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A09運行:国鉄ミステリー②蒲須坂事件

0098A:その音が、すべての決め手だった。そして僕らは、どんでもない思い違いをしていたらしい

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 私はいつも通りに朝起きた。昨日の夕に聞いた限りでは、夫は今日もいつも通り3時に起き、4時に仕事に出るからして、2時には起きなければならない。
 眠く朦朧とした意識を、外に出て顔を洗いたたき起こし、それからカマドに火をくべる。順番を逆にすると、ボンヤリとした気持ちのまま火を扱うことになって危険だ。私は何度か火の中に手を突っ込み、火傷をした。

 かまどに煌々と火が立ち、そして私はその上に前日のうちに米を水に浸しておいた釜を乗せる。だいたいこの時、2時10分。

 さてこの時、家の軒先の方に人の気配があった。おそらくは線路作業員だろうと考え、特に気に留めなかった。唯一気にかかったのは、彼らが静かに声を潜めて作業していたことである。

 従前、線路の工事を夜にやるというのは聞いたことが無かった。昼間、私が家事を終えウトウトと束の間の休みを取っているときに限って、線路の方から”ソーレ、ヨイショ!”という威勢のいい声がしていた。
 これについて私はなんどか那須野保線区に苦情を申し立てていたが、それはにべもなくあしらわれるのが常であったから、私はあきらめていた。

 しかし、この時は作業員が夜間に工事をしており、なおかつ声を潜めていたのだから、私はついに国鉄も殊勝なことをするようになったと満足していた。

 さて、炊事は次の行程を迎える。米の隣のカマドも起こし、そこで味噌汁を作り出す。ここではまず、湯を沸かす。ここで沸かした湯は後で味噌汁になるのだが、その前に湯呑一杯分を掬い取って白湯とする。
 夫はあまり熱い白湯は好まないので、このまま朝の冷気で”ヌルカン”とする。

 そうしている間に、”はじめちょろちょろ”が終わる。これがだいたい10分。米を水に浸けおいたので少し水気が多いが、ウチの夫はこれで文句なく食べる。
 薪を追加して一気に火を強める。”ふいご”で火勢を追い立てる。これが、おおよそ2時20分。ここから汗をかきべそをかき、まるで幼子の面倒を見るように火の手当をする時間が始まる。

 つらい中腰で火を煽って、ちょっと一段落しようかというその時。この家をあまりにも大きな揺れが襲った。

 地震だ、そう思った。

 記憶の中に微かにある関東大震災の光景と、そしてあの時ともに酷い思いをした両親の教訓に沿い、私は無理やりカマドの火を落とす。この時、左腕を火傷する。
 余計ごとではあるが、私は左利きである。

 私はその後、避難するかを相談するために、夫と息子が寝る部屋へと駆けた。だが、なんだか様子がおかしい。
 慌ててふすまを開いてみると、そこにはひっくり返った列車があった。

 これが顛末です。



「大変恐縮ですが、一点確認させていただきたいことがございます」

 笹井はこの手記を震える手でめくりながら夫人に問いかけた。

「列車が脱線するその直前に、汽笛の音は聞こえましたか?」

「いいえ」

 即答だった。

「この家に嫁に入ってから、もう何年も汽車の音を聞いてまいりました。ついこの間、汽車が変わった時も、すぐにわかりました。わたしが間違えるはずも、聞き落とすはずもございません」

「それだけで結構でございます。本当にありがとうございました」

 聞きたかったのは、警笛の有無。すなわち、機関士が危険を察知できる状況にあったかどうかだ。そして、そうではなかった。
 これはつまり……。

 結論を出す前に、井関はもう一つ気になることを尋ねた。

「申し訳ありません。もう一つ失礼します。作業員が居た、と仰いましたが、彼らは声を潜めていましたか」

「それはもう。泥棒かと見まがうほどのひそひそ声でした」

「ありがとうございます。真相に一つ接近することができました」

 井関は深々と頭を下げた。夫人は嘆息する。

「真実、ですか。それを私が知ることができる日は来るのでしょうか?」

 射貫くような目線が、再び井関を貫く。だが、彼は打算でも繕いでも同情でもなく、自らの信念を以て答えた。

「真相が判明次第、一番に報告に参ります」

「さようですか」

 話はそこまでで、これを最後に四人は家を追い出された。

 駅に戻ると、四人に本庁から電話が入っていた。慌てて井関が受話器を受け取ると、その電話でとんでもないことが判明した。

「なんか怪しいと思っていたが、やはりそうか」

 井関はホゾを噛む。

「じゃあ、どうする?」

 小林の、答えの分かり切った問いかけに、井関は決意を込めた目で答えた。

「当然、確かめに行くんだ。このあまりにも悲惨な事件の、真実を」
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