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第6話 思い出の庭園で
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夜会から数日後、王都の噂はさらに勢いを増していた。
「殿下の元婚約者が、こんなにも見事に再起するとはね」
「ハートフィールド卿もよほどの覚悟なのだろう」
社交界は連日その話題で賑わい、どこの会でも、リディアの名前を聞かない日はなかった。
侯爵家の庭園の奥――かつてアレクシスと何度も語らった噴水の前で、リディアは静かに佇んでいた。
白い花々が咲き誇り、春を思わせる香りが漂う。
だがその美しい景色の中には、残酷なほど鮮明に過去が残っている。
彼と並んで歩いた記憶。手を取ることも、笑い合うことも少なかったけれど、彼がほんの一瞬だけ見せた柔らかな表情を、今も忘れられない。
「お嬢様、またあの場所を……」
背後から控えめな声。ミラが遠慮がちに立っている。
「ええ。忘れるためには、見つめ直さなくてはならないから。」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「思い出に縛られていたら、前に進めなくなるわ。」
彼女のドレスの裾を風が揺らす。
花々が波打ち、木々の隙間から漏れる光が頬を照らした。
そのとき、庭園の入り口から足音がした。一定の歩調で近づいてくる気配――優雅ながら、どこか逡巡するような足取り。
振り向くと、そこに立っていたのはエドガーだった。
「やはりここにいらしたのですね。」
「ええ。わたくしにとって、この庭は始まりであり終わりでもありますもの。」
リディアの言葉に、エドガーは小さく微笑みながら近づいた。
「噂はますます広がっています。殿下がかなり苛立っておられるとか。」
「でしょうね。殿下は常に自分が正しいと思っていらっしゃる方。周りを動かすために怒ることなど、滅多にないのに。」
リディアはそっと噴水の縁に腰を下ろし、水面を撫でるように指先を滑らせた。
その動きがどこか儚く、そして強かった。
「昨日、王宮に呼ばれました。直接殿下から質問を受けましてね。」
「質問?」
「“リディアをどうするつもりだ”と。」
エドガーの声に、リディアは一瞬肩を動かした。
「まあ……さすがにお早い反応ですこと。」
「ええ。ただ、私が何と答えたか気になりますか?」
「ふふ、ええ。少しだけ。」
エドガーは噴水を見下ろしながら、穏やかに言った。
「“殿下が手放した宝石は、いま光を取り戻している。私はその光を見届ける役目です”と。」
リディアが驚いて顔を上げる。
「そんなことを……」
「嘘は言いませんよ。本心ですから。」
彼の声には優雅な軽さがあったが、その奥にある熱は本物だった。
風が吹き抜け、二人の髪が交錯する。
沈黙の中に、心臓の鼓動だけが互いに響く。
やがてリディアが静かに口を開いた。
「ありがとうございます。でも……お気をつけになって。殿下は、裏切りを何よりも憎む人。」
「それは承知の上です。」
エドガーは真っ直ぐリディアを見据えた。
「私は殿下の“忠実な臣下”を辞めるつもりはありません。ただ、ひとりの人間として――貴女を守りたい、それだけです。」
その言葉は深くリディアの胸に届いた。
彼の眼差しには、誇りと優しさと、もう一つの何かがあった。
恋慕、という言葉を口にするにはまだ早い。
けれど確かにそこに燃えているものがあった。
リディアはそっと立ち上がり、彼に向き直った。
「あなたは不思議な方ね。どうしてそこまで……?」
「初めてお会いしたときから、ずっと感じていました。貴女は“自分の意思で生きる”ことを選べる人だと。」
「わたくしが……?」
「はい。殿下の隣にいたときも、貴女は決してただの飾りではなかった。むしろ、その孤高さに惹かれたのは、殿下ではなく私だったのかもしれません。」
言葉が空気を凍らせた。
リディアの口から息がこぼれる。
エドガーはそれ以上を求めない。ただ、真摯に彼女の瞳を見つめていた。
その真っ直ぐさに、彼女の心がわずかに揺らぐ。
「……いけませんわ、そんなことをおっしゃっては。」
「偽りの関係でしたね。」
「ええ、偽りですもの。」
「ですが、“偽り”が長く続けば、やがて本物にもなる。」
「それは希望的観測ですわ。」
「あるいは、現実かもしれません。」
そのとき、ミラが慌てて駆けてきた。
「お嬢様! 大変です! 殿下からお手紙が!」
リディアは一瞬だけ息を止めた。
ミラが手にしている封筒は王家の紋章入り――公式な文書だ。
「……やはり来たわね。」
封を切ると、中には短い文面があった。
“リディア・エルサレット。貴女の近況を直接伺いたい。王城まで来られよ。”
たったそれだけの内容。だが、それだけで十分だった。
殿下が動くということは、彼の心が静かではないことを意味する。
エドガーが息を吐いた。
「予想していたとはいえ、早いものですね。」
「ええ。殿下は耐えることがお嫌いですから。」
リディアは便箋を折りたたみ、微笑んだ。
「……お会いしましょう。わたくし、逃げる気はありませんわ。」
「行かれるのですね。」
「はい。この眼で確かめたいのです。殿下がまだ、あの場所から動けないままでいるのかどうか。」
エドガーは静かに彼女を見つめ、頭を下げた。
「あなたの勇気に、敬意を。」
「ありがとう、エドガー様。」
彼女は手袋を整え、庭園の出口へと向かった。
花々の香りがその背を押す。
もう涙の跡など残っていない。
胸にあるのは、誇りと――わずかな痛みだけ。
噴水の水音が、過去と現在を隔てるように響いている。
リディアは心の中でそっと呟いた。
(殿下。もう一度だけ、あなたの目に映る私を見て。今度は、あの頃の私ではありませんから)
噴水の縁に残されたのは、香り立つ花びらと淡い水のしぶき。
それは新たな戦いの幕開けを知らせる合図のように輝いていた。
(続く)
「殿下の元婚約者が、こんなにも見事に再起するとはね」
「ハートフィールド卿もよほどの覚悟なのだろう」
社交界は連日その話題で賑わい、どこの会でも、リディアの名前を聞かない日はなかった。
侯爵家の庭園の奥――かつてアレクシスと何度も語らった噴水の前で、リディアは静かに佇んでいた。
白い花々が咲き誇り、春を思わせる香りが漂う。
だがその美しい景色の中には、残酷なほど鮮明に過去が残っている。
彼と並んで歩いた記憶。手を取ることも、笑い合うことも少なかったけれど、彼がほんの一瞬だけ見せた柔らかな表情を、今も忘れられない。
「お嬢様、またあの場所を……」
背後から控えめな声。ミラが遠慮がちに立っている。
「ええ。忘れるためには、見つめ直さなくてはならないから。」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「思い出に縛られていたら、前に進めなくなるわ。」
彼女のドレスの裾を風が揺らす。
花々が波打ち、木々の隙間から漏れる光が頬を照らした。
そのとき、庭園の入り口から足音がした。一定の歩調で近づいてくる気配――優雅ながら、どこか逡巡するような足取り。
振り向くと、そこに立っていたのはエドガーだった。
「やはりここにいらしたのですね。」
「ええ。わたくしにとって、この庭は始まりであり終わりでもありますもの。」
リディアの言葉に、エドガーは小さく微笑みながら近づいた。
「噂はますます広がっています。殿下がかなり苛立っておられるとか。」
「でしょうね。殿下は常に自分が正しいと思っていらっしゃる方。周りを動かすために怒ることなど、滅多にないのに。」
リディアはそっと噴水の縁に腰を下ろし、水面を撫でるように指先を滑らせた。
その動きがどこか儚く、そして強かった。
「昨日、王宮に呼ばれました。直接殿下から質問を受けましてね。」
「質問?」
「“リディアをどうするつもりだ”と。」
エドガーの声に、リディアは一瞬肩を動かした。
「まあ……さすがにお早い反応ですこと。」
「ええ。ただ、私が何と答えたか気になりますか?」
「ふふ、ええ。少しだけ。」
エドガーは噴水を見下ろしながら、穏やかに言った。
「“殿下が手放した宝石は、いま光を取り戻している。私はその光を見届ける役目です”と。」
リディアが驚いて顔を上げる。
「そんなことを……」
「嘘は言いませんよ。本心ですから。」
彼の声には優雅な軽さがあったが、その奥にある熱は本物だった。
風が吹き抜け、二人の髪が交錯する。
沈黙の中に、心臓の鼓動だけが互いに響く。
やがてリディアが静かに口を開いた。
「ありがとうございます。でも……お気をつけになって。殿下は、裏切りを何よりも憎む人。」
「それは承知の上です。」
エドガーは真っ直ぐリディアを見据えた。
「私は殿下の“忠実な臣下”を辞めるつもりはありません。ただ、ひとりの人間として――貴女を守りたい、それだけです。」
その言葉は深くリディアの胸に届いた。
彼の眼差しには、誇りと優しさと、もう一つの何かがあった。
恋慕、という言葉を口にするにはまだ早い。
けれど確かにそこに燃えているものがあった。
リディアはそっと立ち上がり、彼に向き直った。
「あなたは不思議な方ね。どうしてそこまで……?」
「初めてお会いしたときから、ずっと感じていました。貴女は“自分の意思で生きる”ことを選べる人だと。」
「わたくしが……?」
「はい。殿下の隣にいたときも、貴女は決してただの飾りではなかった。むしろ、その孤高さに惹かれたのは、殿下ではなく私だったのかもしれません。」
言葉が空気を凍らせた。
リディアの口から息がこぼれる。
エドガーはそれ以上を求めない。ただ、真摯に彼女の瞳を見つめていた。
その真っ直ぐさに、彼女の心がわずかに揺らぐ。
「……いけませんわ、そんなことをおっしゃっては。」
「偽りの関係でしたね。」
「ええ、偽りですもの。」
「ですが、“偽り”が長く続けば、やがて本物にもなる。」
「それは希望的観測ですわ。」
「あるいは、現実かもしれません。」
そのとき、ミラが慌てて駆けてきた。
「お嬢様! 大変です! 殿下からお手紙が!」
リディアは一瞬だけ息を止めた。
ミラが手にしている封筒は王家の紋章入り――公式な文書だ。
「……やはり来たわね。」
封を切ると、中には短い文面があった。
“リディア・エルサレット。貴女の近況を直接伺いたい。王城まで来られよ。”
たったそれだけの内容。だが、それだけで十分だった。
殿下が動くということは、彼の心が静かではないことを意味する。
エドガーが息を吐いた。
「予想していたとはいえ、早いものですね。」
「ええ。殿下は耐えることがお嫌いですから。」
リディアは便箋を折りたたみ、微笑んだ。
「……お会いしましょう。わたくし、逃げる気はありませんわ。」
「行かれるのですね。」
「はい。この眼で確かめたいのです。殿下がまだ、あの場所から動けないままでいるのかどうか。」
エドガーは静かに彼女を見つめ、頭を下げた。
「あなたの勇気に、敬意を。」
「ありがとう、エドガー様。」
彼女は手袋を整え、庭園の出口へと向かった。
花々の香りがその背を押す。
もう涙の跡など残っていない。
胸にあるのは、誇りと――わずかな痛みだけ。
噴水の水音が、過去と現在を隔てるように響いている。
リディアは心の中でそっと呟いた。
(殿下。もう一度だけ、あなたの目に映る私を見て。今度は、あの頃の私ではありませんから)
噴水の縁に残されたのは、香り立つ花びらと淡い水のしぶき。
それは新たな戦いの幕開けを知らせる合図のように輝いていた。
(続く)
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