公爵令嬢は婚約破棄に微笑む〜かつて私を見下した人たちよ、後悔する準備はできてる?〜

sika

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第20話 美しき婚約発表

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春の雨が過ぎ、王都の街路樹には新しい若葉が光っていた。  
花売りの声が通りに溶け、人々は鮮やかな季節の匂いに包まれている。  
だが王城の内部――宰相府では、その穏やかな空気とは裏腹に緊張の波が続いていた。  

国境地帯の不穏な動き、そしてルクレイスの残党が放った暗殺計画。  
それらはわずかな報告しか届かぬまま、確実にリリアナの存在を脅かしていた。  

それでも彼女は、怯えることなく業務をこなしていた。  
朝から晩まで、地方役人たちとの報告会、視察書類の確認、そして王への助言書の作成。  
忙しさが恐怖を溶かしてくれるのだと、彼女は気づいていた。  

だがその日――宰相閣下の執務室へ呼ばれた彼女は、思いがけない言葉を耳にすることになる。  

「リリアナ・フォン・エルディン。貴女には、新たな任が下る」  
宰相の声は重々しくも、どこか愉しげだった。  
「任、ですか?」  
「次期宰相補佐官、アルヴェン・クロスフォードとの婚約を、国王陛下が認可された」  

沈黙が落ちた。  
耳を疑ったわけではない。  
ただ、その言葉に含まれる意味の重さを、一瞬にして理解してしまったからだ。  

「婚約……公の?」  
「そうだ。君たちは既に宰相府の両翼として国を動かしてきた。この運命的な組み合わせを、王は“安定の象徴”として広く公表すると決定された」  
「それは……すでに陛下のご意志?」  
「ああ。陛下直筆の勅命だ。拒否はできん」  

リリアナの指先に力が入る。  
穏やかに微笑む宰相の眼差しが、あらゆる逃げ道を断っていた。  
「陛下に背くわけにはいかない。理解しているな」  
「……ええ、もちろんです」  

それだけ告げ、彼女は静かに頭を下げた。  
だが胸の内は、穏やかどころではなかった。  
アルヴェンと結ばれる――それは恋情の延長ではなく、国政上の決定だった。  
愛を知らぬ者たちが、「理想の婚約」として仕立て上げた“美しい嘘”。  

執務室の扉を出ると、廊下の向こうから彼が現れた。  
黒の制服に身を包み、真剣な表情でこちらを見つめている。  
「聞いたのか」  
「はい。陛下の決定だそうです」  
「……どう思う?」  
「どう、とは?」  
「嫌か? この形が」  
その声に、皮肉を含ませる余裕もなく、ただ息が詰まる。  

「嫌じゃありません。  
ただ――これは理の証明でしょう? 人と人を結ぶものが、恋情ではなく国益のために存在する世界」  
「そう思う?」  
「ええ。でも、貴方が共に戦ってきた人なら、誰でも良かった……と言われたくありません。  
せめて、この偽りを誇りあるものにしたい」  

アルヴェンは目を閉じ、しばし何かを考えるように黙った。  
そしてそっと言った。  
「それなら、この婚約を“偽り”にはしない。俺たちの意志で“真実”に変えよう」  
「真実に?」  
「政治のための婚約が、人の心を結ぶものであってはいけない理由なんてないだろう」  
「……貴方って、本当に理屈を愛に持ち込むのが得意ね」  
「君に教わったんだ」  
「やれやれ。ほんと、もう救いようのない男」  
呆れた声の裏で、リリアナの頬はかすかに赤く染まっていた。  

◆  

婚約発表の夜。  
王城の中央宴会場は華やかに飾り付けられ、貴族や各国使節が集っていた。  
シャンデリアの光の下で奏でられる音楽が、まるで祝福の鐘のように響く。  

壇上に立たされたリリアナは、微笑みを浮かべながら祝辞に応じていた。  
その隣でアルヴェンは堂々と立ち、彼女の肩にそっと手を添えた。  
彼の振る舞いには一点の迷いもない。  
だが、その指先には微かな震えがあった。  

「今夜、ヴェルディアは新たな時代を迎える。  
理性と責任、そして絆が手を取り合う日だ」  
宰相レオニードの声が広間に響く。  
やがて陛下が立ち上がり、盃を上げた。  
「二人の若き才が、この国の未来を担う。  
愛と理の誓いをここに!」  

満場の拍手。  
人々の歓声。  
だがリリアナの心は、奇妙な静けさの中にあった。  

「――愛と理の誓い」  
人々が何気なく口にしたその言葉が、皮膚の下に痛いほど響く。  
自分は今、本当に“愛される人間”として立っているのだろうか?  
それとも、象徴として飾られているだけなのだろうか?  

ちらりと隣を窺うと、アルヴェンがこちらを見て微笑んでいた。  
「貴女が美しいせいで、祝辞の意味が霞んでしまう」  
「そんなこと……」  
「いや、本気で思っている」  
彼の声は穏やかで、どこか悲しげだった。  

「愛こそ理になる。それを証明してみせよう」  
「怖くはないの? 王の意向に逆らうことになるわ」  
「怖いさ。だが、君のない平穏ほど空しいものはない」  

その言葉に、リリアナの体がわずかに震えた。  
理性と愛の狭間で、また迷いが顔を出す。  

拍手が鳴り終えた後、アルヴェンが小声で囁いた。  
「外に出よう。君が倒れそうに見える」  
「そんな弱く……」  
「君の心がだ」  

彼に促され、二人は静かに会場を抜け出した。  

◆  

夜風が吹く庭園。  
宴会場の音が遠くに消え、花の香りが優しく広がる。  
アルヴェンは立ち止まり、リリアナを見た。  

「この国が認めようと認めまいと、俺は君を妻にする。理でも義務でもなく、俺の願いとして」  
「アルヴェン……」  
「君が拒んでも、ずっと待つ。君がまた傷を恐れない日が来るまで」  
「……ねえ、そんな言葉を信じてもいいの?」  
「信じるかどうかは、君の自由だ。  
だけど、信じてくれた時の君の笑顔を、俺は一生忘れない」  

リリアナの唇が震え、やがて微かな笑みがこぼれる。  
「諦めが悪いのね。本当に」  
「君が諦めない女だからだ」  

月明かりの下、彼はそっと指輪を取り出した。  
光を吸うような白金の輪に、赤い宝石がひとつ。  

「これは陛下の命令で用意されたものじゃない。俺が、自分の意志で君に贈る指輪だ」  

リリアナはその光に目を細めた。  
ほんのわずかに手を差し出す。  
指輪が指に収まると、不思議なほど自然に心の重荷がほどけた気がした。  

「……重いわね」  
「それは俺の覚悟の重さだ」  
「だったら、少しぐらい支えてもらうわ」  
「望むところだ」  

二人は笑い合い、夜風に髪が揺れた。  
遠くの空で、鐘が静かに鳴る。  

理の国が愛を祝福する夜。  
その先にあるものが何であれ、彼らの心は確かに一つだった。  

だが、その愛が“戦いの再開”の合図でもあることに――この瞬間、二人はまだ気づいていなかった。  

続く
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