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第7話 元婚約者の焦り
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王城の朝はいつも通り整然としていた。
磨かれた大理石の床に騎士たちの足音が響き、侍女たちが忙しなく往来する。だが、その秩序の中心に座る王太子アレクシスの心だけが、静かに乱れていた。
机の上には一通の報告書。
「エルサレット侯爵令嬢、近日王城訪問予定」と、几帳面な筆致で書かれている。
彼はその紙片を何度読んでも、胸のざわめきが収まらなかった。
彼女が、自ら王城に来る。そんなことは想像していなかった。
見返すような真似をすることなど、彼女の誇りが許さないと思っていた。
だが、今の彼女は自分の知っているリディアではない。
婚約破棄の場で見せたあの冷ややかな微笑――何もかも見透かすようなあの瞳。
「まるで私が試されているようだな……」
アレクシスは息を吐き、額に手を当てた。
扉の向こうでノックの音。側近のフィルマンが控えめに入室し、頭を下げる。
「殿下、先日ご命令の件。リディア・エルサレット嬢の現在の交際状況について、調査を終えました。」
「……話せ。」
フィルマンは顔を上げた。
「やはり、ハートフィールド卿と頻繁に接触を重ねておられるようです。二人の行動は多くの者の目に留まっております。特に昨夜の茶会では、正面で談笑され、来賓たちが“理想の婚約者同士”だと……」
「やめろ。」
鋭い声で遮る。報告は止まり、沈黙が流れた。
アレクシスの拳が机を軽く叩き、その音が部屋に響く。
数秒の後、彼は低く言った。
「……公爵家は、正式にその件を承認しているのか。」
「いえ、公式発表はまだ。しかしハートフィールド卿のご両親は反対しておられぬ様子。むしろ“見守る”姿勢を取っておられるようです。」
「……そうか。」
アレクシスの胸奥で、何かが重く音を立てた。
彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
冬の光が降り注ぐ中、王都の街並みが眼下に広がっていた。
かつて、リディアと馬車で訪れた庭園や噴水が点のように見える。
あの庭を、いま彼女は誰と見ているのか。
想像するだけで、不快な熱が胸の奥にこもった。
「殿下、焦られるお気持ちは分かりますが……」
「焦ってなどいない。」
即座にそう言いながら、声の奥には明らかな苛立ちがあった。
フィルマンは困ったように目を伏せた。
「ハートフィールド家との関係を悪化させるのは避けた方が賢明かと。殿下は次期国王、感情的な振る舞いは周囲の動揺を招きます。」
「分かっている。」
そう言いながらも、分かっていない自分がいることをアレクシスは痛感していた。
かつて、どんな政略問題にも表情一つ変えなかった。
どんな難題にも冷静沈着でいると評され、それが王太子としての誇りでもあった。
だが今は違う。思い浮かぶのは、あの庭園に立つ彼女の姿。
風に髪を揺らして笑う、その隣にエドガーの穏やかな横顔。
胸の奥が灼けるように痛む。
――私は、なぜこれほどまでに。
問いは浮かんでも答えは出ない。
だが、自分の心が静かではないことだけは、嫌というほど理解していた。
「殿下。」
レティシアの甘ったるい声が廊下から聞こえてきた。
アレクシスは小さく舌打ちし、姿勢を正す。
「入れ。」
扉が開き、明るい笑顔を取り繕った彼女が入室した。
「まあ、顔色が優れませんわ。少しお休みになられては?」
「不要だ。」
冷たく返すと、レティシアの笑みが硬くなる。
「殿下、わたくしではまだお力になれませんの?」
「そういう問題ではない。」
「では……エルサレット嬢のこと、でしょう?」
静寂。
レティシアは口元を覆い、わざと悲しげに視線を落とした。
「もう殿下の心には、あの方の影など残っていないと信じておりましたのに。」
「口を慎め。」
その一言で、彼女の顔が凍りつく。
アレクシスは立ち上がり、背を向けた。
「これ以上、無駄な詮索をするな。……退け。」
レティシアは微かに震える唇で礼をし、扉の向こうへ消えた。
扉が閉まる音が響いたあと、アレクシスは息を吐き出す。
胸の奥にあるのは苛立ち。だがその矛先は他人ではなく、自分自身にあった。
その晩、王城の塔の上で一人立ち尽くしていると、遠くに侯爵家の灯が見えた。
リディアが訪れる王城――その姿を再び見る日が目前に迫っている。
そこにはどんな言葉を交わすべきなのか。
謝罪か、非難か、あるいは……。
しかし、思考の隅で別の感情がささやく。
もし彼女の瞳が、他の誰かを映していたら――。
その想像に、拳が自然と握られる。
「愚かだな……私は。」
王子としての冷静さを失いかけた自分に苦笑しつつも、どうにも拭えない焦燥が残る。
かつて“手放した側”の立場でいた彼が、今度は“取り戻したいと願う側”へと変わりつつあった。
だがそれを認めることは、王太子としての誇りが許さない。
ゆえに、彼はただ静かに言葉をつぶやいた。
「――次に会うとき、リディア。君が誰を見つめているのか、確かめてやる。」
遠く、鐘の音が夜天に響いた。
そしてその音は、嫌でも彼の胸の中の焦燥をかきたてた。
その頃、侯爵家ではリディアが馬車の準備を整えていた。
光沢のある黒の外套、髪には銀の飾り。
侍女のミラがそっと声をかける。
「本当に行かれるのですね……」
「ええ、殿下とお話しする約束をしましたから。」
「お嬢様……お帰りは、誰と?」
リディアは一瞬、笑って振り返る。
「もちろん、わたくし一人で。」
その横顔には、かすかな緊張と、決して嘘ではない微笑が混じっていた。
彼女の心もまた静かではなかった。
けれど、怯えよりも確信があった。
過去の自分に終止符を打ち、新しい自分を見せるために。
王都の風が夜を裂き、月光が紅いカーペットを照らす。
二人の物語は再び交差しようとしていた。
(続く)
磨かれた大理石の床に騎士たちの足音が響き、侍女たちが忙しなく往来する。だが、その秩序の中心に座る王太子アレクシスの心だけが、静かに乱れていた。
机の上には一通の報告書。
「エルサレット侯爵令嬢、近日王城訪問予定」と、几帳面な筆致で書かれている。
彼はその紙片を何度読んでも、胸のざわめきが収まらなかった。
彼女が、自ら王城に来る。そんなことは想像していなかった。
見返すような真似をすることなど、彼女の誇りが許さないと思っていた。
だが、今の彼女は自分の知っているリディアではない。
婚約破棄の場で見せたあの冷ややかな微笑――何もかも見透かすようなあの瞳。
「まるで私が試されているようだな……」
アレクシスは息を吐き、額に手を当てた。
扉の向こうでノックの音。側近のフィルマンが控えめに入室し、頭を下げる。
「殿下、先日ご命令の件。リディア・エルサレット嬢の現在の交際状況について、調査を終えました。」
「……話せ。」
フィルマンは顔を上げた。
「やはり、ハートフィールド卿と頻繁に接触を重ねておられるようです。二人の行動は多くの者の目に留まっております。特に昨夜の茶会では、正面で談笑され、来賓たちが“理想の婚約者同士”だと……」
「やめろ。」
鋭い声で遮る。報告は止まり、沈黙が流れた。
アレクシスの拳が机を軽く叩き、その音が部屋に響く。
数秒の後、彼は低く言った。
「……公爵家は、正式にその件を承認しているのか。」
「いえ、公式発表はまだ。しかしハートフィールド卿のご両親は反対しておられぬ様子。むしろ“見守る”姿勢を取っておられるようです。」
「……そうか。」
アレクシスの胸奥で、何かが重く音を立てた。
彼は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。
冬の光が降り注ぐ中、王都の街並みが眼下に広がっていた。
かつて、リディアと馬車で訪れた庭園や噴水が点のように見える。
あの庭を、いま彼女は誰と見ているのか。
想像するだけで、不快な熱が胸の奥にこもった。
「殿下、焦られるお気持ちは分かりますが……」
「焦ってなどいない。」
即座にそう言いながら、声の奥には明らかな苛立ちがあった。
フィルマンは困ったように目を伏せた。
「ハートフィールド家との関係を悪化させるのは避けた方が賢明かと。殿下は次期国王、感情的な振る舞いは周囲の動揺を招きます。」
「分かっている。」
そう言いながらも、分かっていない自分がいることをアレクシスは痛感していた。
かつて、どんな政略問題にも表情一つ変えなかった。
どんな難題にも冷静沈着でいると評され、それが王太子としての誇りでもあった。
だが今は違う。思い浮かぶのは、あの庭園に立つ彼女の姿。
風に髪を揺らして笑う、その隣にエドガーの穏やかな横顔。
胸の奥が灼けるように痛む。
――私は、なぜこれほどまでに。
問いは浮かんでも答えは出ない。
だが、自分の心が静かではないことだけは、嫌というほど理解していた。
「殿下。」
レティシアの甘ったるい声が廊下から聞こえてきた。
アレクシスは小さく舌打ちし、姿勢を正す。
「入れ。」
扉が開き、明るい笑顔を取り繕った彼女が入室した。
「まあ、顔色が優れませんわ。少しお休みになられては?」
「不要だ。」
冷たく返すと、レティシアの笑みが硬くなる。
「殿下、わたくしではまだお力になれませんの?」
「そういう問題ではない。」
「では……エルサレット嬢のこと、でしょう?」
静寂。
レティシアは口元を覆い、わざと悲しげに視線を落とした。
「もう殿下の心には、あの方の影など残っていないと信じておりましたのに。」
「口を慎め。」
その一言で、彼女の顔が凍りつく。
アレクシスは立ち上がり、背を向けた。
「これ以上、無駄な詮索をするな。……退け。」
レティシアは微かに震える唇で礼をし、扉の向こうへ消えた。
扉が閉まる音が響いたあと、アレクシスは息を吐き出す。
胸の奥にあるのは苛立ち。だがその矛先は他人ではなく、自分自身にあった。
その晩、王城の塔の上で一人立ち尽くしていると、遠くに侯爵家の灯が見えた。
リディアが訪れる王城――その姿を再び見る日が目前に迫っている。
そこにはどんな言葉を交わすべきなのか。
謝罪か、非難か、あるいは……。
しかし、思考の隅で別の感情がささやく。
もし彼女の瞳が、他の誰かを映していたら――。
その想像に、拳が自然と握られる。
「愚かだな……私は。」
王子としての冷静さを失いかけた自分に苦笑しつつも、どうにも拭えない焦燥が残る。
かつて“手放した側”の立場でいた彼が、今度は“取り戻したいと願う側”へと変わりつつあった。
だがそれを認めることは、王太子としての誇りが許さない。
ゆえに、彼はただ静かに言葉をつぶやいた。
「――次に会うとき、リディア。君が誰を見つめているのか、確かめてやる。」
遠く、鐘の音が夜天に響いた。
そしてその音は、嫌でも彼の胸の中の焦燥をかきたてた。
その頃、侯爵家ではリディアが馬車の準備を整えていた。
光沢のある黒の外套、髪には銀の飾り。
侍女のミラがそっと声をかける。
「本当に行かれるのですね……」
「ええ、殿下とお話しする約束をしましたから。」
「お嬢様……お帰りは、誰と?」
リディアは一瞬、笑って振り返る。
「もちろん、わたくし一人で。」
その横顔には、かすかな緊張と、決して嘘ではない微笑が混じっていた。
彼女の心もまた静かではなかった。
けれど、怯えよりも確信があった。
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王都の風が夜を裂き、月光が紅いカーペットを照らす。
二人の物語は再び交差しようとしていた。
(続く)
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