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第1話 婚約破棄の夜にすべてが崩れた
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王都の夜は、まるで宝石箱をひっくり返したように煌びやかだった。
燭光がゆらめく舞踏会の大広間。貴族たちの笑い声と音楽、香水の香りが入り混じるその空間の中心に、わたし――アリア・エルドレーシュは立っていた。
淡い桜色のドレスを身にまとい、背筋を伸ばして笑顔を作る。
この夜は、私にとって生涯忘れることのない日になる……良い意味で、そう願っていたはずだった。
「アリア。少し人目を避けようか」
婚約者である王太子・ユリウス殿下が、穏やかな笑みを浮かべてそう言ったとき、わたしは何の疑いも抱かなかった。
控室へと案内され、豪奢な扉が閉まると、殿下の表情は驚くほど冷ややかに変わった。
「アリア・エルドレーシュ。君との婚約を、今この場で破棄する」
殿下の口から発せられた言葉の意味を、理解するまでに少し時間がかかった。
息が止まる感覚。喉の奥が焼けつくように熱いのに、体は氷のように冷たくなっていく。
わたしはただ、唇をかすかに震わせて問う。
「……それは、どういう意味でございましょうか?」
「言葉通りだ。君との婚約は白紙に戻す。理由は単純だよ。君が王妃にふさわしくないと判断した」
「……そんな。私のどこが――」
「君は無愛想で、周囲への気遣いも足りない。何より、俺の理解者ではない。代わりに、彼女がいるから」
そう言って、殿下は背後から一人の女性を呼び寄せた。
黄金の刺繍が施されたドレス。肩には宝石の飾りがきらめいている。
その女――リリア・フォン・マーシェル。わたしの学園時代からの知人だ。
彼女はここ最近、殿下の側に頻繁に姿を見せていた。まさか、本当に。
「殿下……冗談ですよね? アリア様は、今まで殿下のためにどれほど尽くして――」
「黙れ、リリア! そのような嘘を並べて、殿下の慈悲を乞うとは浅ましい!」
彼女はわたしより先に声を上げ、涙を浮かべて殿下の腕にすがった。
「殿下、私はただ……アリア様が殿下の心を縛る姿を見るのが辛かったのです。ただ、それだけで……」
殿下の眉がわずかに歪む。
「優しいな、リリア。君のような女性こそ、王太子妃にふさわしい」
そこで、すべてが終わった。
冷たい現実が突き刺さる。
誰も止めてはくれなかった。扉の向こうで聞いていた取り巻きたちの視線が痛い。
わたしは頭を下げ、静かにその場を去った。
***
屋敷に戻ると、父はすでに事情を知っていた。
エルドレーシュ家はかつて王家に忠誠を誓い、代々宰相職を担ってきた名家。だが、今の父は病弱で、家の影響力は急速に弱まりつつある。
「……お前まで責められることはない」
そう口では言いながらも、父の視線は痛いほど冷たかった。
領地の問題、財政難、そして王家との関係。わたしという娘が婚約を破棄されることは、家の衰退に拍車をかける。
その夜、父は言った。「アリア、お前は少し国を離れたほうがいいだろう。しばらく療養という名目で、隣国へでも」
追い出されたのと同じだった。
翌日、わたしは荷造りを済ませ、数名の使用人に見送られて王都を離れた。
馬車の窓から見える街並み。昔は誇らしかった王都の光景も、今はただ遠く、無関係に思えた。
それでも、涙は不思議と流れなかった。
泣くほどの力も、もう残っていなかったのだ。
***
数日後。
国境近くの荒野を抜ける途中、馬車が故障した。護衛の一人が慌てて修理を試みるが、空はみるみる暗くなり、雨が降り出した。
仕方なく近くの村で一晩を明かすことにしたのだが、その村で出会うことになったのが――彼だった。
宿の玄関で、大きな黒馬を繋ぎながら、銀髪の男が一人。
漆黒の外套を羽織り、冷たい灰色の瞳でこちらを見下ろしていた。
明らかにこの場には不似合いな存在。立ち居振る舞いに隠しきれない上流の気配がある。
「女一人旅か。ずいぶん不用心だな」
「……事情がありまして」
「そうか」
それ以上は何も聞かず、彼は視線を逸らした。
けれどその声音には、なぜか厳しさよりも静かな優しさが感じられた。
その夜、宿の隅で冷たいスープをすすりながら、私は自分の境遇をぼんやりと考えていた。
もう誰にも必要とされていない。家にも、国にも。
けれど、あの男――彼だけは、何か違うものを持っている気がした。
***
翌朝。
再び旅立とうとしたその時、宿の女将が困ったように言った。
「嬢ちゃん、あんたの護衛、夜のうちに置いていった馬を売って逃げたらしいよ」
「……え?」
目の前が真っ白になった。財布も半分以上持ち逃げされている。これでは国境までたどり着くことさえできない。
そのとき、背後から声がした。
「置いていけ。俺の馬に乗れ」
振り返ると、昨夜の銀髪の男がいた。
鋭い眼差しに、どこか呆れたような翳り。けれど、不思議と恐ろしくはない。
「あなたは……?」
「レオンハルト・グラシア。この国の……そうだな、一応、公爵と呼ばれている」
公爵――?
耳にした瞬間、心臓が強く跳ねた。
彼の名は聞いたことがある。隣国グランツ領を治める冷酷無比の若き公爵。
誰も彼の素顔を知らず、噂では敵国の血を引くとか、愛を知らぬ怪物だとか囁かれていた人物だ。
そんな男が、どうして見知らぬ令嬢を助けようとするのか。
戸惑う私に、レオンハルトはわずかに唇を歪めた。
「目的は王都か?」
「……いえ、もう帰る場所はありません」
「そうか。なら、俺の屋敷まで来るといい。今なら人手が足りない。行き先がないなら、仮の滞在先として預かろう」
予想外の申し出に、わたしは息を呑んだ。
その誘いに乗るべきか、それとも警戒すべきか。
だが、行くあてもない今、選択肢は一つしかなかった。
「ご厚意、感謝いたします。……お世話になります、公爵様」
彼は短く頷き、濡れた外套を私の肩にかけた。
「寒いのが嫌なら、しっかり掴まっていろ。落ちるなよ」
その瞬間、馬が大地を蹴り、冷たい風が頬を打つ。
世界が音を失くし、新しい旅が始まった。
わたしの人生は、この出会いによって再び動き出す。
それが運命の幕開けだと、このときのわたしはまだ知らなかった。
(第1話 終)
燭光がゆらめく舞踏会の大広間。貴族たちの笑い声と音楽、香水の香りが入り混じるその空間の中心に、わたし――アリア・エルドレーシュは立っていた。
淡い桜色のドレスを身にまとい、背筋を伸ばして笑顔を作る。
この夜は、私にとって生涯忘れることのない日になる……良い意味で、そう願っていたはずだった。
「アリア。少し人目を避けようか」
婚約者である王太子・ユリウス殿下が、穏やかな笑みを浮かべてそう言ったとき、わたしは何の疑いも抱かなかった。
控室へと案内され、豪奢な扉が閉まると、殿下の表情は驚くほど冷ややかに変わった。
「アリア・エルドレーシュ。君との婚約を、今この場で破棄する」
殿下の口から発せられた言葉の意味を、理解するまでに少し時間がかかった。
息が止まる感覚。喉の奥が焼けつくように熱いのに、体は氷のように冷たくなっていく。
わたしはただ、唇をかすかに震わせて問う。
「……それは、どういう意味でございましょうか?」
「言葉通りだ。君との婚約は白紙に戻す。理由は単純だよ。君が王妃にふさわしくないと判断した」
「……そんな。私のどこが――」
「君は無愛想で、周囲への気遣いも足りない。何より、俺の理解者ではない。代わりに、彼女がいるから」
そう言って、殿下は背後から一人の女性を呼び寄せた。
黄金の刺繍が施されたドレス。肩には宝石の飾りがきらめいている。
その女――リリア・フォン・マーシェル。わたしの学園時代からの知人だ。
彼女はここ最近、殿下の側に頻繁に姿を見せていた。まさか、本当に。
「殿下……冗談ですよね? アリア様は、今まで殿下のためにどれほど尽くして――」
「黙れ、リリア! そのような嘘を並べて、殿下の慈悲を乞うとは浅ましい!」
彼女はわたしより先に声を上げ、涙を浮かべて殿下の腕にすがった。
「殿下、私はただ……アリア様が殿下の心を縛る姿を見るのが辛かったのです。ただ、それだけで……」
殿下の眉がわずかに歪む。
「優しいな、リリア。君のような女性こそ、王太子妃にふさわしい」
そこで、すべてが終わった。
冷たい現実が突き刺さる。
誰も止めてはくれなかった。扉の向こうで聞いていた取り巻きたちの視線が痛い。
わたしは頭を下げ、静かにその場を去った。
***
屋敷に戻ると、父はすでに事情を知っていた。
エルドレーシュ家はかつて王家に忠誠を誓い、代々宰相職を担ってきた名家。だが、今の父は病弱で、家の影響力は急速に弱まりつつある。
「……お前まで責められることはない」
そう口では言いながらも、父の視線は痛いほど冷たかった。
領地の問題、財政難、そして王家との関係。わたしという娘が婚約を破棄されることは、家の衰退に拍車をかける。
その夜、父は言った。「アリア、お前は少し国を離れたほうがいいだろう。しばらく療養という名目で、隣国へでも」
追い出されたのと同じだった。
翌日、わたしは荷造りを済ませ、数名の使用人に見送られて王都を離れた。
馬車の窓から見える街並み。昔は誇らしかった王都の光景も、今はただ遠く、無関係に思えた。
それでも、涙は不思議と流れなかった。
泣くほどの力も、もう残っていなかったのだ。
***
数日後。
国境近くの荒野を抜ける途中、馬車が故障した。護衛の一人が慌てて修理を試みるが、空はみるみる暗くなり、雨が降り出した。
仕方なく近くの村で一晩を明かすことにしたのだが、その村で出会うことになったのが――彼だった。
宿の玄関で、大きな黒馬を繋ぎながら、銀髪の男が一人。
漆黒の外套を羽織り、冷たい灰色の瞳でこちらを見下ろしていた。
明らかにこの場には不似合いな存在。立ち居振る舞いに隠しきれない上流の気配がある。
「女一人旅か。ずいぶん不用心だな」
「……事情がありまして」
「そうか」
それ以上は何も聞かず、彼は視線を逸らした。
けれどその声音には、なぜか厳しさよりも静かな優しさが感じられた。
その夜、宿の隅で冷たいスープをすすりながら、私は自分の境遇をぼんやりと考えていた。
もう誰にも必要とされていない。家にも、国にも。
けれど、あの男――彼だけは、何か違うものを持っている気がした。
***
翌朝。
再び旅立とうとしたその時、宿の女将が困ったように言った。
「嬢ちゃん、あんたの護衛、夜のうちに置いていった馬を売って逃げたらしいよ」
「……え?」
目の前が真っ白になった。財布も半分以上持ち逃げされている。これでは国境までたどり着くことさえできない。
そのとき、背後から声がした。
「置いていけ。俺の馬に乗れ」
振り返ると、昨夜の銀髪の男がいた。
鋭い眼差しに、どこか呆れたような翳り。けれど、不思議と恐ろしくはない。
「あなたは……?」
「レオンハルト・グラシア。この国の……そうだな、一応、公爵と呼ばれている」
公爵――?
耳にした瞬間、心臓が強く跳ねた。
彼の名は聞いたことがある。隣国グランツ領を治める冷酷無比の若き公爵。
誰も彼の素顔を知らず、噂では敵国の血を引くとか、愛を知らぬ怪物だとか囁かれていた人物だ。
そんな男が、どうして見知らぬ令嬢を助けようとするのか。
戸惑う私に、レオンハルトはわずかに唇を歪めた。
「目的は王都か?」
「……いえ、もう帰る場所はありません」
「そうか。なら、俺の屋敷まで来るといい。今なら人手が足りない。行き先がないなら、仮の滞在先として預かろう」
予想外の申し出に、わたしは息を呑んだ。
その誘いに乗るべきか、それとも警戒すべきか。
だが、行くあてもない今、選択肢は一つしかなかった。
「ご厚意、感謝いたします。……お世話になります、公爵様」
彼は短く頷き、濡れた外套を私の肩にかけた。
「寒いのが嫌なら、しっかり掴まっていろ。落ちるなよ」
その瞬間、馬が大地を蹴り、冷たい風が頬を打つ。
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わたしの人生は、この出会いによって再び動き出す。
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