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第6話 東京の空に見た影
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三月の終わり、東京の空は群青色に霞んでいた。ビルの間から覗くその空の色を、子どものころから好きだった。どこか現実味がなくて、掴めそうで掴めない。そんな空が、今の自分の心に似ていた。
出勤途中、信号待ちで立ち止まる。人の流れの中に身を置いても、心のどこかが別の場所にある。詩織の言葉が、頭のどこかで何度も反響していた。
「今、付き合っている人がいるの」
あの日以来、何度も反芻した言葉。そのたび胸の奥で何かが少しずつ削れていくのがわかる。
オフィスに着くと、川崎編集長が俺を呼んだ。
「桜庭、来週の特集、都内の文化プロジェクトの取材、行けそうか?」
「あ、はい。詳細もらえれば」
資料を受け取って目を通す。新しく開設される広告・デザイン関連の展示イベント――スポンサー企業には、詩織が勤める会社の名前があった。
嫌な予感がした。
けれど仕事だ。断れる立場じゃない。胸の奥がざわつくのを感じながらも、カレンダーに印をつけた。
昼休み、屋上に上がると、春の風が髪を揺らす。遠くの街並みに、薄く霞がかかっている。
十年前には見えなかった街の奥行き。その景色が“今”を突きつけてくる。
スマホのホーム画面を無意識に開く。詩織とのトークルームはそのまま。最新は「ありがとう」の一文で止まっていた。
未練がましいとわかっていても、消せなかった。
ただ、この空の下のどこかで、彼女が同じ空を見ているかもしれないと思うと、それだけで少し胸が痛くも安らいだ。
その週の金曜日、展示イベントの取材に出た。
会場は恵比寿のギャラリー。白い壁に光が柔らかく反射していて、デザイン作品やポスターが静かに並んでいた。
受付で名刺を渡すと、関係者の名簿の中に見慣れた名前を見つける。
「三浦詩織」
血が少し冷たくなる感覚。まさか本人が来ているとは思っていなかった。
担当者から案内されて展示室へ進むと、奥のブースで見覚えのある姿があった。
ライトの下、来客に説明をしている詩織。淡いクリーム色のブラウスに黒のスカート。光の中で、彼女の髪がやわらかく輝いていた。
一瞬、声をかけるか迷った。だが、その隣に立っている男を見た瞬間、足が止まった。
彼女が言っていた“彼”。
大島――同じ会社のデザイナーで、落ち着いた雰囲気の男だった。
彼は来客に笑顔で応じ、詩織の肩に軽く手を置いて何かささやいた。
その仕草は自然で、温かかった。
そこに“恋人”という言葉の説明はいらなかった。
二人の間の距離に、十年という過去がいっそう現実味を帯びて迫ってくる。
立ち尽くしたまま、取材ノートを握る。指先が汗ばみ、紙が少し湿る。
呼吸を整えて、仕事の顔に戻る。
俺は何人かのスタッフに簡単に話を聞いてメモを取った。
詩織には声をかけなかった。
彼女の笑顔に、今の居場所があるなら、それでいい。
自分にそう言い聞かせながらも、心の奥では別の声が響いていた。
「でも、俺はまだ忘れられない。」
取材を終えて外に出ると、風が吹き抜けた。
夜の気配が少しずつ街を包み込む。
空を仰ぐと、新宿方面の空にうっすらと光が滲んでいた。
十年前、彼女と並んで見上げた夜空の記憶が一瞬にして蘇る。
あの頃の俺たちは、未来を疑わなかった。
それぞれ夢を追って、またきっとどこかで会えると、何の根拠もなく信じていた。
足早に駅へ向かう途中、後ろから声が聞こえた。
「湊くん?」
その声を聞いた途端、足が止まる。振り返ると、詩織が立っていた。
「やっぱり……。取材に来てたの?」
「うん、偶然だけど」
彼女は微笑んだが、その笑みは少しぎこちなかった。
「驚いた。まさか湊くんに会うとは思わなかった」
「俺もだよ」
短いやりとりのあと、言葉が続かない。
周囲の人の話し声と車の音が、沈黙を余計に際立たせていた。
彼女が小さく息をついて言った。
「さっき、彼、紹介しようかと思ったけど……忙しそうで」
「ああ、聞いてた。ニュースで賞を取ったって」
「見てくれたんだ」
「たまたま見た。おめでとう」
「ありがとう」
その言葉を受け取るために、俺はどれだけ遠回りしてきたんだろう。
一瞬だけ、十年前の彼女の笑顔が重なる。
でもすぐに彼女は現実の表情に戻り、「またね」と軽く手を振って帰っていった。
その背中を見送りながら、唇の奥で小さく名前を呼んだ。
届かないのをわかっていても、呼ばずにはいられなかった。
帰りの電車の窓に映る自分の顔を見ながら、小さく笑った。
「どれだけ時間がたっても、変われないな」
呟いてから、手首を見ると、腕時計が少し遅れていた。
十年前から、同じ癖で少し時間をずらしている時計。
“本当の時間”を見たくなかったのかもしれない。
でも今なら、そろそろ針を戻してもいい気がした。
終点に着くころ、雨が降り始めていた。
駅から家までの道、濡れるのも構わずに歩く。
雨粒がアスファルトを叩く音が、やけに優しく響いた。
夜空の雲の隙間から、一筋の光がわずかにこぼれた。
その光の向こうに、彼女の笑顔が浮かんで、ゆっくりと消えていった。
この街で生きるということは、きっと誰かを忘れながら前に進むことなんだろう。
記憶の中の人を胸に抱えたまま、新しい風景の中を生きていく。
俺もそのひとりとして、また歩き出さなければならない。
十年という距離を超えても、約束はまだ続いている気がした。
いつか、もう一度新しい春の空を見上げられるように。
(続く)
出勤途中、信号待ちで立ち止まる。人の流れの中に身を置いても、心のどこかが別の場所にある。詩織の言葉が、頭のどこかで何度も反響していた。
「今、付き合っている人がいるの」
あの日以来、何度も反芻した言葉。そのたび胸の奥で何かが少しずつ削れていくのがわかる。
オフィスに着くと、川崎編集長が俺を呼んだ。
「桜庭、来週の特集、都内の文化プロジェクトの取材、行けそうか?」
「あ、はい。詳細もらえれば」
資料を受け取って目を通す。新しく開設される広告・デザイン関連の展示イベント――スポンサー企業には、詩織が勤める会社の名前があった。
嫌な予感がした。
けれど仕事だ。断れる立場じゃない。胸の奥がざわつくのを感じながらも、カレンダーに印をつけた。
昼休み、屋上に上がると、春の風が髪を揺らす。遠くの街並みに、薄く霞がかかっている。
十年前には見えなかった街の奥行き。その景色が“今”を突きつけてくる。
スマホのホーム画面を無意識に開く。詩織とのトークルームはそのまま。最新は「ありがとう」の一文で止まっていた。
未練がましいとわかっていても、消せなかった。
ただ、この空の下のどこかで、彼女が同じ空を見ているかもしれないと思うと、それだけで少し胸が痛くも安らいだ。
その週の金曜日、展示イベントの取材に出た。
会場は恵比寿のギャラリー。白い壁に光が柔らかく反射していて、デザイン作品やポスターが静かに並んでいた。
受付で名刺を渡すと、関係者の名簿の中に見慣れた名前を見つける。
「三浦詩織」
血が少し冷たくなる感覚。まさか本人が来ているとは思っていなかった。
担当者から案内されて展示室へ進むと、奥のブースで見覚えのある姿があった。
ライトの下、来客に説明をしている詩織。淡いクリーム色のブラウスに黒のスカート。光の中で、彼女の髪がやわらかく輝いていた。
一瞬、声をかけるか迷った。だが、その隣に立っている男を見た瞬間、足が止まった。
彼女が言っていた“彼”。
大島――同じ会社のデザイナーで、落ち着いた雰囲気の男だった。
彼は来客に笑顔で応じ、詩織の肩に軽く手を置いて何かささやいた。
その仕草は自然で、温かかった。
そこに“恋人”という言葉の説明はいらなかった。
二人の間の距離に、十年という過去がいっそう現実味を帯びて迫ってくる。
立ち尽くしたまま、取材ノートを握る。指先が汗ばみ、紙が少し湿る。
呼吸を整えて、仕事の顔に戻る。
俺は何人かのスタッフに簡単に話を聞いてメモを取った。
詩織には声をかけなかった。
彼女の笑顔に、今の居場所があるなら、それでいい。
自分にそう言い聞かせながらも、心の奥では別の声が響いていた。
「でも、俺はまだ忘れられない。」
取材を終えて外に出ると、風が吹き抜けた。
夜の気配が少しずつ街を包み込む。
空を仰ぐと、新宿方面の空にうっすらと光が滲んでいた。
十年前、彼女と並んで見上げた夜空の記憶が一瞬にして蘇る。
あの頃の俺たちは、未来を疑わなかった。
それぞれ夢を追って、またきっとどこかで会えると、何の根拠もなく信じていた。
足早に駅へ向かう途中、後ろから声が聞こえた。
「湊くん?」
その声を聞いた途端、足が止まる。振り返ると、詩織が立っていた。
「やっぱり……。取材に来てたの?」
「うん、偶然だけど」
彼女は微笑んだが、その笑みは少しぎこちなかった。
「驚いた。まさか湊くんに会うとは思わなかった」
「俺もだよ」
短いやりとりのあと、言葉が続かない。
周囲の人の話し声と車の音が、沈黙を余計に際立たせていた。
彼女が小さく息をついて言った。
「さっき、彼、紹介しようかと思ったけど……忙しそうで」
「ああ、聞いてた。ニュースで賞を取ったって」
「見てくれたんだ」
「たまたま見た。おめでとう」
「ありがとう」
その言葉を受け取るために、俺はどれだけ遠回りしてきたんだろう。
一瞬だけ、十年前の彼女の笑顔が重なる。
でもすぐに彼女は現実の表情に戻り、「またね」と軽く手を振って帰っていった。
その背中を見送りながら、唇の奥で小さく名前を呼んだ。
届かないのをわかっていても、呼ばずにはいられなかった。
帰りの電車の窓に映る自分の顔を見ながら、小さく笑った。
「どれだけ時間がたっても、変われないな」
呟いてから、手首を見ると、腕時計が少し遅れていた。
十年前から、同じ癖で少し時間をずらしている時計。
“本当の時間”を見たくなかったのかもしれない。
でも今なら、そろそろ針を戻してもいい気がした。
終点に着くころ、雨が降り始めていた。
駅から家までの道、濡れるのも構わずに歩く。
雨粒がアスファルトを叩く音が、やけに優しく響いた。
夜空の雲の隙間から、一筋の光がわずかにこぼれた。
その光の向こうに、彼女の笑顔が浮かんで、ゆっくりと消えていった。
この街で生きるということは、きっと誰かを忘れながら前に進むことなんだろう。
記憶の中の人を胸に抱えたまま、新しい風景の中を生きていく。
俺もそのひとりとして、また歩き出さなければならない。
十年という距離を超えても、約束はまだ続いている気がした。
いつか、もう一度新しい春の空を見上げられるように。
(続く)
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