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第5話 王都を騒がす新しい噂
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翌朝、王都の空は柔らかな金色に染まり始めていた。
小鳥たちのさえずりが響き、遠くでは商人たちの声が交錯する。いつもと変わらない朝の光景のはずだった。だが、その静寂は長くは続かなかった。
「聞いた?あのエルサレット侯爵令嬢が!」「まさか、もう新しい婚約者を?」
そんな声が、人々の口から口へ、まるで風のように広がっていった。
街角の喫茶店でも、階段下の市場でも、誰もが一様にその名前を口にする。
“元王太子婚約者”という肩書が、いまや最も魅力的な話題の種となっていた。
「しかもお相手があのハートフィールド卿なんでしょう?」「王太子殿下のご学友じゃない!」
「殿下は気が気じゃないわね……」
噂の渦中で、当の二人――リディアとエドガーは、侯爵家の書斎にいた。
リディアは机に積み重ねられた書簡を眺めながら、静かに紅茶を啜る。
その書簡のほとんどが「お祝いの言葉」か「真偽を確かめたい」という好奇心混じりの招待状だった。
「まさか……こんなにも早く反応が返ってくるなんて。」
「予想以上の反響ですね。」と、エドガーは窓際で淡く笑った。
「さすがです、リディア嬢。貴女が社交界にいたときから、その品格と存在感は話題でしたから。」
「皮肉交じりね。」
「いいえ、感心しているんですよ。」
リディアは少しだけ目を細めた。
今は皮肉も笑い話に聞こえる。どんな形であれ、彼女は再び“目立つ存在”として世間の中心に戻ってきたのだ。
だが――その注目が、同時に危険を呼び寄せることも知っていた。
「でも、気をつけなければならない人がいます。殿下も、きっと私たちの動きを探っているでしょう。」
エドガーの言葉に、リディアは軽く頷いた。
「ええ。でも、動いてこそ殿下らしいわ。あの方は沈黙を武器にできない人だから。」
紅茶をそっと置きながら、リディアはかすかに笑った。
その顔には、王太子の冷たい瞳を想起した痛みがもうなかった。代わりにそこに浮かんでいたのは、確かな闘志だった。
一方そのころ、王城の執務室では、アレクシスが報告書を握りしめていた。
いつになく乱暴に封を解いた彼の仕草に、側近たちは口を閉ざす。
「まことか。……エルサレット嬢が、ハートフィールドと?」
報告役の騎士が恐る恐るうなずいた。
「はっ。王都じゅうがその話で持ちきりにございます。」
「ばかな。」
アレクシスの声には、感情が滲んでいた。信じられぬ、というより、信じたくないという響き。
「まさかエドガーが。あの冷静な男が、そんな軽率な真似を……」
沈黙が降りた。
彼の脳裏を、昨日の光景がよぎる。泣きもせず、怒りもせず、それどころかあの冷ややかな微笑を浮かべて去っていったリディアの姿。
“ご安心ください。あなた様よりふさわしい方が、すでにいらっしゃいますの。”
その声が、耳の奥で何度も蘇る。
「……ハートフィールドめ。」
低く呟いたその一言に、部屋の空気が凍りつく。
レティシアが慌てて袖を取った。いつの間にか彼女は隣に立っていた。
「殿下、リディアのことなんてもうお忘れくださいませ。あの方は殿下の足元にも及びませんわ。」
「……今、なんと?」
「え?」
アレクシスの瞳が弾けるように鋭く光った。
「彼女の名を軽々しく呼ぶな。」
「で、殿下……!」
自分でも驚くほどの声音だった。
だが、その瞬間、ようやく自分の感情を理解した。
腹が立つのだ。あの穏やかな彼女が、今どんな笑顔で“別の男”の隣にいるのか。
考えるたび、胸がざらつくように苦しくなった。
「彼女が……本当にハートフィールドを選ぶなど、あってはならぬ。」
「殿下、お怒りを鎮めてくださいませ。殿下が動かれたと知られては――」
「知られて困ることなど、何もない。」
アレクシスはゆっくりと立ち上がった。
「私がただの観察者でいると思うか?」
その夜、王都の社交会が開かれた。
リディアとエドガーはそこに正式な“婚約者同士”として出席することになっていた。
侯爵家からは、豪華な馬車が用意され、すでに数十人の貴族が注目している。
ミラはリディアの髪に最後の飾りを留めながら、不安を滲ませた。
「お嬢様……今夜の舞踏会には、きっと殿下も。」
「ええ、来るでしょうね。」
リディアは鏡越しにゆっくり微笑んだ。
「むしろ、来てほしいわ。」
煌めくライトが満ちる会場へ一歩踏み入れた瞬間、ざわめきが広がった。
誰もが息をのみ、視線を彼女に向ける。
淡いサファイア色のドレス、背筋の通った姿勢、凛とした微笑。
その隣には、冷静で堂々たる公爵家の令息――エドガー。
「本当に婚約したのか?」「お似合いすぎる……」「殿下はどんな顔を――」
噂は会場の片隅から瞬く間に広がっていく。
エドガーが手を差し出し、穏やかにささやく。
「ご準備は?」
「ええ、完璧よ。」
その一言とともに、二人はゆっくりとフロアに降り立った。
息の合ったステップで舞うリディアの姿は、まるで氷上の妖精のよう。
彼女の瞳は遠く、王族席の奥に佇むひとりの男――アレクシスだけを見ていた。
彼の表情は読み取れなかった。だが、杯を握る手の白さが、心の内を雄弁に物語っていた。
エドガーはそれに気づき、リディアに微笑を投げる。
「見ているようですね、殿下が。」
「ええ、思った通り。あの方は、私が笑うのを許せないの。」
「ではもっと笑ってあげましょう。」
「ふふ、そうね。」
曲が終わったとき、拍手が湧き上がった。
それでも王太子の席だけは沈黙したまま。
レティシアが彼の腕に縋りつこうとするが、アレクシスは離れた。
「……やはり、彼女は完璧だ。」
その声は誰にも届かぬほど小さかった。だがエドガーの視線は、その辛辣な美しさを静かに読み取っていた。
リディアの唇がほんのわずかに動いた。
“勝負はこれからよ、殿下。”
夜空にきらめくシャンデリアの光が揺れる中、再び音楽が流れ始める。
リディアは胸の奥で静かに誓う。
まだこれは序章。彼を焦らせ、苦しませ、やがて“失ったものの重さ”を教えるための始まりにすぎない。
そして――その微笑みが誰よりも鮮烈に映えた瞬間、アレクシスの胸に初めて、不安に似た焦燥が走った。
小鳥たちのさえずりが響き、遠くでは商人たちの声が交錯する。いつもと変わらない朝の光景のはずだった。だが、その静寂は長くは続かなかった。
「聞いた?あのエルサレット侯爵令嬢が!」「まさか、もう新しい婚約者を?」
そんな声が、人々の口から口へ、まるで風のように広がっていった。
街角の喫茶店でも、階段下の市場でも、誰もが一様にその名前を口にする。
“元王太子婚約者”という肩書が、いまや最も魅力的な話題の種となっていた。
「しかもお相手があのハートフィールド卿なんでしょう?」「王太子殿下のご学友じゃない!」
「殿下は気が気じゃないわね……」
噂の渦中で、当の二人――リディアとエドガーは、侯爵家の書斎にいた。
リディアは机に積み重ねられた書簡を眺めながら、静かに紅茶を啜る。
その書簡のほとんどが「お祝いの言葉」か「真偽を確かめたい」という好奇心混じりの招待状だった。
「まさか……こんなにも早く反応が返ってくるなんて。」
「予想以上の反響ですね。」と、エドガーは窓際で淡く笑った。
「さすがです、リディア嬢。貴女が社交界にいたときから、その品格と存在感は話題でしたから。」
「皮肉交じりね。」
「いいえ、感心しているんですよ。」
リディアは少しだけ目を細めた。
今は皮肉も笑い話に聞こえる。どんな形であれ、彼女は再び“目立つ存在”として世間の中心に戻ってきたのだ。
だが――その注目が、同時に危険を呼び寄せることも知っていた。
「でも、気をつけなければならない人がいます。殿下も、きっと私たちの動きを探っているでしょう。」
エドガーの言葉に、リディアは軽く頷いた。
「ええ。でも、動いてこそ殿下らしいわ。あの方は沈黙を武器にできない人だから。」
紅茶をそっと置きながら、リディアはかすかに笑った。
その顔には、王太子の冷たい瞳を想起した痛みがもうなかった。代わりにそこに浮かんでいたのは、確かな闘志だった。
一方そのころ、王城の執務室では、アレクシスが報告書を握りしめていた。
いつになく乱暴に封を解いた彼の仕草に、側近たちは口を閉ざす。
「まことか。……エルサレット嬢が、ハートフィールドと?」
報告役の騎士が恐る恐るうなずいた。
「はっ。王都じゅうがその話で持ちきりにございます。」
「ばかな。」
アレクシスの声には、感情が滲んでいた。信じられぬ、というより、信じたくないという響き。
「まさかエドガーが。あの冷静な男が、そんな軽率な真似を……」
沈黙が降りた。
彼の脳裏を、昨日の光景がよぎる。泣きもせず、怒りもせず、それどころかあの冷ややかな微笑を浮かべて去っていったリディアの姿。
“ご安心ください。あなた様よりふさわしい方が、すでにいらっしゃいますの。”
その声が、耳の奥で何度も蘇る。
「……ハートフィールドめ。」
低く呟いたその一言に、部屋の空気が凍りつく。
レティシアが慌てて袖を取った。いつの間にか彼女は隣に立っていた。
「殿下、リディアのことなんてもうお忘れくださいませ。あの方は殿下の足元にも及びませんわ。」
「……今、なんと?」
「え?」
アレクシスの瞳が弾けるように鋭く光った。
「彼女の名を軽々しく呼ぶな。」
「で、殿下……!」
自分でも驚くほどの声音だった。
だが、その瞬間、ようやく自分の感情を理解した。
腹が立つのだ。あの穏やかな彼女が、今どんな笑顔で“別の男”の隣にいるのか。
考えるたび、胸がざらつくように苦しくなった。
「彼女が……本当にハートフィールドを選ぶなど、あってはならぬ。」
「殿下、お怒りを鎮めてくださいませ。殿下が動かれたと知られては――」
「知られて困ることなど、何もない。」
アレクシスはゆっくりと立ち上がった。
「私がただの観察者でいると思うか?」
その夜、王都の社交会が開かれた。
リディアとエドガーはそこに正式な“婚約者同士”として出席することになっていた。
侯爵家からは、豪華な馬車が用意され、すでに数十人の貴族が注目している。
ミラはリディアの髪に最後の飾りを留めながら、不安を滲ませた。
「お嬢様……今夜の舞踏会には、きっと殿下も。」
「ええ、来るでしょうね。」
リディアは鏡越しにゆっくり微笑んだ。
「むしろ、来てほしいわ。」
煌めくライトが満ちる会場へ一歩踏み入れた瞬間、ざわめきが広がった。
誰もが息をのみ、視線を彼女に向ける。
淡いサファイア色のドレス、背筋の通った姿勢、凛とした微笑。
その隣には、冷静で堂々たる公爵家の令息――エドガー。
「本当に婚約したのか?」「お似合いすぎる……」「殿下はどんな顔を――」
噂は会場の片隅から瞬く間に広がっていく。
エドガーが手を差し出し、穏やかにささやく。
「ご準備は?」
「ええ、完璧よ。」
その一言とともに、二人はゆっくりとフロアに降り立った。
息の合ったステップで舞うリディアの姿は、まるで氷上の妖精のよう。
彼女の瞳は遠く、王族席の奥に佇むひとりの男――アレクシスだけを見ていた。
彼の表情は読み取れなかった。だが、杯を握る手の白さが、心の内を雄弁に物語っていた。
エドガーはそれに気づき、リディアに微笑を投げる。
「見ているようですね、殿下が。」
「ええ、思った通り。あの方は、私が笑うのを許せないの。」
「ではもっと笑ってあげましょう。」
「ふふ、そうね。」
曲が終わったとき、拍手が湧き上がった。
それでも王太子の席だけは沈黙したまま。
レティシアが彼の腕に縋りつこうとするが、アレクシスは離れた。
「……やはり、彼女は完璧だ。」
その声は誰にも届かぬほど小さかった。だがエドガーの視線は、その辛辣な美しさを静かに読み取っていた。
リディアの唇がほんのわずかに動いた。
“勝負はこれからよ、殿下。”
夜空にきらめくシャンデリアの光が揺れる中、再び音楽が流れ始める。
リディアは胸の奥で静かに誓う。
まだこれは序章。彼を焦らせ、苦しませ、やがて“失ったものの重さ”を教えるための始まりにすぎない。
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