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A09運行:国鉄ミステリー②蒲須坂事件

0099A:たった一語。されど一語。

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「あなたは、この件の真実をご存じのはずだ」

 すべての真相を解き明かすべく、井関はとある相手を追い詰めていた。この間はあんなに饒舌だった彼ではあるが、今は無表情に黙りこくっている。

「教えてください。なんで、こんなことになったのかを」

 井関が語りかける相手、宝積寺保線区の小松は、困ったような笑みを浮かべた。

「ハハ、おかしいな。このまえ差し上げたあの資料が、我々が出せる全ての証拠ですが……」

「もう、ウソはつかなくていいんです」

 小林がピシャリとその言葉をふさぐと、イイカゲンにと小松は不機嫌になる。

「それは失礼じゃないですか。どこにウソがあるっていうのですか」

「資料には、線路の隙間訂正、と書かれていました」

 水野が、小松の提出した資料を指し示す。そこにはしっかり、隙間訂正と書かれている。

「ええ、それがどうしましたか」

「おそらく、これを見た人間が立てうる事故の筋道はこうでしょう。線路の隙間を調整するために線路の固定を解いたところに、連絡ミスの為か列車が進入。列車を止める手段がないまま、列車は緩んだ線路に突入し、脱線……」

「実際、そのような事故はあります」

 小松は語気を強めてそう主張する。

「我々はそのような悲惨な事故から、学ぶべきなのです」

「ええ、それはとてもごもっとも。だが、この件においては、少し事情が違います」

「そんなことはありません。きちんと過去の類似事例に則り……」

「いきなり列車がやってきたとして、列車見張りは何をやっていたのでしょうか?」

 水野が国鉄規則を持ち出して指摘する。

「つい数年前に改定された保線心得……すなわち保線に関する規則においてはこう定められております。『軌条レールの交換並びに移動に際し軌条を外す、締結を緩めるなどの行為を行う際は、必ず列車進入方向に対し保安要員を配置し安全確保と非常の際の列車防護に勤めること』―――つまり、現場には列車の接近を知らせる人間が居たはず。そして、その人間は万が一の際に、列車に対し非常合図を送る義務があります」

「送ったのではないですか? 通常、保線の現場においてそのような要員を配置していないとは考えにくい」

「ところが、その様な要員がいなかった可能性が高いのです」

 笹井の言葉に、小松の目が光る。笹井は小松の黒い目を見つめなおすと、まるで何かの真理を説くかのように静かに、小松に語りかける。

「証言者によれば、現場付近で警笛が聞こえなかったとしています。これはつまり、列車見張りが現場に居なかったことを示しています」

 そこまで言われても、小松はその冷静な顔を崩そうとはしない。だが、喉が何かを言いかけて震えたり静まったりするのが見えるようになる。

「これが何を意味するか、もうお分かりですね」

「作業が終わって一服しているときにでも来てしまったのではないですか?」

 小松は、新しい自分なりの推理を披露する。小林が目線で先を促すと、彼は先ほどまでとは打って変わり雄弁にそれを語った。

「だが、線路の固定が完全でなかったために、列車は脱線してしまった。そういうことじゃありませんか?」

「なるほど、そのようなこともあり得ますね」

 井関が賛意を示す。小松は安心したようにほくそ笑んでいた。が、井関の次の言葉で再びその表情を硬くさせた。

「でもね小松さん。おかしいんですよ」

「おかしい? 何がおかしいって言うんですか」

「証言によるとですね、作業員が居たのに”作業の音はしなかった”と言っているんですよ」

 小松が顔色を変える。

「素人に、作業の音が分かりますか」

「ええ。”隙間訂正作業”は通常、数人で『ソーレ、ヨイショ』と声を出して行うそうですね。だが、そんな声は聞こえなかった、問いっています」

 そういうと、小松は笑った。

「そんなことですか! まったく、笑わせないでくださいよ。深夜の作業であれば、声を出さずに静かにやるなんてこともありますよ。ご近所迷惑になってしまいますから」

 そう言った後で、小松は腹立たし気に声を荒らげた。

「まったく、特殊事故なんたらだか知りませんけれどもね! 保線のホの字も知らない方々が我々のことに口出さないでくださいよ!」

「ほう……では、”隙間訂正作業”は、実際にはどのようにするのか。当然、ご説明いただけますよね」

 その瞬間、真っ赤だった小松の顔から血の気が失せる。

「な、なにを……」

 うろたえる小松に対し、井関は畳みかける。

「申し訳ない! 我々東京丸の内は内務省鉄道院の温室で育ったもので、こういった現場の様々にはとんと疎いのです」

 井関は官僚らしい薄ら笑いを浮かべた後、小松に詰め寄る。

「どうか、ご教授いただけますか?」

 小松は何も答えない。その代わりに、水野が答えた。

「レール間の隙間を調整する作業においては、通常、大きなハンマーを用いて、”レールを枕木に固定したまま・・・・・・”レールの端を叩き少しづつ線路を移動させます」

 水野が小さなメモを読み上げる。井関がそれを受け取ると、小松の前に突きつけた。

「つまり、もし行ったのが本当に線路の隙間訂正であれば、そもそもとして事故は起きないのです」

「それは……」

「知らないとは言わせませんよ」

 ピシャリ。小林が追い打ちをかけた。小松は冷や汗を垂らしながら最後の悪あがきを仕掛けた。

「……ハハ、こりゃまいった。那須野保線区・・・・・・からの情報はかなり間違っていたようだ。こりゃ彼らに文句を言わねば……。ホラホラ皆さん。お叱りなら向こうにしてくださいよ! ほら、書いてあるでしょう」

 小松が資料を指差す。

「この工事は那須野保線区の仕事ですから、我々は何も関知することは……」

「なるほど、この資料に基づけば確かにそう言うことになりますね」

 井関は小松の言に再び賛意を示す。小松はホッと歯を見せた。だが、それを見逃す井関ではない。

「では、この資料は本物でしょうか」

 小松の顔がタコのように赤く染まる。

「何を失礼な! あたりまえでしょう!」

「では……」

 井関が資料の中の、何度も指さされた一文を指さす。そこに書かれているのは……

「線路の隙間訂正、という言葉は、本当に国鉄現場で使用している語なのですね」

 小松の喉から、小さな悲鳴が漏れた。これが、井関達に国鉄本社からもたらされた情報である。

「小松さん。国鉄においては、こういった線路の隙間のことを”遊間”と呼称するようですね。そして、この遊間を季節による温度変化に対応させるために調整することを”遊間整正”と呼称するようですね」

「……」

 小松は何も言えない。

「小松さん。この資料”工事日誌”は、いざという時に本庁への提出が義務付けられている書類になります。お隣の那須野保線区はどうやら真面目に書いていなかったようですが……。しかし、そんなものに、オリジナルな単語を使って記載するでしょうか」

 答えは、ノーだ。

「そんなことをすれば、国鉄本庁から小言を言われるのは必至です。なまじっかきちんと提出している分、未提出よりも印象が悪くなるかもしれません。そんなものを書くアホは、いくらなんでも国鉄にはおらんでしょう」

 どうですか、と笹井は語りかける。

「これは、工事日誌によく似せて作られた何某かだ。決して、それ本物ではない。なぜ、こんなものがあるのですか? これを作ってまで、隠したかったことはなんですか?」

 とうとう、小松は崩れ落ちた。だがその口は、最後までパクパクと、無実を訴えていた。
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