君が見た春をもう一度

sika

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第13話 心の温度差

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翌朝、早く目が覚めた。  
カーテンの隙間から差し込む光に、昨日の会話がすぐに蘇る。  
“好きだった”――たった五文字。  
それが届いたことで、心の中のどこかが落ち着いたような気もするのに、同時に妙な虚しさが残っていた。  
人の心って、不思議だ。伝わらなかったことへの痛みも、やっと届いたことの安堵も、同じように胸を締めつける。  

会社に着くと、撮影の準備が進められていた。  
明日は大型特集の撮影日。  
「東京再生」というテーマに沿って、再開発地区の景観を“人の息遣い”と共に切り取る——それが今回の俺の担当だ。  
詩織がディレクターとして現場に入ることも決まっている。  
胸の奥がざわつくのを、カメラの調整音でかき消した。  

午後には機材チェックを終え、社に戻る。  
久我が書類を片手に寄ってきた。  
「おい、桜庭。明日の撮影、向こうの企業が全面協力らしいな。ディレクターに“あの人”がいるって噂、ほんと?」  
「……まあ、そうみたいだ」  
「へえ、そうか。お前の顔、微妙だぞ」  
「何がだよ」  
「いや、なんていうか、再会しても前と同じテンションでいられるのかって話」  
「仕事だ。関係ない」  
強く言い切ったけれど、自分の声が少し震えていた。  

夜、家に帰ってシャワーを浴びる。  
鏡の前で髪を乾かしながら、十年前の自分と今の自分が重なる瞬間があった。  
何かを夢見る瞳は薄れて、現実に馴染んでしまった表情。  
大人になるって、きっとこういうことなんだろう。  
諦めることを覚えて、それを“落ち着き”と呼ぶようになる。  
だけど、昨日の彼女の笑顔が胸の奥で揺れている。  
“過去も、今も、嘘はなかったんだよ”  
その言葉が、どうしても離れなかった。  

翌朝、撮影現場に入ったのは朝八時。  
まだ人通りの少ない時間帯。  
照明係やスタッフたちが静かに機材を並べ始めていた。  
白い曇り空。雨こそ降っていないが、空気は湿り気を帯びて重たい。  
そんな中、詩織が到着した。  
薄いグレーのジャケットにジーンズ。髪を一つに束ね、イヤホンとタブレット片手に指示を出している。  
その姿を見て、胸の奥がチクリと疼く。  
何度見ても、彼女は今の自分にとって眩しい存在だった。  

「おはよう、湊くん」  
「おはよう。段取り、変更ある?」  
「少しだけ。光が思ったより弱いから、午前は建物中心でいこう」  
「了解」  
会話は仕事のトーン。それでいい、と思った。  
一歩を踏み込みすぎれば、すぐに心の温度が狂う。  
彼女がいる空気の中と、いない時間の間には、はっきりと温度差がある。  

正午を過ぎるころ、風が少し強くなった。  
カメラを構えていた俺に、詩織が歩み寄ってくる。  
「ねえ、湊くん。ここの構図、もっと広く撮れそう?」  
「できるけど、人の動きが途切れると空間が間延びする。もう少し人が通る時間を待とう」  
「さすが、よく見てる」  
「職業病だよ」  
ふたりの間に風が通り抜ける。  
その瞬間、思ったより近くに彼女の顔があった。  
一瞬だけ息を呑むほどに、その距離が狭まった。  
けれど彼女はすぐに笑って離れた。  
「ほんと変わらないね。その真面目な顔」  
「そっちこそ。相変わらず頑固だ」  
軽口を交わしただけなのに、体の奥に熱が残る。  

午後三時、撮影を終えて撤収作業に入る。  
詩織がスタッフに指示を出している声がやけに耳に残った。  
「お疲れさま、湊くん」  
最後の機材を車に積み終えた頃、彼女が紙コップのコーヒーを差し出してきた。  
「ブラックでしょ?」  
「ありがとう」  
熱いコーヒーを受け取りながら、ふと思う。  
十年前、同じような午後に彼女と飲んだコーヒーの味を覚えている。  
甘いのが苦手な彼女が、自分の分にだけ砂糖を入れなかったこと。  
その小さな記憶が、今も変わらない温度で残っていた。  

「これ、特集のメインビジュアルに使わせてもらうね。ちゃんと名前もクレジット入るから」  
「嬉しいな。ありがとう」  
「ずっと思ってたんだ。湊くんの写真って、時間が“止まってる”みたいで、でもその中で呼吸してる感じがする」  
その言葉に胸の奥が震える。  
「……それ、たぶん俺が自分の時間を止めてるからかもな」  
「止めてる?」  
「昔の気持ち、まだ片付いてないんだと思う」  
口にした瞬間、後悔が襲った。  
詩織は少しだけ目を伏せ、微笑んだ。  
「そうだね。私も同じかもしれないよ」  
「え?」  
「たぶん、完全には整理できないんだと思う。私たち、あの頃のままの想いをどこかにしまい込んで生きてる」  
静かな声だった。  
「違うのは、その想いを“どう扱うか”だけ」  
「……どう扱うか、か」  
「うん。私は、それを糧にして進むって決めた。湊くんは?」  
「俺は、まだ考えてる途中だ」  
「なら、いい答えが出るといいね」  
詩織はそれだけ言うと、夕暮れに染まる空を見上げた。  

彼女の横顔が少し揺れる。その目の奥に映る光と、口元の笑みがやけに優しかった。  
十年経っても変わらない人。そして、その時間を越えても、きっと自分はまだ彼女を見つめてしまうのだろう。  

夕方の風が柔らかく吹き抜けた。  
街のビルのガラスに、二人の姿がぼんやりと重なって映る。  
けれど、その距離のわずかな差が、今の俺たちの心の温度差そのものだった。  
近すぎず、遠すぎず、でも確かに存在している。  
その距離を受け入れながら、ゆっくりと息をついた。  

(続く)
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