13 / 13
第13話 心の温度差
しおりを挟む
翌朝、早く目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光に、昨日の会話がすぐに蘇る。
“好きだった”――たった五文字。
それが届いたことで、心の中のどこかが落ち着いたような気もするのに、同時に妙な虚しさが残っていた。
人の心って、不思議だ。伝わらなかったことへの痛みも、やっと届いたことの安堵も、同じように胸を締めつける。
会社に着くと、撮影の準備が進められていた。
明日は大型特集の撮影日。
「東京再生」というテーマに沿って、再開発地区の景観を“人の息遣い”と共に切り取る——それが今回の俺の担当だ。
詩織がディレクターとして現場に入ることも決まっている。
胸の奥がざわつくのを、カメラの調整音でかき消した。
午後には機材チェックを終え、社に戻る。
久我が書類を片手に寄ってきた。
「おい、桜庭。明日の撮影、向こうの企業が全面協力らしいな。ディレクターに“あの人”がいるって噂、ほんと?」
「……まあ、そうみたいだ」
「へえ、そうか。お前の顔、微妙だぞ」
「何がだよ」
「いや、なんていうか、再会しても前と同じテンションでいられるのかって話」
「仕事だ。関係ない」
強く言い切ったけれど、自分の声が少し震えていた。
夜、家に帰ってシャワーを浴びる。
鏡の前で髪を乾かしながら、十年前の自分と今の自分が重なる瞬間があった。
何かを夢見る瞳は薄れて、現実に馴染んでしまった表情。
大人になるって、きっとこういうことなんだろう。
諦めることを覚えて、それを“落ち着き”と呼ぶようになる。
だけど、昨日の彼女の笑顔が胸の奥で揺れている。
“過去も、今も、嘘はなかったんだよ”
その言葉が、どうしても離れなかった。
翌朝、撮影現場に入ったのは朝八時。
まだ人通りの少ない時間帯。
照明係やスタッフたちが静かに機材を並べ始めていた。
白い曇り空。雨こそ降っていないが、空気は湿り気を帯びて重たい。
そんな中、詩織が到着した。
薄いグレーのジャケットにジーンズ。髪を一つに束ね、イヤホンとタブレット片手に指示を出している。
その姿を見て、胸の奥がチクリと疼く。
何度見ても、彼女は今の自分にとって眩しい存在だった。
「おはよう、湊くん」
「おはよう。段取り、変更ある?」
「少しだけ。光が思ったより弱いから、午前は建物中心でいこう」
「了解」
会話は仕事のトーン。それでいい、と思った。
一歩を踏み込みすぎれば、すぐに心の温度が狂う。
彼女がいる空気の中と、いない時間の間には、はっきりと温度差がある。
正午を過ぎるころ、風が少し強くなった。
カメラを構えていた俺に、詩織が歩み寄ってくる。
「ねえ、湊くん。ここの構図、もっと広く撮れそう?」
「できるけど、人の動きが途切れると空間が間延びする。もう少し人が通る時間を待とう」
「さすが、よく見てる」
「職業病だよ」
ふたりの間に風が通り抜ける。
その瞬間、思ったより近くに彼女の顔があった。
一瞬だけ息を呑むほどに、その距離が狭まった。
けれど彼女はすぐに笑って離れた。
「ほんと変わらないね。その真面目な顔」
「そっちこそ。相変わらず頑固だ」
軽口を交わしただけなのに、体の奥に熱が残る。
午後三時、撮影を終えて撤収作業に入る。
詩織がスタッフに指示を出している声がやけに耳に残った。
「お疲れさま、湊くん」
最後の機材を車に積み終えた頃、彼女が紙コップのコーヒーを差し出してきた。
「ブラックでしょ?」
「ありがとう」
熱いコーヒーを受け取りながら、ふと思う。
十年前、同じような午後に彼女と飲んだコーヒーの味を覚えている。
甘いのが苦手な彼女が、自分の分にだけ砂糖を入れなかったこと。
その小さな記憶が、今も変わらない温度で残っていた。
「これ、特集のメインビジュアルに使わせてもらうね。ちゃんと名前もクレジット入るから」
「嬉しいな。ありがとう」
「ずっと思ってたんだ。湊くんの写真って、時間が“止まってる”みたいで、でもその中で呼吸してる感じがする」
その言葉に胸の奥が震える。
「……それ、たぶん俺が自分の時間を止めてるからかもな」
「止めてる?」
「昔の気持ち、まだ片付いてないんだと思う」
口にした瞬間、後悔が襲った。
詩織は少しだけ目を伏せ、微笑んだ。
「そうだね。私も同じかもしれないよ」
「え?」
「たぶん、完全には整理できないんだと思う。私たち、あの頃のままの想いをどこかにしまい込んで生きてる」
静かな声だった。
「違うのは、その想いを“どう扱うか”だけ」
「……どう扱うか、か」
「うん。私は、それを糧にして進むって決めた。湊くんは?」
「俺は、まだ考えてる途中だ」
「なら、いい答えが出るといいね」
詩織はそれだけ言うと、夕暮れに染まる空を見上げた。
彼女の横顔が少し揺れる。その目の奥に映る光と、口元の笑みがやけに優しかった。
十年経っても変わらない人。そして、その時間を越えても、きっと自分はまだ彼女を見つめてしまうのだろう。
夕方の風が柔らかく吹き抜けた。
街のビルのガラスに、二人の姿がぼんやりと重なって映る。
けれど、その距離のわずかな差が、今の俺たちの心の温度差そのものだった。
近すぎず、遠すぎず、でも確かに存在している。
その距離を受け入れながら、ゆっくりと息をついた。
(続く)
カーテンの隙間から差し込む光に、昨日の会話がすぐに蘇る。
“好きだった”――たった五文字。
それが届いたことで、心の中のどこかが落ち着いたような気もするのに、同時に妙な虚しさが残っていた。
人の心って、不思議だ。伝わらなかったことへの痛みも、やっと届いたことの安堵も、同じように胸を締めつける。
会社に着くと、撮影の準備が進められていた。
明日は大型特集の撮影日。
「東京再生」というテーマに沿って、再開発地区の景観を“人の息遣い”と共に切り取る——それが今回の俺の担当だ。
詩織がディレクターとして現場に入ることも決まっている。
胸の奥がざわつくのを、カメラの調整音でかき消した。
午後には機材チェックを終え、社に戻る。
久我が書類を片手に寄ってきた。
「おい、桜庭。明日の撮影、向こうの企業が全面協力らしいな。ディレクターに“あの人”がいるって噂、ほんと?」
「……まあ、そうみたいだ」
「へえ、そうか。お前の顔、微妙だぞ」
「何がだよ」
「いや、なんていうか、再会しても前と同じテンションでいられるのかって話」
「仕事だ。関係ない」
強く言い切ったけれど、自分の声が少し震えていた。
夜、家に帰ってシャワーを浴びる。
鏡の前で髪を乾かしながら、十年前の自分と今の自分が重なる瞬間があった。
何かを夢見る瞳は薄れて、現実に馴染んでしまった表情。
大人になるって、きっとこういうことなんだろう。
諦めることを覚えて、それを“落ち着き”と呼ぶようになる。
だけど、昨日の彼女の笑顔が胸の奥で揺れている。
“過去も、今も、嘘はなかったんだよ”
その言葉が、どうしても離れなかった。
翌朝、撮影現場に入ったのは朝八時。
まだ人通りの少ない時間帯。
照明係やスタッフたちが静かに機材を並べ始めていた。
白い曇り空。雨こそ降っていないが、空気は湿り気を帯びて重たい。
そんな中、詩織が到着した。
薄いグレーのジャケットにジーンズ。髪を一つに束ね、イヤホンとタブレット片手に指示を出している。
その姿を見て、胸の奥がチクリと疼く。
何度見ても、彼女は今の自分にとって眩しい存在だった。
「おはよう、湊くん」
「おはよう。段取り、変更ある?」
「少しだけ。光が思ったより弱いから、午前は建物中心でいこう」
「了解」
会話は仕事のトーン。それでいい、と思った。
一歩を踏み込みすぎれば、すぐに心の温度が狂う。
彼女がいる空気の中と、いない時間の間には、はっきりと温度差がある。
正午を過ぎるころ、風が少し強くなった。
カメラを構えていた俺に、詩織が歩み寄ってくる。
「ねえ、湊くん。ここの構図、もっと広く撮れそう?」
「できるけど、人の動きが途切れると空間が間延びする。もう少し人が通る時間を待とう」
「さすが、よく見てる」
「職業病だよ」
ふたりの間に風が通り抜ける。
その瞬間、思ったより近くに彼女の顔があった。
一瞬だけ息を呑むほどに、その距離が狭まった。
けれど彼女はすぐに笑って離れた。
「ほんと変わらないね。その真面目な顔」
「そっちこそ。相変わらず頑固だ」
軽口を交わしただけなのに、体の奥に熱が残る。
午後三時、撮影を終えて撤収作業に入る。
詩織がスタッフに指示を出している声がやけに耳に残った。
「お疲れさま、湊くん」
最後の機材を車に積み終えた頃、彼女が紙コップのコーヒーを差し出してきた。
「ブラックでしょ?」
「ありがとう」
熱いコーヒーを受け取りながら、ふと思う。
十年前、同じような午後に彼女と飲んだコーヒーの味を覚えている。
甘いのが苦手な彼女が、自分の分にだけ砂糖を入れなかったこと。
その小さな記憶が、今も変わらない温度で残っていた。
「これ、特集のメインビジュアルに使わせてもらうね。ちゃんと名前もクレジット入るから」
「嬉しいな。ありがとう」
「ずっと思ってたんだ。湊くんの写真って、時間が“止まってる”みたいで、でもその中で呼吸してる感じがする」
その言葉に胸の奥が震える。
「……それ、たぶん俺が自分の時間を止めてるからかもな」
「止めてる?」
「昔の気持ち、まだ片付いてないんだと思う」
口にした瞬間、後悔が襲った。
詩織は少しだけ目を伏せ、微笑んだ。
「そうだね。私も同じかもしれないよ」
「え?」
「たぶん、完全には整理できないんだと思う。私たち、あの頃のままの想いをどこかにしまい込んで生きてる」
静かな声だった。
「違うのは、その想いを“どう扱うか”だけ」
「……どう扱うか、か」
「うん。私は、それを糧にして進むって決めた。湊くんは?」
「俺は、まだ考えてる途中だ」
「なら、いい答えが出るといいね」
詩織はそれだけ言うと、夕暮れに染まる空を見上げた。
彼女の横顔が少し揺れる。その目の奥に映る光と、口元の笑みがやけに優しかった。
十年経っても変わらない人。そして、その時間を越えても、きっと自分はまだ彼女を見つめてしまうのだろう。
夕方の風が柔らかく吹き抜けた。
街のビルのガラスに、二人の姿がぼんやりと重なって映る。
けれど、その距離のわずかな差が、今の俺たちの心の温度差そのものだった。
近すぎず、遠すぎず、でも確かに存在している。
その距離を受け入れながら、ゆっくりと息をついた。
(続く)
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
好きな人の好きな人
ぽぽ
恋愛
"私には何年も思い続ける初恋相手がいる。"
初恋相手に対しての執着と愛の重さは日々増していくばかりで、彼の1番近くにいれるの自分が当たり前だった。
恋人関係がなくても、隣にいれるだけで幸せ……。
そう思っていたのに、初恋相手に恋人兼婚約者がいたなんて聞いてません。
俺をフッた幼馴染が、トップアイドルになって「もう一度やり直したい」と言ってきた
夏見ナイ
恋愛
平凡な大学生・藤堂蓮には忘れられない過去がある。高校時代、告白した幼馴染の星宮瑠奈に「アイドルになるから」とこっ酷くフラれたことだ。
数年後、瑠奈は国民的アイドル『LUNA』として輝いていた。遠い世界の住人になった彼女との再会なんて、あるはずもなかった――そう、変装した彼女が俺の前に現れ、「もう一度やり直したい」と泣きつくまでは。
トップアイドルの立場を使い強引に迫る元幼馴染と、過去の傷。揺れ動く俺の日常を照らしてくれたのは、俺の才能を信じてくれる後輩・朝霧陽葵の存在だった。
俺をフッた幼馴染か、俺を支える後輩か。過去の清算と未来の選択を描く、ほろ苦くも甘い、逆転ラブコメディ、開幕。
離した手の温もり
橘 凛子
恋愛
3年前、未来を誓った君を置いて、私は夢を追いかけた。キャリアを優先した私に、君と会う資格なんてないのかもしれない。それでも、あの日の選択をずっと後悔している。そして今、私はあの場所へ帰ってきた。もう一度、君に会いたい。ただ、ごめんなさいと伝えたい。それだけでいい。それ以上の願いは、もう抱けないから。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる