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第17話 真夜中の告白
しおりを挟む演説から三日後、ヴェルディアの空には灰色の雲が広がっていた。
熱狂と感動に包まれたあの日から、街は静かな再生の気配を見せ始めている。
ルクレイスからの圧力も弱まり、王は正式に「改革法案第一条」を布告した。
それは、中央集権から地方自主へ――リリアナが提案した分権法の実現を意味していた。
けれど、成功の影にこそ、疲労と孤独が積もっていく。
日の光の下では凛として微笑む彼女も、夜になると一人の女性として肩を落とす瞬間がある。
窓の外を見つめながら、リリアナはぽつりと呟いた。
「勝つって、こんなに寂しいことだったかしら」
ペンの先が封筒の上で止まる。
テーブルには手紙が一枚。
宰相閣下からの指令文ではない。
一通の私信――宰相府補佐、アルヴェン・クロスフォードから。
“明夜、宰相府北塔の回廊にて。
少しだけ、貴女自身の話を聞かせてください。”
読み返すたびに心がざわめく。
仕事の連絡ではないのは明らかだった。
それでも、拒む理由もなかった。
◆
翌夜。
塔の上は風が強く、空気が澄んでいた。
月が綺麗に浮かび、手すりに並んだランプの灯が橙色に揺れている。
リリアナは肩に薄いショールをかけながら階段を登り、扉を叩くことなく開いた。
「来てくれたんですね」
声が響く。
アルヴェンが手すりのそばに立っていた。
鎧ではなく、黒の上着に深い青のスカーフ。珍しく軍の装飾を外している。
「今夜は宰相府の人間ではなく、一人の男として来てもいいですか?」
「……前置きが多いのは、何か告白でもするつもりですか?」
「そうですね。言葉にするなら、それが近いかもしれません」
リリアナは小さく笑い、月明かりの下に立った。
薄いドレスの裾が風に踊る。
それをひと目見たアルヴェンの瞳が、静かに細められる。
「貴女にはいつも驚かされる。理路整然とした意見の裏に、こんな表情を隠しているとは」
「貴方に見せるつもりはなかったけれど、風がいたずらしたのね」
「風に感謝しなければ」
「口が上手いわね」
「外交官なので」
穏やかなやり取りの後、沈黙が落ちる。
二人の間を流れるのは、夜風と遠くの鐘の音だけだった。
「リリアナ」
彼がゆっくりと名を呼ぶ。
その響きに、心臓がかすかに疼く。
「君がここに来て、ヴェルディアは変わった。
いや、君だけじゃない。国全体が、“理性は氷のように冷たいものではなく、温かく人を導くものだ”と知った。
……それを示したのは、君の言葉だ」
「それは陛下のおかげです。私はただ、理屈を並べただけ」
「誰にでも並べられる理屈ではない。君の理は、いつも誰かを救っている。
私も、救われたひとりだ」
不意に、胸の奥が熱を帯びた。
「貴方が救われるような弱さを見せたことがありました?」
「いや、見せてはいない。君の前では、いつも強くあろうとしていた」
「その努力が透けて見えるから、人は貴方を信じるのよ」
「でも、今日だけは努力をやめたい」
アルヴェンが一歩近づく。
リリアナはわずかに後ずさったが、逃げることはしなかった。
夜風が髪を揺らし、二人の距離が詰まる。
「リリアナ。私はずっと“理性”の側に立ってきた。
戦場でも机の上でも、正解だけを選び抜いてきた。
けれど君を見ていると、正解の中に“人の温度”があることを知った」
「……温度?」
「そう。君は火だ。見ていると息が苦しくなるほど強く眩しい。
それなのに、人を焦がさず、照らすだけの火――そんな存在を、私は他に知らない」
風が止まる。
リリアナは目を伏せ、そしてそっと問い返した。
「貴方が私をどう思っているのか……知るのが怖いわ」
「怖い?」
「ええ。私は誰かの愛を信じて、全てを失った過去がある。
また愛を信じるくらいなら、冷たい光の中で一人立つ方がずっとまし」
「それでも、もう一度信じてほしい」
「なぜ?」
「君が一人で立つ姿は美しい。だが、それを見ていることしかできない自分が、もう耐えられない」
アルヴェンが彼女の肩に手を伸ばす。
指先が触れそうな距離で止まった。
「許してくれ。君を守りたいという言葉は、彼女を見下す言葉と同じだと思っていた。
でも違う。私は君と並んで、君の歩く先を見たい」
その瞳には、確かな誠実さがあった。
求めるでも、縋るでもなく、共に在ると誓う瞳。
沈黙のあと、リリアナが息を吐いた。
「……貴方らしいわね。理屈のようで、心だけが先に走ってる」
「そうだ。君の影響だな」
「うぬぼれ屋」
「でも、少し笑った」
月明かりの下で、彼女の唇がほころぶ。
アルヴェンがその笑みを見逃さず、ゆっくりと距離を詰めた。
彼の手が頬をかすめ、指先が温かさを伝える。
「もしも、これが“告白”だとしたら?」
「……悪くない響きね」
「返事は?」
「今すぐには言わないわ。だって私には、まだ果たすべき仕事があるもの」
「それを終えたら?」
「その時に聞きに来なさい。今度は理ではなく、心で答えるわ」
アルヴェンの唇が微かに震え、そして静かに笑みを浮かべた。
「約束します。君が果たす務めを見届けてから、再びここへ来る」
「覚えておいて。私、約束を破る人は嫌いなの」
「忘れるものか」
二人の間を、一陣の風が抜けた。
夜鳥が遠くで鳴き、塔の灯が細く揺らめく。
その光の中心で、アルヴェンはリリアナの手を取り、優しく唇を寄せた。
祈りのように、契約のように。
「……ありがとう、リリアナ」
「礼ならまだ早いわ。終わるまでは、何も始めない」
「分かってる。でも、願わずにいられない」
「願い?」
「君が、幸せになることだ」
リリアナは何も言わず、ただその手を離さなかった。
冷たい空気の中に、確かなぬくもりがあった。
やがて塔の鐘が鳴り、日付が変わる。
二人は並んで月を見上げた。
光は静かに降り注ぎ、彼らを包んだ。
夜明けまではまだ遠い。
けれどその時間が、これほど優しく感じられたことはなかった。
続く
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