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第10話 侍女たちのささやき
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夜明け前の侯爵家は、まだ静まり返っていた。
淡い光が廊下の端を照らし、鳥の声が遠くで微かに響く。
そんな静寂の中で、屋敷の奥にある侍女部屋だけが小さくざわめいていた。
「聞いた? お嬢様、昨夜お戻りになったのは真夜中を過ぎてからですって」
「ええ、それに……ハートフィールド様とお二人きりでお話をされていたとか」
「まあ、ついに恋人らしいご関係に?」
「だとしても、殿下に知られたら――」
小声で交わされる噂話は、すでに屋敷の半分にまで広がっていた。
口にこそ出さないが、皆が“ついに”という思いを抱えていた。
あの冷徹で完璧な令嬢が、ようやく誰かに心を許したのだと。
ミラは黙ってカップを置き、少しだけため息を吐いた。
「あなたたち。お嬢様の話を面白がってはいけませんわ。」
「そ、そうですけど……」
「どんな方とお過ごしになろうと、それを口にしていいのはお嬢様ご本人だけです。」
ミラの静かな一言で、部屋の空気がぴたりと止まる。
誰よりもお嬢様のそばに仕えてきたミラの声には、重みがあった。
それでも彼女の胸には、不安が広がっていた。
リディアは昨夜、微かに笑っていた。
それは安堵にも見えたが、どこか寂しげでもあった。
涙を隠して微笑むような、そんな微妙な光。
(どうか……幸せになってほしい)
ミラは静かに願うように手を合わせた。
一方、リディアはまだ眠れず、書斎の隅に腰掛けていた。
夜着のまま、考え込むように机の上のペンを指で転がす。
外では朝の光が強まり、カーテンが淡く揺れた。
「……仮初のキス、ね。」
昨夜の光景が、何度も脳裏をよぎる。
エドガーのあたたかい手。ためらいがちな息づかい。
そして短い触れ合いのあとに残った、苦いほどの温もり。
彼に嘘をついた。
“殿下はもう過去です”と言った、あれは自分に言い聞かせるような言葉だった。
本当はまだ、心の奥に灯りが残っている。
けれどもう戻れない。戻るべきでもない。
思索を断ち切るように、ノックの音がした。
「リディア様、よろしいでしょうか?」
「ミラね。入ってちょうだい。」
ドアが開き、朝の支度を終えた侍女の姿が現れる。
「お加減、いかがですか?」
「ええ、少し疲れただけよ。それより、今日の予定は。」
「午前に来客がございます。ハートフィールド卿よりお使いが。」
「まあ。お早いこと。」
思わず笑みが漏れる。あの誠実な男が、こんなにも真っ直ぐに行動してくれるとは。
「応接室の準備をして。朝食は軽いもので構わないわ。」
「かしこまりました。」
ミラが出ていくと、リディアは鏡の前に立ち、髪をとかした。
鏡に映る表情は落ち着いているが、瞳の奥には戦う者の光が宿っている。
「もう二度と、誰かの言葉に振り回されるわけにはいかない。私は私の意志で、未来を選ぶ。」
数時間後、応接室ではエドガーが待っていた。
昨日と変わらぬ穏やかな面持ちだが、今朝はどこか沈痛でもある。
「お早うございます、リディア嬢。」
「お早うございます、エドガー様。早朝からとは珍しいですわね。」
「殿下がお動きになったようです。」
「……動いた?」
彼はゆっくりと頷く。
「殿下が自ら、王宮の議場であなたの話をなさった。『民は軽率な噂に踊らされてはならぬ』と。」
リディアの唇から笑みが消える。
「あの方が、そんな言葉を?」
「ええ。そして続けてこうもおっしゃった。――“かつて婚約者であった彼女は、王族として扱われるに相応しい人格を持つ。決して侮辱されることがあってはならない”と。」
わずかな沈黙のあと、リディアの胸に複雑な感情が込み上げた。
守るような言葉。それは、まだ未練がある証か、それとも王としての責務か。
「どちらにせよ、王太子殿下としては珍しく感情を覗かせた発言です。」
「彼らしい、と言えば彼らしいわね。いつも正義の衣を纏いながら、心を隠すの。」
彼女は苦く笑い、窓に視線を向けた。
「でもこれで、わたくしの立場も少しは安定しますわ。皮肉なことに、殿下自身の手で。」
「……リディア。」
エドガーが一歩近づき、その名をそっと呼ぶ。
「君がどんな強さを見せようと、私にはやはり、その心の奥が見えてしまう。」
リディアは振り返り、穏やかに微笑んだ。
「心を読まれては、令嬢失格ね。」
「そう言いながら隠していない。君は昔から、誇り高くて不器用だ。」
その言葉に、彼女は小さく息をのむ。
「……あなたも、あの方と同じことを言うのね。」
「違う。私は君を理解したいと思っている。」
彼の言葉は嘘ではない。そのことが、かえって胸を締めつけた。
優しい言葉ほど、恐ろしい。
それに甘えれば、また誰かを失うような気がした。
「エドガー様。」
「はい。」
「これからの社交界では、いっそう噂が増えるでしょう。偽りの婚約であっても、殿下の心を揺らがせたなら、それはわたくしたちの“勝利”ですわ。」
「勝利、ですか。」
「ええ。けれど勝利には代償がある。殿下が、私を“手放した宝石”ではなく“奪われた女”と見るようになったとき……物語は変わる。」
エドガーはその未来を思い浮かべ、静かに笑う。
「どんな形であれ、あなたの選ぶ道に私がいる。それだけは確かです。」
「ありがとう。」
リディアはその言葉を聞きながらも、微かに胸を押さえた。
温かくて、痛い。
彼の優しさが、まるで薬のように沁みるのに、どこか切なかった。
その日、侯爵邸からひとつの知らせが流れ、王都の人々の噂をさらに強めた。
“リディア・エルサレット嬢、ハートフィールド公爵家よりの晩餐会に同行”
その見出しに、誰もが息をのむ。
そして王城の奥で、その報を聞いたアレクシスは初めて、怒りではなく焦りに似た痛みを覚えた。
「……リディア。なぜだ。なぜその男を選ぶ。」
握った拳に爪が食い込み、血がにじむ。
まだ“完璧な王太子”の仮面を崩すわけにはいかない。
だが、心はとうに限界を越えていた。
風が通り過ぎる王城の回廊。
壁を打つ光が、微かに揺れた。
誰も知らないまま、彼の心の均衡は、静かに崩れ始めていた。
(続く)
淡い光が廊下の端を照らし、鳥の声が遠くで微かに響く。
そんな静寂の中で、屋敷の奥にある侍女部屋だけが小さくざわめいていた。
「聞いた? お嬢様、昨夜お戻りになったのは真夜中を過ぎてからですって」
「ええ、それに……ハートフィールド様とお二人きりでお話をされていたとか」
「まあ、ついに恋人らしいご関係に?」
「だとしても、殿下に知られたら――」
小声で交わされる噂話は、すでに屋敷の半分にまで広がっていた。
口にこそ出さないが、皆が“ついに”という思いを抱えていた。
あの冷徹で完璧な令嬢が、ようやく誰かに心を許したのだと。
ミラは黙ってカップを置き、少しだけため息を吐いた。
「あなたたち。お嬢様の話を面白がってはいけませんわ。」
「そ、そうですけど……」
「どんな方とお過ごしになろうと、それを口にしていいのはお嬢様ご本人だけです。」
ミラの静かな一言で、部屋の空気がぴたりと止まる。
誰よりもお嬢様のそばに仕えてきたミラの声には、重みがあった。
それでも彼女の胸には、不安が広がっていた。
リディアは昨夜、微かに笑っていた。
それは安堵にも見えたが、どこか寂しげでもあった。
涙を隠して微笑むような、そんな微妙な光。
(どうか……幸せになってほしい)
ミラは静かに願うように手を合わせた。
一方、リディアはまだ眠れず、書斎の隅に腰掛けていた。
夜着のまま、考え込むように机の上のペンを指で転がす。
外では朝の光が強まり、カーテンが淡く揺れた。
「……仮初のキス、ね。」
昨夜の光景が、何度も脳裏をよぎる。
エドガーのあたたかい手。ためらいがちな息づかい。
そして短い触れ合いのあとに残った、苦いほどの温もり。
彼に嘘をついた。
“殿下はもう過去です”と言った、あれは自分に言い聞かせるような言葉だった。
本当はまだ、心の奥に灯りが残っている。
けれどもう戻れない。戻るべきでもない。
思索を断ち切るように、ノックの音がした。
「リディア様、よろしいでしょうか?」
「ミラね。入ってちょうだい。」
ドアが開き、朝の支度を終えた侍女の姿が現れる。
「お加減、いかがですか?」
「ええ、少し疲れただけよ。それより、今日の予定は。」
「午前に来客がございます。ハートフィールド卿よりお使いが。」
「まあ。お早いこと。」
思わず笑みが漏れる。あの誠実な男が、こんなにも真っ直ぐに行動してくれるとは。
「応接室の準備をして。朝食は軽いもので構わないわ。」
「かしこまりました。」
ミラが出ていくと、リディアは鏡の前に立ち、髪をとかした。
鏡に映る表情は落ち着いているが、瞳の奥には戦う者の光が宿っている。
「もう二度と、誰かの言葉に振り回されるわけにはいかない。私は私の意志で、未来を選ぶ。」
数時間後、応接室ではエドガーが待っていた。
昨日と変わらぬ穏やかな面持ちだが、今朝はどこか沈痛でもある。
「お早うございます、リディア嬢。」
「お早うございます、エドガー様。早朝からとは珍しいですわね。」
「殿下がお動きになったようです。」
「……動いた?」
彼はゆっくりと頷く。
「殿下が自ら、王宮の議場であなたの話をなさった。『民は軽率な噂に踊らされてはならぬ』と。」
リディアの唇から笑みが消える。
「あの方が、そんな言葉を?」
「ええ。そして続けてこうもおっしゃった。――“かつて婚約者であった彼女は、王族として扱われるに相応しい人格を持つ。決して侮辱されることがあってはならない”と。」
わずかな沈黙のあと、リディアの胸に複雑な感情が込み上げた。
守るような言葉。それは、まだ未練がある証か、それとも王としての責務か。
「どちらにせよ、王太子殿下としては珍しく感情を覗かせた発言です。」
「彼らしい、と言えば彼らしいわね。いつも正義の衣を纏いながら、心を隠すの。」
彼女は苦く笑い、窓に視線を向けた。
「でもこれで、わたくしの立場も少しは安定しますわ。皮肉なことに、殿下自身の手で。」
「……リディア。」
エドガーが一歩近づき、その名をそっと呼ぶ。
「君がどんな強さを見せようと、私にはやはり、その心の奥が見えてしまう。」
リディアは振り返り、穏やかに微笑んだ。
「心を読まれては、令嬢失格ね。」
「そう言いながら隠していない。君は昔から、誇り高くて不器用だ。」
その言葉に、彼女は小さく息をのむ。
「……あなたも、あの方と同じことを言うのね。」
「違う。私は君を理解したいと思っている。」
彼の言葉は嘘ではない。そのことが、かえって胸を締めつけた。
優しい言葉ほど、恐ろしい。
それに甘えれば、また誰かを失うような気がした。
「エドガー様。」
「はい。」
「これからの社交界では、いっそう噂が増えるでしょう。偽りの婚約であっても、殿下の心を揺らがせたなら、それはわたくしたちの“勝利”ですわ。」
「勝利、ですか。」
「ええ。けれど勝利には代償がある。殿下が、私を“手放した宝石”ではなく“奪われた女”と見るようになったとき……物語は変わる。」
エドガーはその未来を思い浮かべ、静かに笑う。
「どんな形であれ、あなたの選ぶ道に私がいる。それだけは確かです。」
「ありがとう。」
リディアはその言葉を聞きながらも、微かに胸を押さえた。
温かくて、痛い。
彼の優しさが、まるで薬のように沁みるのに、どこか切なかった。
その日、侯爵邸からひとつの知らせが流れ、王都の人々の噂をさらに強めた。
“リディア・エルサレット嬢、ハートフィールド公爵家よりの晩餐会に同行”
その見出しに、誰もが息をのむ。
そして王城の奥で、その報を聞いたアレクシスは初めて、怒りではなく焦りに似た痛みを覚えた。
「……リディア。なぜだ。なぜその男を選ぶ。」
握った拳に爪が食い込み、血がにじむ。
まだ“完璧な王太子”の仮面を崩すわけにはいかない。
だが、心はとうに限界を越えていた。
風が通り過ぎる王城の回廊。
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(続く)
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