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A01運行:井関、樺太へ

0017A:絶望の中でも、しかし彼らは鉄道員だった

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 その時、井関はあることを思い出した。

「なあ、水野。君は水筒かなにかもっているか」

「ええ、ありますが……。でも、戦中のもので貧相ですよ」

「中身はどれほど残っている」

「一口も呑んでいないので、満タンです」

 それを聞いた瞬間に、井関の目に光が戻った。

「でかしたぞ、水野!」

 彼はそう言うと、暗闇の中をごそごそとやり始めた。

「何をしている」

「この辺に、暖房があるはずだ」

「暖房!? まったく温かくならないじゃないか」

「ああ。ここまでの寒さは想定外だったんだ」

 そう言った瞬間、笹井が絶望的な顔になる。

「じゃあどうするんだ!」

「水筒を湯たんぽの代わりにするんだ!」

 水野が、あった! と声をあげた。そして、水筒を暖房の上に載せる。

「適当な温度になったら、彼女の股下に当てるんだ!」

「どの程度の温度ですか。もう、手がかじかんでしまって、わかりません」

 水野は半べそでそう答えた。

「手で触って耐えられなくなるほどになったらだ」

「では、もうです」

「よし、彼女の股下に投入しろ!」

 水野は震える手で、それを彼女の下に運んだ。

「真柴ハツ、全ては君にかかっている。頼む……!」

 井関は彼女の手を握り締めながらそう叫んだ。

 それから、一秒、二秒……。永遠とも思える時間がたった時、ふいにその手が振りほどかれた。

「乙女の手を、簡単に握らないでほしい、な」

 ブレーキハンドルが、動いた。

 それは紛れもなく、彼女の手によるものだった。

 列車は安全に速度を落とし、ついにはふもとの駅・奥鈴谷駅に静かに滑り込んだ。

「私の言葉、覚えててくれたんだね」

「ああ。君の言葉は、すべて真実だった」

「彼が死ななければならなかった理由、わかった?」

 その微笑みに、井関は言葉を促された。

「ああ。欠陥のある冷却システムによる、低体温症。これが立花機関士から意識を奪った原因だ」

 そう答えた後で、井関は一つだけ尋ねた。

「君が意識を失う直前のハンドル配置。あれには何か意味があるのかい?」

「普通のブレーキだったら、車輪が壊れてしまうかもしれない。でも、回生ブレーキなら危なくなったら安全装置が働く」

 彼女はそして、簡潔に答えた。

「回生ブレーキは列車を停止させるが出来ない。でも、加速を緩やかにさせることならできる。だから、もしかしたら、ふもとまで安全にたどり着けるかもしれない」

「なるほど。……事故が起きた機関車も、同じ位置にハンドルがあった」

「そう……。じゃあ、彼も、生きていたかったのね」

 深雪がしんしんと降り積もるなか、井関は彼女に頭を下げることしかできなかった。
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