(BL)君のことを忘れたいから遠回りしてきた

麻木香豆

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第六章 開店

第三十一話

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「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」

 とうとう開店の日がやってきた。
 店の前には色とりどりの開店祝いの花がずらりと並び、その中には大輝からの花もあった。
 白と黒を基調にしたモノトーンの内装は、上品で落ち着きがあり、どこか來の性格を映しているようでもあった。

 そして、同じくモノトーンコーデで出迎えるのは——美園。
 ミスコン一位の肩書にふさわしい美しさ。立ち居振る舞いからは、育ちの良さと知性が滲み出ている。
 それでいて、上品すぎず、近寄りがたくもない。客ひとりひとりに合わせた柔らかな接客で、すでにこの店の“顔”としての存在感を放っていた。

 その姿を見ながら、來は胸の奥に小さな痛みを覚える。
 あぁ、やっぱり——この雰囲気、どこか也夜に似ている。
 人前に立つときの堂々としたオーラ、光を浴びたときの品のある笑顔。
 思い出すつもりなどなかったのに、不覚にも記憶が滲み出してしまう。

 「……仕事、仕事」

 と自分に言い聞かせ、來はハサミを握った。

 オープン初日ということもあって、来客は途切れない。
 中には、大輝の店での常連客もいれば、かつての也夜のファンらしき人々も混じっている。
 中には「一度見てみたかった」とクーポンを使って来る客もいれば、「也夜くんの恋人だった美容師さんですよね」と好奇心で来る者もいた。

 それも仕方のないことだ。
 世間に“元恋人”として名前が出てしまったのだから。

 問題は、その後だった。

 「今も也夜くんとは連絡取ってるんですか?」

 「退院されたって聞きましたけど、本当ですか?」

 そんな質問が平然と投げかけられる。

 本当のことを言えば、関係はもう途絶えている。
 けれど「知らない」「もう付き合っていません」などと答えれば、きっと彼らはもう二度と来ないだろう。
 來は笑顔のまま、上手く誤魔化す術を身につけていた。

「最近は忙しくてなかなか会えないんですけどね……でも、美園さんが受付で報告してくれるから助かってます」

 そう言えば、皆、安心したように笑顔で帰っていく。
 来てくれるお客の期待を裏切りたくない、というより——
 也夜を完全に過去にできない自分への言い訳のようにも思えた。



 美園は來の意思を尊重し、滅多に也夜のことを話さなくなった。
 中には、「美園さんと結婚すればいいのに」とか、「也夜くんとは契約結婚にして、子どもは美園さんが産めばいい」といった客もいた。けれど、そうした客は決まって一度きりの来店で終わる。

 その時は笑って受け流したが、今となっては——來は分ニと付き合っている。
 にもかかわらず「美園に子どもを産ませる」などという発想に一瞬腹立たしさを覚えながらも、(そういう手もあったのか)と頭をよぎってしまった自分に驚き、すぐ自省した。

 懸命に働く美園。その横顔がふと笑みに変わったとき、來は初めて彼女の“素の笑顔”を見た気がした。
 リカとは違う。落ち着きがあり、品がある。
 性的な意味で惹かれることはなかったが、彼女の存在はどこか癒やしだった。
 リカは——性的には魅力的だった。だが今思えば、それ以外はどうでもよかった。

「店長、也夜くんは元気かしら?」

 またか、と思いながらも、白髪にパーマをかけに来た常連のマダムを見て、來は驚いた。彼女の世代にまで、也夜の名前が知られているとは。

「ええ、彼のご家族からは元気だと聞いています」

 と、いつものように答える。マダムが自分の過去——性にだらしなかった頃の來——を知っていたらと思うと一瞬ヒヤリとしたが、どうやら杞憂のようだった。

「結婚式、楽しみにしてたのよ。雑誌にも特集が載るって聞いたわ」

「ありがとうございます。叶わなかったですけどね……」

 そう。也夜が専属モデルを務めていたメンズ誌で、二人は取材を受けていた。
 指輪選び、前撮り、そして結婚式。すべてが誌面に載る予定だった。
 來は横顔や後ろ姿だけの登場だったが、初めての撮影に緊張していた彼を、也夜がそっとエスコートしてくれたことを思い出す。
 あのとき、確かに幸せだった——。


 また思い出してしまったか、と來は苦笑した。
 だが、こうして也夜を知っている人たちが来店し、言葉を交わすのなら、避けられないことでもある。

「でも、別れたんでしょう?」

「……えっ」

 ひやりとする。マダムも、來のスキャンダラスな過去を知っているのか。

「周りから反対されたんでしょう? 本当は乗り越えたはずなのにね……残念だわ」

「……」

 突然の言葉に、返す言葉が見つからない。

「まぁ、そうなる気はしてたの。どれだけ乗り越えても、反対していた人の心はそう簡単には変わらないもの。事故をきっかけに——もの言えなくなった也夜くんをいいことに、誰かが2人を引き裂いた……」

 さっきまでの柔らかな口調とは違う、どこか張り詰めた声。
 來は感じた——この人は何かを知っている。何かを背負っている。

「あなたたちには幸せになってほしかったのよ。でも、もう無理なのかしら。ミーハーな気持ちじゃなくてね」

 來は黙って手を動かした。
 動きを止めたら、涙がこぼれそうだったからだ。

「娘がね、同性愛者だったの」

 マダムの声が、少し震えた。

「私たちが反対して……2人で無理心中してしまったのよ」

「……」

「一人娘だったの。主人も激怒して、私もどうすればいいか分からなかった。今なら話を聞いてあげればよかったって思う。でも、そんなの後から言ったって遅いのよね」

 マダムは鏡越しに微笑もうとしたが、表情は歪んでいた。

「そんな時、也夜くんが同じように告白してくれて……すごく応援したの。あなたたちの結婚を見て、娘の分まで幸せになってほしいって」

 來はもう、堪えきれなかった。
 涙が、こぼれた。

 也夜のもとには、かつて何通も手紙が届いていた。
 同性愛者の若者たちからのメッセージ。
 「あなたたちの結婚で救われた」「自分たちの代わりに幸せになってほしい」
 けれど、中には「家族に反対され、別れた」と綴られたものもあった。

 前の店でも、來を頼って相談に来る人がいた。
 どの話も、痛みを伴っていた。

 來の両親は、反対はしなかった。
 ただ、何も言わなかった。
 もともと放任主義で、也夜と結婚する時も、会いにも来ず、式にも出席しなかった。
 事故で結婚がなくなっても、連絡は一度もない。

 それが、いちばん堪えた。
 賛成も反対もされない。守ってもくれない。
 無関心という形の拒絶。

 マダムの話を聞きながら、心の奥に押し込めていた感情が、音を立てて溢れ出した。

「……私はね、今でも也夜くんが目を覚まして、あなたとまた結ばれるって信じてるの」

 マダムはそっと來の手を握った。

「でも、もしあなたが別の人と幸せになるなら、それも彼はきっと許すと思うわ」

 ——そう。この日の前日。
 分ニから「結婚しよう」と言われたばかりだった。
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