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第5話 十年という距離
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次の朝、目覚めた瞬間に胸の奥が重く沈んでいた。
夢を見ていたような気がしたが、その内容は曖昧で、ただ「終わり」という言葉の感触だけが残っていた。
スマホの画面には何の通知もない。詩織からのメッセージも、未読のままの過去の会話履歴も、ただそこに静かに存在している。
昨夜、公園で聞いた言葉――「今、付き合っている人がいるの」。
その一文が、胸の奥で少しずつ硬くなっていた。
会社に行く支度をしながら、鏡に映る自分をぼんやりと見つめる。
十年前の俺が見た“未来の自分”は、こんな顔をしていただろうか。
形だけは大人になった。でも中身は、いつからか止まったままだったのかもしれない。
髪を整え、シャツのボタンを留めてネクタイを締める。いつもと同じ手順なのに、どこかぎこちない。
胸ポケットに差し込んだ社員証が、やけに重く感じた。
出勤の電車で、車窓に映る自分を見ながら思う。
十年前、俺たちは確かに同じ場所で同じ春を見ていた。けれど、選んだ道が違えば、時間はそれぞれの速度で進む。
彼女は東京で、自分の夢を掴み、誰かと新しい日々を生きていた。
俺は地方で取材に追われ、ただ過去の続きを心のどこかで探していた。
十年の距離。それはまるで目に見えない壁のようだった。
オフィスに着くと、いつも通りの朝が動き始めていた。
川崎編集長の声が響く。
「桜庭、昨日の市長会見の映像、イントロに使えるコメント探しとけ。午後までにな」
「あ、はい」
最小限の返事だけをして席に着く。
指先がキーボードを叩くたび、昨日の公園の風の音が蘇る。
仕事の文字の隙間から、彼女の笑顔が滲む。集中しようとしても、うまくはいかない。
昼休み、ふと外に出ると街路樹の桜が咲き始めていた。
風が吹くたびに花びらが宙に踊る。サラリーマンや学生たちが行き交う中で、俺だけがその場に足を止めた。
あの日と同じ色。
東京の春は、いつも何かを思い出させる。
ポケットの中のスマホに指を伸ばしたが、迷って下ろした。
“連絡しない方がいい”と思った自分と、“もう一度話したい”と思う自分が、心の中でぶつかり合う。
どちらが正しいのかなんて、誰にも分からない。
午後の会議中、上司の声が遠のいた。
社内ネットワークの画面にニュースの速報が流れる。
「都内デザイン会社、広告賞を受賞」
記事の見出しの下に映る写真に、詩織の姿があった。
表彰式の壇上で、淡いグレーのスーツを着て笑っている。その隣には、彼女が言っていた“彼氏”らしい男――同じ会社のチーフデザイナー・大島の姿もあった。
俺は画面を閉じられず、そのまま数秒間、固まっていた。
ニュースを読むだけなのに、胸の中に痛みが広がる。
同僚の久我が声をかけてくる。
「どうした?顔色悪いぞ」
「いや、なんでもない」
笑ってごまかすけれど、笑えなかった。
夕方、社に戻る途中で雨が降り出した。
傘を差す人の列を避けながら、無意識に昔の通学路を思い出す。
高校の帰り道、雨の中で詩織が「濡れるの嫌いじゃない」と笑っていた。
その笑顔を追いかけながら、俺は今も同じ雨の中にいる気がする。
けれど、もう隣には彼女はいない。傘の下にいるのは自分だけだ。
帰宅後、部屋の明かりをつけずにソファに沈む。
街の灯りがカーテン越しに差し込み、部屋の中にぼんやりと陰が落ちる。
机の上には取材ノートが開いたままだ。
空白のページに、いつのまにか書き込んでいた文字があった。
――「もう一度、話したい。けれど、それを望む資格があるのか。」
ペンの跡が少し滲んでいた。
そのとき、スマホが震えた。
画面には見慣れた名前。
「詩織」
驚いて開くと、ただ一文だけ。
「昨日はありがとう。ちゃんと話せてよかった。また会えたこと、嬉しかったです。」
淡い言葉だけれど、そこには彼女らしい優しさがあった。
返信するべきか迷って、結局「こちらこそ、ありがとう」とだけ送った。
送信の矢印が消えた後、胸の奥で何かが静かに沈むのを感じた。
数時間後、机に残したコーヒーが冷え切っているのに気づいた。
窓の外では雨が雪まじりに変わっていた。
東京の夜はまだ冷たい。
でも、心の奥に微かな温もりが残っていたのは確かだった。
それは、届かなかった想いの残り火のようなもの。
もう終わりにしなければならないと頭では分かっていながら、消したくなかった。
十年前のあの日からずっと、胸の奥でくすぶり続けていた炎。
ペンを取って取材ノートを閉じ、もう一冊のノートを開く。
そこには初めて東京に来た日から書いている、自分だけの日記がある。
ページの隅に、久しぶりに言葉を記す。
「春は何度でもやって来る。でも、同じ春は二度とない。」
自分で書いたその一文に、小さく息を吐いた。
詩織との時間も、もう過去の中にしかない。
けれどその過去に触れられた今、自分が再び前に進むための何かを掴みかけていた。
窓を開けると、雨がやんで空気が澄んでいた。
街の灯が遠くで滲んで見える。
東京という街は、失ったものさえ輝きに変えて飲み込んでいく。
それでも歩き出さなければならない。
十年の距離が、もうすぐ次の季節に溶けていくような気がした。
それが希望なのか、諦めなのか、自分でもわからないまま、ただ静かに息を吸い込んだ。
(続く)
夢を見ていたような気がしたが、その内容は曖昧で、ただ「終わり」という言葉の感触だけが残っていた。
スマホの画面には何の通知もない。詩織からのメッセージも、未読のままの過去の会話履歴も、ただそこに静かに存在している。
昨夜、公園で聞いた言葉――「今、付き合っている人がいるの」。
その一文が、胸の奥で少しずつ硬くなっていた。
会社に行く支度をしながら、鏡に映る自分をぼんやりと見つめる。
十年前の俺が見た“未来の自分”は、こんな顔をしていただろうか。
形だけは大人になった。でも中身は、いつからか止まったままだったのかもしれない。
髪を整え、シャツのボタンを留めてネクタイを締める。いつもと同じ手順なのに、どこかぎこちない。
胸ポケットに差し込んだ社員証が、やけに重く感じた。
出勤の電車で、車窓に映る自分を見ながら思う。
十年前、俺たちは確かに同じ場所で同じ春を見ていた。けれど、選んだ道が違えば、時間はそれぞれの速度で進む。
彼女は東京で、自分の夢を掴み、誰かと新しい日々を生きていた。
俺は地方で取材に追われ、ただ過去の続きを心のどこかで探していた。
十年の距離。それはまるで目に見えない壁のようだった。
オフィスに着くと、いつも通りの朝が動き始めていた。
川崎編集長の声が響く。
「桜庭、昨日の市長会見の映像、イントロに使えるコメント探しとけ。午後までにな」
「あ、はい」
最小限の返事だけをして席に着く。
指先がキーボードを叩くたび、昨日の公園の風の音が蘇る。
仕事の文字の隙間から、彼女の笑顔が滲む。集中しようとしても、うまくはいかない。
昼休み、ふと外に出ると街路樹の桜が咲き始めていた。
風が吹くたびに花びらが宙に踊る。サラリーマンや学生たちが行き交う中で、俺だけがその場に足を止めた。
あの日と同じ色。
東京の春は、いつも何かを思い出させる。
ポケットの中のスマホに指を伸ばしたが、迷って下ろした。
“連絡しない方がいい”と思った自分と、“もう一度話したい”と思う自分が、心の中でぶつかり合う。
どちらが正しいのかなんて、誰にも分からない。
午後の会議中、上司の声が遠のいた。
社内ネットワークの画面にニュースの速報が流れる。
「都内デザイン会社、広告賞を受賞」
記事の見出しの下に映る写真に、詩織の姿があった。
表彰式の壇上で、淡いグレーのスーツを着て笑っている。その隣には、彼女が言っていた“彼氏”らしい男――同じ会社のチーフデザイナー・大島の姿もあった。
俺は画面を閉じられず、そのまま数秒間、固まっていた。
ニュースを読むだけなのに、胸の中に痛みが広がる。
同僚の久我が声をかけてくる。
「どうした?顔色悪いぞ」
「いや、なんでもない」
笑ってごまかすけれど、笑えなかった。
夕方、社に戻る途中で雨が降り出した。
傘を差す人の列を避けながら、無意識に昔の通学路を思い出す。
高校の帰り道、雨の中で詩織が「濡れるの嫌いじゃない」と笑っていた。
その笑顔を追いかけながら、俺は今も同じ雨の中にいる気がする。
けれど、もう隣には彼女はいない。傘の下にいるのは自分だけだ。
帰宅後、部屋の明かりをつけずにソファに沈む。
街の灯りがカーテン越しに差し込み、部屋の中にぼんやりと陰が落ちる。
机の上には取材ノートが開いたままだ。
空白のページに、いつのまにか書き込んでいた文字があった。
――「もう一度、話したい。けれど、それを望む資格があるのか。」
ペンの跡が少し滲んでいた。
そのとき、スマホが震えた。
画面には見慣れた名前。
「詩織」
驚いて開くと、ただ一文だけ。
「昨日はありがとう。ちゃんと話せてよかった。また会えたこと、嬉しかったです。」
淡い言葉だけれど、そこには彼女らしい優しさがあった。
返信するべきか迷って、結局「こちらこそ、ありがとう」とだけ送った。
送信の矢印が消えた後、胸の奥で何かが静かに沈むのを感じた。
数時間後、机に残したコーヒーが冷え切っているのに気づいた。
窓の外では雨が雪まじりに変わっていた。
東京の夜はまだ冷たい。
でも、心の奥に微かな温もりが残っていたのは確かだった。
それは、届かなかった想いの残り火のようなもの。
もう終わりにしなければならないと頭では分かっていながら、消したくなかった。
十年前のあの日からずっと、胸の奥でくすぶり続けていた炎。
ペンを取って取材ノートを閉じ、もう一冊のノートを開く。
そこには初めて東京に来た日から書いている、自分だけの日記がある。
ページの隅に、久しぶりに言葉を記す。
「春は何度でもやって来る。でも、同じ春は二度とない。」
自分で書いたその一文に、小さく息を吐いた。
詩織との時間も、もう過去の中にしかない。
けれどその過去に触れられた今、自分が再び前に進むための何かを掴みかけていた。
窓を開けると、雨がやんで空気が澄んでいた。
街の灯が遠くで滲んで見える。
東京という街は、失ったものさえ輝きに変えて飲み込んでいく。
それでも歩き出さなければならない。
十年の距離が、もうすぐ次の季節に溶けていくような気がした。
それが希望なのか、諦めなのか、自分でもわからないまま、ただ静かに息を吸い込んだ。
(続く)
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