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A07運行:国鉄三大事故①
0075A:しかしやはり現場は、すべてを見通しているようだった
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十合信也は悩みに悩んだ末、ある男に自らの胸中を打ち明けることにした。その男の名は、越谷卓志という。十合は、その男を自分の執務室へ呼びつけた。
「元気にしているかね」
「ええ、元気です」
そう答えた越谷は、明らかに元気ではなさそうだった。目元には酷いクマがあり、服はボロボロ、身体はやつれていた。秘書の君津はギョッとする。
「総裁、誰ですかこの男は」
「越谷卓志君だ。彼の親父さんと私がちょっとした知己でね。ああ、親父さんは元気にしておるかい」
「相変わらず病床に臥せってはおりますが、なんとか生きてはいまして。総裁によろしくお伝えくださいと言付かっております」
そう聞いた瞬間、十合は不愉快そうに眉をひそめた。
「卓志君、不愉快だぞ」
君津は”カミナリ”に供えてぎゅっと体を縮ませる。新人秘書の倉敷は猫のように全身の毛を逆立たせた。
「卓志君と私の仲ではないか。他人行儀はよしなさい」
「……ハイ、十合さん」
十合はそれでもまだ不満げだったが、ギリギリ合格とばかりに大きく頷いた。それを見ていた秘書たちは肩から崩れ落ちる。
「どうした君たち」
「いえ、てっきりカミナリが落ちるかと」
「ハッハッハ。いくら私でも、彼にカミナリは落とせんよ」
十合は快闊に笑いながら、秘書たちに越谷を紹介した。
「彼は東京鉄道管理局中央本線境駅、駅員の越谷卓志君だ」
そう言われて倉敷はまたびっくりする。どうして一介の駅員と国鉄のトップが執務室でひざを突き合わせることがあろうか。そして身なりはみすぼらしく、駅員というには少し清潔感に足りない。第一、駅員というには少々年齢が高いような気もする。
そんな倉敷の内心を知ってか知らずか、十合が秘書たちにカミナリを落とした。
「彼は大陸で中国人を戦禍から護った英雄だ。人を見た目で分別することなく、丁重に扱うこと」
お茶すら出ていないじゃないか! と十合は一喝する。倉敷はしっぽを踏まれた犬のごとく飛び上がり、給湯室へと消えていった。
「いえ、お気遣いなく。今の私は何もない人間ですから……」
「何を言うかね。今でも君に感謝している人間は多いと聞くぞ」
「……すみません。今は、それを聞くことすら辛いのです」
英雄、という言葉の響きとは裏腹に、彼は黒ずんだ手で自らの顔を覆った。その表情はあまりにも神経質そうで、深い闇が彼の心を切り刻み続けていることは、十合の目にも明白だった。
「今、思いつめているのはどちらだね。戦争か、娘っ子のことか」
「たぶん、どちらもです」
「娘さんのことはとても残念だった。どうか、元気を出してほしい……。ワシも事故で息子を亡くしておるから、気持ちは痛いほどよくわかる……」
総裁は悲痛な面持ちで越谷の肩を持つ。越谷は一瞬びくりと肩を震わせると、正気に戻ったように背筋を伸ばした。
「すみません……。それで、なんのお話でしたでしょうか」
「ああ、そうだった。君はこの間の総裁達を読んだかね」
総裁達、とは総裁の名前で出された通達のことである。それはすなわち、この間井関達が仰天した―――現場乗務員諸君に告ぐ―――という通達のことを指す。
現場乗務員に……というタイトルではあるものの、通達は国鉄総裁以下全職員に送付されていた。当然、駅員である越谷もそれを目撃しているはずである。
「ええ、拝見しました。境駅では同日、ちょっとした信号見落とし事故がございましたから、みな我がごとと捉え真剣にやっております」
「そうだったか。……実は新聞にもある通り、東北本線で事故が発生した。そのことについて少し意見を聞きたい」
そういうと、越谷は困った顔になった。
「十合さんもご存じの通り、私は兵役で鉄道から長く離れておりましたから……」
「まあまあ、君の手技はともかく、眼は腐っちゃおらんよ。あの太蔵の息子だからな」
謙遜ともホンネともとれる発言を十合はお茶を呑ませて押し流すと、サアサアと越谷はせかす。越谷もとうとう困ってしまって頭をぐるぐる巡らせた時、ハッとあることに気が付いた。
「そういえば、昔こんなことが……」
「補給制動?」
時を同じくして、井関達も盛岡の地で聞き込みを行っていた。その中で、一人のベテラン機関士から面白い知見を得ることができた。
「本庁のエリート様も当然ご存じかとは思いますが、列車のブレーキというのはですね……」
ベテラン機関士、久木元は目の前にある古い客車を例にとりながら説明を続ける。
「このように、空気ホースを通じて機関車から空気を送り込み、その空気圧を各ブレーキが検知してブレーキ力を操作する仕組みになっています」
そう言って、車輪に付けられたブレーキを指さす。
「通常、空気ホース内の空気圧が上昇するとブレーキが解除、低下するとブレーキが作動、という仕組みになっております」
「ええ、存じ上げております。”自動ブレーキ”と呼ばれる仕様ですね」
井関はこの辺りの設計も勉強したことがあるから、何事も無く理解できた。当然水野も理解できている。が、その隣で笹井と小林が頭をひねっていた。
「さっぱりわからん」
「この空気ホース―――”ブレーキ管”と呼ばれるものだが―――の中の空気圧が低下すると、てこの原理でブレーキ装置が動き、このブレーキシューと呼ばれる部品が車輪に押さえつけられる。そう言う仕組みになっているんだ」
「なんでそんなに面倒くさい仕組みなんだ。空気圧で車輪を押さえつける方が楽じゃないか」
合理主義者の小林らしく、至極真っ当な疑問を呈する。井関は設計者として苦笑しながら答えた。
「ボクもそう思う。だがこれには訳があるんだ。というのも、このブレーキ管に充填された空気は、徐々に抜けてしまうんだ」
「……ということは、もし空気圧で車輪を押さえつける方式だと、途中でブレーキ力が弱くなってしまうということか?」
「その通り。そして、それに起因する事故も過去に発生している」
笹井は、ホーと呆けた顔で納得する。
「安全とは先人の血で作られているとはよく言ったものだが、まさにそうだな」
「この仕組みだと、途中でブレーキ力が強くなることはあっても、弱くなることはないのか。素晴らしい仕組みじゃないか」
「問題は、そこなのです」
明るい顔をする小林に、久木元が小さく差し込んだ。
「列車が急坂を下るとき、機関士は丁度良い塩梅に速度を落とそうとブレーキを掛けます。しかし、この仕組みの所為で、徐々にブレーキ力が強くなっていってしまいます」
「そうすると、どうなりますか」
「最悪、列車が停まってしまいます」
頭の切れる笹井は、ここで何かを悟った。
「では、その補給制動というのは、それを防止するための手段、ということですか?」
「その通りです。ブレーキを掛ける、つまりブレーキ管の空気圧を低下させた後、その空気圧が維持されるように少しだけ空気圧を込め続けるのです」
「つまり、ブレーキ管に空気を補給しながら、丁度いい塩梅のブレーキ力を得る方法、それが補給制動と」
「そうです。もしこれを使わない場合、面倒なことになります。ブレーキを掛ける。速度が低くなりすぎる。ブレーキを解除する。速度が高くなりすぎる。またブレーキを掛ける……」
「まったく、乗り心地が悪い列車になりそうですね」
「そして、各消耗部分が消耗しやすくもなります。この補給制動は広島で勃興し、今や世界中で使用されている偉大な運転方です」
「しかし、危険すぎます!」
ここで急に、水野が吠えた。水野は運転局の人間であるから、もちろんこの補給制動についても委細を承知していた。
そして当然、その負の側面も。
「補給制動は、ブレーキを緩めすぎて列車が暴走する危険性があります。ですから、一部の区間では禁止されています。事故現場周辺……。十三本木峠周辺では、まったくもって禁止されているはずです」
水野は調査本部の御幣島を見る。彼はドギマギしながら肯定した。
「水野さんの仰る通りです。十三本木峠を走行する全列車において、補給制動は絶対に行わないよう通達されておりました」
「しかし、そんなものは現実ではありません」
久木元は語気を強める。
「もちろん、ベテランの技術が無ければ成せない業です。しかし、これを用いなければ、アの峠は攻略できない。それほどまでに、過酷な環境なのです」
久木元はそう言った後で、あきらめたように首を振った。
「しかし、あなた方の言うことは正しい。もしかしたら、事故原因はこの補給制動にあるかもしれない……」
水野は何かを続けようとする。井関はそれをたしなめるように目線を送った。
「ボクは、あなた方の責任ではないと思います。補給制動を行わなければならなかった環境を、放置し続けた我々の側に責任がある」
久木元は少しうれしそうな顔になったが、それでも首を振るだけだった。
「ええ……獄中のヤツもそれを聞いたら少しは救われるでしょう……。だが、それは裁判じゃ通用しません。結局、信号無視が否定されたところで、彼の業務上過失致死の罪状は変わらんでしょう」
ハァ、と大きくため息がつかれた。それが誰によるものかはわからないが、少なくともその場にいた全員の総意であるようにも思えた。
「おかしなことです。なぜ、事故の正しい原因究明や解決よりも、警察による過失致死傷罪の捜査・処罰の方が優先されるのでしょうか。これでは、事故防止などできっこない」
「ええ、同感です」
井関まで悲しくなってきた。今回の事故に限っては、自分の無力さにただただ打ちひしがれることしかできないからだ。
「最後にお聞きしますが、補給制動以外に、今回の事故の原因は思い当たりませんか?」
久木元は考え込む。これに、同僚の潔白が掛かっているのだ。囲碁棋士も驚嘆するほどの長考の末に、久木元は頭を下げた。
「……いいや、思い当たらねえ」
久木元は極めて悔しそうに、そうつぶやいた。
「そうですか……。貴重なお話、ありがとうございました」
井関はいたたまれなくなって、その場から去ろうとする。その時、久木元が呼び止めた。
「いや待ってくれ! 機関車を重連で運転するとき、いつもよりブレーキの利きが悪いような……」
久木元はそこまで行って、悔しそうにほぞを噛んだ。
「……いや、忘れてくれ。ダサいことをした。こんなもんは、ヤツも望んじゃいないさ」
井関は悔しくなった。なぜ、彼らが傷つかねばならないのだろうか。なぜ、彼らが世間からの批判を一心に受けなければならないのだろうか。
その裏で、官僚共はのほほんとしているだけである。
井関は調査報告書を捻じ曲げてやろうかとも思った。
だが……。
(それもまた、現場への冒涜だ)
井関はすんでのところで踏みとどまって、受話器に手をかけた。ダイヤルを、国鉄本庁に合わせて――――――
「元気にしているかね」
「ええ、元気です」
そう答えた越谷は、明らかに元気ではなさそうだった。目元には酷いクマがあり、服はボロボロ、身体はやつれていた。秘書の君津はギョッとする。
「総裁、誰ですかこの男は」
「越谷卓志君だ。彼の親父さんと私がちょっとした知己でね。ああ、親父さんは元気にしておるかい」
「相変わらず病床に臥せってはおりますが、なんとか生きてはいまして。総裁によろしくお伝えくださいと言付かっております」
そう聞いた瞬間、十合は不愉快そうに眉をひそめた。
「卓志君、不愉快だぞ」
君津は”カミナリ”に供えてぎゅっと体を縮ませる。新人秘書の倉敷は猫のように全身の毛を逆立たせた。
「卓志君と私の仲ではないか。他人行儀はよしなさい」
「……ハイ、十合さん」
十合はそれでもまだ不満げだったが、ギリギリ合格とばかりに大きく頷いた。それを見ていた秘書たちは肩から崩れ落ちる。
「どうした君たち」
「いえ、てっきりカミナリが落ちるかと」
「ハッハッハ。いくら私でも、彼にカミナリは落とせんよ」
十合は快闊に笑いながら、秘書たちに越谷を紹介した。
「彼は東京鉄道管理局中央本線境駅、駅員の越谷卓志君だ」
そう言われて倉敷はまたびっくりする。どうして一介の駅員と国鉄のトップが執務室でひざを突き合わせることがあろうか。そして身なりはみすぼらしく、駅員というには少し清潔感に足りない。第一、駅員というには少々年齢が高いような気もする。
そんな倉敷の内心を知ってか知らずか、十合が秘書たちにカミナリを落とした。
「彼は大陸で中国人を戦禍から護った英雄だ。人を見た目で分別することなく、丁重に扱うこと」
お茶すら出ていないじゃないか! と十合は一喝する。倉敷はしっぽを踏まれた犬のごとく飛び上がり、給湯室へと消えていった。
「いえ、お気遣いなく。今の私は何もない人間ですから……」
「何を言うかね。今でも君に感謝している人間は多いと聞くぞ」
「……すみません。今は、それを聞くことすら辛いのです」
英雄、という言葉の響きとは裏腹に、彼は黒ずんだ手で自らの顔を覆った。その表情はあまりにも神経質そうで、深い闇が彼の心を切り刻み続けていることは、十合の目にも明白だった。
「今、思いつめているのはどちらだね。戦争か、娘っ子のことか」
「たぶん、どちらもです」
「娘さんのことはとても残念だった。どうか、元気を出してほしい……。ワシも事故で息子を亡くしておるから、気持ちは痛いほどよくわかる……」
総裁は悲痛な面持ちで越谷の肩を持つ。越谷は一瞬びくりと肩を震わせると、正気に戻ったように背筋を伸ばした。
「すみません……。それで、なんのお話でしたでしょうか」
「ああ、そうだった。君はこの間の総裁達を読んだかね」
総裁達、とは総裁の名前で出された通達のことである。それはすなわち、この間井関達が仰天した―――現場乗務員諸君に告ぐ―――という通達のことを指す。
現場乗務員に……というタイトルではあるものの、通達は国鉄総裁以下全職員に送付されていた。当然、駅員である越谷もそれを目撃しているはずである。
「ええ、拝見しました。境駅では同日、ちょっとした信号見落とし事故がございましたから、みな我がごとと捉え真剣にやっております」
「そうだったか。……実は新聞にもある通り、東北本線で事故が発生した。そのことについて少し意見を聞きたい」
そういうと、越谷は困った顔になった。
「十合さんもご存じの通り、私は兵役で鉄道から長く離れておりましたから……」
「まあまあ、君の手技はともかく、眼は腐っちゃおらんよ。あの太蔵の息子だからな」
謙遜ともホンネともとれる発言を十合はお茶を呑ませて押し流すと、サアサアと越谷はせかす。越谷もとうとう困ってしまって頭をぐるぐる巡らせた時、ハッとあることに気が付いた。
「そういえば、昔こんなことが……」
「補給制動?」
時を同じくして、井関達も盛岡の地で聞き込みを行っていた。その中で、一人のベテラン機関士から面白い知見を得ることができた。
「本庁のエリート様も当然ご存じかとは思いますが、列車のブレーキというのはですね……」
ベテラン機関士、久木元は目の前にある古い客車を例にとりながら説明を続ける。
「このように、空気ホースを通じて機関車から空気を送り込み、その空気圧を各ブレーキが検知してブレーキ力を操作する仕組みになっています」
そう言って、車輪に付けられたブレーキを指さす。
「通常、空気ホース内の空気圧が上昇するとブレーキが解除、低下するとブレーキが作動、という仕組みになっております」
「ええ、存じ上げております。”自動ブレーキ”と呼ばれる仕様ですね」
井関はこの辺りの設計も勉強したことがあるから、何事も無く理解できた。当然水野も理解できている。が、その隣で笹井と小林が頭をひねっていた。
「さっぱりわからん」
「この空気ホース―――”ブレーキ管”と呼ばれるものだが―――の中の空気圧が低下すると、てこの原理でブレーキ装置が動き、このブレーキシューと呼ばれる部品が車輪に押さえつけられる。そう言う仕組みになっているんだ」
「なんでそんなに面倒くさい仕組みなんだ。空気圧で車輪を押さえつける方が楽じゃないか」
合理主義者の小林らしく、至極真っ当な疑問を呈する。井関は設計者として苦笑しながら答えた。
「ボクもそう思う。だがこれには訳があるんだ。というのも、このブレーキ管に充填された空気は、徐々に抜けてしまうんだ」
「……ということは、もし空気圧で車輪を押さえつける方式だと、途中でブレーキ力が弱くなってしまうということか?」
「その通り。そして、それに起因する事故も過去に発生している」
笹井は、ホーと呆けた顔で納得する。
「安全とは先人の血で作られているとはよく言ったものだが、まさにそうだな」
「この仕組みだと、途中でブレーキ力が強くなることはあっても、弱くなることはないのか。素晴らしい仕組みじゃないか」
「問題は、そこなのです」
明るい顔をする小林に、久木元が小さく差し込んだ。
「列車が急坂を下るとき、機関士は丁度良い塩梅に速度を落とそうとブレーキを掛けます。しかし、この仕組みの所為で、徐々にブレーキ力が強くなっていってしまいます」
「そうすると、どうなりますか」
「最悪、列車が停まってしまいます」
頭の切れる笹井は、ここで何かを悟った。
「では、その補給制動というのは、それを防止するための手段、ということですか?」
「その通りです。ブレーキを掛ける、つまりブレーキ管の空気圧を低下させた後、その空気圧が維持されるように少しだけ空気圧を込め続けるのです」
「つまり、ブレーキ管に空気を補給しながら、丁度いい塩梅のブレーキ力を得る方法、それが補給制動と」
「そうです。もしこれを使わない場合、面倒なことになります。ブレーキを掛ける。速度が低くなりすぎる。ブレーキを解除する。速度が高くなりすぎる。またブレーキを掛ける……」
「まったく、乗り心地が悪い列車になりそうですね」
「そして、各消耗部分が消耗しやすくもなります。この補給制動は広島で勃興し、今や世界中で使用されている偉大な運転方です」
「しかし、危険すぎます!」
ここで急に、水野が吠えた。水野は運転局の人間であるから、もちろんこの補給制動についても委細を承知していた。
そして当然、その負の側面も。
「補給制動は、ブレーキを緩めすぎて列車が暴走する危険性があります。ですから、一部の区間では禁止されています。事故現場周辺……。十三本木峠周辺では、まったくもって禁止されているはずです」
水野は調査本部の御幣島を見る。彼はドギマギしながら肯定した。
「水野さんの仰る通りです。十三本木峠を走行する全列車において、補給制動は絶対に行わないよう通達されておりました」
「しかし、そんなものは現実ではありません」
久木元は語気を強める。
「もちろん、ベテランの技術が無ければ成せない業です。しかし、これを用いなければ、アの峠は攻略できない。それほどまでに、過酷な環境なのです」
久木元はそう言った後で、あきらめたように首を振った。
「しかし、あなた方の言うことは正しい。もしかしたら、事故原因はこの補給制動にあるかもしれない……」
水野は何かを続けようとする。井関はそれをたしなめるように目線を送った。
「ボクは、あなた方の責任ではないと思います。補給制動を行わなければならなかった環境を、放置し続けた我々の側に責任がある」
久木元は少しうれしそうな顔になったが、それでも首を振るだけだった。
「ええ……獄中のヤツもそれを聞いたら少しは救われるでしょう……。だが、それは裁判じゃ通用しません。結局、信号無視が否定されたところで、彼の業務上過失致死の罪状は変わらんでしょう」
ハァ、と大きくため息がつかれた。それが誰によるものかはわからないが、少なくともその場にいた全員の総意であるようにも思えた。
「おかしなことです。なぜ、事故の正しい原因究明や解決よりも、警察による過失致死傷罪の捜査・処罰の方が優先されるのでしょうか。これでは、事故防止などできっこない」
「ええ、同感です」
井関まで悲しくなってきた。今回の事故に限っては、自分の無力さにただただ打ちひしがれることしかできないからだ。
「最後にお聞きしますが、補給制動以外に、今回の事故の原因は思い当たりませんか?」
久木元は考え込む。これに、同僚の潔白が掛かっているのだ。囲碁棋士も驚嘆するほどの長考の末に、久木元は頭を下げた。
「……いいや、思い当たらねえ」
久木元は極めて悔しそうに、そうつぶやいた。
「そうですか……。貴重なお話、ありがとうございました」
井関はいたたまれなくなって、その場から去ろうとする。その時、久木元が呼び止めた。
「いや待ってくれ! 機関車を重連で運転するとき、いつもよりブレーキの利きが悪いような……」
久木元はそこまで行って、悔しそうにほぞを噛んだ。
「……いや、忘れてくれ。ダサいことをした。こんなもんは、ヤツも望んじゃいないさ」
井関は悔しくなった。なぜ、彼らが傷つかねばならないのだろうか。なぜ、彼らが世間からの批判を一心に受けなければならないのだろうか。
その裏で、官僚共はのほほんとしているだけである。
井関は調査報告書を捻じ曲げてやろうかとも思った。
だが……。
(それもまた、現場への冒涜だ)
井関はすんでのところで踏みとどまって、受話器に手をかけた。ダイヤルを、国鉄本庁に合わせて――――――
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