(BL)君のことを忘れたいから遠回りしてきた

麻木香豆

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第八章 葛藤

第四十二話

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 分二が子どものように泣きじゃくっているのに、來には涙が出なかった。

 也夜は、自分たちの結婚式の前夜──
 かつて仲を引き裂かれた恋人である分二に会いに行こうとしていた。
 その事実には確かに驚いた。けれど、それはもう過ぎたことであり、変えようのない過去だ。

 問題は、その結果として也夜が事故に巻き込まれ、戻ってこなかったという事実だけだった。

 なぜ言ってくれなかったのか。
 もし聞かされていたら、止めた。それは明らかだ。
 だから言えなかったのだろう──頭では理解できた。
 それでも來は、言ってほしかった。
 知らされたかったという気持ちだけが、胸の奥でじんわりと広がっていた。

 自分は、過去の恋を全部曝け出したのに。

 初めての相手が大輝で、恋人同士だったこと。
 自分はネコで、タチの経験がないこと。
 大輝以外の男も女も知らないこと。

 也夜はそれを、あの柔らかい笑顔で聞いてくれた。
 照れたように笑いながら、でも肯定するように頷いて。

 思えば也夜は、アイドル時代のこと以外はほとんど語らなかった。
 性癖のことや経験人数みたいな、表面的で軽い話はするのに──
 肝心な“過去”は、ふと目を逸らすみたいにして話さなかった。

 來はその理由を、今ようやく突きつけられている気がした。




 しかし思えば、分二のことは、也夜が「何人かいた恋人」の話をするときに混じっていたのだろうか──。
 そう考え始めたものの、來の記憶に該当するエピソードは浮かばなかった。
 どれが分二のことだったのか……思い出そうとして、來はすぐにその手を離した。もう追わなくていい、と自分に言い聞かせるように。

 アイドル時代の記憶は、也夜にとって“忘れたい過去”だったのだろうか。
 辛い別れをした分二との思い出も含めて。

 その瞬間、來はふと自分に重なるものを見つけた。
 ──同じだ。
 自分も、也夜が事故に遭い「別れろ」と言われたあの時、忘れるために必死で走り続けた。
 也夜も、分二も、それぞれのやり方で“忘れようとしていた”のではないか、と。

「分二も……也夜とのこと、忘れようとした?」

「ああ……。でも、忘れようなんてできなかったよ。
 彼のために物理的に距離を置いたけど……結局、離れるほど思いが濃くなるだけでね。
 也夜が通ってる美容院なんぞ知ってしまったら、そこに通うようになったし。……まぁ、もともと大輝とはゲイのコミュニティで知り合った仲だし」

 大輝との繋がりが、同じ同性愛者コミュニティにあったからだと知って、來は小さく驚いた。
 似た者同士が自然と群れる──そういうものなのか、と妙に腑に落ちる気もした。

「別に大輝とはそういう関係じゃないからね。経営者同士、話が合うだけだよ。
 それに、大輝は……僕の好みじゃないし」

 分二は慌てて補足する。
 來は少しだけ疑ったが、確かに系統が違いすぎる。
 がっしりした大輝は、分二の“好み”には到底見えなかった。
 もし関係があったとしても、お互い狭い世界の中にいるのだから、そう珍しい話でもない──そんな気持ちも來の中にはあった。

「で……その美容院に、君がアシスタントとして働いていた。
 まだ若い君を見て、どうしても也夜を思い出して……重ねてしまってた」

「そうだったんだ……。でも、その時に……也夜と会おうとは思わなかったの?」

「……うん。彼の仕事の邪魔になると思ってね。
 でも……本当は、会おうと思えば会えた。
 そうしていたら……君は也夜と付き合うことも、なかったのにな……」

「……」

 來は言葉を失った。
 分二の声音には、後悔とも、自嘲とも、嫉妬ともつかない複雑な熱が滲んでいた。


 もし分二があの時也夜に再会していたら──。
 自分は也夜と付き合っていなかったのか。
 來は胸の奥がひやりとしたが、考えれば考えるほど、もしもの話に終わりがないのは分かっていた。

「二人が結婚するって聞いて……最初は羨ましかった。でも……今度こそ、今度こそ幸せになれたならって思った」

 そこで來はふと気づいた。

「……そういや、也夜のご両親には会ったことあるの?」

「ないよ」

「会わずに……結婚しようとしてたの?」

「会ったら絶対反対されただろうし、也夜もそう思ってた。
 あの頃は……僕も彼も、若かったしね」

「そうだよな……でも僕は也夜のご両親に会った。妹の美園さんにも」

「きっと也夜、変わったんだよ。大人になった。
 あの時あのまま結婚を強行してたら、逃げ回るみたいな生活になってたろうし……祝福してくれる人なんて、きっと一人もいなかった」

 來は思う。
 也夜が“自分の全てを出したい”と言っていたのは、分二との過去があったからなのかもしれない。
 たくさんの人に知ってもらい、認めてもらい、祝福してもらえる関係こそが──幸せな結婚生活につながると、そう考えたのだろう。

 也夜のその過去を知らずにいた來は、胸の奥がじんと熱くなった。
 けれど、それを確かめる術はもうない。知っているのは也夜自身だけだ。

「あの頃は勢いだけで……若かったなぁ。ちょっと恥ずかしいよ」

「僕らもそうだったよ。でも也夜はしっかりしようって言ってた」

「だよな。それも……雑誌で読んだよ」

「そういえば書いてあったね」

 分二の袖を濡らしていた涙は、いつのまにか止まっていた。

「でも……也夜、本当に会ってくれるとは思わなかった。あの夜」

「……」

「ありがとう。あの時……會わせようとしてくれて」

「ありがとう、って言われても……也夜は“友達と会うだけ”って言ってたからさ。断る理由もなかったんだ。でも……分二だってわかってたら……どうしたかな」

「なんで分二と? ってなるよな……。
 当時は僕らの繋がりなんて分からないはずだったし、分かったとしても仕事の関係って思うよな……。
 ……もしかしたら、君もついて来てたかもしれないって……。
 いや……もうやめよう。こんな話、キリがない」

 來はそっと目を瞑った。
 分二の部屋。いつもと違う匂いがする。寝具の感触も違う。
 その全部が、現実味を薄くするようだった。

「來……」

「もうこれ以上、何も言わない。……二人で、ゆっくり寝よう」

 分二は静かに頷いた。
 來も、深く息を吸って目を閉じる。

 あの時こうしていれば──。
 あの時ああしていたら──。
 そんな終わりのない思考に、もう答えはない。
 來はそれをようやく受け入れようとしていた。
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