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1章 森を往く剣士

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 太く大きな木々が立ち並び、大地が見えないほどに草の生い茂る鬱蒼とした森の中。天井を厚く覆う木葉に太陽も遮られ、昼なお暗いそこを草を掻き分け進む人影が一つ。
 見事な意匠の施された一振りの長剣を背負う、青年といった風体の男が草を掻き分け歩いていた。青年がそこで足を止める。

「……迷った、な」

 不規則に並んだ木々と、侵入者を拒むかのごとく地から伸びる草の群れ。どこまで先へ目をやっても、それ以外は見えない森にため息を漏らし呟く。

「参ったね。これじゃ、方角すらわからないな」

 首を巡らせ周囲を見渡すが、自分の向いているのがどの方角なのかさえ定かではない。深い森の代わり映えのしない景色が、人間の方向感覚を狂わせてしまうよう作用するのである。
 青年は肩に掛けた荷袋を前に回し、中身を覗いて再びため息を吐いた。手に伝わる重量の軽さ通り、入っているのは僅かばかりの干し肉と傷薬が少しばかりあるだけ。

「野宿、って訳にもいかなそうだなこれは……」

 自らの置かれた状況の悪さに、顔を引き攣らせながら頬を指で掻く。食糧になりそうな獲物でもいればいいのだが、残念ながら辺りに動物と思しき気配はまったく感じ取れない。

「このままじゃ遭難しちまうな。夜まではまだ間がありそうだが……」

 日の位置を確かめようにもこの木葉の厚さ。微かな隙間から射し込む光から、辛うじてまだ日中であることだけはわかるが。
 森へ踏み入ったのが、まだ太陽が真上に来るより少し前のこと。それから彷徨うこと数刻は過ぎたか? このまま森を右往左往していれば、それほどの時を待たずに夜になってしまうだろう。

「俺の記憶じゃ、確かにこっちの方だった……はずなんだがなぁ」

 古い記憶を頼りの道行き、楽観的に森へ踏み込んだのが見事に仇となっていた。どちらへ進めば森を抜け出せるのかもわからず、ついついため息が口から漏れてしまう。

「……まぁ、こうしてても仕方ない。とにかく歩を進めよう」

 気を取り直して己にそう言い聞かせ、再び足を踏み出そうとして。少し離れた場所、森の中を駆ける複数の気配を感じ取った。

「狼……? いや、違うな。これは」

 先頭を行く気配は、入り組んだ森に四苦八苦しているようなたどたどしい動き方。そしてそれを追うように走るいくつかの気配は、逆にすり抜けるように森を動いていた。
 恐らくは逃げる人と、それを追う獣。青年はそれを察すると、手にした荷袋を肩に掛け動く気配の向かう先へと走り出した。

* * * * *

「くそっ、逃げ切れないかっ!?」

 男が吐き捨てるように言葉を口にする。近くの村に住む彼にとって、森は慣れた庭のようなものの筈だった。
 だが、敵から逃げている今の状況だと、それが一変していた。まるで自分の行く手を阻むように立ち並ぶ木々、走る足を鈍らせようと茂る草。そして視界を奪う薄暗さ。
 その全てが男を追う敵の為に存在するような気さえしてくる。

「こんなことなら街道を行くんだった!!」

 少しでも早く目的地へと行こうと、慣れた森を抜けようとしたのが間違いだったと後悔する。背後からは変わらずに自分を追って来る複数の気配。微妙な距離を保ったまま、背後を右へ左へと気配が素早く動いてるのがわかる。
 男を追う気配の主たちが、狙う獲物を弄んでいるのは明白だった。入り組んだ森の中を苦もなく駆けられるにも関わらず、じわじわとなぶるように男を追い続ける。
それは既に獲物を手中に収めた獣の、自らの勝利を楽しむための行為に他ならない。

「ど、どこまで迫ってる!?」

 今にも爪が、牙が自分を襲って来てもおかしくない。その恐怖から少しでも目を逸らしたくて男は走りながら後ろを振り返った。それは自分に残された命の残り時間を確かめることにしかならないとわかっていても。
 だが、それが男の生命を一気に追い詰める。振り返った瞬間、絡み合った草に足を取られ転倒する結果を招いてしまう。

「うわぁっ!」

 悲鳴を上げながら地面に投げ出される身体。咄嗟に受け身の姿勢を取ったことで、したたかに全身を打ち付けるのは免れたものの。二度ほど地を転がり、太い木の幹に背中を打って男は倒れこんでしまう。

「ぐうぅ……っ」

 激痛とまではいかないものの、決して軽いとは言えない呻きを漏らしながら起き上がろうとして。男の動きが固まった。

「グルル……」

 耳に届いた獣の唸りに、全身の体温が急激に下がっていくような気がした。怖さのあまり顔を上げることは出来ないが、自分の周囲を囲むように敵が立っているのは全身を突き刺すような殺気から理解する。
 間近に迫る死を前にして、脳裏を様々な記憶と感情が駆け巡っていく。限界を越えた恐怖は、人から声を奪う。口から出たのは掠れた息の音だけだった。

「ガアァッ!」

 獣の咆哮、そして地を蹴って自分へと飛び掛かって来るのを感じる。全てがゆっくりと動いてるかのような、不思議な感覚の中で。男は自分に訪れる最悪の結末を自覚し、思わず目を閉じた。
 永遠にも思える死を待つ時間、だが衝撃も痛みもやって来る事は無かった。

「間一髪……だな」
「……え?」

 代わりに耳に届いた聞き覚えのない言葉に、男は気の抜けた声を口にする。恐る恐る顔を上げれば、目の前には見知らぬ青年が自分の前に立ち、獣の一撃を手にした剣で受け止めているのが目に入った。

* * * * *

「大丈夫か、あんた?」
「あ……あぁ」

 獣の爪を受け止めたままの格好で問う青年に、男は困惑しながらも首を縦に振る。それを見ると青年は顔を正面へと戻した。

「コボルト、か」

 力を加えグイグイと剣を押してくる獣を見ながら呟く。青年と相対しているのは、人間のような体形をした獣型のモンスター、一般にコボルトと呼ばれる獣人だった。

「グルルル……ッ!」
「ようやく出会えたと思えばコボルトじゃあな。食糧にはなりそうもない」

 獲物を仕留めるのを邪魔された事への怒りか、殺意に形相を歪めて圧力を掛けるコボルト。それに向かって青年は涼しい顔をして、そう言った。
人間よりも遥かに強いはずの腕力を持つコボルトの圧力に、まるで動じる様子を見せることもなく。

「ってことで、さっさと終わらせるぞ……っと!」
「ガッ!?」

 直後、不意にコボルトの体勢が崩れて前のめりになる。押し切ろうとしていた相手の抵抗が消え、加えていた圧力が前方に流れたせいだ。
それは青年が構えていた剣を引き、身体を後方に逸らしたことによる結果。そのまま腰を落とすと、倒れ込むように向かってくるコボルト目掛けて鋭い蹴りを放つ。

「グアァッ!」

 呻き声と共にコボルトの身体が、青年たちとは反対側へと吹っ飛んでいく。そのまま地面に倒れ込むものの素早く起き上がろうとして。

「ギアッ!!」

 だがコボルトは短い断末魔の声を発し、しばらくの痙攣を経て動かなくなった。吹き飛ばしたコボルトに間髪入れずに駆け寄った青年の、振り下ろした剣に急所を貫かれて。

「まずは一匹、と」
「ガアアッ!!」
「グワオゥッ!!」

 獣人が動かなくなったのを確認して剣を引き抜き言う青年に向かって、仲間のコボルト二体が威嚇の声を放つ。だが獣の本能ゆえか、敵の強さを警戒して襲い掛かる様子は見られなかった。
 ちょうど青年を挟むようにして立っているコボルトたち。一見すれば不利なのは青年だが、しかしそこから伝わる雰囲気は正反対のもの。
緊張感をみなぎらせた獣人とは対照的に、構えらしい構えも取らない青年にはまるで今の状況がなんでもないような雰囲気があった。

「どうした、来ないのか?」
「グルルルル……ッ」

 不敵な笑みを浮かべ誘うように言う青年に、コボルトたちは唸りを上げ続けるばかり。そして戦いは唐突に終わりを告げる。

「……今のは?」
「ガァッ」

 遠くから微かに響いた重く震えるような低い音。地響きか、それとも巨大な何かの咆哮のようなそれに、青年が声を漏らす。同時に獣人たちが短い鳴き声を発し、森の奥へと一目散に駆け去って行った。

「まぁ、いいとするか」

 逃げたコボルトの消えた方に目をやりながら、ため息と共に言葉を吐き出す青年。そしてすぐにまた、先程の音が鳴った方角を遠い目で見つめるのだった。

* * * * *

「助かったよ、ええと……」
「オレはフラッド、旅の剣士ってところだな。あんたは?」
「あ、あぁ、私はイヴァン。ここから少し山の方へと行ったところにある村の住人だ」

 獣人たちを追い払った後、まだ地面にへたり込んでいた男を青年が助け起こし、言葉を交わす。そしてイヴァンが口にした一言に、フラッドが顔を輝かせた。

「そいつは良かった! 実はオレはその村を目指していたんだが、恥ずかしいことにこの森に迷っちまってな」
「それはまた……しかし、それならば街道を行けば迷う事も無かったと思うんだが?」
「あー……まぁ、そこは……はははっ」

 イヴァンの疑問にフラッドは言葉を濁して、わざとらしい笑い声を張り上げる。目が泳いでいるせいで、それがばつの悪さを誤魔化す為のものなのは、一目瞭然だった。

「まぁ、私も似たようなものだから、あれこれ言えた義理でもないんだがね」

 フラッドの態度から何となく事情を察したのか、イヴァンも苦笑いを浮かべながらそう口にする。転倒した時に服に付いた汚れを払うと、フラッドへと改めて向き直って頭を下げた。

「本当に助かった。言葉だけでは感謝しきれないし、村へも案内してやりたいのだが……」
「そっちも急ぐ事情がありそうだな。もしかして、さっきの音と何か関係が?」
「う……む。とは言え、旅の方に話してどうなるものでもない。それにすぐに何かが起きる訳でもないだろうし」
「そうか。村へはどっちへ進めば行ける?」

 顔を曇らせ言葉を濁すイヴァンに、フラッドはそれ以上の詮索はせず。話題を変えて村への道行きを訊ねれば、イヴァンは嫌がるような事もなくわかりやすく答えた。

「助かるよ、ありがとうイヴァン」
「なに、あなたは命の恩人なんだからこのぐらいはな。そうだ、村に着いたら私の名を出してくれたらいい。それで色々と便宜は図ってもらえるだろうから」
「それはありがたいな、遠慮せずにお言葉には甘えさせてもらうとしよう」
「だが、あまり村に長居はしない方がいいだろうな……どうやらフラッド殿も急ぎの旅路のようだし、村の厄介事に巻き込むのは不本意なのでな」
「ふむ……一応は気に留めておくよ。あんたもまた襲われないとも限らないし、くれぐれも気を付けてくれ」
「ははっ、次は今回のように都合よく助けなど現れんだろうしな。せいぜい慎重に行くとするさ」

 互いの無事を祈る言葉を交わし、そこで二人は別れた。少し森を進んだところでイヴァンはふと足を止め、フラッドの向かった方向へと振り返るが。

「行ってしまったか。それにしても……」

 イヴァンが足を止めた理由。それはフラッドの持っていた剣に施されていた意匠が、心に引っ掛かったせいである。
 いつだったか、あれと似たような意匠を目にした気がしたが、しばし考えて結局は思い至らず。
これから村を襲うやもしれぬ厄災。その前兆の報告と、救援の要請の為に皇都へ向かい再び歩き出した。
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