君が見た春をもう一度

sika

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第7話 すれ違う駅ホーム

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四月に入っても、東京の風はまだ冷たかった。  
朝の通勤時間帯、駅のホームには人の波が押し寄せてくる。スーツ姿の人々がスマホを握りしめ、無言のままそれぞれの時間を追いかけていた。  
俺もその一人として、流れに身を任せるように電車を待っていた。  
昨夜から、どうにも胸の奥のざわつきが消えない。恵比寿の展示会場で見た詩織の姿が何度も頭をよぎる。  
彼女の隣にいた男、支えるように肩に手を置いた仕草、穏やかに笑う表情。  
あれ以上の説得力はなかった。  
二人の距離には、十年という年月が圧縮されたような温かさがあった。  

電車が到着し、扉が開く。押し込まれるようにして車内へ入ると、雨上がりの湿った匂いが充満していた。  
窓の外、曇り空の下で桜の花びらが散っている。  
春は来ているはずなのに、心の中は冬のままだった。  

オフィスに着くと、川崎編集長が書類を手にして言った。  
「桜庭、明日、都庁の取材頼む。午後一で記者クラブの会見、担当は環境政策課。例の再開発エリアの件だ」  
「わかりました」  
返事をしつつも、頭のどこかでは別のことを考えていた。  
詩織の会社が参加している都市デザインの企画には、この案件が絡んでいる。  
もちろん偶然だ。けれど、最近この街がやけに狭く感じる。  
彼女に再び関わるように、何かが仕組まれているようにさえ思えた。  

昼休み、庁舎前のベンチでコンビニ弁当を食べながら空を見上げる。  
雲の切れ間から、光が一本だけ落ちていた。  
その光を眺めながら、もう一度だけ彼女に会いたいと思ってしまう自分がいた。  
忘れなければならないとわかっているのに、どうしても心が追いかけてしまう。  
“十年越しの想いに終止符を。”  
そう書かれた週刊誌の見出しをどこかで見た記憶がある。  
笑い話のように思っていた言葉が、今の自分には痛いほど刺さっていた。  

午後、都庁での会見が思いのほか長引いた。  
会見室を出た時には、すでに夕方近く。  
報道各社の記者たちが原稿を打ちながら廊下を忙しなく行き交う。  
そんな人混みの中でスマホが鳴った。  
表示された名前を見て、心臓が跳ねる。  
――詩織。  

画面を開く。  
「今、駅にいるんだけど、見かけた気がして。湊くん?」  
一瞬、自分の見間違いかと思った。  
送信時刻はほんの数分前。  
彼女が言うその駅は、まさに今俺が向かおうとしていた都庁前から乗り換える新宿の路線だった。  

足が勝手に動いた。  
人波をかき分けて改札を抜け、階段を駆け下りる。  
電車が発車する直前、ホームに滑り込むように乗り込むと、視線の先に見覚えのある横顔があった。  
詩織。  
電車の反対側のドアの近く、イヤホンを片耳に入れて立ちながら窓の外を見ている。  
その表情は穏やかで、どこか寂しそうだった。  
声をかけようとして、喉の奥で言葉が止まる。  
人の波が間に割り込み、すぐには近づけない。  

次の駅へ着くたびに、少しずつ人が増えていく。  
彼女との距離はほんの数メートルなのに、何か大きな壁に阻まれているようだった。  
次の停車駅のアナウンスが響く。  
耳に残るその駅名は、十年前、二人で通った場所だった。  
偶然なのか、運命なのか。  
気づけば心が騒ぎ、足が自然と彼女の方へ動いていた。  

だが、彼女が顔を上げたその瞬間、向かいの車両から別の男性が走り寄ってきた。  
「詩織!」  
その声は、展示会で見た男――大島だった。  
詩織は少し驚いたように目を丸くしたあと、笑って頷いた。  
大島は彼女の荷物を持ち、さりげなく手を取った。  
その様子を、俺はただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。  

やがて扉が開き、人の波が出口へと流れる。  
詩織と大島はホームの向こう側に消えていった。  
その後ろ姿を見送りながら、胸の奥が少しずつ凍っていく感覚を覚えた。  
自分の中で閉じ込めていた“期待”が完全に静止した気がした。  

電車が走り去る音が遠ざかる。  
残された静けさの中で、ホームのベンチに座り込んだ。  
改札から吹き込む風に桜の花びらが一枚舞い込み、足元に落ちる。  
拾い上げてみると、指先で触れた瞬間に崩れた。  
もう、あの日の桜は残っていない。  

夜、帰宅した部屋はやけに広く感じた。  
冷えたコーヒーをすすりながら窓の外を見る。  
高層ビルの明かりが点々と光り、そのひとつひとつが誰かの生活を照らしている。  
詩織も今どこかの部屋で、誰かと同じ灯を見ているのだろう。  
そう思うと、寂しさよりも不思議な安堵があった。  
手の届かない場所で幸せそうに笑っているなら、それでいい。  

机の上の取材ノートを開く。  
空白のページを埋めるように、ペンを走らせた。  
――もう一度、同じ春を見られなくてもいい。  
――ただ、あの日の気持ちを覚えていたい。  
文字を書き終えたとき、心の奥で小さな音がした。  
何かを手放す音。  
それは、悲しみとも救いともつかない静かな音だった。  

窓の外、夜の風に花びらが舞っている。  
この街のどこかで、彼女も同じ風を感じているだろうか。  
そう思いながら、そっと目を閉じた。  

(続く)
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