公爵令嬢は婚約破棄に微笑む〜かつて私を見下した人たちよ、後悔する準備はできてる?〜

sika

文字の大きさ
18 / 30

第18話 溶けるような口づけ

しおりを挟む
真夜中の塔で交わされた言葉から、ひと月が過ぎた。  
季節はゆるやかに春へと向かい、ヴェルディアの街には柔らかな陽光が差していた。  
改革法が施行され、地方の役人たちが王都へ視察に訪れるようになった。  
王も満足げに微笑み、宰相府は連日活気にあふれている。  
だが――その中心で懸命に走り回る私の心だけが、どこか落ち着きを失っていた。  

アルヴェンはあの夜以降、言葉を探すように私を見つめるだけで、もう深く踏み込んでこようとはしなかった。  
まるで約束を胸の奥に封じ込めたかのように、ただ穏やかな距離を保って。  
けれどその静けさが、かえって苦しかった。  
触れない優しさは、時にいちばん人を切り裂く。  

「リリアナ様、少し休憩を」  
セリーヌが湯の入ったカップを差し出す。  
「ありがとうございます。……私は平気よ」  
「嘘です。本当は眠れていないでしょう。最近、目が赤いです」  
図星を突かれ、思わず小さく笑う。  
「少し考え事が多かっただけ」  
「考え事……あの方のことでしょう?」  
「セリーヌ、貴方って本当に鋭いのね」  
「お嬢様の侍女ですから。そろそろご自身の気持ちを整理して下さいな。あの方、きっと待っておいでですよ」  
「待っている……」  
その言葉を反芻しながら、私は昼下がりの光に目を細めた。  

◆  

王が開いた晩餐会の夜。  
改革の成功を祝うため、各地方から官吏や商人が招かれた。  
音楽と笑い声が宮廷の広間に満ち、燭台の光が豪奢な絨毯を照らす。  
ドレスの裾の音が絶え間なく響き、誰もが未来の安定を語っていた。  

私もその一角に立っていた。  
周囲の視線は穏やかで、かつてのような嘲りはもうない。  
それでも胸の奥には小さな穴が開いたままだった。  

「人ごみの中にいても、孤独を感じる時がある」  
背後から静かな声がした。  
振り返ると、そこにアルヴェンがいた。  
彼もまた、黒の礼装に金の縁が入った正装――相変わらず、凛として隙がない。  

「仕事の顔より柔らかいですね」  
「今夜は仕事ではなく、祝宴ですから」  
「それでも、貴方は人を観察している目をしている」  
「職業病だな」  
微かに笑うその声が、胸に沁みた。  
「貴女こそ、本当はここを逃げ出したいのでは?」  
「ええ、少し。賑やかすぎて息が詰まりそう」  
「なら、少し外に出ましょう」  

彼の言葉にうなずき、二人で庭園に出た。  
夜風が頬を撫で、遠くの噴水が月光を受けてきらめく。  
人のざわめきが消え、静寂が降りた。  

「この国が、やっと変わりましたね」  
「君が変えたと言っていい」  
「私一人の力じゃないわ」  
「だが、君がいなければ始まりもしなかった」  
「……その評価を信じてもいいのかしら」  
「信じてほしい。君にだけは嘘をついたことがない」  

その一言で、心がほどけるように揺れた。  
私は視線を逸らし、噴水の方へ歩いた。  
月明かりの中、水面が波打ち、白い霧のような湯気が立ちのぼる。  

「月が綺麗ですね」  
「ええ。でもそれ以上に、君が綺麗だ」  
「また口が上手い」  
「本心です」  
彼が近づいてくるのがわかった。  
足音が草を踏み、私と彼の距離はほんの数歩。  
肩が触れるか触れないか、その境界の空気が熱を帯びる。  

「リリアナ」  
名前が低く響く。  
「君がいなければ、私は理性の檻から出られなかった」  
「そんなこと、ないわ」  
「ある。私はずっと、“計算”の中でしか自分を見てこなかった。  
けれど君は、自分の痛みを嘘にせず、それを光に変えた。  
私は……それに惹かれた」  

一瞬、世界が静止した。  
鼓動の音が風に溶ける。  
彼の瞳は、真剣そのもので、冗談も迷いもなかった。  

「……あの夜の約束、覚えていますか?」  
「塔の上での?」  
「君が務めを終えたら、再び答えをくれると言った」  
「ええ、覚えているわ」  
「もうその時だ」  

言葉の隙間に、彼の手が伸びた。  
指先が私の頬に触れる。  
一瞬で全身が熱くなる。  
逃げる術も、逃げたい気持ちもなかった。  

「答えを、聞かせてほしい」  
その低い声が、胸の奥を震わせる。  
私は唇を噛みながらゆっくり息を吸い、そして首を振った。  

「違うの。聞かせるんじゃないわ。……感じて」  

その瞬間、距離が消えた。  
唇が触れた――驚くほど静かに、穏やかに。  
溶けるような温度が、ゆっくりと体中を満たしていく。  
冬の氷が解け、春の水が流れ出すような感覚だった。  

彼の手が頬から髪へと滑り、片腕でそっと抱き寄せる。  
拒む理由を見つけようとしても、理性はすでに彼に預けられていた。  
聞こえるのは、自分でも信じられないほど静かな鼓動。  

どれくらいそうしていただろう。  
唇が離れる頃には、夜風の音が戻っていた。  
アルヴェンは微かに息を吐き、額を私の額に触れさせた。  

「……これが、私の“理”の終わりです」  
「じゃあ、これが“私の”始まりね」  
「リリアナ」  
「はい?」  
「君を愛している」  

その直球の言葉に、逃げ場はなかった。  
優しさも計算もなく、ただまっすぐに真実として。  
私は彼の胸に手を置き、笑った。  

「そんなふうに言われたら、仕事ができなくなるわ」  
「それなら、今夜だけでいい」  
「夜が明けたら、また宰相補佐と顧問。……そうでしょう?」  
「ええ、でもこの夜がある限り、私は何度でも立ち上がれる」  

「アルヴェン様」  
「ん?」  
「私も愛しています。――貴方の理性ごと、すべて」  

互いに目を閉じ、再び唇を重ねた。  
今度は言葉ではなく、誓いとして。  
噴水の音が静かに包み込み、夜が少しずつ溶けていく。  

遠くで鐘が鳴る。  
都の夜が明けようとしていた。  
二人の影が、朝の光に溶けながら一つになる。  

その瞬間、誰も知らない約束が結ばれた。  
それは、政治でも立場でもない――人としての、ただひとつの愛の契約だった。  

続く
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~

ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」 義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。 父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。 けれど―― 公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。 王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。 さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。 そして下されたのは――家ごとの褫奪。 一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。 欲しがったのは肩書。 継いだのは責任。 正統は叫びません。 ただ、残るだけ。 これは、婚約を奪われた公爵令嬢が “本当に継がれるべきもの”を証明する物語。

《完結》初夜をすっぽかされた令嬢は夫を死亡扱いする

さんけい
恋愛
クズ夫の非常識を帳簿で粛々と清算!真実の愛?笑わせるわね! 全14話。

寵愛のいる旦那様との結婚生活が終わる。もし、次があるのなら緩やかに、優しい人と恋がしたい。

にのまえ
恋愛
リルガルド国。公爵令嬢リイーヤ・ロイアルは令嬢ながら、剣に明け暮れていた。 父に頼まれて参加をした王女のデビュタントの舞踏会で、伯爵家コール・デトロイトと知り合い恋に落ちる。 恋に浮かれて、剣を捨た。 コールと結婚をして初夜を迎えた。 リイーヤはナイトドレスを身に付け、鼓動を高鳴らせて旦那様を待っていた。しかし寝室に訪れた旦那から出た言葉は「私は君を抱くことはない」「私には心から愛する人がいる」だった。 ショックを受けて、旦那には愛してもられないと知る。しかし離縁したくてもリルガルド国では離縁は許されない。しかしリイーヤは二年待ち子供がいなければ離縁できると知る。 結婚二周年の食事の席で、旦那は義理両親にリイーヤに子供ができたと言い出した。それに反論して自分は生娘だと医師の診断書を見せる。 混乱した食堂を後にして、リイーヤは馬に乗り伯爵家から出て行き国境を越え違う国へと向かう。 もし、次があるのなら優しい人と恋がしたいと…… お読みいただき、ありがとうございます。 エブリスタで四月に『完結』した話に差し替えいたいと思っております。内容はさほど、変わっておりません。 それにあたり、栞を挟んでいただいている方、すみません。

【完結】氷の令嬢は愛を請わない - 捨て子の『義妹』に愛も家族も奪われたマリーローズの逆襲

恋せよ恋
恋愛
銀髪紫眼の美貌の侯爵令嬢、マリーローズ。 完璧な淑女に育った彼女だったが、母は捨て子ジュリエットを寵愛。 婚約者の公爵家嫡男アレックスも、友人も、次々に奪われる――。 家族に裏切られ、すべてを失った彼女が下した決断は、 家族を見かぎり、国を捨て、自らの人生を取り戻すこと。 理不尽な悲恋を力に変え、運命をひっくり返す令嬢の逆転劇! 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

出ていけ、と言ったのは貴方の方です

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
あるところに、小さな領地を治める男爵家がいた。彼は良き領主として領民たちから慕われていた。しかし、唯一の跡継ぎ息子はどうしようもない放蕩家であり彼の悩みの種だった。そこで彼は息子を更生させるべく、1人の女性を送りつけるのだったが―― ※コメディ要素あり 短編です。あっさり目に終わります  他サイトでも投稿中

処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!

秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。 民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。 「おまえたちは許さない」 二度目の人生。 エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。 彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。 1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。 「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」 憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。 二人の偽りの婚約の行く末は……

王太子殿下から婚約破棄されたのは冷たい私のせいですか?

ねーさん
恋愛
 公爵令嬢であるアリシアは王太子殿下と婚約してから十年、王太子妃教育に勤しんで来た。  なのに王太子殿下は男爵令嬢とイチャイチャ…諫めるアリシアを悪者扱い。「アリシア様は殿下に冷たい」なんて男爵令嬢に言われ、結果、婚約は破棄。    王太子妃になるため自由な時間もなく頑張って来たのに、私は駒じゃありません!

【完結】✴︎私と結婚しない王太子(あなた)に存在価値はありませんのよ?

綾雅(りょうが)要らない悪役令嬢
恋愛
「エステファニア・サラ・メレンデス――お前との婚約を破棄する」 婚約者であるクラウディオ王太子に、王妃の生誕祝いの夜会で言い渡された私。愛しているわけでもない男に婚約破棄され、断罪されるが……残念ですけど、私と結婚しない王太子殿下に価値はありませんのよ? 何を勘違いしたのか、淫らな恰好の女を伴った元婚約者の暴挙は彼自身へ跳ね返った。 ざまぁ要素あり。溺愛される主人公が無事婚約破棄を乗り越えて幸せを掴むお話。 表紙イラスト:リルドア様(https://coconala.com/users/791723) 【完結】本編63話+外伝11話、2021/01/19 【複数掲載】アルファポリス、小説家になろう、エブリスタ、カクヨム、ノベルアップ+ 2021/12  異世界恋愛小説コンテスト 一次審査通過 2021/08/16、「HJ小説大賞2021前期『小説家になろう』部門」一次選考通過

処理中です...