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A09運行:国鉄ミステリー②蒲須坂事件
0100A:仲間に対する侮蔑は許さない。だがそれと同じくらい、無力な自分たちが許せない
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小松らのグループは、宇都宮署で全てを自供した。
動機は、樺太転属の”志願”を募られたこと。この同調圧力の国の中で、彼らはその”志願”を強制だと読み取った。
そして樺太は、彼らにとって悪夢のような場所である。吹き荒れる嵐、未だ安定しない情勢。そこは戦場よりも過酷な環境が待っている。
もともと、国鉄の現場職というものは、全国転勤が無いことが前提だ。だから彼らは手当の少ない賃金でも、なんとか折り合いをつけて生きているのである。
だが、同じ賃金で戦場へ”出征”しなければならない。それも、たとえ死んでも名誉の死ではなくただの”死”として書類に伏されるとするならば、彼らの胸中はまるで納得のいかなかったことだろう。
小松らを宇都宮署に突き出した井関達を、ある男が憤怒の表情で待っていた。それは、仙台で出会った国鉄OBの岩島だった。
「いくらなんでも、これはないでしょう」
岩島は開口一番、井関に詰め寄った。その言葉の中には、様々なものが含められていることを、井関は官僚の嗅覚で嗅ぎ取る。
だがあえて、その一切合切を無視した。
「彼がやったことは、れっきとした殺人です。よしんば故意性が立証されずとも、ここに悪質な業務上過失致死傷が認定されます」
「そう言う話じゃないことぐらい、官僚ならわかるでしょう」
「わかりませんね」
井関はあくまでもシラを切り通す。岩島の顔は、見る見るうちに紅潮していく。
「”樺太送り”は、重大な人権侵害だ」
樺太送り。日本全国のあらゆる業界でいま、樺太への転勤をこう呼ぶらしい。樺太に向くということは、彼らにとって名誉以上に命の危険を感じる絶望的なそれなのである。
だがしかし、井関は退かない。
「それを、樺太の労働者の前で言えますか」
井関は目の前で見てきた。いわれなき樺太差別で苦しむ彼らを。そして、そのせいで命を落とした者たちを。だから、退けない。
岩島は苦しい。この題目では、井関の論には抗せない。だから次の論を企てる。
「パルチザンはかつて、樺太を侵攻した者たちに対し”サハリン手当”を支給していました。対して、本邦にはありません」
あてこするように岩島は言う。小林は苦しいながらも言い返す。
「国鉄には地方格差を発生させないために、東京でも樺太でも同じ労働であれば同じ賃金を受け取ることになっています。この問題は、そんな簡単にどうこうなるもんじゃありません」
「じゃあ、それをどうにかしたパルチザンより国鉄は劣っているというだけのことです」
岩島はそう言い切る。小林はそれを鼻で笑った。
「……では、東京の住民は経済面人口面で大きなアドバンテージがありますから、一票の価値を大きく削りましょう。一票の価値に格差は生じてしまいますが、それも致し方ないことでしょうか」
笹井がそう言うと、岩島は顔色を変えた。それから、歯を食いしばって笹井を睨みつける。
「金を払えば何かがよくなる。もし社会すべてがそうなら、官僚は苦労なんてしませんよ。あなたも、何か思うところがあるのであれば、樺太に行かれてはいかがですか」
それから井関は吐き捨てるように言う。
「……我々は少なくとも、樺太で苦しむ”仲間”を助ける行為を”樺太送り”などと揶揄する人間とは、これ以上お話したくはありません」
井関はそう言ってその場を立ち去った。
井関の胸の中には、今の言葉に対する憤怒がある。どうして本土の人間は、樺太のことを他所事として片付けることができるのか。どうして、仲間を助けようという気持ちにすらならないのか。
わが身が可愛いのはよい。だが、誰か助けてくれる人がいないかと求める声すらかき消すことは無いじゃないか。井関のハラワタは煮えくりかえる。
……だがその中で、胸の中では悔いが悲鳴を上げていた。
「あの工事日誌は、外部の人間によって偽造されたものでした」
井関は、宇都宮駅から少し離れたところのアパートへと出向いた。そこには、一時的に身を寄せる夫人の姿があった。
井関たちは約束通り、宇都宮署で真実を確認したその足で彼女のもとへとやってきたのだ。
「続けてください」
夫人は静かに、彼らの報告を聞く。
「犯行は宝積寺保線区の小松グループと呼ばれる一派が引き起こしました。彼らは常日頃から、自分たちの処遇について強い不満を抱いていました。ここでいう処遇というのは、我々本庁から、樺太への転属をあっせんされていたということです」
井関は小林に目線でバトンを渡す。
「人事担当の小林です。現在、樺太では深刻な人手不足が発生しています。これによる死者まで出て、そして更に人材不足が進むという悪循環が起きています。我々も、その現状を目の当たりにしました。そこで、我々は樺太へ緊急に人材を送り込むために、各現場に対し救援人員の志願を募っていました」
井関がその言葉を引き継いだ。
「しかしながら、ご存じの通り樺太はつらい場所です。彼らは志願を募られたこと自体に不満を持ち、そんなことをした国鉄本庁に泥を塗るためにこの事故を起こした。と、証言しました」
夫人の顔がこわばる。水野はそれでも、報告を続ける。
「彼らはあの夜、列車が来る数分前―――貴女の証言によりそれは2時10分だと判明しました―――に、線路の釘を外しました。この状態で列車が差し掛かると、列車はその重みで軌道を破壊し、脱線します。果たしてその通りとなり、それは転覆しました」
「そして事故後、彼らはその罪から逃れるために、このことを外部の人間に相談しました。その結果、隣の那須野保線区の人間が怪しくなるような工事日誌が作成された、というわけです」
ここまでが、事故の顛末。そしてこれは、一つのことを意味する。
「つまり、これは故意に引き起こされた”事件”だった。そういうことですか」
夫人の目じりが不意にこわばる。そしてその眼光が、井関の瞳を突き刺した。
「そしてそれはすなわち、責任はすべて、犯人にあるということですか」
「ちがいます」
笹井は全てを聞き終える前に首を振る。
「違います。……この責任はすべて、国鉄にあります。国鉄全体に、これは責任があるのです」
笹井はそのまま、夫人に頭を下げた。
「我々に、大きな落ち度がありました。それは現場の気持ちを慮ってやれなかったことに尽きます」
井関が胸の中でひとつ、抱いていた悔悟。それは、言葉を交わさずとも四人全てが共有していたものでもある。
「現場は恐れていました。それは死への恐怖であり、そこに至る苦痛への恐怖でありました。ですが、その前にもっと大きな恐怖があったことを、我々は見過ごしていたのです」
ここで笹井は、言葉に詰まる。
「それは、なんですか」
夫人が先を促す。井関が、言葉を引き継いだ。
「自分が使い捨てにされるという恐怖です」
小林は、自戒も込めて自らの言葉を紡ぐ。
「金額とは、手当とは、誠意のことです。制度上、あるいはこの国の民主主義と平等のためのありとあらゆる指針のせいだとしても、それが成せないということが彼らに与えた恐怖は計り知れないでしょう」
「我々は彼らと向き合い、しっかりと納得させるべきだったのです。我々は本土に居る仲間の中から、樺太で苦しむ仲間を助ける志士を探している。我々と共に、樺太へ来てほしい、と。決してこれは、貴方を樺太の地で使い捨て、名もなき戦士にするつもりなのではないということを」
それが我々の反省です。と、笹井はそう結んだ。
「だからこれは、我々の責任です。彼らが犯した罪は、我々の罪でもあったのです」
「さようですか」
井関の最後の言葉を聞いた夫人は、しばらくじっとしていた。だが、不意に立ち上がると、化粧棚の奥から煙草とマッチを取り出して、四人の前でぷかぷかと吸い始めた。
「あの人が嫌がるから、結婚したときに煙草はやめました」
ふーっと大きく煙を吐き出しながら、彼女はそう言う。彼女の口からこぼれる紫煙は、上へ上へと登っていく。
「こういう時代の節目には、誰かが損をしなきゃならない。それが私だったか、あの人だったか、息子だったか。それとも貴方たちか、犯人たちか。そう思うことにしますわ」
その言葉が、紫煙と共に彼女の口から出てしまったことが、井関にとってあまりにも大きな苦痛だった。
「そんな顔をしないでちょうだい。私はこれから少しずつ幸せになるから。貴方たちは、これから少しずつでも、国鉄を良くしてくれるんでしょう?」
「必ず、誓います」
「そう、まあ好きにしてちょうだい」
動機は、樺太転属の”志願”を募られたこと。この同調圧力の国の中で、彼らはその”志願”を強制だと読み取った。
そして樺太は、彼らにとって悪夢のような場所である。吹き荒れる嵐、未だ安定しない情勢。そこは戦場よりも過酷な環境が待っている。
もともと、国鉄の現場職というものは、全国転勤が無いことが前提だ。だから彼らは手当の少ない賃金でも、なんとか折り合いをつけて生きているのである。
だが、同じ賃金で戦場へ”出征”しなければならない。それも、たとえ死んでも名誉の死ではなくただの”死”として書類に伏されるとするならば、彼らの胸中はまるで納得のいかなかったことだろう。
小松らを宇都宮署に突き出した井関達を、ある男が憤怒の表情で待っていた。それは、仙台で出会った国鉄OBの岩島だった。
「いくらなんでも、これはないでしょう」
岩島は開口一番、井関に詰め寄った。その言葉の中には、様々なものが含められていることを、井関は官僚の嗅覚で嗅ぎ取る。
だがあえて、その一切合切を無視した。
「彼がやったことは、れっきとした殺人です。よしんば故意性が立証されずとも、ここに悪質な業務上過失致死傷が認定されます」
「そう言う話じゃないことぐらい、官僚ならわかるでしょう」
「わかりませんね」
井関はあくまでもシラを切り通す。岩島の顔は、見る見るうちに紅潮していく。
「”樺太送り”は、重大な人権侵害だ」
樺太送り。日本全国のあらゆる業界でいま、樺太への転勤をこう呼ぶらしい。樺太に向くということは、彼らにとって名誉以上に命の危険を感じる絶望的なそれなのである。
だがしかし、井関は退かない。
「それを、樺太の労働者の前で言えますか」
井関は目の前で見てきた。いわれなき樺太差別で苦しむ彼らを。そして、そのせいで命を落とした者たちを。だから、退けない。
岩島は苦しい。この題目では、井関の論には抗せない。だから次の論を企てる。
「パルチザンはかつて、樺太を侵攻した者たちに対し”サハリン手当”を支給していました。対して、本邦にはありません」
あてこするように岩島は言う。小林は苦しいながらも言い返す。
「国鉄には地方格差を発生させないために、東京でも樺太でも同じ労働であれば同じ賃金を受け取ることになっています。この問題は、そんな簡単にどうこうなるもんじゃありません」
「じゃあ、それをどうにかしたパルチザンより国鉄は劣っているというだけのことです」
岩島はそう言い切る。小林はそれを鼻で笑った。
「……では、東京の住民は経済面人口面で大きなアドバンテージがありますから、一票の価値を大きく削りましょう。一票の価値に格差は生じてしまいますが、それも致し方ないことでしょうか」
笹井がそう言うと、岩島は顔色を変えた。それから、歯を食いしばって笹井を睨みつける。
「金を払えば何かがよくなる。もし社会すべてがそうなら、官僚は苦労なんてしませんよ。あなたも、何か思うところがあるのであれば、樺太に行かれてはいかがですか」
それから井関は吐き捨てるように言う。
「……我々は少なくとも、樺太で苦しむ”仲間”を助ける行為を”樺太送り”などと揶揄する人間とは、これ以上お話したくはありません」
井関はそう言ってその場を立ち去った。
井関の胸の中には、今の言葉に対する憤怒がある。どうして本土の人間は、樺太のことを他所事として片付けることができるのか。どうして、仲間を助けようという気持ちにすらならないのか。
わが身が可愛いのはよい。だが、誰か助けてくれる人がいないかと求める声すらかき消すことは無いじゃないか。井関のハラワタは煮えくりかえる。
……だがその中で、胸の中では悔いが悲鳴を上げていた。
「あの工事日誌は、外部の人間によって偽造されたものでした」
井関は、宇都宮駅から少し離れたところのアパートへと出向いた。そこには、一時的に身を寄せる夫人の姿があった。
井関たちは約束通り、宇都宮署で真実を確認したその足で彼女のもとへとやってきたのだ。
「続けてください」
夫人は静かに、彼らの報告を聞く。
「犯行は宝積寺保線区の小松グループと呼ばれる一派が引き起こしました。彼らは常日頃から、自分たちの処遇について強い不満を抱いていました。ここでいう処遇というのは、我々本庁から、樺太への転属をあっせんされていたということです」
井関は小林に目線でバトンを渡す。
「人事担当の小林です。現在、樺太では深刻な人手不足が発生しています。これによる死者まで出て、そして更に人材不足が進むという悪循環が起きています。我々も、その現状を目の当たりにしました。そこで、我々は樺太へ緊急に人材を送り込むために、各現場に対し救援人員の志願を募っていました」
井関がその言葉を引き継いだ。
「しかしながら、ご存じの通り樺太はつらい場所です。彼らは志願を募られたこと自体に不満を持ち、そんなことをした国鉄本庁に泥を塗るためにこの事故を起こした。と、証言しました」
夫人の顔がこわばる。水野はそれでも、報告を続ける。
「彼らはあの夜、列車が来る数分前―――貴女の証言によりそれは2時10分だと判明しました―――に、線路の釘を外しました。この状態で列車が差し掛かると、列車はその重みで軌道を破壊し、脱線します。果たしてその通りとなり、それは転覆しました」
「そして事故後、彼らはその罪から逃れるために、このことを外部の人間に相談しました。その結果、隣の那須野保線区の人間が怪しくなるような工事日誌が作成された、というわけです」
ここまでが、事故の顛末。そしてこれは、一つのことを意味する。
「つまり、これは故意に引き起こされた”事件”だった。そういうことですか」
夫人の目じりが不意にこわばる。そしてその眼光が、井関の瞳を突き刺した。
「そしてそれはすなわち、責任はすべて、犯人にあるということですか」
「ちがいます」
笹井は全てを聞き終える前に首を振る。
「違います。……この責任はすべて、国鉄にあります。国鉄全体に、これは責任があるのです」
笹井はそのまま、夫人に頭を下げた。
「我々に、大きな落ち度がありました。それは現場の気持ちを慮ってやれなかったことに尽きます」
井関が胸の中でひとつ、抱いていた悔悟。それは、言葉を交わさずとも四人全てが共有していたものでもある。
「現場は恐れていました。それは死への恐怖であり、そこに至る苦痛への恐怖でありました。ですが、その前にもっと大きな恐怖があったことを、我々は見過ごしていたのです」
ここで笹井は、言葉に詰まる。
「それは、なんですか」
夫人が先を促す。井関が、言葉を引き継いだ。
「自分が使い捨てにされるという恐怖です」
小林は、自戒も込めて自らの言葉を紡ぐ。
「金額とは、手当とは、誠意のことです。制度上、あるいはこの国の民主主義と平等のためのありとあらゆる指針のせいだとしても、それが成せないということが彼らに与えた恐怖は計り知れないでしょう」
「我々は彼らと向き合い、しっかりと納得させるべきだったのです。我々は本土に居る仲間の中から、樺太で苦しむ仲間を助ける志士を探している。我々と共に、樺太へ来てほしい、と。決してこれは、貴方を樺太の地で使い捨て、名もなき戦士にするつもりなのではないということを」
それが我々の反省です。と、笹井はそう結んだ。
「だからこれは、我々の責任です。彼らが犯した罪は、我々の罪でもあったのです」
「さようですか」
井関の最後の言葉を聞いた夫人は、しばらくじっとしていた。だが、不意に立ち上がると、化粧棚の奥から煙草とマッチを取り出して、四人の前でぷかぷかと吸い始めた。
「あの人が嫌がるから、結婚したときに煙草はやめました」
ふーっと大きく煙を吐き出しながら、彼女はそう言う。彼女の口からこぼれる紫煙は、上へ上へと登っていく。
「こういう時代の節目には、誰かが損をしなきゃならない。それが私だったか、あの人だったか、息子だったか。それとも貴方たちか、犯人たちか。そう思うことにしますわ」
その言葉が、紫煙と共に彼女の口から出てしまったことが、井関にとってあまりにも大きな苦痛だった。
「そんな顔をしないでちょうだい。私はこれから少しずつ幸せになるから。貴方たちは、これから少しずつでも、国鉄を良くしてくれるんでしょう?」
「必ず、誓います」
「そう、まあ好きにしてちょうだい」
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