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A07運行:国鉄三大事故①
0076A:官僚は、官僚のやるべきことをやるんだ
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「嶋さん、私です」
受話器の先に出たのは、この事故の顛末を一番気にしていたであろう相手だった。
「井関君。お疲れさまです」
「事故についての報告をいたします」
そう言うと、電話口の相手は黙り込んだ。
「現場のブレーキ痕を調べたところ、ブレーキを掛けた位置は事故現場から700m離れていました。列車の所定制動距離は600mが最低限ですから、この時点で機関士の信号無視の如何に依らず、事故は回避しうるはずです」
「なるほど」
嶋の感情は、電話越しではよくわからない。しかし、いつもよりも静かであるように思えた。まるで、報告の一つ一つをかみしめているかのように。
井関は続ける。
「事故列車と同等の列車を仕立て再現実験を行ったところ、列車のブレーキ性能その他に問題はありませんでした」
「なるほど、重油式機関車で懸念された重油漏れは、影響ありませんでしたか」
「はい。そのことと同僚機関士らからの証言をまとめますと、本件は補給制動によるものと思われます」
「ほう、補給制動ですか」
嶋は驚きを以てその言葉を受け入れた。井関は少し安心しながら続ける。
「補給制動とは、空気管の空気圧を適宜弱めながら制動力を調節する方式です」
「ええ、存じ上げていますとも」
言外に、―――私を誰だと思っているのですか―――というような空気を感じた井関は、冷や汗をかきながら発言を修正する。
「失礼しました。技師長も知っての通り、補給制動にはリスクがあります。現場機関士の話では、この弱点が析出した結果が今回の事故原因ではないかと……」
「ほう、そうですか……」
井関はここまで言い切って、少し肩の荷が下りた気がした。自分たちはここまでがんばって調べた。もうこれ以上は……。そんな面持ちの井関に対して帰ってきたのは、こんな言葉である。
「井関さん、ありがとうござました」
その瞬間、井関は尻尾を踏まれた猫のように飛び上がる。全身の毛が逆立つのを感じる。
”ありがとうございます”。そんな普通の言葉だが、嶋という人間が発した場合は全く違う意味をもつ。その言葉の真意は……。
「それで井関さん。本当の事故原因は如何であるとお考えですか」
『あなたの報告は不合格です』の意味である。
井関の脳みその深層にあるトラウマが刺激される。初めて一人で図面を起こして嶋の元へもっていったとき、最初にかけてもらった言葉『ありがとうございます』。
無邪気に喜んでいる井関に次に振り下ろされたのは、一から十まで赤く修正された図面だった……。
―――以上の点が不十分です。再提出をお願いします―――
嶋は決して恐ろしい人間ではない。それが真に恐ろしい。井関は受話器を持つ手をガタガタと震わせながら答えた。
「……事故当該列車は、十三本木峠を走行していた列車でした。十三本木峠はとてもキツイ峠で、列車は補助の機関車を必要とします」
普通、列車は一つの機関車で牽引される。しかし十三本木峠を走行する列車は、一つの機関車では力不足であるから、最低でももう一つ、酷い時には合計で五両の機関車を束ねて峠に挑むのだ。
「ええ、存じ上げております」
「このように機関車を束ねた運転のことを”重連”と呼称しますが……。重連での運転時に、ブレーキの利きが悪くなるという報告を受けました」
「なるほど。それについて、あなたはどう思いますか」
「これは私見ですが……」
井関は頭の中をフル回転させてその中の知識を絞り出す。だが何も出てこない。井関は息を切らしながら記憶の領域にまで手を伸ばす。すると、小指の端っこに重大な記憶が引っ掛かった。
「以前、中央西線で重連運転の試験を行った際、試験列車がオーバーランしてしまったことがありました。もしかしたら、関係あるかもしれません」
「……はい、結構です」
その瞬間、井関の震えがぴたりと止む。
「実は、こちらにも同じような証言が寄せられていました。自力でそれにたどり着けるとは、さすが井関君ですね」
嶋はまったく感情の無い声でそう言う。井関は心底地団太を踏みたい気分だった。
「しかし、試験を行ったと仰いましたが、重連運転による試験は行っていないわけですね?」
「はい。重油式機関車一両”C59 134”で行いました」
「実験をする際は、なるべく試験環境をそろえる。工学部どころか、数理系全般の基礎ではないですか?」
「申し訳ありません……。どうも、盛岡では機関車が足りていないとのことだったので……」
「そうならそうと言ってください。しかしながら先に重油漏れによる影響を検証したのは賛意に値します。大変結構でした」
井関は先ほどから息が詰まったり心臓が飛び跳ねたりの繰り返しである。
「では、これからそちらに事故を起こした列車と同一構成のもの―――C63形蒸気機関車1両+C64形蒸気機関車1両+ナハ/ナハフ10形客車14両―――をお送りします」
「嶋さん……!」
「それから、試運転の準備もこちらで進めておきます。事故現場もう復旧できていますね?」
「はい、問題ありません」
「では、そのように。……ああ、一つ付け加えておきますがね、井関君」
井関は慌てて受話器にかじりついた。これからの言葉を、ひとつも逃さぬまいとして。
「これまでとは違い、私は君には期待しています。これまでの調査も非常によく頑張りました。あと、もう一息です」
「……はい、嶋さんのご期待に沿えるよう、全力を尽くします」
井関は、体の底から燃え上がるモノを感じた。
(やってやらなきゃ、青森男児の名が廃る)
足取りはもう、震えてはいなかった。
受話器の先に出たのは、この事故の顛末を一番気にしていたであろう相手だった。
「井関君。お疲れさまです」
「事故についての報告をいたします」
そう言うと、電話口の相手は黙り込んだ。
「現場のブレーキ痕を調べたところ、ブレーキを掛けた位置は事故現場から700m離れていました。列車の所定制動距離は600mが最低限ですから、この時点で機関士の信号無視の如何に依らず、事故は回避しうるはずです」
「なるほど」
嶋の感情は、電話越しではよくわからない。しかし、いつもよりも静かであるように思えた。まるで、報告の一つ一つをかみしめているかのように。
井関は続ける。
「事故列車と同等の列車を仕立て再現実験を行ったところ、列車のブレーキ性能その他に問題はありませんでした」
「なるほど、重油式機関車で懸念された重油漏れは、影響ありませんでしたか」
「はい。そのことと同僚機関士らからの証言をまとめますと、本件は補給制動によるものと思われます」
「ほう、補給制動ですか」
嶋は驚きを以てその言葉を受け入れた。井関は少し安心しながら続ける。
「補給制動とは、空気管の空気圧を適宜弱めながら制動力を調節する方式です」
「ええ、存じ上げていますとも」
言外に、―――私を誰だと思っているのですか―――というような空気を感じた井関は、冷や汗をかきながら発言を修正する。
「失礼しました。技師長も知っての通り、補給制動にはリスクがあります。現場機関士の話では、この弱点が析出した結果が今回の事故原因ではないかと……」
「ほう、そうですか……」
井関はここまで言い切って、少し肩の荷が下りた気がした。自分たちはここまでがんばって調べた。もうこれ以上は……。そんな面持ちの井関に対して帰ってきたのは、こんな言葉である。
「井関さん、ありがとうござました」
その瞬間、井関は尻尾を踏まれた猫のように飛び上がる。全身の毛が逆立つのを感じる。
”ありがとうございます”。そんな普通の言葉だが、嶋という人間が発した場合は全く違う意味をもつ。その言葉の真意は……。
「それで井関さん。本当の事故原因は如何であるとお考えですか」
『あなたの報告は不合格です』の意味である。
井関の脳みその深層にあるトラウマが刺激される。初めて一人で図面を起こして嶋の元へもっていったとき、最初にかけてもらった言葉『ありがとうございます』。
無邪気に喜んでいる井関に次に振り下ろされたのは、一から十まで赤く修正された図面だった……。
―――以上の点が不十分です。再提出をお願いします―――
嶋は決して恐ろしい人間ではない。それが真に恐ろしい。井関は受話器を持つ手をガタガタと震わせながら答えた。
「……事故当該列車は、十三本木峠を走行していた列車でした。十三本木峠はとてもキツイ峠で、列車は補助の機関車を必要とします」
普通、列車は一つの機関車で牽引される。しかし十三本木峠を走行する列車は、一つの機関車では力不足であるから、最低でももう一つ、酷い時には合計で五両の機関車を束ねて峠に挑むのだ。
「ええ、存じ上げております」
「このように機関車を束ねた運転のことを”重連”と呼称しますが……。重連での運転時に、ブレーキの利きが悪くなるという報告を受けました」
「なるほど。それについて、あなたはどう思いますか」
「これは私見ですが……」
井関は頭の中をフル回転させてその中の知識を絞り出す。だが何も出てこない。井関は息を切らしながら記憶の領域にまで手を伸ばす。すると、小指の端っこに重大な記憶が引っ掛かった。
「以前、中央西線で重連運転の試験を行った際、試験列車がオーバーランしてしまったことがありました。もしかしたら、関係あるかもしれません」
「……はい、結構です」
その瞬間、井関の震えがぴたりと止む。
「実は、こちらにも同じような証言が寄せられていました。自力でそれにたどり着けるとは、さすが井関君ですね」
嶋はまったく感情の無い声でそう言う。井関は心底地団太を踏みたい気分だった。
「しかし、試験を行ったと仰いましたが、重連運転による試験は行っていないわけですね?」
「はい。重油式機関車一両”C59 134”で行いました」
「実験をする際は、なるべく試験環境をそろえる。工学部どころか、数理系全般の基礎ではないですか?」
「申し訳ありません……。どうも、盛岡では機関車が足りていないとのことだったので……」
「そうならそうと言ってください。しかしながら先に重油漏れによる影響を検証したのは賛意に値します。大変結構でした」
井関は先ほどから息が詰まったり心臓が飛び跳ねたりの繰り返しである。
「では、これからそちらに事故を起こした列車と同一構成のもの―――C63形蒸気機関車1両+C64形蒸気機関車1両+ナハ/ナハフ10形客車14両―――をお送りします」
「嶋さん……!」
「それから、試運転の準備もこちらで進めておきます。事故現場もう復旧できていますね?」
「はい、問題ありません」
「では、そのように。……ああ、一つ付け加えておきますがね、井関君」
井関は慌てて受話器にかじりついた。これからの言葉を、ひとつも逃さぬまいとして。
「これまでとは違い、私は君には期待しています。これまでの調査も非常によく頑張りました。あと、もう一息です」
「……はい、嶋さんのご期待に沿えるよう、全力を尽くします」
井関は、体の底から燃え上がるモノを感じた。
(やってやらなきゃ、青森男児の名が廃る)
足取りはもう、震えてはいなかった。
応援ありがとうございます!
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