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第11話 将軍の求婚と戸惑い
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バラン辺境区に春の兆しが訪れた。
雪はまだ路肩に残っているが、陽の光は柔らかく、凍てついた枝から水滴がこぼれ落ちていく。
冬の間、何度も吹雪に閉ざされた街がようやく息を吹き返し、人々の声が戻ってきていた。
療養所の庭に立つアイラ――かつてのアイリスは、雪解けの土を踏みしめながら新芽を見つめていた。
その小さな緑がまるで心の欠片のようで、彼女は思わず微笑む。
「もう少しで……本当に、春ね」
呟く声が風に乗る。
白い息が消えるのを見届けながら、彼女はふと胸に手を当てた。
あの日から季節が変わるほどの時が経った。
夜、凍えた焚き火の前で交わしたディランとの約束――あのぬくもりは今でも覚えている。
それはただの慰めではなかった。
彼が、自分を「ここにいていい」と言ってくれたこと。
その言葉が何よりの救いだった。
***
その日、療養所は珍しく騒がしかった。
検問に引っかかったのだろうか、北方から流れてきた旅商隊が怪我人を出したのだ。
折れた腕、凍傷、疲弊による発熱――どれも軽くはない。
アイラは朝から動きっぱなしだった。
「熱は下がるはずよ。もう少し頑張って」
彼女の頬に汗が伝う。治癒魔法の穏やかな光が、倒れた商人の傷口を包んだ。
すると背後から低い声がする。
「無理をするな」
振り向くと、そこにはディランがいた。
いつの間にか軍服は脱いでおり、外套の上に雪の粉をまとっている。
「昨夜も眠っていないんだろう」
「大丈夫です。みんな助かりそうなんですから」
「助ける側が倒れたら、本末転倒だ」
彼は軽く眉をひそめ、空いている片手で彼女の頭に手を置いた。
「俺に少しは頼れ。兵でも民でも、癒し手でもない、お前自身のままでいい」
その言葉に、アイラの喉が少し痛むように震えた。
あの日も同じ声で言われた気がする。
「……ディラン様に甘えてばかりです」
「甘えてもいい。俺は誰かに頼られるためにここにいる」
その瞬間、胸の奥でなにかが弾けた。
あたたかくて、そして少し怖い感情。
ふと周囲を見渡すと、治療を受けていた商人たちが、その光景を見てにやにやしている。
「将軍様、あの娘さんとは……」
「やめろ」
ディランが一喝すると、一同が慌てて口をつぐんだ。
その横顔が妙に赤く見えて、アイラは思わず笑ってしまう。
「……何を笑っている」
「いいえ。ただ、あなたも普通の人なんですね」
「普通ではない。辺境に閉じこもる変人だ」
「いいえ、優しい人です」
「やめろ。そう言われると困る」
笑い合う声が、冬の名残りを押し流していくようだった。
***
その日の夕暮れ。
騒がしかった療養所が落ち着き、アイラは裏庭の井戸で道具を洗っていた。
小鳥のさえずりが遠くから聞こえ、空は赤く染まりかけている。
そこへ足音が近づき、振り返るとディランがいた。
彼の表情は硬い。
いつもの穏やかさとは違う。
その気配に、彼女の胸が不安に沈む。
「ディラン様……どうかしましたか?」
しばらく沈黙。
彼はゆっくりと息を吐いた。
「王都から伝令が来た。……“癒しの聖女”についての報告を求める通達だ」
「癒しの……聖女?」
「この辺境で、お前のことをそう呼ぶ者がいるらしい。王家がその名に目をつけた」
アイラは息を呑んだ。
髪を隠してきた理由も、名前を偽ってきた理由も、すべてが無意味になるかもしれない。
「……見つかったのですね。私が」
「まだ確証はない。だが王都が動いた以上、放置はできない」
「おそらく、もう時間の問題でしょう。でも……」
彼女は小さく首を振った。
「私は逃げません。これほど救われた場所を、また手放したくはないんです」
その決意に、ディランの表情が揺れる。
無言のまま数歩、彼女に近づいた。
「ならば――守るのは俺の役目だ」
「え?」
「王家がどう動こうと、誰が命を下そうと、俺がこの地とお前を守る」
胸の鼓動が一瞬で早まった。
その目に浮かぶ光は、いつもよりずっと強く、そして優しかった。
「……あなた、それは」
「求婚だ」
短い言葉。
空気が止まった。
耳鳴りのような静寂の中、彼の瞳だけが彼女を真っすぐに見つめている。
「形式でも演技でもない。本気だ。お前を失うくらいなら、俺はすべてを敵に回す」
「でも……!」
アイラは後ずさる。
「私のせいであなたの立場まで危険になります!」
「立場など要らん」
「そんな……!」
「俺は名よりも、人を選ぶ」
それは、かつて聞きたかった言葉だった。
あの夜、王太子に拒絶されたあの日に、誰かがこう言ってくれたなら――。
心の奥に閉じ込めてきた涙が、今こぼれそうになった。
けれど、彼のその真剣な表情を壊してはいけないと思い、アイラは必死に笑みを作った。
「……今、返事はできません」
「それでいい」
彼はわずかに安堵の息を吐き、手袋を脱いだ手でそっと彼女の頬を撫でた。
「時間をやる。お前が選ぶまで、俺は待つ」
囁くような小さな声。
指先が、春の陽のように温かい。
「……こんな言葉をもらえる日が来るなんて、思いませんでした」
「言わせたのはお前だ」
穏やかな笑み。けれどその奥には深い決意が見え隠れする。
空には薄い月が浮かび、二人の影を重ねていた。
頬を撫でる風が優しく、雪解けの匂いを運んでくる。
もし、運命がもう一度試練を与えるのなら。
その時はもう逃げない。
彼の隣で戦うと、彼女は静かに心の中で誓った。
灯火がゆらめく街の上空に、早咲きの星が弧を描く。
それが、信頼という名の絆のように、長く柔らかに輝いていた。
続く
雪はまだ路肩に残っているが、陽の光は柔らかく、凍てついた枝から水滴がこぼれ落ちていく。
冬の間、何度も吹雪に閉ざされた街がようやく息を吹き返し、人々の声が戻ってきていた。
療養所の庭に立つアイラ――かつてのアイリスは、雪解けの土を踏みしめながら新芽を見つめていた。
その小さな緑がまるで心の欠片のようで、彼女は思わず微笑む。
「もう少しで……本当に、春ね」
呟く声が風に乗る。
白い息が消えるのを見届けながら、彼女はふと胸に手を当てた。
あの日から季節が変わるほどの時が経った。
夜、凍えた焚き火の前で交わしたディランとの約束――あのぬくもりは今でも覚えている。
それはただの慰めではなかった。
彼が、自分を「ここにいていい」と言ってくれたこと。
その言葉が何よりの救いだった。
***
その日、療養所は珍しく騒がしかった。
検問に引っかかったのだろうか、北方から流れてきた旅商隊が怪我人を出したのだ。
折れた腕、凍傷、疲弊による発熱――どれも軽くはない。
アイラは朝から動きっぱなしだった。
「熱は下がるはずよ。もう少し頑張って」
彼女の頬に汗が伝う。治癒魔法の穏やかな光が、倒れた商人の傷口を包んだ。
すると背後から低い声がする。
「無理をするな」
振り向くと、そこにはディランがいた。
いつの間にか軍服は脱いでおり、外套の上に雪の粉をまとっている。
「昨夜も眠っていないんだろう」
「大丈夫です。みんな助かりそうなんですから」
「助ける側が倒れたら、本末転倒だ」
彼は軽く眉をひそめ、空いている片手で彼女の頭に手を置いた。
「俺に少しは頼れ。兵でも民でも、癒し手でもない、お前自身のままでいい」
その言葉に、アイラの喉が少し痛むように震えた。
あの日も同じ声で言われた気がする。
「……ディラン様に甘えてばかりです」
「甘えてもいい。俺は誰かに頼られるためにここにいる」
その瞬間、胸の奥でなにかが弾けた。
あたたかくて、そして少し怖い感情。
ふと周囲を見渡すと、治療を受けていた商人たちが、その光景を見てにやにやしている。
「将軍様、あの娘さんとは……」
「やめろ」
ディランが一喝すると、一同が慌てて口をつぐんだ。
その横顔が妙に赤く見えて、アイラは思わず笑ってしまう。
「……何を笑っている」
「いいえ。ただ、あなたも普通の人なんですね」
「普通ではない。辺境に閉じこもる変人だ」
「いいえ、優しい人です」
「やめろ。そう言われると困る」
笑い合う声が、冬の名残りを押し流していくようだった。
***
その日の夕暮れ。
騒がしかった療養所が落ち着き、アイラは裏庭の井戸で道具を洗っていた。
小鳥のさえずりが遠くから聞こえ、空は赤く染まりかけている。
そこへ足音が近づき、振り返るとディランがいた。
彼の表情は硬い。
いつもの穏やかさとは違う。
その気配に、彼女の胸が不安に沈む。
「ディラン様……どうかしましたか?」
しばらく沈黙。
彼はゆっくりと息を吐いた。
「王都から伝令が来た。……“癒しの聖女”についての報告を求める通達だ」
「癒しの……聖女?」
「この辺境で、お前のことをそう呼ぶ者がいるらしい。王家がその名に目をつけた」
アイラは息を呑んだ。
髪を隠してきた理由も、名前を偽ってきた理由も、すべてが無意味になるかもしれない。
「……見つかったのですね。私が」
「まだ確証はない。だが王都が動いた以上、放置はできない」
「おそらく、もう時間の問題でしょう。でも……」
彼女は小さく首を振った。
「私は逃げません。これほど救われた場所を、また手放したくはないんです」
その決意に、ディランの表情が揺れる。
無言のまま数歩、彼女に近づいた。
「ならば――守るのは俺の役目だ」
「え?」
「王家がどう動こうと、誰が命を下そうと、俺がこの地とお前を守る」
胸の鼓動が一瞬で早まった。
その目に浮かぶ光は、いつもよりずっと強く、そして優しかった。
「……あなた、それは」
「求婚だ」
短い言葉。
空気が止まった。
耳鳴りのような静寂の中、彼の瞳だけが彼女を真っすぐに見つめている。
「形式でも演技でもない。本気だ。お前を失うくらいなら、俺はすべてを敵に回す」
「でも……!」
アイラは後ずさる。
「私のせいであなたの立場まで危険になります!」
「立場など要らん」
「そんな……!」
「俺は名よりも、人を選ぶ」
それは、かつて聞きたかった言葉だった。
あの夜、王太子に拒絶されたあの日に、誰かがこう言ってくれたなら――。
心の奥に閉じ込めてきた涙が、今こぼれそうになった。
けれど、彼のその真剣な表情を壊してはいけないと思い、アイラは必死に笑みを作った。
「……今、返事はできません」
「それでいい」
彼はわずかに安堵の息を吐き、手袋を脱いだ手でそっと彼女の頬を撫でた。
「時間をやる。お前が選ぶまで、俺は待つ」
囁くような小さな声。
指先が、春の陽のように温かい。
「……こんな言葉をもらえる日が来るなんて、思いませんでした」
「言わせたのはお前だ」
穏やかな笑み。けれどその奥には深い決意が見え隠れする。
空には薄い月が浮かび、二人の影を重ねていた。
頬を撫でる風が優しく、雪解けの匂いを運んでくる。
もし、運命がもう一度試練を与えるのなら。
その時はもう逃げない。
彼の隣で戦うと、彼女は静かに心の中で誓った。
灯火がゆらめく街の上空に、早咲きの星が弧を描く。
それが、信頼という名の絆のように、長く柔らかに輝いていた。
続く
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