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A01運行:井関、樺太へ

0016A:冬将軍は、いつでも我々の命を狙っている。

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「おい、どうしたんだ!」

 目の前で、いきなり少女が倒れた。井関は状況が呑み込めず、ただ立ち尽くす。

「これはまずいぞ、どうする!」

「ハンドルの位置が、回生ブレーキ・最大位置……。事故機と一緒……」

 井関が呆けた顔をしながらそんなことをつぶやいている。笹井は思わず井関の頬をひっぱたいた。

「そんなことを考えている場合か!」

「あ、ああ、そうだな。どうしよう」

「彼女に何があった。服毒自殺か?」

「いや、これは……」

 井関は手袋を外して彼女の素肌に触れる。

「あまりにも冷たい。これは低体温症ではないだろうか」

「なんだって。では、意識障害か」

「まずいぞ、早くしなくては」

 列車は、だんだんと速度を増す。それに伴って、吹き込んでくる冷風の強さを増していく。

「このままだと、我々も凍死だ!」

「列車が暴走して脱線するのと、どちらが早いか……」

「水野君!」

「はい!」

 水野はハツの代わりにハンドルを握る。水野にも、どれがブレーキでどれがアクセルかぐらいはわかる。
 彼がブレーキハンドルを、正しく非常停止位置に叩き込もうとした、その時。

「まった!」

 小林がそれを制した。

「彼女は言っていた。彼女以外にこの列車を安全に停止出来る人間はいないと」

「それは、ハッタリではないのかい」

「いや、この状況で不用意に最大ブレーキを採ると、安全ではなくなる」

 井関は、ハッとしながらそうつぶやいた。

「どういうことだ?」

「前にも言っただろう。この状況下で最大ブレーキを使うと、車輪が壊れることがあると」

「そういえばそうだった。では、どうすればいいんだ」

「……全三種類あるブレーキを、五つのハンドルを以て、目の前にある計器類を見ながら精密かつ適切に操作しなければならない」

 つまり、今水野が握っているハンドルだけでは、この列車を停止させることは出来ない。

「……水野君なら、なんとかならんのか」

「水野君!」

 水野は計器に目を向ける。それを見ながら、ハンドルを動かそうとする。

「やれ! 水野!」

 震える手で以て、ハンドルを動かそうとする。だが、そのハンドルは動かなかった。

「私には……ッ! できません!」

「無理をするな水野君。この中で一番運転に詳しい君が無理と言ったんだ。その意見は尊重されるべきだ」

「じゃあ、どうするんだ!」

「……彼女を起こす。それ以外にあるまい」

 井関は着ていたコートと背広を脱いだ。

「井関、死ぬ気か!」

「彼女が助かるなら、私一人死んだところで何の問題もなかろう!」

 そう啖呵を切ると、それを彼女にかぶせて温め始める。

「先輩、お供します」

 水野もそれに続く。彼は彼女の下半身に目をやる。すると、彼女はあまりにも薄着であるように見えた。

「ああもう!」

 彼は自分のスラックスを脱ぐと、それを無理やり彼女に穿かせた。

「ああクソ! こうなれば東京高校四人組、全員死なば諸共だ。笹井、殉ずる覚悟は出来たか!」

「……」

「笹井!」

「おまえたちは、ワシの無二の友だ! ええい、ここで死んでやる!」

 とうとう、笹井も自分のコートを脱いだ。

「他に何かできることはあるか?」

「そうだ、ブロアのスイッチを切るんだ!」

「そんなことをしたら火事になるんじゃないのかい」

「そしたら火葬の手間が省けて好都合だ!」

 井関は手を伸ばしてスイッチを切った。唸るような音が収まっていく。

「くそう、空気が痛い!」

「泣き言を言うな! 日本男児だろう!」

「駄目だ、ブロワを止めても冷風がやまない!」

 寒風はいまや建付けの悪いところを吹き飛ばさんばかりにガタガタ言わせながら、容赦なく吹き付けてくる。速度が弱まる気配はない。

「時速60キロを越えたぞ!」

「まずいな。この峠の最高安全降坂速度はどれだけ高めに見積もっても60キロ毎時だ。もうそろそろ脱線するぞ!」

「もう、終わりだ……!」
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