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第9話 仮初のキス
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王城を後にして、リディアが侯爵邸へ戻ったのは夜更けだった。
長い一日がようやく終わったというのに、胸の奥は落ち着かない。
殿下と交わした言葉が繰り返し頭に響いていた。
“今の君は違う”“私は、お前を恐れていた”――あの告白の意味を、どう受け止めればいいのだろう。
寝室に戻ると、ミラが心配そうに駆け寄ってくる。
「お嬢様……殿下とは無事にお話を?」
「ええ。お互い、言うべきことは言えたわ。」
そう答えたが、声に疲労が滲んだ。
ミラはそれを感じ取りながらも、深く追及はしなかった。
「お休みになられますか?」
「少し、外の風を吸いたいの。ひとりにしてちょうだい。」
「……はい。」
ミラが去ると、リディアは外套を肩にはおり、静かにテラスへ出た。
夜風が髪を撫で、月の光が穏やかに降り注ぐ。
王城の塔が遠くで浮かび上がっていた。光の彼方に、アレクシスがいる気がする。
けれど、そこへ想いを向けても仕方がない。
もう過去は、彼女を縛らない。
そう言い聞かせるように深呼吸をしたとき――背後から低い声がした。
「眠れない夜ですか、リディア嬢。」
振り返ると、そこにはエドガーがいた。
彼は軍務の合間を縫って侯爵家を訪れたのだ。
「遅い時間に申し訳ありません。あなたが殿下と会われたと聞いて、どうしても心配で。」
リディアはほんの少し微笑む。
「殿下は、もう過去の方ですわ。お気遣いなく。」
「そう言いながら、まだ心が静まらない顔をしている。」
「……敏い方ね。」
リディアは肩をすくめて視線をそらした。
エドガーが数歩近づく。
「王太子殿下は君を手放したことを悔いている。私にはそう見えました。」
「かもしれません。でも、それで何が変わるというの?」
風がふたりの間を抜ける。
月が、静かに庭の花々を照らしている。
エドガーは迷うように一呼吸置き、それから小さく呟いた。
「……君が望むなら、私は本物の婚約者になります。」
「え?」
リディアが目を見開く。
彼の表情には一切の冗談がなかった。
「最初は“偽り”から始めた。けれど、私にとってはもう虚構ではない。君を見ているうちに、本当に一緒に歩みたいと思うようになった。」
リディアの胸が強く波打つ。
「でも、それは――殿下への当てつけでは?」
「違う。」エドガーは穏やかな声で遮る。
「あの人に勝ちたいと思った時期もあった。けれど今は、その感情はもうない。今の私は、君が幸せになる姿だけを見たい。」
リディアは俯いたまま、何も返せない。
風の音がささやき、木々がざわめく。
長い沈黙のあと、彼女は小さく囁いた。
「……優しすぎるのね、あなたは。そんなふうに言われたら、信じたくなってしまう。」
「信じてもいい。私は逃げない。」
彼の言葉には一点の迷いもなかった。
けれど、リディアは自分の心がすぐに頷けないことを知っていた。
まだどこかで、アレクシスとの記憶が残っている――それを裏切るようで怖かった。
「……今のわたくしは壊れた心のままなの。そんな私を受け止めるのは、簡単ではありませんわ。」
「壊れていると思うのは君だけだ。私には、もう十分に強く、美しい人に見える。」
その言葉が、涙のように胸を満たした。
静かに目を伏せたその瞬間、エドガーの手がそっとリディアの頬を撫でた。
拒む理由はなかった。
彼の指先があたたかく、迷いも、欲もなくただ優しかった。
「リディア……」
名前を呼ばれた途端、心が揺れる。
気づけばエドガーの顔が近づいていた。
彼の目は彼女の反応を確かめるように探りながら、けれど決して強要しない。
そして――唇が、触れた。
それは短く、儚いキスだった。
情熱というより、祈りに近い。
彼が伝えたかったのは所有ではなく、赦しなのだと分かった。
リディアはゆっくりと目を開けた。
「……どうしてそんなに優しいの?」
「きっと、君に出会うために生きてきたからだろう。」
そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、彼女は何も返せなかった。
ただ微笑んで、そっと視線を落とす。
「ありがとう。でも、このキスは……まだ“仮初”ですわね。」
「それでも構わない。」
エドガーは柔らかく笑った。
「いつか本物に変わる日が来れば、それでいい。」
リディアは頷き、夜空を仰いだ。
星々が瞬く。
王城の塔が遠くに光を放つ――まるで、まだ彼女の行く末を見つめているかのように。
心に少しだけ温もりが戻っていた。
エドガーの温かな存在が、痛みを覆う毛布のように広がっていく。
けれどその奥底では、まだ燻る想いが完全に消えたわけではなかった。
愛していた日々を、完全に捨てきれない。
それでも前に進む。一歩ずつ。
庭の奥で、時計塔の鐘が鳴る。
新しい日が始まろうとしていた。
エドガーはリディアの隣で静かに立ち上がる。
「君が選ぶ道がどんなものであれ、私は支える。」
「……ありがとう。たとえ未来で離れても、その言葉を忘れません。」
二人は視線を交わし、ゆっくりと互いに微笑んだ。
穏やかな夜風が二人の髪を揺らす。
その風の中で、リディアは新しい決意をひそかに胸に刻んだ。
――この仮初の関係から、本当の自由を掴み取る。
そして、王太子の心を揺らす運命の第二幕が、静かに幕を上げようとしていた。
(続く)
長い一日がようやく終わったというのに、胸の奥は落ち着かない。
殿下と交わした言葉が繰り返し頭に響いていた。
“今の君は違う”“私は、お前を恐れていた”――あの告白の意味を、どう受け止めればいいのだろう。
寝室に戻ると、ミラが心配そうに駆け寄ってくる。
「お嬢様……殿下とは無事にお話を?」
「ええ。お互い、言うべきことは言えたわ。」
そう答えたが、声に疲労が滲んだ。
ミラはそれを感じ取りながらも、深く追及はしなかった。
「お休みになられますか?」
「少し、外の風を吸いたいの。ひとりにしてちょうだい。」
「……はい。」
ミラが去ると、リディアは外套を肩にはおり、静かにテラスへ出た。
夜風が髪を撫で、月の光が穏やかに降り注ぐ。
王城の塔が遠くで浮かび上がっていた。光の彼方に、アレクシスがいる気がする。
けれど、そこへ想いを向けても仕方がない。
もう過去は、彼女を縛らない。
そう言い聞かせるように深呼吸をしたとき――背後から低い声がした。
「眠れない夜ですか、リディア嬢。」
振り返ると、そこにはエドガーがいた。
彼は軍務の合間を縫って侯爵家を訪れたのだ。
「遅い時間に申し訳ありません。あなたが殿下と会われたと聞いて、どうしても心配で。」
リディアはほんの少し微笑む。
「殿下は、もう過去の方ですわ。お気遣いなく。」
「そう言いながら、まだ心が静まらない顔をしている。」
「……敏い方ね。」
リディアは肩をすくめて視線をそらした。
エドガーが数歩近づく。
「王太子殿下は君を手放したことを悔いている。私にはそう見えました。」
「かもしれません。でも、それで何が変わるというの?」
風がふたりの間を抜ける。
月が、静かに庭の花々を照らしている。
エドガーは迷うように一呼吸置き、それから小さく呟いた。
「……君が望むなら、私は本物の婚約者になります。」
「え?」
リディアが目を見開く。
彼の表情には一切の冗談がなかった。
「最初は“偽り”から始めた。けれど、私にとってはもう虚構ではない。君を見ているうちに、本当に一緒に歩みたいと思うようになった。」
リディアの胸が強く波打つ。
「でも、それは――殿下への当てつけでは?」
「違う。」エドガーは穏やかな声で遮る。
「あの人に勝ちたいと思った時期もあった。けれど今は、その感情はもうない。今の私は、君が幸せになる姿だけを見たい。」
リディアは俯いたまま、何も返せない。
風の音がささやき、木々がざわめく。
長い沈黙のあと、彼女は小さく囁いた。
「……優しすぎるのね、あなたは。そんなふうに言われたら、信じたくなってしまう。」
「信じてもいい。私は逃げない。」
彼の言葉には一点の迷いもなかった。
けれど、リディアは自分の心がすぐに頷けないことを知っていた。
まだどこかで、アレクシスとの記憶が残っている――それを裏切るようで怖かった。
「……今のわたくしは壊れた心のままなの。そんな私を受け止めるのは、簡単ではありませんわ。」
「壊れていると思うのは君だけだ。私には、もう十分に強く、美しい人に見える。」
その言葉が、涙のように胸を満たした。
静かに目を伏せたその瞬間、エドガーの手がそっとリディアの頬を撫でた。
拒む理由はなかった。
彼の指先があたたかく、迷いも、欲もなくただ優しかった。
「リディア……」
名前を呼ばれた途端、心が揺れる。
気づけばエドガーの顔が近づいていた。
彼の目は彼女の反応を確かめるように探りながら、けれど決して強要しない。
そして――唇が、触れた。
それは短く、儚いキスだった。
情熱というより、祈りに近い。
彼が伝えたかったのは所有ではなく、赦しなのだと分かった。
リディアはゆっくりと目を開けた。
「……どうしてそんなに優しいの?」
「きっと、君に出会うために生きてきたからだろう。」
そのあまりにも真っ直ぐな言葉に、彼女は何も返せなかった。
ただ微笑んで、そっと視線を落とす。
「ありがとう。でも、このキスは……まだ“仮初”ですわね。」
「それでも構わない。」
エドガーは柔らかく笑った。
「いつか本物に変わる日が来れば、それでいい。」
リディアは頷き、夜空を仰いだ。
星々が瞬く。
王城の塔が遠くに光を放つ――まるで、まだ彼女の行く末を見つめているかのように。
心に少しだけ温もりが戻っていた。
エドガーの温かな存在が、痛みを覆う毛布のように広がっていく。
けれどその奥底では、まだ燻る想いが完全に消えたわけではなかった。
愛していた日々を、完全に捨てきれない。
それでも前に進む。一歩ずつ。
庭の奥で、時計塔の鐘が鳴る。
新しい日が始まろうとしていた。
エドガーはリディアの隣で静かに立ち上がる。
「君が選ぶ道がどんなものであれ、私は支える。」
「……ありがとう。たとえ未来で離れても、その言葉を忘れません。」
二人は視線を交わし、ゆっくりと互いに微笑んだ。
穏やかな夜風が二人の髪を揺らす。
その風の中で、リディアは新しい決意をひそかに胸に刻んだ。
――この仮初の関係から、本当の自由を掴み取る。
そして、王太子の心を揺らす運命の第二幕が、静かに幕を上げようとしていた。
(続く)
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