白い結婚のはずでしたが、選ぶ人生を取り戻しました

ふわふわ

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第12話 不自由のない生活

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第12話 不自由のない生活

 シュヴァルツハルト公爵邸での生活は、驚くほど“何事も起こらなかった”。

 正確に言えば、問題は確かに存在している。
 だが、それが表に出る前に――いつの間にか、消えている。

 ディアナ・フォン・ヴァイスリーベは、その中心にいながら、あくまで“何もしていない”顔で日々を過ごしていた。

 朝。

 廊下ですれ違った使用人が、困ったように小声で話している。

「……厨房から倉庫までの動線が遠くて」 「朝の仕込みが、どうしても遅れるのです」

 ディアナは足を止めた。

「それは……食材の配置の問題かしら?」

「え?」

 使用人が驚いて顔を上げる。

「よろしければ、少し拝見しても?」

 あくまで“提案”という形。
 命令ではない。

 厨房を見て回り、ディアナは静かに言った。

「保存の必要が少ないものを、こちらに移せば……」 「朝の往復は半分で済みますわね」

「……あっ」

 使用人たちは、目を見開いた。

「無理に変える必要はありません」 「ただ……少し楽になるかと」

 それだけ言って、ディアナは去る。

 午後には、厨房の動線が自然と改善されていた。

 誰の指示ともなく。

 ――それを、執務室で報告として聞いたクロヴィスは、眉をひそめる。

「……変更の承認は?」

「いえ、奥様は“命令”はなさらず……」 「皆が、自然に動いたようで」

 クロヴィスは、短く息を吐いた。

(……指示していないのに、改善される)

 それは、彼にとって最も厄介なタイプの有能さだった。

 別の日。

 領内から届いた嘆願書の束を、ディアナが偶然目にする。

「……この件」

 執事に、控えめに声をかける。

「すでに検討中ですが……?」

「はい。ですが、処理が追いつかず……」

 ディアナは、少しだけ考えた。

「分類を変えれば、優先順位が明確になります」 「急ぎのものと、時間をかけて良いものを分けて……」

「……なるほど」

 その日のうちに、嘆願書の滞留は半減した。

 クロヴィスは、報告書を見つめている。

(……効率が、上がっている)

 だが、ディアナは何も要求していない。
 功績を主張することもない。

 ただ、“不自由を減らしている”だけだ。

 夕刻。

 使用人たちの間で、ひそひそとした声が交わされる。

「……奥様、怖くないよね?」 「むしろ……話しやすい」

「前の奥様候補の話を聞いていたから……」 「もっと、厳しい方だと思っていた」

 噂は、王都から届いていた。

 ――白い結婚。
 ――感情のない政略妻。
 ――冷徹公爵に“引き取られた”令嬢。

 だが、現実は違う。

 誰よりも線を引き、
 誰よりも配慮がある。

 その“違い”に、使用人たちは戸惑いながらも安心していた。

 夜。

 ディアナは、食後の紅茶を一人で楽しんでいた。

(……本当に、不自由がありません)

 王都では、常に何かを求められていた。
 ここでは、何も求められない。

 ――いや。

(求められていない、のではないわね)

 正確には、“期待を押し付けられていない”。

 それが、どれほど心を軽くするか。

 そこへ、控えめなノック。

「……失礼する」

 クロヴィスだった。

「少し、話がある」

「どうぞ」

 向かいの椅子に座るが、距離は保たれている。

「最近、屋敷の効率が上がっている」

 事実確認の声。

「あなたが関わっているな?」

 ディアナは、少しだけ考えてから答えた。

「……気づいた点を、お伝えしただけですわ」 「変えるかどうかは、皆さんの判断です」

 クロヴィスは、しばらく彼女を見つめた。

「それが、結果的に“変わっている”」

 ディアナは、穏やかに微笑んだ。

「皆さんが、有能だからです」

 その言葉に、クロヴィスは一瞬だけ言葉を失う。

(……自分の手柄にしない)

 その姿勢は、
 かつて王宮で見てきた“能力者”とは、まるで違っていた。

「……不都合はないか」

 不意に、彼はそう尋ねた。

「こちらでの生活に」

 ディアナは、少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに答える。

「いいえ。とても快適です」

 それは、社交辞令ではない。

 クロヴィスは、わずかに頷いた。

「それならいい」

 それだけ言って、立ち上がる。

 去り際、ほんの一瞬だけ、言葉が落ちた。

「……無理はするな」

 命令ではない。
 助言でもない。

 ただの――配慮。

 扉が閉まった後、ディアナは一人で小さく息を吐いた。

(……不思議ですわね)

 白い結婚。
 感情のない契約。

 そのはずなのに。

(こんなにも、穏やかに暮らせるなんて)

 そして同時に――。

(この“穏やかさ”が、いつまで続くのか)

 そんな考えが、ふと胸をよぎる。

 だが、今はまだいい。

 不自由のない生活。
 誰にも縛られない日々。

 それが、確かにここにはあった。

 そして、その中心にいる自分が――
 いつの間にか、必要とされ始めていることに、
 ディアナ自身は、まだ気づいていなかった。


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