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第12話 影から近づく黒衣の間者
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春の風が吹き抜け、バランの雪を完全に溶かした。
街の通りには市場の屋台が並び、人々が冬を乗り越えたことを祝うように笑顔を見せている。
そんな活気の中でも、アイラはどこか落ち着かない気持ちでいた。
療養所の屋根裏に干していた薬草を並べながら、何度も外を見てしまう。
青空が穏やかな分だけ、胸のざわつきが強まる。
「……来ませんね」
小さく呟く。
ディランが王都からの命に返答を送ると言ってから、すでに三日。
軍の使者を王都へ返したあと、彼はほとんど姿を見せなかった。
不安というより、胸に穴が空いたような寂しさ。
気づけば、あの人の声を探してしまう自分がいる。
「アイラ、聞こえるか?」
ちょうどその時、下から婦長の声がした。
「はい!」と返事をして階段を下りると、扉の前に見慣れない男が立っていた。
漆黒のコート、頭まで覆うフード。
旅人の装いだが、全身からただ者ではない気配が漂っている。
男はにっこり笑った。
「噂の“癒し手”がいるのはここかな?」
「はい……どなたでしょうか?」
「ただの旅人だよ。だが腰を痛めてな、少し治してもらえないか」
柔らかな物腰ではある。だがその声に、妙な違和感があった。
磨かれすぎた言葉、訓練された礼節――まるで貴族のような話し方だ。
「分かりました。こちらへどうぞ」
アイラは診察室に案内した。
男は軽い冗談でもいくつか言ってみせ、振り向いた時に笑んだ唇の端がほんの僅かに歪んだ。
診察を始めようとした瞬間、男は袖の中から何かを取り出した。
刺すような光。
ナイフ――。
アイラは反射的に身をかわし、机の陰に倒れ込む。
刃は紙束を裂き、風を切る音を立てた。
男が舌打ちをする。
「……やはり、反応が良いな。噂どおりだ」
「あなたは……誰?」
「王都の命を受けて来た者だ。癒しの力を持つ女の正体を確かめ、万一ならば処分せよとな」
背筋に冷たいものが走る。
――やはり、来た。
王に忠実な密偵。黒衣の間者。
男は迷いのない動きで距離を詰めてくる。
アイラは咄嗟に腰のポーチから薬瓶を投げた。
炸裂する匂い。目潰し用の煙草だ。
「ちっ……!」
視界を奪われた隙にアイラは外へ走り出した。
療養所の通路を抜け、裏口から裏庭へ。
追跡の足音がすぐ背後で響く。
「逃がすか!」
間者の声が鋭く響き、次の瞬間、銃声のような破裂音がした。
腕に焦げつくような痛み。
矢だ――弩を持っている!
「く……!」
左腕を押さえ、彼女は必死に走る。
街角を抜け出したところで、人影が現れた。
銀灰の外套。見慣れた背中。
「ディラン様!」
呼ぶより早く、彼は剣を抜いていた。
跳ねるような速さで走り出し、間者の腕を斬り払う。
血飛沫が舞うが、致命傷ではない。
「誰の命だ?」
ディランの声が低く響く。
男は不敵に笑った。
「辺境の将軍が、女一人に心を奪われたと聞いて驚いたよ。陛下はそれをお喜びではない」
「――貴様、王都から来たか」
「いいや。陛下直属の“影”。名乗る必要もない」
再び、鋭い音が空を裂く。
瞬間、雪解けの泥を蹴って二人がぶつかり合う。刃が火花を散らした。
ディランは一歩も引かず、長剣を押し返す。
「王都の命だからといって、人の命を狩る資格にはならん!」
「では、お前は逆らうつもりか?」
「俺はこの地を守る。それだけだ!」
怒号とともに剣が叩き合わされる。
やがてディランの剣が弧を描き、男の手から弩を弾き飛ばした。
地に落ちた刃が鳴る。
間者が息を荒げ、舌打ちする。
「……いいだろう。だが、報告は上がるぞ。王家が貴様らを放っておくと思うな」
そして黒衣を翻し、煙玉を投げつけると視界が真っ白に遮られた。
「ディラン様っ!」
煙が晴れたときには、すでに男の姿はなかった。
***
治療を終えた後、療養所の奥の部屋で二人は静かに向き合っていた。
アイラの腕には包帯が巻かれ、痛みをこらえながらも姿勢を正している。
ディランは黙って彼女の傷を確かめた。
「もう動かすな。矢は浅かったが、出血が酷かった」
「ごめんなさい。皆を巻き込んでしまって」
「謝るのは俺の方だ。……守ると誓ったのに」
低い声には悔しさが滲んでいた。
アイラは首を振る。
「あなたが来なければ、私は生きていません。感謝しているんです」
「感謝で済む問題じゃない。これはもう、単なる“噂”ではなく、明確な狩りだ」
「王家が、私を……」
「恐れているんだろう。お前の力が本物であると知ったからだ」
沈黙が落ちた。
外では風が軒をなで、遠くで鐘の音が響いていた。
その静けさの中で、彼はゆっくりと膝をつく。
「……もう一度だけ言う。俺と来い、アイラ」
「え……?」
「この地を離れる。軍も、王も、国も全部置いていく。自由に生きよう」
「そんな……あなたは将軍でしょう。ここを離れれば――」
「俺の名などどうでもいい。生き延びるためだ」
強い言葉。
しかし、それは焦りにも似ていた。
アイラは彼の瞳を見つめる。そこには、炭火のように燃える保護欲と不安があった。
「あなたを危険にしたくありません。だから、私はここを離れます」
「馬鹿を言うな」
ディランは立ち上がり、拳を固く握る。
「一人で逃げても、奴らは追う。お前の死を確認するまで止まらん」
「……それでも、あなたを失いたくないんです」
言葉がぶつかり合い、部屋の空気が静かに張りつめた。
やがて、ディランは長い沈黙ののちに目を閉じた。
「……だったら、二人で生き延びる術を探そう。逃げるでも、戦うでもいい。もう離さない」
アイラは唇を噛みしめ、頷くことしかできなかった。
その夜、窓の外で森の梢が風に揺れた。
黒衣の間者が残した血の跡はまだ消えていない。
だがその下では、静かに炎が燃えていた。
互いの命を守るという決意――それはもはや一つの運命となって、二人を結び始めていた。
続く
街の通りには市場の屋台が並び、人々が冬を乗り越えたことを祝うように笑顔を見せている。
そんな活気の中でも、アイラはどこか落ち着かない気持ちでいた。
療養所の屋根裏に干していた薬草を並べながら、何度も外を見てしまう。
青空が穏やかな分だけ、胸のざわつきが強まる。
「……来ませんね」
小さく呟く。
ディランが王都からの命に返答を送ると言ってから、すでに三日。
軍の使者を王都へ返したあと、彼はほとんど姿を見せなかった。
不安というより、胸に穴が空いたような寂しさ。
気づけば、あの人の声を探してしまう自分がいる。
「アイラ、聞こえるか?」
ちょうどその時、下から婦長の声がした。
「はい!」と返事をして階段を下りると、扉の前に見慣れない男が立っていた。
漆黒のコート、頭まで覆うフード。
旅人の装いだが、全身からただ者ではない気配が漂っている。
男はにっこり笑った。
「噂の“癒し手”がいるのはここかな?」
「はい……どなたでしょうか?」
「ただの旅人だよ。だが腰を痛めてな、少し治してもらえないか」
柔らかな物腰ではある。だがその声に、妙な違和感があった。
磨かれすぎた言葉、訓練された礼節――まるで貴族のような話し方だ。
「分かりました。こちらへどうぞ」
アイラは診察室に案内した。
男は軽い冗談でもいくつか言ってみせ、振り向いた時に笑んだ唇の端がほんの僅かに歪んだ。
診察を始めようとした瞬間、男は袖の中から何かを取り出した。
刺すような光。
ナイフ――。
アイラは反射的に身をかわし、机の陰に倒れ込む。
刃は紙束を裂き、風を切る音を立てた。
男が舌打ちをする。
「……やはり、反応が良いな。噂どおりだ」
「あなたは……誰?」
「王都の命を受けて来た者だ。癒しの力を持つ女の正体を確かめ、万一ならば処分せよとな」
背筋に冷たいものが走る。
――やはり、来た。
王に忠実な密偵。黒衣の間者。
男は迷いのない動きで距離を詰めてくる。
アイラは咄嗟に腰のポーチから薬瓶を投げた。
炸裂する匂い。目潰し用の煙草だ。
「ちっ……!」
視界を奪われた隙にアイラは外へ走り出した。
療養所の通路を抜け、裏口から裏庭へ。
追跡の足音がすぐ背後で響く。
「逃がすか!」
間者の声が鋭く響き、次の瞬間、銃声のような破裂音がした。
腕に焦げつくような痛み。
矢だ――弩を持っている!
「く……!」
左腕を押さえ、彼女は必死に走る。
街角を抜け出したところで、人影が現れた。
銀灰の外套。見慣れた背中。
「ディラン様!」
呼ぶより早く、彼は剣を抜いていた。
跳ねるような速さで走り出し、間者の腕を斬り払う。
血飛沫が舞うが、致命傷ではない。
「誰の命だ?」
ディランの声が低く響く。
男は不敵に笑った。
「辺境の将軍が、女一人に心を奪われたと聞いて驚いたよ。陛下はそれをお喜びではない」
「――貴様、王都から来たか」
「いいや。陛下直属の“影”。名乗る必要もない」
再び、鋭い音が空を裂く。
瞬間、雪解けの泥を蹴って二人がぶつかり合う。刃が火花を散らした。
ディランは一歩も引かず、長剣を押し返す。
「王都の命だからといって、人の命を狩る資格にはならん!」
「では、お前は逆らうつもりか?」
「俺はこの地を守る。それだけだ!」
怒号とともに剣が叩き合わされる。
やがてディランの剣が弧を描き、男の手から弩を弾き飛ばした。
地に落ちた刃が鳴る。
間者が息を荒げ、舌打ちする。
「……いいだろう。だが、報告は上がるぞ。王家が貴様らを放っておくと思うな」
そして黒衣を翻し、煙玉を投げつけると視界が真っ白に遮られた。
「ディラン様っ!」
煙が晴れたときには、すでに男の姿はなかった。
***
治療を終えた後、療養所の奥の部屋で二人は静かに向き合っていた。
アイラの腕には包帯が巻かれ、痛みをこらえながらも姿勢を正している。
ディランは黙って彼女の傷を確かめた。
「もう動かすな。矢は浅かったが、出血が酷かった」
「ごめんなさい。皆を巻き込んでしまって」
「謝るのは俺の方だ。……守ると誓ったのに」
低い声には悔しさが滲んでいた。
アイラは首を振る。
「あなたが来なければ、私は生きていません。感謝しているんです」
「感謝で済む問題じゃない。これはもう、単なる“噂”ではなく、明確な狩りだ」
「王家が、私を……」
「恐れているんだろう。お前の力が本物であると知ったからだ」
沈黙が落ちた。
外では風が軒をなで、遠くで鐘の音が響いていた。
その静けさの中で、彼はゆっくりと膝をつく。
「……もう一度だけ言う。俺と来い、アイラ」
「え……?」
「この地を離れる。軍も、王も、国も全部置いていく。自由に生きよう」
「そんな……あなたは将軍でしょう。ここを離れれば――」
「俺の名などどうでもいい。生き延びるためだ」
強い言葉。
しかし、それは焦りにも似ていた。
アイラは彼の瞳を見つめる。そこには、炭火のように燃える保護欲と不安があった。
「あなたを危険にしたくありません。だから、私はここを離れます」
「馬鹿を言うな」
ディランは立ち上がり、拳を固く握る。
「一人で逃げても、奴らは追う。お前の死を確認するまで止まらん」
「……それでも、あなたを失いたくないんです」
言葉がぶつかり合い、部屋の空気が静かに張りつめた。
やがて、ディランは長い沈黙ののちに目を閉じた。
「……だったら、二人で生き延びる術を探そう。逃げるでも、戦うでもいい。もう離さない」
アイラは唇を噛みしめ、頷くことしかできなかった。
その夜、窓の外で森の梢が風に揺れた。
黒衣の間者が残した血の跡はまだ消えていない。
だがその下では、静かに炎が燃えていた。
互いの命を守るという決意――それはもはや一つの運命となって、二人を結び始めていた。
続く
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