婚約破棄されたはずなのに、溺愛が止まりません!~断罪された令嬢は第二の人生で真実の愛を手に入れる~

sika

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第9話 かすかに芽吹く新しい心

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吹雪が止んだ翌朝、空は一面の銀色に染まっていた。  
積もった雪が朝日にきらめき、世界そのものが白い息をしているかのようだった。  
アイラは療養所の軒先で雪かきをしていた。吐く息は白く、指先はじんじんと痺れる。  
けれどその手には確かな熱が残っている。あの夜、ディランの手を包んだ温もりが、まだ消えないまま続いていた。  

「アイラ町医!氷を割るの手伝ってくれ!」  
「はい、今行きます!」  
叫び声をあげるのは炊き出し場の若者だ。日ごとに冷え込みは増し、水瓶が凍るのも当たり前になっていた。  
アイラは腰に巻いた布で外套を固定し、桶を持つと雪を踏みしめて駆けていく。  

冷えた手を動かすたび、心の中に小さな灯がともるようだった。  
かつては命令を下す立場にいた自分が、今はほかの誰かと笑いながら働いている。  
その違いが、怖いほど嬉しかった。  

***  

午前の仕事を終えたころ、軍の伝令が療養所を訪れた。  
「将軍閣下のお呼びだ、アイラ殿」  
「……私を?」  
「はい。至急、本陣までお越しください。怪我人関係ではなく……おそらく別の件かと」  
使者の言葉に胸が高鳴る。昨夜以来、顔を合わせていなかった。  
自分の中の何かがざわめいた。  

雪道を抜け、街の外れにある軍本部へ向かうと、見張りの兵たちが敬礼し、すぐに門を開いた。  
白く曇った空の下、見慣れぬ緊張感が漂っていた。  
アイラは深呼吸をして扉を叩く。  

「入れ」  
低い声が返り、扉を開くとディランが机に地図を広げて立っていた。  
奥の炉には火が燃え、部屋は温かいのに空気は張り詰めていた。  

「呼び出してすまない」  
「いいえ……何かあったのですか?」  
「辺境警備隊の南区が襲撃を受けた。野盗まがいの連中だが、組織的だったらしい」  
彼は短く説明を終えると、視線を彼女に向けた。  
「救援隊に同行してほしい」  

彼の言葉に、息が詰まる。  
「……私が?」  
「怪我人が多い。癒しの術を使えるのはお前だけだ」  
「危険では……?」  
「危険だ。だが放置すれば命が失われる」  
一瞬の沈黙。アイラは迷いなく頷いた。  
「行きます」  
「本気か?」  
「ええ。あなたが命を懸けて守る場所を、私も助けたい」  

ディランは少しだけ目を細め、わずかに口角を上げた。  
「……強いな。人に縋るより、よほど勇ましい」  
「あなたがくれた言葉を覚えています。“恐れずにいろ”、そう言ってくれました」  
彼は軽く頷くと、机上の書類を片付け、外套を取った。  
「準備ができ次第、出発だ。護衛は俺がつく」  

***  

午後、雪雲が低く垂れこめる中、数台の荷馬車が街を出た。  
隊商のように細長く続く列を、アイラは最後尾から見つめる。  
吹雪に備えて焚き火を携帯し、燃料を多く積んでいる。  
彼女は膝に毛布を掛けながら、隣を歩くディランの横顔を見た。  

「あなたが自ら隊に出るとは思いませんでした」  
「司令室に籠もっているだけじゃ凍る。体を動かしていないと考えすぎて眠れん」  
「考えすぎる?」  
「将軍という肩書きは便利で重い。守るものが増えるほど、同時に壊れるものも見えてくるんだ」  

雪道の先には、白く霞む森が広がっている。  
風が吹けば、風鳴りに混じって遠く狼の遠吠えが響く。  
それでも不思議と怖くはなかった。  
隣にいるこの人が、確かに道を見極めていると分かるから。  
「ディラン様」  
「ん?」  
「……あなたに出会えて、よかったと思っています」  

彼は少し驚いたように彼女を見た。  
そしてその後、静かに笑った。  
「俺もだ。お前を見ていると、忘れかけていたものを思い出す」  
「忘れかけていたもの?」  
「希望だ。俺はいつの間にか、未来という言葉を信じなくなっていた」  

雪の世界に吐き出されたその言葉が、風に溶けて消える。  
彼の橙色の瞳がわずかに霞むのを、アイラは見た。  

***  

襲撃の現場に着いたのは、夜が深まる頃だった。  
炭焼きの村だったらしい小集落は焼け落ち、雪の上に煙が漂っている。  
焦げた木の匂いと血の臭気、凍った地面。  
「ひどい……」  
小さくつぶやく声が震えた。  
「敵は逃げたらしいが、負傷者が十名近くいる」  
ディランの指示で兵たちが動き出す。  
アイラは荷馬車の後部から薬草と布を取り出し、すぐに治療に入った。  

「大丈夫、傷口を縫いますから我慢して」  
「ひっ……ひぃ……!」  
「しっかり、目を閉じて」  
針を通し、癒しの魔力を流す。傷口がふさがるたびに血の匂いが薄まっていく。  

何人も手当していくうちに、手の感覚がなくなってきた。  
頭が熱くなる。  
「あんた、休め!」  
後方の兵士が叫んでも、彼女は聞こえぬように首を振った。  
「まだ助かる人がいるの!」  

ディランが駆け寄ったのは、その時だった。  
「馬鹿を言うな!」  
彼女の手首を掴み、動きを止める。  
「魔力の使いすぎだ。此処で倒れたら元も子もない」  
「でも……っ」  
「もう十分だ」  
彼の声が鋭く響いた。  
見上げたその顔は怒りでも苛立ちでもなく、焦りに満ちていた。  

「お前に何かあったら、誰が癒やす」  
その言葉が胸に突き刺さる。  
息を呑んだまま、アイラは力を抜き、彼に体重を預けた。  
冷たく硬い鎧越しに伝わる鼓動。  
――この人の心音だ。確かに生きている証。  

彼の手が彼女の肩を支える。  
「いいか、俺が残りを処理する。お前は休め」  
「……はい」  
彼女は素直に頷いた。  

夜の闇が深まる。焚き火の灯が雪面を染め、吹く風に彼の髪が揺れる。  
その横顔には決意の色が宿っていた。  
「……絶対に、もう誰も死なせない」  
呟いた彼の言葉が、灯りの奥に消える。  

アイラは毛布に包まりながら、その背を見つめていた。  
心のどこかに芽吹く新しい想いが、静かに息を吹き返している気がした。  
恐れではない。敬意でもない。  
それは、ただひとりの男を想い焦がれる気持ちだった。  

雪がやみ、空の彼方に星が滲み出す。  
遠い地で、初めて誰かを信じることを覚えた彼女の心に、まだ名もない春の芽が確かに根づいていた。  

続く
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