる。熱い。しかし、比較対象がないので、熱があるのかどうか、分からない。呼吸もだんだん荒くなっていく。鼻水が垂れてきた。歩くのが辛い。
「あの……」
 果実が言葉を発した。初めて聞くこの果実の声もまた、千秋に似ていて、光は歯を食いしばった。
「何?」
 ぶっきらぼうな声になってしまったことに、一瞬後悔がよぎったが、果実相手に気をつかうこともないかと、気にするのをやめた。
「肩を貸しましょうか?」
「へぇ、そんなこともしてくれるんだね」
 素直に感心した。果実というのは、人のことを慮ることができるようだ。
「でもいいよ、恥ずかしい」
 倒れそうなほど具合が悪いわけではない。そこまでしてもらう必要はないと強がってはみたが、尻から背中にかけて、皮膚の下を這い上がるような寒気がして、ところどころ関節が痛くなってきた。これは、本格的に熱が出るかもしれない。
「失礼します」
 果実に左手を取られ、支えられた。まぶたまで重くなってきた光はそれに甘える以外の選択肢を選べなくなっていた。
 家まではもうすぐ。道路を走る車のヘッドライトが通るたびに、脳の奥が痺れるように、鈍い痛みを訴えた。
 喉がひりつく。それに、すごく乾いている。ずっと寒いところと暖かいところを行き来していたせいだ。千秋のせいだ。揺らぎそうになる意識で、光は千秋を呪った。
 やっとの思いで、家の前に辿り着いた。アパートの一階。近くには自販機。風呂とトイレが別だからと選んだが、実際掃除するとなると、ユニットバスでも良かったかと後悔している。
 鞄から取り出した鍵を取り落としそうになりながらも、なんとか鍵を開けて、六畳一間のワンルームに転がり込んだ。
「ごめん、ちょっと寝るから、適当にしてて」
「はい」
 これ以上は無理だった。光はベッドに倒れこむ。喉が乾いて仕方ない。汗はダラダラと流れて熱いはずなのに、体は芯から冷えたみたいに震える。
「あの、お願いがあるんだけど……」
 布団に下半身をねじ込ませ、やっとこさ上体を腕で支えながら、光は言った。
「なんでしょう?」
「これで飲み物買ってきて。できる?」
 ズボンに入れっぱなしだった財布を抜き出して、五百円玉を渡す。
「……はい。できます」
 五百円玉を握りしめて、果実は頷いた。外に出て行く背中を見送って、枕に顔を沈めると、重い頭がずぶずぶと沼に引き込まれていくみたいに、光の意識は遠のいていった。
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